2020年11月21日土曜日

ダゴベルト・フライとジェームス・ファーガソン

19世紀ウィーンのダゴベルト・フライは演劇の現実性に関する考察を展開し、「建築は私の生活空間に所属する」と言っている。

当たり前と思うが「模写的絵画や彫刻では、作品と観照者である自分との間には、時間的・空間的な隔たりや境界があるが、建築ではそのような隔たりがなく、作品と私は同一の時空を共有する」(建築美学・中央公論美術出版)と書かれるとややややと思う。

つまり、一般美学では建築は絵画や彫刻と同じように自然をある種の幻影として表現することがあるが、建築では現実性として表現しなければならない。しかし、実用性がそのまま美となることもなく、建築は芸術的に形成された現実性であるというのだ。
これは現代都市にこそ相応しい言及、彼の「観客と舞台」はちょっと気になる論文だ。


ジェームス・ファーガソンは、宗教改革期以降の西洋建築は全て模倣様式と言い放ち、19世紀イギリスの建設ブームの真っ最中にあって折衷主義建築を鋭く批判した人として有名だ。
その彼がさらに面白いのは、まだ見ぬ近代建築を、野獣によって表現されるほどの喜びや悲しみしか表現できない建築と語っていることだ。
人間の術としての建築は初歩的な技術段階、感性的美術段階、そして最後に言語を用い知性に訴える音声術段階の三段階あるとするのがファーガソンの論だが、20世紀の建築からは形態の持つ人間的意味情報はすべて消去されうると予測していたのだ。

2020年11月18日水曜日

シェーンベルグの音楽と近代建築

「ひとつの基本的な音、すなわち根音が和音の構成を支配し、その連続を制御するという考え方は、拡大された調性の概念へと発展した。すぐに疑問視されるようになったのは、そのような根音が、すべての和声の中心として、依然として維持されうるのかどうかということであった。さらに疑いを持たれるのは、冒頭や終始、あるいはそのほかのどんな 場所に現れるにせよ、主音は構成的意味を持っているのかということであった。」

音楽を生み出す以前から存在している根音や主音に疑問を持ったシェーンベルクは音楽の構成における全く新たな方法を打ち立てた、十二音音楽です。
「互いにのみ関係づけられた十二の音による作曲方法」。

第一次世界大戦勃発までのシェーンベルクは調性和声のシステムに依存することなく、いかにして自律的な音楽構造を達成するかの模索している。
そして1920年から23年、「ピアノのための組曲」など小規模ではあるが十二音技法による重要な作曲された。
しかし、調性を亡くした十二音音楽だが、その後はテクストの内容や感情に依存する、表現主義的傾向を示したことは良く知られている。
シェーンベルクは結局、音楽の外の世界の秩序を、なんらかの形で音楽の内部に取り込むことなしに、音楽を作る方法は見つからなかったのかもしれない。

https://youtu.be/sGLcUfbVF3k
Arnold.Schoenberg' manuscript-Six Little Piano pices op.19

同時代の建築はどうだろうか。
自律的建築の模索は同じウィーンのアドルス・ロースによってなされている。
彼はシェーンベルグとは大変親しい間柄にあった。
「装飾と犯罪」という彼の著作は有名だが、音楽との関連では「ラウムプラン」(三次元の空間中に各部屋空間を切り取っていく方法)がシューエンベルグの十二音音楽の方法に照合する。



ロースは建築を建築空間だけで作ろうとした最初の人。
建築以外の世界の秩序を使って建築を作ること拒否した人であると言える。
その後、彼の建築を引き継ぐ建築家は沢山登場する。
コルビジェがその筆頭です。

表現主義に陥ったシェーンベルグはその後、古典主義的な方法、伝統的な音楽形式を用いるようになり十二音技法による音楽の制作は全く停滞してしまう。
一方、建築はその後ますます自律の道、外部からの指示(物語・世界観・象徴・記念性)には一切頼ることなく、建築の内部にのみ秩序を与えると称する、機能主義、合理主義に向かったのはすでに良く知られていることだ。


図版1−>ロース設計、ルーファー邸:アドルフ・ロース、鹿島出版会より
図版2−>コルビジェ設計、サヴォア邸:ル・コルビジェの建築、鹿島出版会より

2020年11月17日火曜日

ロッシの建築と能舞台



能の舞台上では事件は進行しない。
イタリアの建築家ロッシは、出来事・事件と関わることで形態(タイプ)としての建築は意味を発する、としている。
能の舞台では事件は既に終わっている。
登場人物はそれを思い出しているに過ぎない。
やがて登場する、主役である仕手の大半は幽霊。
今を生きている人にはわからない、仕手のこの世での出来事・事件を幽霊となり語る。
楽屋(鏡の間)と能舞台とを繋なぐ橋(橋掛かり)はこの世(舞台)とあの世(楽屋)を意味する。
仕手の生来ていた世界を語る能では、出来事は起こるのではなく顕れる。
能を観るということは、何もかも(出来事・事件)をも顕現させる現場に立ち合うことを意味する。

ロッシの建築では事物と出来事が重ね合わされる。
建築という事物は出来事を生み出す舞台。
ここでの建築デザインの役割は諸事・人間の関係の調整というより、関係を生起する役割を持つ。
つまり、建築はいつも劇場を意味するようだ。
ロッシの建築には彼のみが創造し得る独特の領域がある。
その領域はイデオロギーではない。
それは論理ではなく想像力の世界だ。
そこでは建築は発展のない形態、機能は変るが形は変わらない、それは能舞台も同じ。

参考:
1−タイプとモデル
何を論理化し、何を物語化するかが建築デザイン
ロッシの類型概念(タイポロジー)ー>集団記憶・都市的創生物・アーティファクト
タイポロジーは形態に先行し、形態をづくる
建築はまず形態、そして、物語・理念つまり美的なるもの
しかし、従来の多くの建築はタイプではなく、モデル(歴史・様式)
モデルは生産のために必要とされる、そのままの形で際限なくできる対象

2-スタンダールの「アンリ・ブリュガールの生涯」の挿し絵=ドローイングと文章
松本竣介の絵画=ホッパーと竣介
事物・出来事・記憶=劇場
人間の生きる世界=祝祭・劇場・都市・建築

2020年11月12日木曜日

ロシア構成主義のまなざし

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。
展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。
「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。
形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだ。

こんな戯れ言を思いつかせる展覧会は明日が最終日。
梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。
同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。
昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。
感想は上記の通りだが、何か痛々しいものは今も後を引いている。
それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。
同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。
しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。

名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界。
その世界が、我々の現在とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。
「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html
建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。
ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。
20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。
少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。
印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。
しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。
かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。
ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。
しかし・・・・。

最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわろうとしているのか。
あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。
秋には京都に、春には奈良に行った。
どうやら、「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。
失ったのは言葉ではない、ライフスタイルなのだ。

2020年9月24日木曜日

修辞から解釈、ドラマとしての器楽曲


音楽の「ドラマとしてのオペラ」が「ドラマとしての器楽曲」に変わったのは18世紀初頭。(ドラマとしてのオペラ・カーマン)それはオペラ時代、いわゆるバロック時代の終焉を意味している。

音楽を歌曲から器楽曲の優勢に導いたのは「ソナタ形式」、カーマンは音楽の持つ連続性が器楽曲においても劇的に展開されていくことをバロックの「建築的な」様式と対比し「ソナタ形式」は「劇的な」様式であり、説明的というよりむしろ機能的であるような展開の方法が用いられた、としている。

諸芸術におけるバロックから古典主義への移行は修辞学的虚構から、機能主義的現実へ、あるいは言葉の持つ意味の世界から、抽象的記号的言語世界への変容と読み取って良いのかもしれない。

と強引に置き換えてしまうと、建築を含め諸芸術の近代は解釈学の時代だ。アリストテレスの詩学におけるミメーシスが無視され、存在論、現象学、精神分析学、歴史学が音楽と建築を解体していく。

ps.
ミメーシスー>20200915
ミメーシスー>20200911
モデルネ ー>20200610
ミメーシスー>20200516
ソナタ形式ー>20200413
オペラの時代>20131221
オペラの時代>20131215

2020年9月16日水曜日

コーラ再考

プラトンの語るコーラ。 自然のままの”場所”を意味するトポスとは違う意味での”場”。 
生成を可能にする養い親のような場とされている。

  ジャック・デリダは『コーラ/プラトンの場』で"コーラは、「これでもなくあれでもないようにみえ、同時にこれであり、かつあれであるようにみえる。」あらゆる概念的同一性を逃れ去る、”場なき場”であると定義している。

 つまり、哲学者 
プラトンのコーラー>生成の場 
デリダのコーラー>生成が無い  

しかし、ギリシャ劇場 
コーラ=神との対話ー>コロスの場ー>コーラス・コレグラフィー  

建築的にはコーラの解釈は「祝祭そして都市と劇場の誕生」にある。

 全員参加の祝祭空間はやがて<観る・観られる>空間に分化し、ギリシャ演劇が誕生。
祝祭の場は劇場空間(ギリシャ劇場)へと変容する。 
ギリシャ演劇の初期においては、俳優は存在せず舞台も不用、コロスの場(コーラ)のみがあった。 
そこでは人々の言葉と身体が不可分であり、全員参加であるためまだ舞台も観客席もない。 
コロスは後の合唱(コーラス)へと受け継がれると共に、コレオグラフィー(Choreography=振り付け)をも意味づける。 
コロスの場(コーラ)は後にオルケストラと呼ばれるが、全員参加の祝祭時には群衆であり、掛け声をかけあい(コーラス)、踊る人々の為の群舞の場(コーラ=空間)。 
コロスは祝祭に参加する人々(合唱・群舞)と祝祭の象徴、超越的なるもの、つまり神と交歓・対話するためのアート行為。 

最初に生み出された舞踏の為のエリアをコーラとすれば、コーラにおいて踊りや演劇的行為=パフォーミング・アートを行った人々はコロス。
コロスは今も群舞や集団という意味で演劇用語として使われている。
また、この言葉は音楽用語で合唱を意味するコーラスの語源ともなっている。

2020年9月15日火曜日

モデルネの美学、アレゴリーとミメーシス

アドルノの「美的モデルネ」はモダニズムではなく、ボードレールの現代性を引き継ぎ、ブルジョワ社会とその商品世界を批判するものだった。
アドルノの友人、ベンヤミンの美学もまたボードレールから始まる。ベンヤミンとアドルノは共に商品の持つフェティシズム(物神崇拝・呪物崇拝)と芸術作品との関係がテーマだが、アドルノはフェティシズムの持つ二律背反性に視点を据えた<ミメーシス>による美学。
一方、ベンヤミンはフェティシズムの二重性を<アレゴリーに変えた美学。二人の方法の違い、アドルノは作曲家でもあり論理的、フラヌールなベンヤミンは経験的と思える方法と言う感想を持った。仲正昌樹氏は「ポストモダン・ニヒリズム」で二人を対比し解説をしている。この書の読み取りから今日はベンヤミンの「アレゴリー」とアドルノの「ミメーシス」の対比を試みる。 
 ベンヤミンは「ドイツ悲劇の可能性」(1928年)で崇高な自然の表象体としての象徴的芸術が解体する過程で現れたアレゴリー芸術の特質を論じる。 バロック芸術のアレゴリーによって表象されるのは<精神を客体化した>自然ではなく、自然が過ぎ去った後に残された廃墟。当時の悲劇によって舞台上演される自然史のアレゴリー的相貌は実際は残骸として現前する。そのような姿をした<歴史>は永遠なる生のプロセスとしてではなく、止まることのない、崩壊の過程として現れてくる。
そして、そこからバロック廃墟崇拝が生まれてくるとベンヤミン。つまりアレゴリーによって表象されるものは<自然>そのものではなく、自然が過ぎ去った後の廃墟。結果、描かれる<歴史>は永遠なる生のプロセスとしてではなく、止まることのない崩壊の過程、<アレゴリー>は自らの美が彼岸にあることを告白する、とベンヤミンは言う。こんな言説から、無謀だが、透視画法による理想都市図の意味、あるいはアルベルティやマキャベリの様々の叙述を思い出していた。
 <アレゴリー>を読む意味作用の主体である私が、自然を取り戻そうともがけばもがくほど、自然は私から遠ざかる。ベンヤミンにとって歴史とは、自然との和解(精神=主体/客体=自然)へと収斂していく救済の歴史ではなく、自然が崩壊していく<歴史>。従って、文字に書き留められた<歴史>の中には、生き生きとした<自然>の現前性を見出すことはできない。
<歴史>とは、もはや生を失った<自然>の死骸を<記号>によって結合した意味作用の連関にすぎないのだ。そして<象徴>が隠蔽してきた<自然>と<歴史>の間の弁証法的関係が<アレゴリー>の中に映し出されてくる、とベンヤミンは言う。 中世から近代への移行期に登場したアレゴリー芸術は、<象徴>形式に付着していた<感性的な美>の仮象を破壊し、死の相貌を呈する<自然=歴史>の本質を露呈してしまうと同時に、抽象化された<記号>の中に<超越的なもの>の痕跡を保持する両義的機能を果たしている。
このバロック芸術における位置付けをめぐる議論は、資本主義社会における芸術の在り方にそのまま引き継がれる、とするのがベンヤミンのアレゴリーなのだ。 ベンヤミンは「セントラル・パーク」(1939年)でボードレールのエクリチュールにおける<アレゴリー>の破壊的性格に言及する。
芸術とは本来、自らが感性的に知覚した<物>を像として再現、模倣しようとする、人間の営み。しかし、第二帝政期のパリで生活したボードレールを取り巻いていたのは高度に発展した複製技術を通して構築された商品世界だった。
 そこでは写真に代表される複製技術の発達で、人間の知覚は関与されずに、<物>を形象化することが可能になったのだ。しかし、商品として大量生産されるようになった<像>からは、かっての芸術作品が身にまとっていた<アウラ>が消えていく。アウラの衰退は、<物>に対する我々の知覚能力の衰退を意味している。 
ボードレールは技術によって画一化され、ステレオタイプが氾濫している商品世界の現実に反抗する戦略として、<アレゴリー>の破壊力を利用する。彼はテクストの中で<アレゴリー>は、生産体制に従って合目的的に秩序づけられている<物>相互の連関を切り裂き、<断片>化する役割を果たしている、としている。 

 人間の環境は仮借なく、商品としての表情を見せるようになると、同時に物の商品的性格を覆い隠そうとする広告が始まる。この商品世界をアレゴリー的なものへと変形するのは、商品世界の欺瞞的な美化に対する反抗と言えるだろう。この試みの対をなすのは、商品をセンチメンタルな仕方で人間扱いする同時代のブルジョワの試みと同じではないかとボードレールは考える。
なぜなら、ブルジョワは家財を包んでいるケースやカバーとまったく同じ意識で商品を覆いアレゴリー化しているからだ。 ボードレールはブルジョワジーが自らの環境である商品世界が紡ぎ出すファンタスマゴーリに無自覚に囚われることに危機感を覚える。人間の願望(ユートピア)を実現するために生産された<商品>が、逆に人間の願望をコントロールし、人間自体を商品化させるという皮肉な事態が生じているのだから。 
 ボードレールはブルジョワジーの倒錯した夢から身を引き離すため、アレゴリーの手法によって商品世界の中での<物>相互の組織的連関を歪んだ形で叙述する。彼の眼差しの中では、パリはアレゴリカルなタブローへと変貌していく。アレゴリー化された都市空間においては、<商品>を拘束していた既成の意味連関は寸断され、個々の<物>はモナドとして粉々に砕け散り、散乱した<物>は自然の残骸の様相を呈するようになる。
こうして商品の持つ物神的な連鎖を断ち切ったうえで、ブルジョワのユートピア願望の反映体である<商品>に潜む固有の<アウラ>を浮上させ、それを自らのまなざしの中で自覚的に捉えなおそうとするのがボードレールの作品なのだ。 
 バロック芸術におけるアレゴリーが、象徴的なものを崩壊へと追い込むと同時に、象徴の中に現前していた<超越的なもの>を抽象的の形式で保存する役割を果たしたのとパラレルに、ボードレールのアレゴリーは<商品世界>の一元的な価値のヒエラルキーを寸断し、商品の持つアウラ的なものを我々のまなざしの中へと現象させるという両義的な機能を担っている。
商品経済の中で硬直化しつつある我々のまなざしは、アレゴリーの破壊作用によって瞬間的に<覚醒>へと導かれる。つまり、ボードレールにとって「アレゴリーはモデルネの武具なのだ」とベンヤミンは言っている。 
 しかし、やがてベンヤミンは芸術作品の脱アウラ化と共に生まれた大衆芸術の可能性について楽観的見解を示すことになる。「複製技術により、その存在の一回性は脱落しつつあるが、今、ここにしかない真正なものであるからこそ、オリジナルはコピーにはない権威を持っていっている。複製技術においてはオリジナルとコピーの関係が根本的に変化するのだ。複製技術によってアウラは衰退するが、芸術作品は伝統の拘束から解放しつつある」とベンヤミンはアレゴリーに新たな意味を見出している。
 しかしアドルノは、大量複製技術はアウラの衰退を加速させ、それによって芸術作品を祭祀価値から開いたことは評価するが、映画などのニューメディアが大衆の主体意識を覚醒させる作用があることを前提としてしまうと、映画自体が生み出す新たなフェティシズムに対して無防備になる可能性があると、彼は懸念する。
 芸術の自律化、そのプロセスは<人間性>という理想の実現。しかし、その方法は脱神話化から啓蒙のユートピア。そこでは芸術として映し出される人間性と一致することはなかったのだ。芸術という尺度から見ると、社会は次第に非人間化していった。芸術が指示する<人間性>は現実社会の基盤である<人間性>とは全く異質なものとなってしまった。
従って、ここからは自律した芸術は、非人間的社会にとっては<他者>という機能を果たさざるを得ない。芸術は自らの進んで行くべき方向に確信を持つことができない。そのため芸術は自らが作り出した<美>の仮象を次の瞬間、自らの手で破壊しなければならない、というジレンマを背負わされている。
しかし、アドルノの<美>の仮象、それは模倣<ミメーシス>の対象となるべき社会的現実は実体としては存在しない。芸術は<現実>とは異なったもの、理解不可能なものを呈示し、間接的に社会を<批判>することが芸術の自律の方法としたのだ。 世界とのコミュニケーションは、非コミュニケーションを通してしか成立しない。
アドルノは自律的な芸術は生産秩序を支えているコミュニケーションを破壊することによって、メタコミュニケーションを開示することを目指した。従ってミメーシスは逆説的機能を帯びている、と言って良いだろう。
 アドルノからみれば、後期資本主義社会における文化産業は交換経済の中で<新しいもの>、それはアウラ的なものを内包している<展示価値>であり、交換経済における反復再生産するシステムにすぎない。 アドルノのミメーシスによって<芸術>に映し出されるのは、社会が自覚していない、あるいは自覚することを回避している社会自体の物象化された姿。
後期アドルノの美学は、市民社会を支える合理性をトータルに否定するのではなく、合理性の根底に沈澱している呪術的なものの残滓を内側から露呈する戦略を取る。アドルノは一切の救済の仮象を破壊することで、形而上学の誘惑に抵抗する。 
モデルネの芸術作品の抽象性は、それが一体何のために存在しているのか理解できない苛立ちを我々の内に引き起こすことにある。それは、抽象的な<同一性>に仲介されるコミュニケーションのリズムを乱すことに意味がある。モデルネは商品世界のグロテスクな抽象性をむき出しにすることで、同一性の支配に変調をきさせるのだ。そこには、同一化の原理の圧迫の下で<人間性>の仮象が完全に死滅してしまうことだけは最低限阻止するという戦略しか残されていないのだから。

2020年9月14日月曜日

アドルノの美的なるもの、そのミメーシス


アドルノの美的なるものの構成は、キルケゴールの人は自己の中の美的なるものによって生きる、を引き継いでいる。
しかし、キルケゴールは自己の理性・精神の行き詰まりを、そのかなたに神を捉え、それにすがってしまうところにはアドルノは納得しない。
形式としての主体が、内容としての客体の正当な権利を侵害してしまうからだ。
アドルノはキルケゴールの主張を、弁証法で乗り越える方法的態度をとる。

本来、精神ないし理性は自然(外部)なくして存在することは出来ない。精神の批判は自然との和解の自覚を示唆するものなのである。(同一性・非同一性の弁証法)
アドルノの理性批判は自然との和解、自然こそ根源的なもの。精神(理性)は自然について由来する自然の一契機にすぎない、と言うところにある。

キルケゴールの実存主義は、資本主義から自己喪失され、大衆化・物象化していく歴史に対し、自己の自由・自律・主体性を頑なに守ろうとするもの。
それは客観的精神・理性の展開に真理を見る、ヘーゲルに対抗している。
つまり、人間とは精神、精神とは自己、内面的精神が行為の尺度なのだ。
しかし、アドルノのキルケゴール批判のポイントは客観的・外的な対象を持たない内面性としてのみの主体性にある。

アドルノの美的理論のポイントは自己の中にある美的なるもの自体が客体に対する関わりを示している。つまり、美的なるものは動的であると同時に、ミメーシスなのだ。
アドルノの美的理論は18世紀のカントの観念論と同時代に誕生したばかりの芸術家の主観主義(反ミメーシス論)を批判している。
アドルノのミメーシスはシェーンベルクの無調音楽から読み取れる。それはシェーンベルクの弟子であり、アドルノ自身の音楽の師でもある、アルバン・ベルクに引き継がれていく。

2020年9月9日水曜日

シェーンベルクの墓


シェーンベルクはロースとは、彼の建築の施主であるウィーンの女学校の経営者シュヴァルツヴァルト夫妻の文化サロンで1905年頃知り合っている。
まだ無名、「グレの歌」の完成前のシェーンベルクには、コンサート開催もままならず、ロースの支援経済援助はありがたかった。
しかし、ロースはもともとワーグナーファン、難聴でもあったので、どこまでシェーンベルクの音楽を理解していたかは疑わしい。ロースが自分を高く評価してくれるのは良いとしても、何も意見を述べたことが無いことに不満を持っていた。

そんなことを日記に書いているが、シェーンベルクは1931年、バルセロナからロースに手紙を書いている。
「僕は君のことを度々、思い出している。もし僕にお金があったら、君に住宅を設計してもらって、そこに住みたいと思っている。」

シェーンベルクはロースの設計した建築は高く評価していて、ロースの建築の核心とでも呼べるラウムプランによる建築空間を見透すなど、シェーンベルクの眼識は高く、興味深い。

Wiki
1951年7月13日、喘息発作のために、ロサンゼルスにて死去した。76歳。故郷ウィーン中央墓地の区に葬られており、墓石は直方体を斜めに傾けた形状である。

2020年9月7日月曜日

炬火は燃え続け、カール・クラウスは吼えつづける


近・現代の音楽と建築批評を読み続けているが、世紀末のカール・クラウスについてはまったく知らず、最近になって気になっている。
クラウスは建築家アドルフ・ロースが敬愛したモラヴィアの同郷人であり、音楽家・フランクフルト学派の哲学者テオドール・アドルノは二人の言説に早くから理解と関心を示していた。

クラウスの貴重な解説書は池内紀の「炬火は燃えつづけ、カール・クラウスは吼えつづける」。「『WIRED』日本版VOL.28」はクラウスの方法に絶えず関心を持っていた池内紀を追悼し、現代において最も貴重なジャーナリズム批判として取り上げている。

「炬火は燃えつづけ、カール・クラウスは吼えつづける」は、カール・クラウス(1874-1936年)の生涯を描いた日本語による唯一の書物。

ー>世紀末ウィーン ペンの森を見通すには枝一本で十分
「カール・クラウスは生涯、いかなる党派や集団にも属さず、自身の流儀を貫き通しました。たとえば彼はユダヤ人ですが、批判対象の多くは同じユダヤ人でしたし、彼自身がジャーナリストであるにもかかわらず、ジャーナリズムを徹底的に攻撃しました。
当時のジャーナリズムといえば、主役は新聞です。『無冠の帝王』と称されていたことからもわかるように、新聞が、メディアとして最も影響力を有していた時代だと言えるでしょう。そんな新聞や、ときの権力者たちが発信する表現──たとえば美しい言い回しや常套句を、クラウスは精緻に追いかけ、そこに隠された真意を暴いていきました。
権力者たちが人々に追従を語るとき、あるいは真実を隠すとき、彼らはそれを悟られまいと、言葉に細工を施します。その『細工が施されている』こと自体が、発せられた言葉がカラクリであることの証明にほかならない、というのがクラウスのロジックでした。探偵に喩えるなら、言葉を証拠物件にして相手の犯罪を暴く。そうした手法を、クラウスは用いたわけです。

言葉の名探偵クラウスは、ことさら、『ジャーナリズムの悪』を槍玉に挙げました。一見批判しているようだけれど、現体制の顔色を常にうかがい、迎合している存在。いわば、正義を振りかざす悪を、彼は徹底的に糾弾したのです。そうした“目配りするいやらしさ”を、クラウスは一つひとつの言葉を追いかけることで暴いていきました。
彼はこう述べています。『ペンの森を見通すために、私の方法によれば一枝で足りる』と。ひとつの動詞の使い方がひとりの人間を代表し、ひとつの形容詞が恐るべき犯罪の動かぬ証拠になり、なにげない新聞の見出しが、一時代の罪業を要約していることを、彼は誰よりも見抜いていたのです」<-

ロースのもっとも親しい友人であったクラウスはロースの思想・建築を側面から養護するだけでなく、二人は思想的連帯を築いていた。ロースの数多くの著作はクラウス「炬火」同様、当時のウィーンの社会と文化の欺瞞性を鋭く告発し続けている。
また実際の仕事面においても、クラウスは自分の二人の兄妹、友人、知り合いで住居を改築・新築したいと思っている多くの友人をロースに紹介している。1933年8月25日のロースの葬儀の弔辞が残されている。その弔辞は僅か2ページ、しかし、表紙含め6ページの少冊子として同じ年ウィーンの書店から出版されている。そして、この本から得られる収益は、ロースの墓碑建設のための基金にあてられた。殆ど無一文で死んでいったロース、弔辞にはクラウスの厚い友情が記されている。
「 アドルフ・ロース、君と心を同じくする僕達僅かな仲間でもって、君とここにお別れをする。社会のために身を捧げてきた君だが、今日、君とのお別れには、そう沢山の人々は来ていない。君が身を捧げてきた社会は、それを理解しようとしなかったし、また報いようともしなかった。だが、僕達は君が常に関心を抱いていた真に社会的存在であることを、ここで確認する。それは未来の社会にとってその歩むべき方向を準備し、浄化し、住み得るものとした君は切り離せない存在なのだから。君は虚飾などがもはや存在しない世界の建築家であった。君が建てたものは、真に君の思考の産物であった・・・」。

2020年9月2日水曜日

どうだい銃声の音が聞こえるかい?


西洋音楽を聖なる教会から俗なる社会に転撤したのが14世紀、ギョーム・ド・マショーのアルスノーヴァ。 その音楽を市民社会の基盤としたのが16世紀末のオペラの誕生。 そして18世紀、モーツアルトのピアノソナタは近代市民社会を切り開いた。
 20世紀、市民社会は大衆社会へ向かう。 
 イタリア未来派は音楽の大衆化を目論んだ。 もっとも未来派の運動は音楽のみならず建築も美術も文学も一体としての大衆社会への対応ではあったのだが。 未来派の活動はカテゴライズ化された、あるいはクラスファイした19世紀の文化活動全域へのアンチテーゼと言える。その活動は、シュールレアリストや構成主義、モダニストに受けつがれる。
21世紀の今日、未来派のコンセプトを超えるものはまだ生み出されてはいない。  
20世紀の音楽家サティやケージの活動、彼らの音楽が確実に基盤となって、最近ユニークな環境デザインが注目され始めた。
 
1960年代後半、米国全体がベトナム戦争に揺れ、不幸な事件が相次ぐ。 ケントステイト大学ではヴェトナム派兵に反対した学生たちが図書館が望めるキャンパスの丘に州兵によって追いつめられ、4人の学生が銃弾によって死亡した。
 大学は早速、死亡した学生の追悼モニュメントのコンペを実施する。
 その佳作が「どうだい、銃声が聞こえるかい?」という作品。  
デザインされたものは4人が死んだキャンパスの丘に至る4本の小道。
 大理石の彫刻や構築されたヴィジュアルなモニュメントではない。
 4本の小道は事件を抽象化して「かたち」として表すという手法ではなく、モニュメントの体現者に過去の出来事を方法的に「経験してもらう装置」としてデザインされた。
 樹林の中の4本の小道は銃火を避けるために逃げまどった学生たちの乱れた足跡を辿っている。  
学生たちが追いつめられ最後に見たであろう青空、その青空が広がる小さな三角形の広場まで小道は続いている、垣間見える直線路の前方には大学の象徴である図書館。
 そしてデザイナーは「どうだい、銃声が聞こえるかい?」と私たちに呼びかけた。(参考文献:都市環境デザイン/学芸出版)

 ニューヨーク・マンハッタン高層建築群の一角に12m*70m四方のナラの林がある。 アラン・ゾンフィスト作「タイム・ランドスケープ=時の風景」。
 ゾンフィストは空き地にナラを移植することで空間の作品化を試みた。 
木を移植した林だけで作品だと言うのはどういうことだろうか。 
これは「時間の仕掛け」をデザインした作品。 デザイナーは樹齢数百年の立派な木を植え、完成された公園を作るのではなく、若木がそよぐ昔のまんまの風景を作り出すことによって、体現者に200年前のマンハッタンを経験させている。  
ここでもまた彫刻という視覚装置ではなく、林の中の風や小鳥の声、かいま見られる青空によって過去の出来事を「経験してもらう装置」が試みられている。(参考文献:平安京 音の宇宙/平凡社)

 騒音を出すことを音楽だと宣い、ピアノを前に座っているだけ、時にはピアノそのものを破壊することこそ音楽だ、という20世紀の芸術活動は何を意味していたのか。  
「はず」の世界から「あるがまま」の世界を開いたマショウやモーツアルトの音楽、しかし、その音楽的想像世界は19世紀には額縁(プロセ二アムアーチ)の中の「見せ物」「聞く物」に転化してしまった。

 新しい芸術は視覚や聴覚だけでは決して捉えることが出来ない、人間の持つリアリティを再登場させようと試みたのだ。  
そして彼らの活動がいま、都市や自然環境が持つ経験的側面を明確に浮かび上がらせるきっかけとなっている。
 どの時代もデザインを支える基盤は想像力にある。
 テーマパーク化していく都市、商品化していく建築、デザイン時代はかえってデザインを矮小化し、電脳箱の中に閉じ込めていく傾向にある。
 未来派の活動そしてサティやケージの音楽について、今、再び検討する必要があるようだ。

2020年8月25日火曜日

ロースからロッシへ



「建築は他律であるがゆえに自律する」。現代建築における自律の問題はほとんど忘れられているが、ルネサンス・イタリアでアルベルティが職人ではなく、ディレタント建築家として登場して以来、ヨーロッパでは重要なテーマとなっている。ここのところ20年代のロースと70年代のロッシに関心を持っている。20世紀の50年間のディスタンスを持つ建築は、15世紀のアルベルティからパラーディオまでの100年間の「建築の自律」とどう異なるかに関心があるからだ。

商業デザインに脱するポピュリズムでは、建築形態から自律的な価値を見いだすことは出来ない。そのためには歴史的な考察、文化的モニュメントの再発見が必要となる。とマルグレイブの現代建築理論序説にはあるが、近代主義の美学は他の形式主義のリバイバルと同じく嫌いと書いたのはアルド・ロッシ。そして、近代建築のプチブル的遺産をすべて拭い去り、残ったのは、社会民主主義的な幻想を本質的に乗り越えた大建築家はアドルフ・ロースとミース・ファン・デル・ローエと「自伝p192」に書いている。

アルド・ロッシの初期の作品から明らかにロースを感じさせるものがある。
1960年ー>ロンキのヴィラ
1965年ー>セグラーテの広場とパルチザン記念噴水
ロースのラウムプランによる住宅作品にも引き継がれるが、無装飾のまま外形化された形態、プラトン的物体の形式性と不規則な内部空間の利便性の組み合わせ、ロッシの形態は確実にロースに繋がっていると言える。
ロッシは1981年「学としての自伝」の中でアドルフ・ロースの諸論文について直接的に触れている。
「ロースの声明文は半ば聖書的な性格も手伝い私を興奮させる。それは建築の非歴史的な論理を生み出したからである。彼の建築的発見は観察と記述によって(変化もなく、屈することもなく、さらに創造的な熱情もなく、逆に時間の中に凍結された感覚をもって)自分を対象と同一にみなしたところからなされた。・・・ロース風の凍結した記述は、ルネサンスの大理論家にも窺うことができ、アルベルティの理論書やデューラーの書簡の中にも現われている。」(自伝p102)
さらに同書でロッシはロースとミースについて書いている。「私自身は彼らの弟子だと考えている。彼らは彼ら自身の歴史、そしてそれゆえに人間の歴史に、一条の流れをつくり上げる意味で最大限の働きをした建築家である。私が自著「都市の建築」の中で機能主義の文化を覆していく際に、彼らが果たしてくれた役割は実に意味あるものだった。・・・いかなる対象も対応するべき機能があることは明らかであるが、機能は時間に沿って変化するので、対象がそこで終わってしまうことはない。このことは今までずっと私の科学的な主張であったわけだが、私はこれを都市と人間生活の歴史から紬ぎ出したのだ。」(自伝p172)

ロッシの最も重要な仕事は1966年の「都市の建築」。ロッシは都市が荒廃しつつある中の60年代、同時代の都市計画者たちの主義主張に対する反論をし、時代を超えた類型概念(タイポロジー)の法則を見出すことにあった。そして都市は構築的要素や文化的相貌によって規定される。都市を時代を超えた都市のタイプに回帰する必要があるとしている。都市とは集団的意味を持つもの、現実的でもあるが、観念的、文化的、人間が生きるべき場所。
都市は建築がつくる。建築は都市的、小さな都市。
都市が時代を超えて生き残っていくための基本要素、それは都市の儀礼的行事や集団的記憶の源となる形態にあるのだが、ロッシのタイポロジーは18世紀のカンシーの複製・模倣という設計ルールとは異なり、集団的記憶に関わる場の構成、都市的創成物によるタイポロジー。しかし、建築形態を生み出す類型概念はその後50年、ロッシのスケッチ集には数多く描かれているが、具体的な建築学的展開をその後見ることは殆どない。


2020年8月18日火曜日

建築家アルド・ロッシ

都市と建築は古代、野蛮を克服した人間が生み出した。 古代社会は建築が都市を創るのだが、現代社会は都市が建築を生み出していく。 
しかし、モダニズムは当初より歓迎されていたわけではなく、一般的な人々には不人気だった。モダニストの冷厳な形態は1920年代、ドイツでは特に評判が悪く、その作品が30年代に英国に届くと、その不人気は一層あおられている。
アメリカでは鉄鋼とガラスによる新しい科学技術(カーテンウォールによる高層ビル)による経済的長所が受容された。その近代的都市デザインに対抗する勢力がなかったわけではない。しかし、多くのアメリカの都市の基本構造はブルドーザーで破壊され、政治的仕組みによって押しつけられた高速道路が社会分断を招き、それが1960年代の急速な都市荒廃を招く原因になっている。
この荒廃はその後のアメリカでは反省されたが、高度成長を目論む日本ではオリンピックによる都市と経済の繁栄をチャンスとして、1964年から2020年、高速道路と高層建築による都市開発は継続されている。
現代の都市社会、そこは「人間の都市と建築」ではなく、政治と経済主導の後期資本主義社会のグローバルシティが必要とするテクノロジー主導の合理的な建物が造られる。 従って現代都市、そこからは「建築の自律」といったテーマは全く失われてしまった。 しかし、すでに亡くなられたが、イタリアの建築家アルド・ロッシは、そのテーマを継続し建築を創造し続けていた。

2020年7月23日木曜日

住まいは人になじみ、人は住まいになじむ  アドルフ・ロース

ウィーンのアドルフ・ロース「他なるもの」(1903年10月)の記事。 ロースは近代のもっとも注目すべき建築家、彼は建築家ではあるが、同時代の美術芸術建築家を徹底的に批判し、 私を建築家と呼んでほしくない、ただアドルフ・ロースとだけ呼んでいただきたい、と書いている。
 彼は音楽・美術・文学の世界に多くの友人を持つだけでなく、服飾や家具はては馬の鞍にまで言及する、まさに近代の達人、 いや当代の本物の目利きの人といって良い。 そんなかれが何処かに書いた、意味も味もあるコラム。 住まいは人になじみ、人は住まいになじむ。
 趣味の悪い住居になることを恐れてはならない、趣味はそれぞれ。 これは正しくてあれは間違いだ、と誰が決められよう。 自分がつくった住居であれば君たちの選択はいつも正しいのだ。 
現代芸術のスポークスマンは言うだろう。 われわれはその人の個性に合わせて住居のすべてをしつらえてみせましょうと。 それは嘘だ。

 芸術家は自分のやり方でしか家をしつらえられない。 自分の住居は自分でしかしつらえられない。 自分自身が手掛けることではじめて自分のいえになる。 画家であれ壁貼り職人であれ、他人がやるとそこは自分の住まいではなくなる。 せいぜい無個性きわまるホテルのへやになるか、住まいのカリカチャーになるだけ。 そんな部屋に一歩足を踏み入れると、私はそこで人生を過ごさなければならない哀れな住人をいつも気の毒に思う。 ここに、人々が家という存在によって大きな悲劇を背負いこむ本当の事情がある。 こんな無味乾燥な家に住むなんて、まるで貸し衣装屋で借りてきたピエロの格好を着込んでいるようなものだ!

2020年7月5日日曜日

装飾と犯罪 アドルフ・ロース


装飾家達はこう主張する。
「ある消費者が家具を買ったとする。そしてその家具がイヤになってしまうとする。となると、十年毎に家具を買い替えなければいけないわけで、こういう人の存在自体、古いものの寿命がつきてもう使えなくなった状態になって、はじめて新しいものに買い替える人の存在より、ずっと好ましいことだ。ものを作る産業界がそれを望んでいるのである。人がつぎつぎとものを買い替えることによって、多勢の人達が仕事にありつくことになるのだ」こうした言い分に、オーストリアの国民経済の秘密があるようにも思える。というのは、火災がおこる度に、「やれやれ、有り難い。これでまた人々に仕事ができた」といった言葉を幾度となく耳にしたことか。それ私しにもいい考えがある。都市に火をつけて燃やしてしまう、そして国中に火を付けて燃やしてしまえばいい。そうすれば沢山、金儲けができ、楽な生活ができて、国中、わきかえるだろう。そして買って二、三年もすればオークション会場にもっていっても労賃と材料費の一割の金にもならないのだから、暖房用の焚き木にでもしたほうがいいような家具を作ればいい。金具類にしても、四年もしたらもとの金属溶かして地金にしてしまうような金具を作ればいい。そうすれば我々はますます金持ちになるだろう。冗談はこのくらいにして、話を元に戻そう。・・・・・近代人とは、自分の創意・工夫のみ才を他のものに集中するものである。」

ロースは平明な文章で、世紀末の金持ちの「装飾」を「犯罪」として批判しているのだが、よく読むと、安物の物質環境に踊る、現在の我々の消費者主義が「犯罪」なのだ。
アドルフ・ロース「装飾と犯罪」中央公論美術出版p99。

2020年7月1日水曜日

コーラ・ル・ワークス(建築)とコーラル・ワークス(音楽)


「建築におけるフォルマリスト的アプローチ」を模索するピーター・アイゼンマンと「反ー形態の提唱者」デリダとの協働を画策したのはベルナール・チュミ。二人は協働し「ラ・ヴィレット公園」プロジェクトの別セクションでチームを組むことになる。
ピーター・アイゼンマンは1984年「古典的なものの終焉ー始まりの終わり、終わりの始まり」を書き、この時デリダの著作に言及している。デリダはまたアイゼンマンの設計した住宅を気に入っていた。「それは見えはするが決して中には入ることができない屋根のついたもの。」デリダはこの住宅を「コーラ」のアナロジーとみなしていたのだ。
「コーラ」はアイゼンマンと出会う前からすでに着手していた論文、デリダはこの時のアイゼンマンとの協働を通じて完成させている。
「コーラ・ル・ワークス  ジャック・デリダとピーター・アイゼンマン」と題された本が1997年に刊行されている。それは1985年9月に始まるデリダとアイゼンマンほか、何人かの編集会議議事録である。

コーラは空間として理解されると同時に、物質的なものと非物質的なもののあいだにある第三の空間のようなもの。デリダはプラトンの「ティマイオス」のなかの「コーラ」の概念に触れる。不可思議なイデア界とわれわれが生きている感性界の間の第三の空間。イデア界は永遠不変の形態や理念が住まうところ、感性界はイデアの多くの不完全な複製物のみの人間の経験による不完全な世界。知性界と感性界という二つの空間は対置されるが、この両方の世界の起源となる第三の世界としてプラトンは「コーラ」を導入している。
コーラは空虚な場所ではなく、製作者であるデミウルゴスが範型となる形相を眺めながら、それをモデルとして感覚的似像を創り出すが、そうしたかたち作られたり、刻み込まれたりする「場」のこと、デリダの解釈は、この「場」を矛盾をはらんだ受け入れる存在であり、イデア界、感情界に先行しており、それらに還元することができないと考えている。

「コーラ」の概念が説明されたとき、アイゼンマンは「では、このプログラムを具体化するに物理的に取り組んでみるのはどうだろうか」。アイゼンマンは「コーラの不在」の現前化を構築する可能性を目指したが、デリダはかたちにすることは人間中心主義の極みではないかと反論した。
デリダは「コーラ」根源的な書き込みのできないアポリアとしている。そこは、一方はさまざまな形相が書き込まれる受容者だが、それ自身は決して現前しない。あらゆるものを受け入れながら、白紙のままであり続ける。つまり、「根源的な書き込みのアポリア」。
世界の起源は痕跡であり、それは決して現前しなかった出来事の痕跡。現前と不在の二者択一では説明出来ない痕跡の場。デリダはこの場を「間隔」と呼び、起源という点から始まる線状的な時間を攪乱する時間錯誤の場としているのだ。

デリダは自身の「ティマイオス」の読解から引き出されたオブジェクトの図面を書いている。グランド・ピアノの輪郭が平面的に大まかに描かれている。「ハープのように見えるが、弦はグリッドのように張られているので楽器として使用されるものではない」。そして「垂直でも水平でもなく太陽のほうへ傾くように設置されたひとつのソリッド・フレーム、それはフレームワーク(機織り)と同時に篩い、あるいは格子のようにも見えるし、さらに弦楽器(ピアノ、ハープ、リラ)のようにも見える。弦、弦楽器、声帯などなど・・・それは多声コーラスのコンサートを、つまり、「コーラル・ワークス」のコーラを指示する記号を作ろうとするのである」。

プラトンの「ティマイオス」には宇宙の起源であるような一種のカオスの考え方が書かれている。プラトンが提示しているのが、カオスのなかで要素同士の混合、篩い分け、定着という概念。この概念がインスピレーションとなり、デリダは「コーラ・ル・ワークス」プロジェクトへの参加要請に答えている。コーラには空間、場所、カオス、受容者、誕生、複雑性、矛盾、差し引き、表現不可能性という概念が群がっている。
つまりコーラ・ル・ワークスは「リラとライアーを踏まえたコーラル・ワークス(合唱曲集)」。
アイゼンマンとデリダのプロジェクトについてのタイトル(コーラ・ル・ワークス)が議論された時、コーラル・ワークス(Choral Works)という案は出ていた。アイゼンマンは賛成している。「われわれはあらゆるものを手にしている。ーーわれわれはあなたを、私を、ストーリーを、そしてタイトルを手にしている」。しかし、デリダは反論している。「まだその作品をつくることが残っている」。「明瞭かつ手で触れられる表現を与えるのが建築。この表現はモニュメンタルな物質性や建物の永続性をとおして与えられる。物質性・永続性によって文化的基礎は保存・伝達され・脱構築に抵抗する。デリダにはとっては、この手で触れられるゆえに、「建築が形而上学の最後の砦」に変えることが企図されているのである。

2020年6月29日月曜日

チュミとデリダ


言葉の意味する世界をラディカルに捉えるポスト構造主義のジャック・デリダ。建築もまた言葉による構築物であるところから、建築の方法論として構造主義、ポスト構造主義は現在も継続されている。しかし、デリダの「脱構築」はいわゆる「デコン建築」で表現された形態や空間とは全く別物だった。

構築物という観点では、建築でも形から生み出される世界像が問題となるが、デリダはそこに一貫性・統一性・完全性という形而上学的観点を持ち込むことを徹底的に批判する。彼は「全く共通点のない要素同士を連続的なものへと融合したもの、より大きな組み合わせのなかで断片であり続ける要素同士が生み出す全体」という構造を主張し、永続的構築物である建築は「形而上学の最後の砦」であると語っている。

デリダの哲学では絶対的なもの、確かなるもの、自然の法則、倫理の原則、美の基準、理想的なもの、超越あるいは常識さえも懐疑の対象となる。そして、西洋世界を支えてきた形而上学を崩壊させることから生まれる新たな世界像(脱構築)が彼のテーマだが、そこからは、実体的建築による形態的世界像に関わる糸口は見えてこない。
ラディカリズムの哲学者デリダは60年代のアメリカ、すでにその知的風土を揺るがす人として知られていた。彼は1967年に「グラマとロジーについて」を書き、フォルマリズムや空間化に言及している。しかし、デリダは文学研究分野の人であり、当時の建築理論家はほとんど関心を示していない。

建築理論は19世紀のロマン主義を引き継いだモダニズムの歴史主義とポスト・モダニズムの現象学と構造主義。80年代になってようやっと、デリダの「脱構築」を建築界に紹介したのはポスト構造主義の建築家ベルナール・チュミ。
チュミは「ラ・ヴィレット公園」の設計者であり、1982年パリの広大な歴史的エリアを復興させるための国際建築コンペに勝利している。スイス出身の教育者でもある彼は1975年に建築論文集「建築と断絶」を書いている。チュミは対置、曖昧性、崩壊、断絶、攪乱といった概念を援用する。そして、建築・空間とその機能・プログラム・イベントには何ら関係性がないという観点から、建築は断絶していると語っているのだ。

「ラ・ヴィレット公園」に勝利したチュミは「芸術家や作家も設計者と同じように一緒に文化交流に参加させたい」という見解を示している。彼は学際的なチームが公園内の個々の庭をデザインし、その上に全体構造としてのポイント・グリッドを覆い被せるという構想を持っていた。つまり、さまざまな学問分野をとりまとめて交差させることがこの公園のコンセプト。要請された哲学者・文学者の一人がデリダ。彼は「脱構築は反ー形態であり、反ーヒエラルキー、反ー構造、何から何まで建築が拠って立つものに対置されるものであるのに、なぜ、建築家が自分の仕事に興味を持つのか」と質問した。チュミは答えている。「まさにそれが理由です」と。

2020年6月16日火曜日

シェンベルクの「見ることの悲劇」とノーノの「聴くことの悲劇」


20世紀前半、「見ることの悲劇」をオペラにしたのは 「モーゼとアロン」の シェーンベルク。
20世紀後半、「聴くことの悲劇」をオペラにしたのは「プロメテオ」のルイジ・ノーノ。
もっとも、 「モーゼとアロン」「プロメテオ」がオペラであるか否か、識者の見解は様々と言って良い。

16世紀の貴族社会はギリシャ以来の「悲劇・喜劇」とは異なる、より娯楽性の高い第三の劇「牧歌劇」を生み出したことが、オペラの誕生に繋がる。
ギリシャ悲劇の復活を目指していたフィレンツェの人文主義者達は牧歌劇を話す代わりに歌う音楽劇に仕立て、結婚式の催し物として上演した。
メディチ宮廷での上演は「エゥリディーチェ 」、このオペラは竪琴を弾くことで世界を和ませる音楽の神「オルフェオ」を題材としていることから、合い争う当時の北イタリアの宮廷では格好の外交的催し物となり人気となる。
結婚式の祝典でのオペラの上演は、貴族の権威の保護装置、しかし、人文主義者にとって、彼らが時代に関わるための理念や批評の機会でもあり、ルネサンスの人々の生き方の再確認の場であったことも留意すべきだ。
それは当時の建築の持つ役割にも言えることだが、貴族が必要とする視覚装置は、権力の誇示ばかりではなく、より良く生きねばならないというノーブル・オブリージ宣言でもあったのだ。

貴族社会から市民社会へ移行していく18・19世紀、動く絵画としてのオペラは社交と娯楽の道具であり、都市における市民生活の基盤となっていた。
しかし、20世紀になると、ヨーロッパの絵画・建築・音楽が大きく変容する。
その変容は、芸術は日常生活のお飾りでも贅沢品でもなく、生きていくため不可欠なものとすること。
従って、虚構と現実を二分化するプロセニアム・アーチ(額縁舞台)は新しい市民生活のモラリティやリアリティを損なうものと批判され、オペラはその意味と役割を大きく変えなければならなかった。

アーノルド・シェーンベルクは音楽の自立を妨げ装飾的と見なしかねない形式的な調性を疑い、無調そして十二音音列を模索し 「モーゼとアロン」を作曲する 。
旧約聖書の出エジプト記にある「偶像崇拝の禁止」をテーマとしたこのオペラではモーゼは語ることはあっても歌う事はない。
神の指示により、その姿を描く事を禁じられたモーゼは歌い上げることで神の姿を視覚化する彼の兄アロンと大きく対立する。
自立した近代市民の音楽の意味に関わるシェーンベルクは、その対立場面ではアロンの歌により、オペラの持つルネサンス以来の視覚装置を顕在化することで、「見ることの悲劇」としてのオペラを生み出した。



しかし、「モーゼとアロン」は対立場面の第二幕まで、第三幕以降は作曲されていない。
現代世界、果たしてオペラは可能なのだろうか。
ルイジ・ノーノはその答えとして「プロメテオ」を作曲した。
プロメテオは神々のみが天界で所有する「火」を人間にもたらし神。
不死のプロメテウスはゼウスにカウカーソスの山頂に張り付けにされ、3万年に渡り肝臓を鷲に啄めばられる責め苦を負う。
言うならば現代の原子力に繋がる、人間の力ではどうにもならないリスクの大きい技術を手にしてしまった人間世界の象徴。
ノーノはしかし、この物語を直接的には描いてはいない。

シェーンベルクの「モーゼとアロン=見ることの悲劇」は「神は見るものではなく信じるもの」、それは視覚的な「形を見る」ことではなく、個々人の中に響く「音楽」を聴くことにある、とメッセージしている。
ノーノのシェーンベルクを引き継ぐ「プロメテオ=聴くことの悲劇」は、プロメテウスの火に苦しめらる群島状に分布する様々な人の声、それは矛盾と敵対を孕んだ歌や合唱となり鳴り響く。オペラは脳内のシナプス連繋のように響き渡る世界を「音楽」として聴くことを試みている。
つまり、ルネサンスに生まれた視覚装置としてのオペラはプロセニアム・アーチが解体された現代世界においても「音楽」として本来の意味と役割を発揮続けているのだ。

2020年5月25日月曜日

開かれの詩学


開かれた作品は美学理論というより、文化史であり、詩学の歴史について論じている。詩学とはもともと文学作品の言語構造の究明を意味するが、エーコはその究明をヴァレリーの詩学講義にならい、すべての芸術ジャンルに拡充し、検討している。目的は芸術に関する一連の定義と美的諸価値とを推定しようとするもの。詩学の企図を明らかにし、それによって文化史の一局面を解明していく。
文化史ないし詩学の歴史と言っても、現代の作品はおしなべて動的なもの(開かれた作品)。そこでは「なんらかの作品において完成する」創作行為あるいは創作する活動という構造が問題となる。さらに現代芸術におけるテーマは共通していて、芸術と芸術家の、形式的構造やそれを司る詩学のプログラムには「偶然・不確定・慨然・曖昧・多値性による挑発」が目論まれていて、それに対し、解釈者がどう反応するかが詳細に語られている。
結論から言えば、<開かれた作品の構造>とは、様々な作品の個別的構造ではなく、受け手とのある一定の享受関係の中で設定されたもの。動的作品とは、多様な個人的参与の可能性ではあるけれども、無差別な参与への無定形な誘いではない。ある世界に自由に参入することへの、必然的でも一義的でもない誘いだが、この世界は常に作者によって意図されたもの。動的作品の詩学は芸術家受容者の間に新しいタイプの関係を創設し、美的知覚の新たな仕組み、社会における芸術所産の別様の位置付けを確立する。
つまり、詩学は開かれを享受者と芸術家との基本的可能性として告知するものに他ならない。


2020年5月19日火曜日

無調音楽とエーコの作品世界


エーコの「開かれた作品」を、世紀末以降、音楽家が調性組織を放棄したのは建築のポスト・ポストモダンの問題かもしれない、と感じながら読んでいる。つまり、ここにはアドルノと同じように近代建築への批判が読み取れる。中世以来の調性組織からウィーン世紀末、創作者である多くの音楽家が離れたのは、建築に関わるテーマと考えていたが、音楽における「現実参加」に注目するエーコは終章で興味深い検討を加えた。
エーコは音楽家の調性組織に対する反逆は、慣習の硬直化とか創造的可能性の枯渇とか言うことでも、類型化し暗示能力が消えアイロニカルな形でしか表現できなくなってしまったことでもない、としている。放棄したのは調性組織が世界観や世界における在り様全体を、構造的関係性の問題にすり替えてしまったからなのである、と書くのだ。

これは、作品の創作者の問題であって享受者の問題ではない。演奏者でも、工事者でもなく、創作者という観点に立てば、調性音楽の実践は理論面においても、社会的関係の面においても、あらゆる教化をその目的とする、という根底的な信念をひたすら反復してきたにすぎない、と感じられたことに関わっている。

調性音楽は現代においては、演奏会という儀式に補強された一つの一時的な共同体のための音楽である。固定された時間に、ふさわしい衣装を着て各人が美的感受性を働かせる。しかるべき心のカタルシスと緊張の解消を果たしている寺院を後にするように、危機と心の安らぎとを享受するために客は入場券に金を払う。これは確かなこと。音楽家が調性組織に危機を感じるとき、それを介して感じることはなんであろうか。

「楽音間の関係があまりにも長い間、特定の精神的関係やある特定の現実の見方と一致してきた結果、聴き手の心がある一つの音響的関係群に出会うと必ず、その関係系が長い間繰り返してきた道徳的・イデオロギー的・社会的世界に本能的に依存するということが起きているのではないか、と感ずるのである」。(p297)
そして創作者は調性組織において表わされる理論的世界観、社会的倫理や道徳といったものすべてに疎外されているのではないかと感じてしまう。この伝達体系を解体した瞬間「音楽は通常の伝達状況を逃れ、反人間的意味で行動しているように見える。しかしそうすることでしか、聴き手を偽り欺くことを逃れる道はないのである。」(p298)

今現在、調性に何が起こっているのか。リズムにおいて目新しさはまったくない。歌詞の最後が<心>という言葉なら、<愛>にふれたその心の歓びが悲しみに変わることがわかったところで別に驚きはしない。調性の世界が繰り返し提示する人間関係の世界、秩序立って安定した世界と我々が習慣的に考えてきた世界とは、それはやはり我々が生きている世界なのであろうか。とエーコは問う。

体系を破壊するのではなく、体系の内部で行動すること。その体系を離れ、それに修正を加えるために、体系において敢えて疎外されながら、その兆しを受け止めること。今生きている世界をまさにあるがままの危機的世界として受け入れること。 現在の状況の混乱を収拾しようとすれば、欺瞞者と言われるだろう。そのような人は共同体とは無関係だと言われ、伝統的世界こそが維持するものとみなされるが、しかし、現実はまったく逆の事態なのだ。
新しい作品、それが本当のものである限りにおいて、伝達性にしっかりと根ざしながら、現在の世界と意味作用の関係を維持してゆく唯一のものとなるのである。

2020年5月13日水曜日

ウィーン世紀末とワーグナー


「シェーンベルク音楽論選」の訳者序文の「アーノルト・シェーンベルクの調性感について」によると、
世紀末のシェーンベルグの無調への変化は、美術・建築にみるドラスティックな変化ではないとのこと。拡大された調性のなかにあって主題の新たな展開を求めることは、中世以来、連綿と続いてきた音楽表現上の変容の一端にすぎない。無調音楽は古い時代の最期ではなく、音楽の世界では絶えず新しい時代が始まっている、と書かれている。
なるほど、ということであるならば、先日のブログの「近代音楽では、何故、「調性」を棄てなければならなかったのか。」は愚問かもしれない。しかし、「無調」はひとまず置き、「音楽」は美術・建築とどう関わってきたかも大事なテーマ。今日は海野弘氏の「世紀末の音楽」のウィーンに触れてみる。

最大の関心はシェーンベルクの「無調」とロースの「ポチョムキン都市」批判との関連。しかし、今日は「世紀末ウィーンその第一期」、マーラーやクリムト等によるゼツェッション展(分離派展=1902年)。海野氏の「世紀末の音楽」から読みとれることは、ロースや、シェーンベルクは第二期だが、その第一期、マーラー・クリムトの世紀末ウィーンはベートーヴェンとワーグナーとともにあったというところ。

マーラーは分離派の画家たちとは知り合うが、音楽は造形芸術とは無縁と考えている人。しかし、愛妻であるアルマはクリムト等とは親しい間がら。一方、ゼツェッション展のベートーヴェン像やフリーズを作ったクリンガーやクリムトもベートーヴェンとは遠く隔たっていたと言われている。しかし、マーラーは分離派の人々の要望で、展覧会でベートーヴェンの「第九」を演奏、その演奏が切っ掛けとなり、宮廷オペラ監督に就任、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を1903年に上演する。

大事なのはここからなのだが、1902年のゼツェッション展は旧体制から分離しようとした新しい芸術、それ古い時代を超える、文化的総合運動であったということ。音楽、文学、演劇、美術などの中世以来ばらばらであった芸術を統一し、総合的な空間を作り出し、古い社会の危機を救済することが分離派運動のポイントだ。
なるほどだからこそベートーヴェン=ワーグナー、それは19世紀オーストリア=ハンガリー帝国の階級的・民族的対立の危機に直面した帝国を文化政策によって統一をつなぎとめようとするものだった。1902年はつかの間の安定期、社会的な対立・分裂の危機を救い、まとめるために文化=総合芸術が不可欠として呼び出された。
1898年にオルブリッヒが設計したゼツェッション館はその代表。そのモチーフはテンプルクンスト=神殿芸術、それはキリスト教とは異なる芸術のみの神殿による救済。神殿建設は世紀末の特徴である、と海野氏は書いている。

神殿芸術は世紀末の特徴というところで、もう一つ大事なことを思い出した。それはバルセロナのガウディ=ワーグナー。総合芸術としてのサグラダファミリアとワーグナーはかって「ガウディ・オペラ」として、ある雑誌に書かせてもらった。しかし、ここにきてまた一つわかった。新都市に建つサグラダファミリアは産業革命で疲弊したバルセロナの救済、世紀末の「自然=真正」のモチーフはワーグナーの神殿=総合芸術にも重なっていたのだ。




2020年5月11日月曜日

ウィーン分離派の都市と近代音楽

ロースにポチョムキン都市として批判された世紀末ウィーンが20世紀の「都市と建築」の始まり。国境の街ウィーンの城塞が19世紀後半に壊され、新たに建設された都市は結果として歴史的折衷主義による建築博物館となってしまった。そのカタストロフィは大都市建設における「美術と建築」の始まりだが、最近、気になっているのは「近代音楽」がその都市づくりとどう関わっているのかだ。

分離派そしてアールヌーボ、「美術と建築」の変容は「あるがままの自然あるいは風景」がテーマ。そのデザイン・モチーフは「植物」ということは、よく理解できる。歴史様式の折衷ではなく、自然こそ根源的。人工的偽物とは異なり、自然や植物が持つ真正さ、そのオネスティあるいはモラリティこそが近代デザイン(美術と建築)のテーマとなった。その後のデザインは自然より、より真正な機械主義そして機能主義こそモダン・デザイン。以降、60年代のモダニズム、ポストモダニズム、そしてエコロジー建築へと引き継がれた。

近代音楽では、何故、「調性」を棄てなければならなかったのか。「調性」は中世以来のクラシック音楽の原理。世界中の民謡や民族音楽とは異なり、神に変わる人間が作曲するためには不可欠な方法。14世紀のアルス・ノヴァ(新音楽)により、リズムに対する自由度が高まり、作曲される音楽は一気に拡大する。さらに、その後のバッハにより、長調および短調よる調性は厳格になり、人間に作曲される音楽として、ヨーロッパのクラシック音楽は、建築以上に不可欠なものとして啓蒙社会に必要とされる。人間により作曲される音楽(クラシック音楽)から「調性」が無くなることはあり得ないことだ。そして気になる「近代音楽」の変容。シェーンベルグ、ロース、アドルノ、ベンヤミン、さらにエーコは「近代音楽」にどう関わり、どう変わったのであろうか。

2020年4月26日日曜日

絵画的世界から音楽的世界へ


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。
 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」
 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 
バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。
 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 

18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性(シークエンス)にあると考えられる。 
宗教曲からルネサンスそしてバロックへ、音楽は歌曲であり、オペラ誕生以降、その世界は音による絵画世界(視覚世界)だ。
従って、音楽と建築はその表現方法には大きな違いがない。
しかし、ロマン派以降、音楽はソナタ形式で調えられた、時間的に連続する器楽世界を開いて行く。
一方、視覚的形式のみで展開せざるを得ない建築は不連続な行間をどう繋ぐかが問題となる。 
 近代建築を批判し言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消す。 しかし、まだ方法はある、建築もまたscenographyからsequence。
ロースはラウムプラン、ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築の音楽的世界を検討する意味 がここにある。

2020年4月19日日曜日

シェーンベルグからエーコへ

シェーンベルグは「無調」を開いた音楽家、しかし、弦楽六重奏「浄められた夜」等を聴く限り、内面表現の芸術家とも言える。彼は絵画のカンディンスキーとも親しく近代の表現主義運動の人と目されている。
アドルノが評価するのは、シェーンベルグがマニュアルから生み出された「調性音楽」を「無調」に変えたことにある。「調性」を手書きの音とは異なり、外部からの装飾として嫌っていたシェーンベルグは「装飾と犯罪」を書いた建築家ロースとは同じ頃、同じ街ウィーンで同じ空気を共有していたのだ。

ロマン主義者でもあるシェーンベルグ、彼は自分自身が生み出した十二音音列に対してさえ忌避感を示すこともあった。事実、弟子にはその技法を教えようとはせず、授業時間のほとんどはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、等の分析であったという。シェーンベルグが考えていたのは伸び縮みし、呼吸し、主張する音楽であり、図式的でメカニックな音楽ではない。彼にとって音楽は有機的な自然であり、ロマン主義そのものであったと言える。

アドルノの芸術哲学から敷衍すれば、近代音楽は啓蒙主義の同一性のもとにある「ソナタ形式」から離れ、「無調」をめざすことで、新たな音楽創作の道を開いたのだが、アドルノは 「無調」以降のシェーンベルグ、彼の十二音音列の持つ機械的な合理性を批判している。しかし、新音楽は「無調」から「十二音音列」へ、さらに「不確定性音楽」へと向かうのだが、それはまたその後のモダン建築と同じように、外部からの「同一性」あるいは「合理性」を徐々に採用していく方向。結果として新音楽の創作もまた不活発な状況に置かれる。

ウンベルト・エーコは「開かれた作品」で「不確定性音楽」について触れている。彼は作者と受容者とのコミュニケーションレヴェルにおける同定の保証、作者から受容者への透明な通路といううロマン主義的な概念を無効なものとした。「単一のシニファインにおける多様なシニフィエ」としてのテクストは、事象レヴェルにおいては完成している「閉ざされた作品」でありながらも、コミュニケーションレヴェルにおいて「未完の作品」である、と書いている。

不確定性音楽において、「その作品がどのように仕上げられうるのか、正確には知らない」というエーコだが、彼は作品において隠れた存在として機能する、そうした未完結性はカオスではなく、諸関係の組織化を可能とする糸口があるのなら、これもまた作品と書いている。完成されていなくとも、作品は作者のもの。エーコの「開かれた作品」を読みながら、現在の音楽と建築の置かれている状況、その困難さを切り開く道に直接触れているような気がする。

エーコは芸術作品にあって「解釈関係」が成熟し「批判的自覚」に到達したのは現代美学に至ってからとし、開かれた作品という概念には歴史的展開と文化的諸要因があると強調する。中世において聖書に書かれている内容を解読するには「寓意解釈作業」が必要とされた。バロックはルネサンスの古典的形式の持つ静的で明確な確定性に対し、動的であり現代的意味での<開かれ>のはっきりした様相を見出すことができる、としている。
ルネサンスは中心軸をめぐって展開され、中心と共謀する相称線と閉じた視点によって限定され、運動というよりむしろ<本質的>永遠性の観念を暗示すべき空間の確定性があるのだが、バロックでは充実と空虚との、明と暗との戯れにおいて、その曲線と折れ線、より多様な角度からの視点によって効果の不確定性へと向かい、空間の漸次的膨張を暗示する。
動きとイリュージュンを追求する結果、バロックの造形群は、一定の特権的な正面視を許容せず、観者が絶えず動いて、あたかも作品が絶えず変貌するかのように、作品を常に新たな相の下に見るよう誘うことになる。

動的なものとしての「開かれた」作品は作者とともに作品の作ることへの誘いによって特徴づけられる。刺激の総体を知覚する行為において受容者が発見し、その発見における展望、趣味、演奏に応じて作品を甦らせる受容者は自由に散策する創造主となるのだ。
作曲家、演奏者、聴衆に作品制作を要請する不確定な作品。しかし、それは創作レベルでは「開かれ」であり、感受レべルでは操作の及ばない「開かれ」ではない。外的な開かれ=内的な開かれ、エーコの「開かれた作品」は感受レベルの持つ能動性、操作の介在しない「内的な開かれ」の方に力点がおかれている。

ヨーロッパ社会における作品と作家の誕生はイタリア・ルネサンス期、中世キリスト教社会から人間中心社会への変容期にあった。そこでは表現メディアとして透視画法とグーテンベルグの印刷術の発見が大きな役割を果たしている。そして現代、我々の情報環境は印刷術から電脳術へと変容しつつある。
印刷術時代を主導するのはブロード・キャスト、つまり作者であるが、電脳術の時代にあってはスキャニング、受容者(リセプター)こそ、その情報環境の主役。エーコの「開かれた作品」への関心が高いのはまさに、この電脳術の時代の表現、作者=受容者の関係を明確にし、新たな作品制作の方法を見いだすことではないだろうか。







2020年4月15日水曜日

ロースの空間のシンフォニー

18世紀のヨーロッパ、台頭したブルジョワジーは長らく貴族に愛好された声楽音楽に代わって器楽音楽を好んだ。大がかりな劇場におけるオペラに代わり、サロンやコンサートホールで楽しめる器楽曲もまた、音楽を劇的に表現できるようなったからだ。音楽が連続したドラマとなったのはソナタ形式が果たした役割が大きい。この形式により音楽は調性により秩序付けられ、構築された建築のような世界を生み出している。

19世紀末そして20世紀、シェーンベルクをはじめとした近代音楽の作曲家たちは調性の持つ合理性を捨て、無調そして十二音音列により音楽を作曲した。新しい自由な音楽とは「ド」あるいは根音を中心とした調性で秩序化するのではなく、中心音を作品の内部にのみ設定したところにある。つまり作品の外部にある秩序、調性に関わることなく音楽を生み出す、無調あるいは十二音、セリー音楽へと変わっていく。そして、音の構成は自律し、内部にのみかかるその後の音楽の試みは、同時代の建築へと反映されていく。

世紀末以降、建築は外にある物語(意味)や象徴を持ち込むのではなく、建築の内部、建築自身が持つ空間の仕組みによって新しい作品を生み出す方法が検討された。「装飾は犯罪」を書き、ラウム・プランで住宅を設計したアドルフ・ロースは同時期、ウィーンにいたシェーンベルクやアドルノとは親しい間。ロースのラウムプランは構造的要素と非構造的要素は不可分であり、住宅建築では構造を露出させるより、内部空間の感覚を知覚させることに重点が置かれている。つまり、建築は「空間のシンフォニー」としてデザインされたのだ。

シェーンベルグの十二音音楽は美術のキュービズムや建築のピュリスムと呼応している。ポイントは全て作品を成り立たせる秩序や意味は、その作品内部にあるということ。それは外的要因に煩わされることのない、自律した音楽であり、外部の思想や感情・風景に煩わされることのない音楽や絵画・建築と言えるようだ。音楽が調性を捨てたように、建築もまたギリシャ・ローマ・ゴシック・ルネッサンスという美術様式を捨て、ルネサンス以来の新たな建築の自律、モダン建築をめざした。

「空間のシンフォニー」とは空間のみによって表現される音楽のような建築。建築は空間に空間を貫入させたり、空間と空間を対峙させたりすることで、外部的意味ではなく内部のみ、空間と空間の構成によって作ることを意味している。しかし、シンフォニーを生み出すものは何か、それはモダン建築あるいは新音楽の大きな問題だ。中心はない、いやいらない、それでは何を手がかりに作品を生み出すのか、建築に何が出来るのか、まさか制作者の恣意・主観ではあるまい。結果として、建築は外部からの抽象的イデオロギー(機能主義・機械主義・国際主義・マニエラ)によって展開されてしまった。音楽そして建築の自律、新たな道の模索は続いている。60年代以降は電脳術の時代、それは前代(ルネサンス)の建築の自律を模索した15世紀の印刷術時代に代わるメディアの変容、新たな音楽と建築の時代に他ならない。

参考:
1ー機能主義ー>ファンクショナリズム
形態は機能に従う
機能的なものは美しい
自然は不確か、人工こそ真正
2ー機械主義・工業主義ー>インダストリアリズム
合理的かつ経済的ー>非人間的
3ー国際主義ー>インターナショナル・スタイル
抽象的であり合理的であるが故に、地域性を超えた普遍性を持つ
4ー建築家の手法=マニエラと問題提起
手法は建築家がまず問題提起、提起した問題への解答という形で建築を作る


2020年4月13日月曜日

調性による空間構築、ソナタ形式


ソナタ形式とは提示部・展開部・再現部という三つパートで構築された建築のようなもの。始まりの提示部では第一・第二主題等、いくつかのメロディーやリズムが奏でられるが、聞き取らなければならないのは和声。
和声とはルネサンス期の対位法という幾つかのメロディの横の連なりとは異なる、音が縦に重なる和音により進行する音楽。その連なりには根音と調(しらべ)を生み出す主音が連結され、調性が生まれる。
ソナタ形式で一番重要となることは、この和音の継続で生み出された調性をいかに聞き取るかということです。
提示部で奏でられる一番主要な調は何か、主音と属音という構成の長調、それはへ長調かニ長調か。その調はやがてどのように移行し、悲しげな短調にかわるか。
展開部では提示部のメロディーやリズムを発展させ、様々な調性を連続させていく。そしてこの形式で構築されつつある音楽はまさに建築と同様、独特な色合い、空間を生み出していくのだ。
音楽を完結させる再現部。
ソナタ形式という建築の完成は、提示・展開された調性を安定、納得した形として認識させなければならない。
どのような形かは聴き手次第だが、展開された世界は再現部において簡略化され、記憶され、はじめに提示された和声と同じようなペースで連なり終曲される。

2020年2月22日土曜日

モダニズム建築の存続

50年代前半、ロンドンのAAスクール(英国建築協会付属建築学校)に学んだケネス・フランプトンはアイゼンマンに誘われ、アメリカのニュージャージー、プリンストン大学の教員となる。プリンストンでの関心はアドルノ、マルクーゼ、アーレントのいわゆるフランクフルト学派。社会の生活水準を自動車やテレビ、飛行機によって測ろうとする価値観を否定、芸術的前衛の役割は資本主義文化が生み出してきたキッチュに抵抗すること、というまさにこの学派の「批判理論」そのものを主張した。

従って、彼がヴェンチューリーとスコット・ブラウンのポピュリズム的立場に反論するばかりか、アイゼンマンの形態主義的建築にも関心がなく、同調しないのは当然かもしれない。

1980年のヴェネツィア・ビエンナーレのテーマは「過去の現前」。キュレターのパオロ・ポルトゲージは「ポストモダンの状況は存続する。それは我々の文明の急速な構造的変化によって形成されたもの。建築を歴史の胎内に立ち戻らせ、伝統的な形態を新しい統合論的文脈の中で再利用すること。」と主張。しかし、ビエンナーレのイベントに招かれたフランプトンは参加者たちにも、ポストモダンという用語の使用にさえも辟易し、イベントへの参加を撤回した。「私はこのビエンナーレを、多元主義的なポストモダニスト宣言だと見ている。・・・私自身はそこからは距離を置き続けるべきだと考えている。」

同時代、ポストモダンの流行に反対する声は高かったが、運動そのものに批判的だったのは「カサベラ」誌の編集者はヴィットリオ・グレゴッティ。彼は社会的関心を顧みず「歴史への執着」に走るポストモダニズムに反対。「建築は、それ自体の問題を反映し、それ自体の伝統を探求するだけでは生き延びることができない。たとえ、建築という分野に必要な専門的手段は、その伝統の中でしか見つけることができないとしても。」

そんな中、注目すべきはベルリンの大規模な住宅および復興事業。ヨーセフ・クライフースが参加するベルリンの国際建築展(IBA1988)において単一の住宅団地という案は否定され、ベルリンの壁に隣接する未だ戦争の傷痕を残していた都市地域全体に、一連の再構築計画を分散させる事になった。ここでは国際的に活躍している建築家が多数招かれている。日本の建築雑誌にもたびたび特集され、個人的には新しい建築の到来を感じていた。

クライフースは「地域的再構築」の提唱者、それは、革新的でありながら同時にベルリンの場所の「記憶」を尊重し、かつ「一般の人が理解できる言語」で表現するデザインを提案。戦前の街路システム、混合用途ゾーニング、緑の中庭を再構築し、19世紀初頭の近隣住区スケールに再び焦点を戻すことを狙っていた。このガイドラインはポストモダニズムともう一つ当時発展途上にあった地域主義者とが交錯したものと捉えることができる、と「現代建築理論序説」でマルグレイブが書いている。

地域的モダニズムの理念はモダニズムそれ自体と同じくらい古くからある。その再燃は1981年の二つの評論、歴史的テーマに集中したポストモダニズムを批判した「地域主義の問題」と1950年代の教条的モダニズムからの解放をテーマとした批判的地域主義を主張する「ギリシャ建築」。批判的地域主義の本質はヒューマニズム、流行を追いかけて歴史形態を受け入れることに反対するものだった。

1983年ケネス・フランプトンは「批判的地域主義に向けて、抵抗の建築に関する六つの考察」を書いている。この評論はフランクフルト学派の影響を受けているが、さらに彼は文明(道具を根拠とする理性)と文化(創造的表現)を区別しポストモダニストの前衛気取りは「解放された近代のプロジェクトの破綻」と「批判的な対立文化の衰退」を示していると論じた。そして、彼は批判的地域主義による「アリエールギャルド=後衛」の立場を提唱、それは皮相的な文化を解体し、普遍的文明の実証主義的ないし科学技術力を継承するとともに和らげることができる、としている。

彼の批判的地域主義はハイデガーの「建てる・住まう・考える」に立ち戻り、場所/形態、地形、文脈、気候、光、触覚、テクトニックフォーム(構築的形態)し、生態学的感受性への着目を呼びかけるもの。特にテクトニクスは建設の方法とディテールに関わり、「材料、工芸と重力の間にあってそれらをまとめあげる潜在的手段」「ファサードの表現よりも、構造の詩的な表現」に寄与するものとしている。

1920年代、ロシア構成主義において建築はすでに意味する言葉としての形態を失っている。1980年代の脱構築はその確認に我々はその後60年を必要としたと言うことだろう。建築を意味と記号という二面ではなく、三次元的空間の現象として検討し始めたのは18世紀のカンシーからだが、しかし、建築の空間構成あるいは空間のシンフォニーが「建築は何を作るか」の主題には未だ成りえていない。(原広司の「建築になにが可能か」は60年代後半の均質空間批判、彼の建築論は一貫して形態ではなく空間をテーマとされている)

現代建築理論序説でマルグレイブは「60年代と70年代に政治や建築専門外の理論から出発した主要な建築理論のいくつかは1990年代中頃には疑わしいものとされ、さらに的外れとさえ見られるようになっていた。」と書く。建築へは外からの要請、「地域主義と環境」つまり地域活性化、地球温暖化、リサイクルあるいは生態学的持続可能性などをめぐって国際的な論議を駆り立てるようになってきた。そして、90年代中期は過渡的な時代、その前線を幾何学的操作や純粋な効果作戦、社会的政治的な関心に対応した変形技術、技術決定論的な立場をとっての新たなデジタルテクノロジーの時代としてマルグレイブは記述していく。

ここからの大半は、プラグマティシズム、コンピューター利用による技術決定論(ランダム応答解析)、幾何学的操作(非線形的幾何学)であって、どう作るかが主題となり、個人的な関心である、建築は何を作るか、からは離れていく。スリランカ出身の構造エンジニア、セシル・バルモンドの「ニュートンの決定論とは異なる物理学の再概念化」に関心を残し、本書を閉じることにした。

バルモンドへの関心はAI社会のテーマ、「建築家は単なる媒介者ということもありえる。もちろん、ある段階で建築家は中に介入し、アルゴリズムを指揮すべきであり、あるいは少なくともそれが無限に作動することを止めなければならない。その時点にこそ、必然的に主観性と作家性が再登場するだろう。」というところにある。


2020年2月20日木曜日

ポスト構造主義の建築


80年代、「建築をどうつくるかより、なにをつくるか」への関心が強かったが、チャンスがあり、住宅の設計だけでなく、友人たちと共同しプロジェクト企画の業務にも参画した。様々な本を読み、遅くまで議論し、住宅の建設現場に立ち、製図台にも向かう、というてんやわんやの毎日。しかし、ある意味では充実していた時期、懐かしささえ感じている。

「建築理論序説」のマルグレイブによれば、1980年代は「理論金箔時代」、建築理論・文化論研究が特に学問的な象牙の塔の中で最高潮に達していたとある。現象学、記号論、フロイト派心理学、ポストモダニズムそして批判理論。さらにポスト構造主義、デコンストラクションが加わり、理論はますます多彩となる。マルグレイブはポストモダニズムを歴史主義や記号論と連動した運動と限定し、ポスト構造主義(フランクフルト学派とフランス構造主義の上に構築されたもの)と区別し論を進める。

フランクフルト学派の社会研究所はすでに1930年代に活動が始まっている。50年代から60年代、ベンヤミンやハンナ・アーレントの本が出版され、古典的芸術と決別し、ブルジョワ的構造による簒奪からの断絶を図った。1970年、80年代に最も評判になったのはホルクハイマーとアドルノ。特にアドルノは個人的には音楽的関心も高かったので、音楽に関わる彼の本を買い漁り、その残骸は今も書棚を飾っている。

彼らの主張のポイントは「啓蒙の弁証法(1947年)」の批判理論が詳しい。資本主義は経済的自己破壊から崩壊することはない、なぜなら実際に資本主義は大衆消費社会(そこでは個人が文化産業に支配される)に進化することにより、きわめて弾力的な経済システムであることが証明されたからだ。その後、2008年、ジャック・アタリが「21世紀の歴史」が出版され、いまも書棚にある。省みるならば、アドルノは50年前に21世紀の予兆を示し、21世紀初頭、アタリはその確認作業を行ったのかもしれない。

超民主主義時代の建築に何が可能か、この書ではマルグレイブはこのことには一切触れていない。「現在の新聞雑誌映画等の情報産業が大衆の最も無批判的態度に迎合しただけでなく、同時に、狭い範囲の絶対確実な紋切り型に対する文化的順応性を作り上げた。このようなことが文化理論に与える影響は何一つ良いことはない。もし文化が市場への絶え間ない迎合によって堕落したのなら、芸術は終点に来ている」とのみ書き、建築の問題からは離れている。

アドルノは「芸術は自律的かつ社会的であるべき、芸術はそれが社会に対して抵抗する力を有する限りにおいてのみ生き残るだろう。」とし、シェーンベルクの無調音楽の精神、カフカの自意識の誇張、クレーの線による黙想などに見られる抵抗を例として示している。つまり、アドルノの批判理論(芸術は根本的に抵抗の行為)は、20世紀初頭の前衛戦略の幾つかの擁護という意味で、しばしばモダニズム擁護として特徴づけられる、とマルグレイブは書いている。

建築は芸術ではない。しかし、建築の自律はアルベルティ以来のテーマだ。分離派の芸術建築を批判し続けた世紀末のアドルフ・ロースは芸術と建物の違いを「装飾と犯罪」の「建築について」に書いている。さらに、自分の構想の細部を図面にする必要は全くなく、すばらしい建築は言葉で説明できるものと言っている。彼は「私は建築家と呼ばれるのはうれしくない、単純にアドルフ・ロースと呼んでほしい。」と言う。芸術と建築の違いを明文化するのはロースの仕事ではない。しかし、アルベルティ、パッラーディオ、さらに18世紀以降のカンシー、シンケル、ゼンパー、ロース、ロッシ等々。小生の80年代以来のテーマ「建築はなにをつくるか」は今も終わることはない。

構造主義とは現象をある普遍的な法則の下で作用する変数から出来たシステム。言語は大きな構造をによって統率される記号あるいは意味のシステムであり、人間の精神には普遍的な構造が存在するというレビストロースの仮説に基づいている。

フランス構造主義の論客とはロラン・バルト、ミシェル・フーコ、ボードリヤールにリオタール。特にリオタールは知がますますデジタル化されるに伴い、一般教養(リベラルアーツ)は教育の普遍的基盤としては時代遅れとなり、情報(科学的知見)が市場で激しく競って売買される商品になるだろうと推論している。さらに、科学的知は伝統的に一般教養に基づく二つの「大きな物語」に支えられてきた。一つは啓蒙主義的信念、もう一つは、いつか人間への奉仕のために再び知の統合が起こるだろうという信念。経験的には「大きな物語」はモダニズムのユートピア的政治基盤、ポストモダン世界とはいかなる物語も支配することのない世界、普遍的正当性を装うことのない、狭い地域に限られた「小さな物語」、とマルグレイブはリオタールを解説している。

しかし、リオタールの論にはジャック・デリダは全く当てはまらない。彼は何らかの哲学的前提や大きな物語ではなく、テクストの中に意図されていない隠された意味やテクストが必然的に持つ表に出ないヒエラルキーを暴露する(デコンストラクション)ことを提唱した。デリダが問題としたのは「西洋思想の全体的体系が、歴史的に「中心」というロゴス中心主義的理念の周辺で構築されてきた」ということだ。

この「中心」の例としてはプラトンのイデア、大きな物語、あるいは神への信仰が挙げられる。このような中心は、次には「他者」なるものを疎外あるいは抑圧することで対立を作る。私たちはこの対立によって世界を概念化し理解する。

したがって、ある一つの用語(例えば建築における「モダニズム」)の存在はもう一つの用語(19世紀の歴史主義)の不在を隠す、そして歴史主義の様式は「痕跡」と見なされる。それゆえ「モダニズム」という用語(20世紀の四分の三の間、特権を持っていた)は歴史主義(「他者」として嘲笑された)の理念を通じることによってのみ定義できる。

デリダのデコンストラクションの全体的戦略は特権化された用語に揺さぶりをかけ、中心から排除することから成り立っていて、それによってその用語が成立する根底にあったヒエラルキーを転覆することにある。とマルグレイは言う。しかし、デリダは建築理論ではない。建築言語が持つ形態決定の不可能性が示されたのであるならば、建築は沈黙し、解体されたことになる。

60年代のデリダの著書は70年代中頃、英訳され、ヨーロッパではポストモダニズムとポスト構造主義はコインの裏表として読まれていたものが、アメリカでは特に建築界は70年代後半、ポストモダニズム批判と見なされた。さらにポスト構造主義を「理論を纏ったモダニズムの蘇り」であると評されさえもした。

1983年、ハル・フォスターは「反美学」の序文で「モダニズムをデコンストラクションするポストモダニズムを抵抗のポストモダニズム、モダニズムを否認し既存体制を讃えるポストモダニズムを反動のポストモダニズムと呼んでいる。ブルジョワ文化と闘争を続ける前者は善、ポピュリズムと結びつけられたヴェンチューリーは後者であり、既成文化を支持し模倣していると見なされたのだ。一方、フレデリック・ジェイソンはポストモダニズムの美学は「模倣と分裂的性格」であり、モダニズムほど既存の内部にありながら危険かつ破壊力があり転覆的ではないが「その戦略に資本主義の論理に抵抗できる道があるはず」と言う。

1985年、マイケル・ヘイズは「批判的建築、文化と形態の間で」において建築は、自律性と完全な社会参加の中間に位置付けられ、「批判的建築」は「支配的文化の自己承認的で懐柔的働きかけに抵抗しつつ、場所や時間の偶発性とは関係ない単なる純粋形態構造にまでは還元されないもの」と言う。しかし、小生にはかっての抵抗のモダニズムをプラグマティックに運用したアメリカらしい建築論の復活に思えてならない。つまり、ヘイズにとっては批判的建築の実践者は他ならぬミース・ファン・デル・ローエのこと。ミースのフリードリッヒ・シュトラッセのオフィスビルの反射するガラス面は、戦後ベルリンの落胆と混沌に対して「抵抗的かつ対立的」であると同時に「形態分析による解読は困難」とヘイズは論じているのだ。

イタリアの論客ジャンニ・ヴァッティモは1983年に「弱い思考」と題する評論を編集。伝統的形而上学の「強い思考」を批判し、ハイデガーの癒し、回復、忍従、容認と記憶、回想、再考を奉じての前進を論じた。つまり、モダニズムのへーゲル的思考やマルクス主義が共に強い弁証法的対立項による超克を要請したとするならば、過去の伝統に対して、その他のメタ物語で置き換えるのではなく、温厚な敬意を表することを示唆している。

さらにスペインのイグナシ・デ・ソラ・モラレスは「弱い建築」を1987年に世に出す。弱い建築はイベント、偶然性のこと。いかなる美学的体系も持たない装飾性、記念碑性の建築のこと。弱い建築という言葉は好みではないが、個人的には「建築はロースが書く芸術でも建物でもなく、形を持った音楽」とするならばモラレスには同意する。

2020年2月15日土曜日

機械主義の建築、そしてポピュリズム


第二次世界大戦以降の建築の使命は戦後世界を改良し、荒廃した都市環境の再生にあった。そのためにモダニズムが主張した方法は科学的合理主義による秩序の提供、しかし1959年のCIAM以降、そこで主張されたような人間的都市イメージは生み出されてはいない。60年代以降の建築では、それ以降一層さまざまな批評と理論が展開されることになった。

1947年にはルイス・マンフォードが地域的モダニズムの可能性を提起したが、しかし、ニューヨークMOMAは排除している。

同じ年、アルド・ファン・アイクがブリッジウォーターのCIAMでモダンデザインの過度な合理主義に異議申し立てをしたが、そこではほとんど支持者はいなかった。

1959年、雑誌「カサベラ・コンティヌイタ」は「ネオリバティ様式」の形態を評価し、幾何学的モダニズムからの「イタリアの退却」を表明している。それは歴史的建築にも敬意をはらう寛容なモダニズムの主張、BBPR設計のミラノの中心街につくられた高層建築「トーレ・ヴェラスカ」のデザインが、イタリア中西部の雰囲気を思い起こさせることに対し、モダニズム正統派から批判されたことへの回答だった。

「ネオリバティ様式」への多少の理解を示したイギリスのレイナー・バンハムだが、彼は科学技術勢力の推進役。同時代を代表する理論書「第一機械時代の理論とデザイン」を1960年に刊行している。そこでは「機能主義と科学主義」が自動車や汽船のような機械から、洗濯機・冷蔵庫・掃除機、テレビへ、つまり文化的エリートのステータス・シンボルから大衆に娯楽を提供する第二機械時代の到来が論じられている。そして現在は第三機械時代、あるいは情報時代、IT・AI時代の建築はますますリゾーム化し、複雑多様な機械時代はどんな建築を生み出すのだろうか。

第一機械時代から第二機械時代へ(レイナー・バンハム)、そこからもたらされた秩序ある人間的都市とは一体なんであったであろうか。60年代後半、巨大都市建設はヨナ・フリードマンの「空中空間都市」を導き、フライ・オットーの「可動都市」、さらにアーキグラムの「プラグイン・シティ」「ウォーキング・シティ」等々、SF的構想も建築雑誌を飾った。60年代後半、「宇宙船としての地球」で人気の高かったバッキー・フラーは「ダイマキシオン・ハウス」から「ジオデシック・ドーム」を自作している。

しかし、実際世界は北アメリカ主導、世界はどこも鉄鋼とガラスによるカーテンウォールを持つ高層ビル。高速道路建設による社会分断を不用意に受け入れたプロジェクトはやがて人種差別、貧困犯罪を抱える多くのスラム街を生み出した。建築家がさまざまな方策の限界に気づき、それらの計画の理論的根拠を問題にし始めたのは1960年代に入ってからだった。

ルイス・マンフォード「歴史の都市、明日の都市」

ジェイン・ジェイコブス「アメリカ大都市の死」

ケヴィン・リンチ「都市のイメージ」

ハーバート・ガンズ「都市居住者たち」

エドワード・T・ホール「沈黙のことば」

アレグザンダー「コミュニティーとプライバシー」と「パターン・ランゲージ」

個人的にもっとも興味深かったのはアレグザンダーの「都市はツリーではない」、「A Pattern Langeguage」「The Timeless Way of Building」は英語版を買い込み挑戦した。更に懐かしいのは「建築における複雑さと矛盾」(鹿島出版会)だが、これはなかなか読み取れない訳書だった。ポスト・モダニズムの先駆者、ロバート・ヴェンチューリーの著作。

住宅を中心とする設計事務所に勤め始めた頃のこと、彼の作品「母の家」と共に建築誌SDに紹介されていたので懸命に読んだ記憶がある。この書はイギリス詩の批評家ウィリアム・エンプソンの「曖昧の七つの型」(思潮社Seven Types of Ambigutty)を下敷きとしている、と教えてくれたのは大学時代の親友、しかし彼はもう、今はいない。「曖昧の七つの型」はその後の事務所開設による別分野との関わりから必要とされたことなのだが、当時への思いはともかく、マグレブの書に戻ることにする。

ヴェンチューリーはミース・ファン・デル・ローエの"Less is more"を”Less is bore"と言い換えたり、モダニズムは今やマニエリスム段階にあると批評した建築家。彼は大衆的、通俗的要素への嗜好をサブテーマとし、ポップアートに刺激されたとは言え、それがリアリズムであり、進行中の悪い(ヴェトナム)戦争に従事している政治体制抗議の意見表示であるとし、新しい多様な建築デザインを提案した。

「日常的な風景、通俗的だと軽蔑されている風景から、我々は複雑で矛盾に満ちた秩序を引き出すことができ、それこそが都市的な全体性を有する建築にとっては不可欠。」という彼の主張。

更に1965年に「意味のある都市」というタイトルの記事を書いていたスコット・ブラウンと結婚し、共著「ラスベガスから学ぶ」が1972年に生まれる。夫人は都市を四つのテーマ(知覚・メッセージ・意味・モダンイメージ)から分析し、それらをつなぐものは「シンボル」のアイディアであると書き、多くの住民は都市の形態を記号として読んでいるが、都市計画家はそのことを理解できていないと言っている。

二人はプロたちはうぬぼれから図像学的な伝統を放棄し、いわゆる「説得力ある建築」からは遠く離れてしまったと論じているのだ。

しかし、この書に対してアルゼンチンの画家トマス・マルドナードは「ラスベガスのネオンサインはポピュリストの行為でもなく、視覚的豊さの条件でもなく、むしろ「無駄話」「コミュニケーションの深さの欠如」「カジノとモーテル所有者のニーズと不動産投機家におもねるもの」にすぎないと批判した。

一方、「ポップから学ぶ」という小論で、スコット・ブラウンはアメリカの都市再開発プログラムは大失敗、それはエリートたちに備わった一般教養が支配しているからとした挑戦的なポピュリスト的反論を繰り返した。ここまでくると、さすがに、ケネス・フランプトンはマルドナードを引き継ぎ反駁した。「デザイナーも政治家のように物言わぬ大衆の声に従うべきなのか?もしそうなら、デザイナーはその声をどのように解釈すべきなのか?レヴィットタウンのような町に住まざるを得ない大衆に対して、西海岸の高級住宅街に住んでみませんか?と勧めるのが、デザイナーの仕事だろうか?それはすでにマディソン・アベニューの広告代理店がやってきた仕事ではないのか?」と。


2020年2月9日日曜日

タフーリーのポスト・モダン建築批判

ポストモダン建築はマンフレッド・タフーリによって徹底的に批判された。タフーリがヴェネツィア建築大学に着任した1968年は、パリ革命に示されるようにヨーロッパは政治的なスペクタクルの究極の年、彼の「建築の理論と歴史」はそんな中で書かれているが、1920年代の政治状況と現代を比較し「操作的批評」というテーマのもと近代の批評家たちを批評した。 
その内容は近年の流行を説明するために歴史を読み取る批評家たち、現代にも適用できる利便的なイデオロギー的判断によって、過去から都合の良いものを選び取り、誤読するばかりと言っている。

そして核心は多くの近代建築史の本はでっち上げられたもの、なぜなら1920年代の建築家たちは、その革命的野望を実現できなかった。そして批評はイデオロギーのための理論や偽りの理論の道具となってしまった、とタフーリは書いている。

 タフーリのその後の言説は70年代のポストモダン建築批判に進む。 「曖昧さ」のような歴史的概念を自分自身のデザインの好みを正当化するために持ち込むヴェンチューリーを資本主義との暗黙を結びつきを即座に見抜き、歴史の自立性と理論を、現代の実践から切り離すことを主張した。
20年代のアヴァンギャルド運動もタフーリーは評価せず、デ・スティルの作戦もダダイストの非合理的なものの挿入も、同じ結果。巨大産業資本が、建築の基礎とするイデオロギーを取り込んでしまった、と言っている。 

ヴェンチューリーとスコット・ブラウンのラスベガスをポピュリスト的に受容したことは資本主義勢力への降伏以外のなにものでもない。ロッシのガララテーゼは当初「時間に置き去りにされた空間の中で凍りついている」と評したが、後に「彼の幾何学的な建物の聖なる精緻さイデオロギーを超え、新しい生活のあらゆるユートピア的な提案を超越している」と評価した。
 IAUSの建築誌の初期号(1972年)でのタフーリの評論記事「閨房建築」でロッシとアイゼンマンの建築を「残酷さの建築」と評した。それは「デザインのアプローチが現実世界の機能的社会的関心から退却していて、マルキ・ド・サドの放埒なサディズムに匹敵する、と言う。

そもそも彼は「ポストモダン」という呼称にも不満を持っている。「これが本当の転換点であるかどうかはわからない。反対に「モダン」の最も表面的な特長が極端にまで強調されている。われわれが手にしたのは「楽しき学問」ではなく「放埒な誤り」。それを支配しているのは、形態と意味の完全一致、歴史を視覚的に侵略する場にまで貶めることによる歴史の無効化、テレビから学んだショックを与えるテクニックなどだ。
結果として虚構の建築がコンピューター時代の中で難なく確立してしまった。このような部品のみの混合体はハイパーモダンと名づけるのが適当だろう。 ハイパーモダンいわゆるパッケージデザイン時代にある現在、技術主義主導のイデオロギーに乗りユートピアを描いてきたモダニズムと形態探しに邁進し、ポストモダンの意味のかけらに翻弄され、形の無いフラットなニューアーバニズムに消えていく現代建築。
タフーリーが70年代に展開しつつあると認めた二つのデザイン戦略<記号学と構成的形態主義>はどちらも資本の完全な支配のもとにあり、革命的意味から見ればむなしい試み。建築家も批評家も今はたせる役割は一つ。それは「時代錯誤的なデザインへの期待、不毛で無効な神話から決別すること。」  

重要なのは80年代以降の言語の科学的な研究(記号論)としての建築論を批判。それは「建築における公共的意味の喪失」という危機を解決するものではない、という批判だ。
現代建築における意味論的危機、それは18世紀後半から19世紀前半に発生している。
記号論への関心、それは科学的な歴史分析を排斥しようとする欲求から始まっている。言語の問題は、現代建築の言語危機に対する応答にすぎず、タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。

建築が言語であり続けることは当然ながらミメーシスの問題。反ミメーシスであることはイェーニッヒの現代芸術感とは鋭く対立する。
タフーリーの批評を待つまでもなく、今一度モダニズム以前の建築に立ち戻ろうとディーター・イェーニッヒの著作に触れていたのが最近の個人的な関心。自律した建築は芸術ではないが、「タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。」

2020年2月5日水曜日

プロジェクト・アウトノミア

都市と建築は誰のものか?という問いは、いつの時代にあってもよい。しかし、その問いへの答えはあまりにも根源的であり、様々な分野の関わりが必要となる。「プロジェクト・アウトノミア ピエール・ヴィットーリ・アウレーリ」はこのテーマを近代における人間の問題として真正面から取り組んでいる。「他律的であるからこそ自律する」と目される「建築の自律」というテーマに限定すれば、それは社会的であると同時に個人的なもの、現代の「都市の建築」の批評には欠くことが出来ない視点となる。 しかし、この書のテーマは個人そして都市の「自律の企図」、その内容は後期資本主義における資本制からの自律。当然ながら、「人間の自律」と「建築の自律」、そのどちらにも関わるだけに、本書の読み取りは容易ではない。建築のみならず、あらゆる領域が資本制社会の全体主義に浸潤する現在にあって、改めて「建築の自律」を取り上げることは重要なテーマだ。 アウレーリは自律の実現性が理論の実現性として生じるというロッシに賛成している。「資本制が都市計画学の技術的に合理性を完全に吸収していく状況にも関わらず、ロッシは都市を理論的に再考するもっとも重要な分野として、建築、すなわち計画学に特権を与えている」。アウレーリはロッシの「いかなるテクノクラティックな決定論からもかけ離れた都市現象の政治的、社会的、文化的意義を再構築していく実現の可能性」に「自律の企図」を見ているのだ。 今回もロッシの「都市の建築」の解読が個人的な関心のほとんどだ。ロッシは理性主義建築の再解釈から自律的な建築形態の根拠を「場」と「類型」に求め「都市的創世物」による方法を理論化している。しかし、現代建築の大半の感心は環境や地域という状況主義に終始している。読みながら、ロッシの言う建築の持つ「形態的意味」はどこまで正当性を確保できるか、そこが問題と考えている。 ハートとネグリの「帝国」に書かれていた「資本制の持つ国家的な正当性は必要なくなり、資本性そのものが超国家的なもの」という現代にあって、状況主義はもちろん、形態主義が自律性を確保できるという根拠はどこにもない。 同相の問題はフランクフルトのホルクハイマーとアドルノの「啓蒙の弁証法」にも重なっている。ネグリが言う後期資本社会の「内も外もない」均一な全体主義的傾向は、20世紀半ばすでにアドルノが「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問いで触れている。 福田和也氏は「アイポッドの後で叙情詩を作ることは野蛮である。」で20世紀の表現ドグマといわれるテオドール・アドルノの「アウシュビッツの後で、叙事詩をつくることは野蛮である。」を解説している。 氏から簡略引用すると、かって芸術はその表現において敬虔的自制と内省を要求されていた。しかし、アドルノはかってナチス親衛隊の将校たちによる機械的、組織的大量殺人の事実から、あらゆる芸術は、ホロコーストに対する敬虔さを欠いてはもはや野蛮である、と書いた。人間性の産業的殲滅を前にして、なお心情の屈折や天然の美を賛美するとしたら、それは人類そのものが、根源的に侵され誤っている。ナチス親衛隊の将校たちは、けして無教養な無頼漢ではなく、しばしば高潔な教養人。彼らはバッハを愛し、カントを読み、収容所から音楽家を選抜し、晩餐にバッハやブラームスを演奏させていたのだ。 つまり現代を生きている我々は我々自身の自律性を問うこと自体が今や問題なのだ。啓蒙された人間にのみ許されるのが芸術だとすれば、芸術はもはや消滅している。そしてアヴァター化した「帝国」が我々の現実だとしたら、形態は決して自律することはない。しかし、建築は決して「状況」だけにあるのではない、古来より「建築はあるがままの世界に建つ、あるはずの世界」という「形」を意味しているのだから。