2020年2月22日土曜日

モダニズム建築の存続

50年代前半、ロンドンのAAスクール(英国建築協会付属建築学校)に学んだケネス・フランプトンはアイゼンマンに誘われ、アメリカのニュージャージー、プリンストン大学の教員となる。プリンストンでの関心はアドルノ、マルクーゼ、アーレントのいわゆるフランクフルト学派。社会の生活水準を自動車やテレビ、飛行機によって測ろうとする価値観を否定、芸術的前衛の役割は資本主義文化が生み出してきたキッチュに抵抗すること、というまさにこの学派の「批判理論」そのものを主張した。

従って、彼がヴェンチューリーとスコット・ブラウンのポピュリズム的立場に反論するばかりか、アイゼンマンの形態主義的建築にも関心がなく、同調しないのは当然かもしれない。

1980年のヴェネツィア・ビエンナーレのテーマは「過去の現前」。キュレターのパオロ・ポルトゲージは「ポストモダンの状況は存続する。それは我々の文明の急速な構造的変化によって形成されたもの。建築を歴史の胎内に立ち戻らせ、伝統的な形態を新しい統合論的文脈の中で再利用すること。」と主張。しかし、ビエンナーレのイベントに招かれたフランプトンは参加者たちにも、ポストモダンという用語の使用にさえも辟易し、イベントへの参加を撤回した。「私はこのビエンナーレを、多元主義的なポストモダニスト宣言だと見ている。・・・私自身はそこからは距離を置き続けるべきだと考えている。」

同時代、ポストモダンの流行に反対する声は高かったが、運動そのものに批判的だったのは「カサベラ」誌の編集者はヴィットリオ・グレゴッティ。彼は社会的関心を顧みず「歴史への執着」に走るポストモダニズムに反対。「建築は、それ自体の問題を反映し、それ自体の伝統を探求するだけでは生き延びることができない。たとえ、建築という分野に必要な専門的手段は、その伝統の中でしか見つけることができないとしても。」

そんな中、注目すべきはベルリンの大規模な住宅および復興事業。ヨーセフ・クライフースが参加するベルリンの国際建築展(IBA1988)において単一の住宅団地という案は否定され、ベルリンの壁に隣接する未だ戦争の傷痕を残していた都市地域全体に、一連の再構築計画を分散させる事になった。ここでは国際的に活躍している建築家が多数招かれている。日本の建築雑誌にもたびたび特集され、個人的には新しい建築の到来を感じていた。

クライフースは「地域的再構築」の提唱者、それは、革新的でありながら同時にベルリンの場所の「記憶」を尊重し、かつ「一般の人が理解できる言語」で表現するデザインを提案。戦前の街路システム、混合用途ゾーニング、緑の中庭を再構築し、19世紀初頭の近隣住区スケールに再び焦点を戻すことを狙っていた。このガイドラインはポストモダニズムともう一つ当時発展途上にあった地域主義者とが交錯したものと捉えることができる、と「現代建築理論序説」でマルグレイブが書いている。

地域的モダニズムの理念はモダニズムそれ自体と同じくらい古くからある。その再燃は1981年の二つの評論、歴史的テーマに集中したポストモダニズムを批判した「地域主義の問題」と1950年代の教条的モダニズムからの解放をテーマとした批判的地域主義を主張する「ギリシャ建築」。批判的地域主義の本質はヒューマニズム、流行を追いかけて歴史形態を受け入れることに反対するものだった。

1983年ケネス・フランプトンは「批判的地域主義に向けて、抵抗の建築に関する六つの考察」を書いている。この評論はフランクフルト学派の影響を受けているが、さらに彼は文明(道具を根拠とする理性)と文化(創造的表現)を区別しポストモダニストの前衛気取りは「解放された近代のプロジェクトの破綻」と「批判的な対立文化の衰退」を示していると論じた。そして、彼は批判的地域主義による「アリエールギャルド=後衛」の立場を提唱、それは皮相的な文化を解体し、普遍的文明の実証主義的ないし科学技術力を継承するとともに和らげることができる、としている。

彼の批判的地域主義はハイデガーの「建てる・住まう・考える」に立ち戻り、場所/形態、地形、文脈、気候、光、触覚、テクトニックフォーム(構築的形態)し、生態学的感受性への着目を呼びかけるもの。特にテクトニクスは建設の方法とディテールに関わり、「材料、工芸と重力の間にあってそれらをまとめあげる潜在的手段」「ファサードの表現よりも、構造の詩的な表現」に寄与するものとしている。

1920年代、ロシア構成主義において建築はすでに意味する言葉としての形態を失っている。1980年代の脱構築はその確認に我々はその後60年を必要としたと言うことだろう。建築を意味と記号という二面ではなく、三次元的空間の現象として検討し始めたのは18世紀のカンシーからだが、しかし、建築の空間構成あるいは空間のシンフォニーが「建築は何を作るか」の主題には未だ成りえていない。(原広司の「建築になにが可能か」は60年代後半の均質空間批判、彼の建築論は一貫して形態ではなく空間をテーマとされている)

現代建築理論序説でマルグレイブは「60年代と70年代に政治や建築専門外の理論から出発した主要な建築理論のいくつかは1990年代中頃には疑わしいものとされ、さらに的外れとさえ見られるようになっていた。」と書く。建築へは外からの要請、「地域主義と環境」つまり地域活性化、地球温暖化、リサイクルあるいは生態学的持続可能性などをめぐって国際的な論議を駆り立てるようになってきた。そして、90年代中期は過渡的な時代、その前線を幾何学的操作や純粋な効果作戦、社会的政治的な関心に対応した変形技術、技術決定論的な立場をとっての新たなデジタルテクノロジーの時代としてマルグレイブは記述していく。

ここからの大半は、プラグマティシズム、コンピューター利用による技術決定論(ランダム応答解析)、幾何学的操作(非線形的幾何学)であって、どう作るかが主題となり、個人的な関心である、建築は何を作るか、からは離れていく。スリランカ出身の構造エンジニア、セシル・バルモンドの「ニュートンの決定論とは異なる物理学の再概念化」に関心を残し、本書を閉じることにした。

バルモンドへの関心はAI社会のテーマ、「建築家は単なる媒介者ということもありえる。もちろん、ある段階で建築家は中に介入し、アルゴリズムを指揮すべきであり、あるいは少なくともそれが無限に作動することを止めなければならない。その時点にこそ、必然的に主観性と作家性が再登場するだろう。」というところにある。