2017年7月23日日曜日

ユーパリノス=建築はだまり、語り、歌う



「建築はだまり、語り、歌う」はヴァレリーの「ユーパリノス」に書かれている言葉です。冥府にいるソクラテスはパイドロスとの対話の中で建築家ユーパリノスのつぎの言葉を聞き、「再び生きるなら建築家として生きたかった」と語っている。
「私の神殿は愛する対象が人を動かすように人を動かさねばならない」。
「町のむらがる建物の中で、あるものは黙し、あるものは語り、あるものは歌うということに気づきはしなかったか?」
「精神と肉体が見事に調和したときには、単に作品が出来上がるだけではなく私自身の建築が出来上がる」。
感覚的世界、形や外界という物質的世界、あるいは地上的美の世界を必要としなかったソクラテスにとってユーパリノスの言葉は大いなる驚きだった。
そこにはソクラテス自身が果たせなかった「観念と行為の応答」を成し得た人がいたからである。
「歌う建築」はヴァレリーが冥府にいる哲学者ソクラテスに生前成すべきことを、「ユーパリノス」を通じて伝えた。
そして、ソクラテスは言う「アンチ・ソクラテス、私の中には、周囲の事情からとうものにならなかった一人の建築家がいたのだ」と。

講義録をまとめるに当たっては「ユーパリノス」のこの言葉を表題にしたいと考えていた。誇大妄想、アナクロニックな試みではあるが、「建築の中の意味の世界」の散策、「建築を科学や芸術とは異なる視点からの面白さ」として講義してみたいと考えていたからだ。
優れた建築は、見る人に感覚的喜びだけではなく、想像的な楽しみを与えてくれる。
建築家の生み出す形態は動的役割や美しさを表現するばかりか、形態に付された表象は建築の体験者に、物語の世界に入り込むような楽しさを与えてくれる。

建築に物語のような意味を与えることはヨーロッパでは当たり前のことだった。
しかし、現在では建築は黙して語らない。
ヴァレリーが「ユーパリノス」を書いたのは1921年、第一次世界大戦直後のこと。
それはまさに西欧の精神の崩壊の時、建築は歌うどころか、科学と芸術の乖離のなか、建築はその集団的意味を失い、一言も発することがなくなった。
ヴァレリーは「ユーパリノス」を大図録「建築」の序文として書いている。
彼は「建築的調和は音楽的調和、建築は精神と肉体の調和から生み出されるもの」とみなし「建築はだまり、語り、歌う」と書いたのだ。

2017年4月27日木曜日

聴くことの悲劇 ルイジ・ノーノ

20世紀前半、「見ることの悲劇」をオペラにしたのは 「モーゼとアロン」の シェーンベルク。
20世紀後半、「聴くことの悲劇」をオペラにしたのは「プロメテオ」のルイジ・ノーノ。
もっとも、 「モーゼとアロン」「プロメテオ」がオペラであるか否か、識者の見解は様々と言って良い。

16世紀の貴族社会はギリシャ以来の「悲劇・喜劇」とは異なる、より娯楽性の高い第三の劇「牧歌劇」を生み出したことが、オペラの誕生に繋がる。
ギリシャ悲劇の復活を目指していたフィレンツェの人文主義者達は牧歌劇を話す代わりに歌う音楽劇に仕立て、結婚式の催し物として上演した。
メディチ宮廷での上演は「エゥリディーチェ 」、このオペラは竪琴を弾くことで世界を和ませる音楽の神「オルフェオ」を題材としていることから、合い争う当時の北イタリアの宮廷では格好の外交的催し物となり人気となる。
結婚式の祝典でのオペラの上演は、貴族の権威の保護装置、しかし、人文主義者にとって、彼らが時代に関わるための理念や批評の機会でもあり、ルネサンスの人々の生き方の再確認の場であったことも留意すべきだ。
それは当時の建築の持つ役割にも言えることだが、貴族が必要とする視覚装置は、権力の誇示ばかりではなく、より良く生きねばならないというノーブル・オブリージ宣言でもあったのだ。

貴族社会から市民社会へ移行していく18・19世紀、動く絵画としてのオペラは社交と娯楽の道具であり、都市における市民生活の基盤となっていた。
しかし、20世紀になると、ヨーロッパの絵画・建築・音楽が大きく変容する。
その変容は、芸術は日常生活のお飾りでも贅沢品でもなく、生きていくため不可欠なものとすること。
従って、虚構と現実を二分化するプロセニアム・アーチ(額縁舞台)は新しい市民生活のモラリティやリアリティを損なうものと批判され、オペラはその意味と役割を大きく変えなければならなかった。

アーノルド・シェーンベルクは音楽の自立を妨げ装飾的と見なしかねない形式的な調性を疑い、十二音無調音楽を模索し 「モーゼとアロン」を作曲する 。
旧約聖書の出エジプト記にある「偶像崇拝の禁止」をテーマとしたこのオペラではモーゼは語ることはあっても歌う事はない。
神の指示により、その姿を描く事を禁じられたモーゼは歌い上げることで神の姿を視覚化する彼の兄アロンと大きく対立する。
自立した近代市民の音楽の意味に関わるシェーンベルクは、その対立場面ではアロンの歌により、オペラの持つルネサンス以来の視覚装置を顕在化することで、「見ることの悲劇」としてのオペラを生み出した。

しかし、「モーゼとアロン」は対立場面の第二幕まで、第三幕以降は作曲されていない。
現代世界、果たしてオペラは可能なのだろうか。
ルイジ・ノーノはその答えとして「プロメテオ」を作曲した。
プロメテオは神々のみが天界で所有する「火」を人間にもたらし神。
不死のプロメテウスはゼウスにカウカーソスの山頂に張り付けにされ、3万年に渡り肝臓を鷲に啄めばられる責め苦を負う。
言うならば現代の原子力に繋がる、人間の力ではどうにもならないリスクの大きい技術を手にしてしまった人間世界の象徴。
ノーノはしかし、この物語を直接的には描いてはいない。
シェーンベルクの「モーゼとアロン=見ることの悲劇」は「神は見るものではなく信じるもの」、それは視覚的な「形を見る」ことではなく、個々人の中に響く「音楽」を聴くことにある、とメッセージしている。
ノーノのシェーンベルクを引き継ぐ「プロメテオ=聴くことの悲劇」は、プロメテウスの火に苦しめらる群島状に分布する様々な人の声、それは矛盾と敵対を孕んだ歌や合唱となり鳴り響く。オペラは脳内のシナプス連繋のように響き渡る世界を「音楽」として聴くことを試みている。
つまり、ルネサンスに生まれた視覚装置としてのオペラはプロセニアム・アーチが解体された現代世界においても「音楽」として本来の意味と役割を発揮続けているのだ。

2017年1月19日木曜日

ルネサンスの3人の建築家

13世紀、西欧の諸芸術は建築と共に聖堂や教会のなかにあった。15世紀、絵画・彫刻は教会の壁から世俗世界の芸術品となって飛び立っていく。残された建築も古典的装飾を身にまとい美術史の一端を担う。しかし、20世紀、建築は権力のプロパガンダとして批判され、機能主義という観念(イディオローグ)に支えられた実用的でニュートラルな箱となる。

初期ルネサンスの3人の建築家は、古典主義を切り開いた建築家として知られている。
しかし、彼らは美術とは異なる別種の建築世界を模索していたようだ。
3人の建築家はブルネッレスキ、アルベルティ、ブラマンテ。
彼らは様式、つまりスタイルに関わる古典主義の建築家とするのが大半の建築史だが、prof.Fは彼らはスタイル(様式)ではなくタイプを模索した建築家という観点から、その建築を説明している。中央公論出版の「イタリア・ルネサンス建築史ノート」全3冊はお薦めだ。

イタリア・ルネサンス建築史ノートから読み取れる最も重要な点は、美術・装飾とは異なる建築のみが持つ空間表象としての意味の検討と言える。
それはパトロネージの権威付けでも、社会的要請への呼応でもなく、建築のみが可能なメッセージ。
諸芸術をインテグレートしていた建築が、ルネサンス以降、自立するために課せられた使命だった。
しかし、建築は為政者の権力装置のプロパガンダの役割を担い、その後の西洋建築史をリードしていく、つまり、建築史の大半は美術様式史。
18世紀以降、時代は市民主義から民主主義、建築は機能主義や経済社会からの要請に準じ、やがて、形を失い、スタイルによる差別化だけを目的とする建築に変わっていく。
しかし、お薦めの3冊の建築家は建築の始まりとも言える15世紀、その後の美術様式論とは異なるの建築を検討している。

最近になって、E・ガレンの「ルネサンス文化史 ある史的肖像」(平凡社)を再読した。E・ガレンはイタリア人、定番となっている19世紀のヤーコブ・ブルクハルトの「イタリア・ルネサンスの文化」やピーター・バークの「イタリア・ルネサンスの文化と社会」(岩波書店)からは読み取れない別種の建築を模索する文化状況を解説している。
そこでポイントとなるのは、ルネサンスを主導したのは美術史にある絵画ではなく、悲劇的な旧代を乗り越える新しく生きる価値に触れる著作物にあった。
3人の建築家が美術ではなく、修辞論としての建築に関わろうとするのは当然だろう。
母語、ラテン語、ギリシャ語が日常化しているベトラルカに始まる知識人社会にあって、絵を描かない建築家アルベルティは建築によって同時代の悲劇性を乗り越え、反時代性、批評性に触れたメッセージを発信し続けたのだ。

E・ガレンの「ルネサンス文化史」の冒頭を以下に引用する。
「当時のイタリアは経済的活力を消失しており、政治的混乱は極めていたので、文化同様にルネサンス期が歴史的事象全般にわたって活況を呈していたわけではない。絵画、建築、そして彫刻が花開き、文学作品もますます洗練度を増し、稀に見る高さの教育理念が表明される一方、都市の経済はすべて壊滅状態で諸産業は衰弱してほぼ封建的性格と言ってよい農業に回帰しており、都市の自治も揺れ動きコムネーの自由も霧散し、教会も腐敗の度合いをさらに深めていた。・・・人間の偉大さが大変豊富なあの1400年代「クワットロチェント」、生活と歴史は戦争で荒らされ、また陰謀で流血状態のイタリアは真に悲劇的であった。」
そして、人文主義を以下のように書く。
「人文主義は、ブルクハルト的な表現による<人間の再発見>であるよりもむしろ、人間が固有の自律的創造力を獲得し肯定するための手立てとなる。」

2015年8月30日日曜日

建築が生み出す想像世界

吟遊詩人ホーメロスは英雄たちの世界を語った。「イーリアス」と「オデッセア」。現在の私たちにとって、この二つの物語は叙事詩、文学として残された。しかし、当時の人々にとって叙事詩は文字を「読む」文学ではなく、歌を「聴く」音楽だ。竪琴を持った詩人が語る言葉に耳を傾けるよって生み出された世界。耳で聴き、音を楽しむことから生まれた「想像的世界」です。

古代社会においては、「想像的世界」は現在の私たちの予想をはるかに超えた、リアリティ−を持っている。何故なら天変地異、季節の到来、天体の運行、それらはすべて神々のなせる技、人々は人力に勝る神の力を「耳で聴くこと」によって想像し、決して見ることの出来ない不可思議な世界を、「想像すること」によってのみ理解し把握した。

現在では、「世界は見ること・眺めること」により理解される。しかし、それはルネサンス以降のこと。15世紀の透視画法の発見が、「聴くこと」より、「見ること」の重視へと導いた。

流動的で不確かな日常世界は信頼するに足る世界ではなく、その背後に横たわる確固とした世界こそ生きるべき世界と考えていた人々にとって、絵画によって生み出される「想像的世界」は、現実世界以上に生きるに足る世界。

ダヴィンチをはじめ巨匠たちが描いたたくさんの絵画、それは見ることによって生まれる「想像的世界」だが、現代人の教養としての、あるいは茶の間の楽しみとしての絵画とは大きく異なる。ルネサンスの人々にとって、絵画的世界は現実以上に、生きるべきリアリティを持った世界だったのです。

音楽を聴き、絵画を眺め、小説を読む楽しみは、日常的世界とは異なる別種の世界を想像すること。建築を体験することもまた同じ。この世に存在しない宗教的世界、決して目にすることはできない世界の形を建築は建築自身により、そのカタチ(構造)を分かり易く説明し、人々にいま生きている世界はこんな世界とイメージさせる。つまり、建築は世界模型(世界モデル)であり世界書物、それが建築の役割です。

建築が生み出す想像的世界、それは耳をそばだてたり、眺めさえすれば良いのではなく、体験することが必要。建築物の内外を体験し動き回るにことよって、はじめて個々人の内部に、その建築が生み出す世界が、建築が発する意味の世界が立ち上がってくる。

現代建築ではデザインから生み出された居住感(安全、便利、快適)が重要視されていて、その建物が持つ「意味」という側面が見失われている。従って、建築についての話は快適な環境を作るための技術が問題。しかし、建築だけではなく、様々な分野のデザインが歴史的に果たしてきた役割を考えてみると、それは人間と人間、人間と世界との関係をいかに構築するかということにある。建築デザインもまた、この関係の構築に関わった。

建築はシェルターであり安全・便利・快適の為の装置であるばかりではなく、人々が建築を媒体とすることで、個々人の外側と様々な情報をやりとりしているという側面、つまり建築は情報媒体(メディア)という側面を忘れるわけにはいかない。

人間の外部にあって、刺激や誘導によって、人間を操作しようという装置ではなく、主体としての人間の内実に意味やイメージを発生させる装置。人間が人間として、より多くの人と共に、幸せな人生を送る、というデザインの本来の目的に対し、建築が果たさなければならない役割、そこでは個人が気持ちが良いか、居心地が良いかということより、集団にとって「意味」があるか否かのほうがはるかに重要だったのです。

2015年8月5日水曜日

ルネサンスのアナザーワールド

国土の三分の二を高地と山に覆われたイタリア半島は、豊かで広大な平地が広がる地域とはいささか異なる生き方が必要とされている。イタリアの人々は地中海に突き出た地の利を活かし、東方の人々と積極的に交易し、手工業を発達させるという生き方を選択した。
西ヨーロッパの農業社会が安定した食料増産による経済的発展を迎える時、この半島の役割は、大陸にない物質資源を調達し流通させること、さらにその為の積極的な人間的交流を計ることにあった。

農業中心社会に於ける生き方では自然に従い、それを掌る神に従順であることが求められる。当然、そこでは清貧禁欲な生活を尊ぶ、キリスト教的価値観が大きな意味を持つ。しかしイタリア、特にフィレンツェでは商業や手工業の発達を促す別種の価値観が必要とされた。それは現実的、合理的な生き方を賛美し、自然より人間中心の生き方とそれを支える考え方。ルネサンス・イタリアは新しい価値観とキリストに変わる神を探していたのだ。
そんな模索から生み出されたメディア、それはアルス・ノーヴァと透視画法。

二つのメディアに期待された役割は中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、「あるがままの世界」に変容することにある。
新しいメディアは超越的な神が君臨する中世キリスト教社会に変わり、現実的、快楽的、人間中心的社会に素手で関わろうとするモノ。しかし、「はずの世界」が消えたわけではない。「あるがままの世界」の世界の上にいかに「あるはずの世界」を生みだすかがテーマだろう。つまり、虚構あるいはフィクションとしての建築をいかに作るかの方法がテーマ。

アルスノヴァは三位一体化した観念的な三拍子を自然歩行に近い二拍子の音楽として解放する。透視画法は画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる、この一点を中心として描かれた世界にも秩序ある統一が存在することを明らかにした。そして画家・音楽家・建築家たちは、ギリシャ以来の哲学者のイデアや神学者の神に関わることなく、「あるはずの世界」を「あるがままの世界」の中に描き出すことが可能となった。つまり、メディアによる「神話」から「風景」への変容。

新しいメディアの発見の驚きは現在の私たちの想像をはるかに超えている。透視画法は単に絵を描く為の手法ではない。神に支配されていた中世的世界を人間中心の世界に変容した。その発見は現代のコンピューターの発明にも似た新しい世界、アナザーワールドを切り開くもの。アナザーワールドとは、西欧的生き方に於いては欠くことの出来ない「生きるに確固足る世界」、その世界を「あるはずの世界」だけではなく「あるがままの世界」に有ることを示している。

ルネサンスの人々が透視画法に夢中になったのはこの一点にある。 人々はアナザーワールドを実際に「建築」を作ることなく、透視画法の中の建築的世界を描き出すことで、秩序ある世界の存在を実感している。つまり、絵画が建築に先行し、空間を表現することが可能となった。そして、絵画も音楽も教会(建築)の壁面や内陣から解放され、現実の世界に飛び立って行く。
建築家はもはや、かっての建築の持つ役割(諸芸術をインテグレートしているという役割)を失い、建築物や模型に頼ることなく、絵画によってのみ「建築」を生み出すことになる。もっと別の言い方をすれば、建築家の仕事は実際の建築を作ることではなく、作るべく建築のコンセプトを描くことがその役割。そして実際の建築はそのコンセプトに従い、職人たちの力によって建設される。つまり「建築」は物理的実体以前に、思考の経過を示すことがその重要な仕事。それはまた同時に、中世以来の学問への参加でもあった。ブルネレスキアルベルティ等ルネサンスの建築家はその役割を使命とし、自立したアナザーワールドの構築に専念する。

2015年8月2日日曜日

ゲーテが訪れたアルカディア

われもまたアルカディアに

十五世紀のイタリア・ルネサンスが生み出した新しい世界、それは透視画法の中の「理想都市そしてアルカディア」。その世界は十八世紀半ば、再び、多くの詩人・芸術家たちによって取り上げられる。

新古典主義時代の代表ゲーテは三十代の時、はじめてイタリアを訪れている。彼の「イタリア紀行」はその後、何度か改訂され、現在の我々の手元にあるのはその最終版、六十代後半の上梓されたもの。「われもまたアルカディアに」が副題、ゲーテは生涯「アルカディア」を歩き続けたのだ。


「われもまたアルカディアに」は現在ルーブル美術館に展示されているプーサンの絵画に由来する。アルカディアに生きる三人の牧童と一人の少女、彼らが見つめている墓碑にこの銘が刻まれている。テーマはメメント・モリ、理想郷にも死が存在することを強調し、人生の短さを教え、充実した人生を送るようにと、この絵画はメッセージする。ゲーテにとってのアルカディアはただいたずらな理想郷、「憧れのアルカディア」ではない、そこは古のローマの人々が「 日々をより良く生きた世界」、ゲーテはイタリアをそのように意味づけ、「イタリア紀行」の副題をプーサンの絵画から引用した。

ワイマール公国財務長官であったゲーテは1786年9月3日、その職務から逃れるかのようにブレンナー峠を越え、イタリア(アルカディア)に旅だった。この峠はフランス、ドイツ、オーストリアなどのアルプスの北の国々からイタリアへ向かう重要な山道。ルター、デュラー、モーツアルト、ホルバイン、ニーチェ、ヘッセ、マン、リルケなど、皆、若き日にこの峠を越えイタリアを訪れている。

峠を越えれば、北イタリアの空はどこまでも高く、そよ風はいつまでもさわやか。左手に越えてきたアルプスの山並みを望み、右手にヴェネトの広漠たる平野が横たわる中、まっすぐな大道を馬車に揺られ、ゲーテはやがてミニョンの故郷、ヴィチェンツァに到着する。


ミニョンの故郷

「君知るや、レモンの花咲くかの国を。

小暗き葉陰にオレンジは熟し、

そよ風は碧き空より流れきて、

ミルテはひそやかに、月桂樹は高く

君知るや、かの国、

いざかの国へ、恋人よ、

いざかの国へともにいかまし。

君知るや、かの家を。円き柱は屋根を支え、

広間は輝き、小さき部屋はほのかに光る。

また立ち並べる大理石像、われを見つめて問う、

「あわれ、いかなる事に出会いし」

君知るや、かの家、

いざかしこへ、わが守護者よ、

いざかの家へともに行かまし。

君知るや、かの山、雲の懸け橋。

騾馬は霧中に径を求め、

竜子の古きやからの棲める洞窟、

絶壁にかかる滝は飛流し

君知るや、かの山、

いざやかしこへ、われらが道は、かしこに通ず。

わが父君よ、ともにいかまし。」

ヴィルヘルム・マイスターの 修行時代新潮社


ヴィルヘルム・マイスターに登場するミニョン。彼女はヴィルヘルムをアルカディアに誘う。ゲーテはイタリアに出掛ける前年、彼自身のはやる気持ちを、イタリアへのあこがれを、ミニョンに託しこの歌を作っている。物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力と悲しみを持つ女の子。彼女はギリシャ神話の妖精ニンフのように、そこここにと現れ、物語の進行に関わっていく。ミニョンと共に旅する竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴。それは演劇修行中の主人公ヴィルヘルムとはある種の対旋律の関係にある。その旋律は読み手の心のうちそとを限りなく震わしていく。

物語はヴィルヘルムという定旋律にミニョンと老竪琴弾きの三つの旋律が絡まり、ミニョンの歌にある「丸き柱は屋根をささえ、広間は輝き、小さき部屋はほのかに光るかの家」で終曲する。その家は北イタリアの小都市ヴィチェンツァ近郊に現存する。宇津井恵正氏は「ゲーテの視覚の世界」の「演劇空間としてのあの家と過去の広間」の章でヴィチェンツァのロトンダがミニョンの「かの家」であることを論証された。

その全体はアルカディアの神殿の趣、建物の名はロトンダ。ロトンダとは円形平面の部屋を持つ建築のこと。ドーム状の天井や屋根を持ち、その形状は宇宙観が表現されると共に、人間の生死とも関連し墳墓や神殿にも用いられた。

通称ロトンダだが正確にはヴィッラ・ロトンダあるいはヴィッラ・アルメリコと呼ばれた。十六世紀半ば、この小都市の建築家アンドレ・パラーディオにより建築されている。

澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまうかのように建ち、あたりの空間全体は絵画的であり、まさに舞台のなかのアルカディアような世界が展開されている。そしてゲーテは次のように書く。

「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する。」イタリア紀行・上岩波文庫




 


ヴィラ・ロトンダに託された物語

ヴィッラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。

「四書」の中でパラーディオはヴィッラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」パラーディオ「建築四書」注解中央公論美術出版

ヴィッラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式ゲーテはコンリント式円柱と書いているの六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。

四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験。そして、中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。

円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。

この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィッラ・カプラ」と呼ばれていた。

「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィッラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラ。都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館)は公的な空間。都市住宅に対する田園の住居は私的な空間と意識され、本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられていた。

ヨーロッパの古来の「都市」と「田園」に少し触れてみたい。「都市」とは本来、集落から訣別した「特別な空間」を意味している。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が「人間として生きる特別な場所」、日常とは異なる「ハレ」の場所、社交の場のことを意味する。したがって都市(祝祭)を生み出す建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみならば、それは日常的な集落の延長、住居であっても「建築」ではない。これは建物の上下の問題ではなく、我々とは異なる考え方の問題だ。

パラーディオが「四書」で強調している、都市的な生活の場であるヴィッラ・ロトンダは田園にあっても文化的世界であることが求められ、社交に供する劇場的環境に建つ作品的世界、虚構の世界でなければならない。ピエンツァのピッコロリーニ宮殿を自然に放ち、私的空間化したピウス二世への批判も同じような考え方が背後にあり、私的で個人的な趣味は「建築」ではないと見なされたのだ。

パラーディオの時代は黄昏のルネサンス期、アルベルティやピウスの時代から百年も経過し、建築の考え方も変わっては来ている。しかし、彼は現代の我々のように施主の希望や使い勝手に合わせ、ただ闇雲にヴィッラを作った訳ではない。その観点から見るとパラーディオのヴィッラはとても興味深い。本来「建築」の範疇には入らないヴィッラを集団的意味を持つ「建築」としてデザインしなければならなかったのだから。

十六世紀半ばから後半は美術史でいうマニエリスム期、パラーディオは過渡期の建築家であることは確かだ。しかし、彼はギリシャ以来の本来の「建築」からも決して逸脱することのない、まさに最後のルネサンスの建築家と言って良いのかもしれない。遅れてきたルネサンス人パラーディオはヴェネトに沢山のヴィッラとパラッツォを造っていく。彼の「建築」は初期ルネサンス同様、透視画法の持つ等質・等方、何者にも序列化されないイマージナルな秩序空間として組み立てられている。

当時の建築家の仕事は音楽家同様大半は教会にあった。しかし、パラーディオには教会の仕事は少なく、ヴィッラとパラッツォという住宅ばかりだ。パラーディオが世俗の建築家、最初の住宅建築家といわれる所以はこのあたりにある。ではパラーディオは田園に建つ住宅をどのように「建築」にしたのか。パラーディオのヴィッラはあるがままの自然、民家や農家の持つ田園的風景をメタフィジカルな理念の世界に、現実の背後にある秩序だった理性的な世界に変容している。そのために用いられたテーマが「アルカディア」だ。

「アルカディア」は貴族たちの社交には欠くことの出来ない文化装置。パラーディオは建築だけではなく田園環境も一体化し(全体はウェルギリウスやサッフォーが描いた古典主義的な田園風景)「建築」をアルカディアとして描くことで、現実の風景をメタフィジカルな理念の世界に変容している。だからこそ、彼のヴィッラは「建築」であって、単なる自然あるいは田園に建つ民家あるいは住居とは異なるもの。「四書」で都市住宅の項に掲載した所以となる。

ヴィッラ・ロトンダはアルカディアとして作られた劇場的世界。その世界は等質・等方なルネサンスの舞台空間。そして舞台に配されるシンボル、それは「建築四書」にも書かれている古代神話に由来する彫像の数々。四つのペディメントロッジアの三角形の破風端部には3体ずつ12体。階段の上がり口には2体ずつ8体の等身大の彫刻像。それらは個々に神話から由来するアレゴリー(寓喩)、円形広間の中央水抜孔の牧神パンを始めとしてアポロンやヴィーナス、ジュピター等々に飾られている。

その全体はアルカディアに隠棲する「ミダス王の物語」と言われる。ヴァネツィアに捕らえられたこの建築の施主であるアルメリコはミダス王と同じように、アルカディアの住人となって故郷ヴィチェンツァ隠棲する、それがヴィッラ・ロトンダに託された物語だ。

ミダス王とは「王様の耳はロバの耳」、あの誰もが知る欲張り王のお話。王はバッカスにねだり「手に触れるものなんでも黄金にして下さい」とねだる。願いは叶えられるが、食事の際の食べ物・飲み物、すべてが黄金に変わりミダス王は飢えと乾きに苦しめられる。再びバッカスのところにゆき、神の言いつけ通り、パクトロス川ロトンダの前にはバッキリオーネ川が流れているで身を洗い、黄金の地獄からは救われる。

そんなミダス王はある時、アポロンとパーンの音楽家としての腕比べの審査を引き受ける。彼は素朴なあし笛のほうがアポロンの銀の竪琴より響きが良いと気に入り、パーンロトンダの中心の雨落ち孔の勝ちにした。しかし、アポロンその彫像はロトンダでは裏側となる南西のメディメント頂部は怒り「お前の耳はばかな耳だ、そんな耳はロバの耳になるがいい」と言い、ミダス王の耳は毛むくじゃらの耳に変えてしまった。

ミダス王は恥ずかしがり、特別仕立ての帽子をいつもかぶっていたが、床屋にだけは隠せない。王は床屋に「秘密をもらしたら命はない」と厳命するが、耐えきれなくなった床屋は野原に出て穴を掘り、その穴の中へ「王様の耳はロバの耳」と言って、また穴を埋める。やがて、春になりあしが生えた。そのあしは風が吹くとささやいた、「王様の耳はロバの耳」と。王様の秘密は風に乗り世界中に広まって行く。

山室静氏の「ギリシャ神話教養文庫」の「ミダス王」からの簡約。改めてこの物語からヴィッラ・ロトンダに戻ると、「建築」とはつくづく面白い存在であることを教えてくれる。

この「建築」はまず十五世紀のヒューマニズムの体現装置透である視画法の空間、と同時に十六世紀の「アルカディア」。ヴィッラ・ロトンダは建築とリアルな環境とが一体化された劇場的世界として作られた。

その後、ヴィッラ・ロトンダは「幽霊屋敷」とも言われ荒廃に荒廃を重ねる。しかし、結果としては、今に残された。「建築」を残すもの、それは「何」なのか。決して個人的な趣味や利便ではないだろう。「建築」は物語であり「メッセージ」。「建築」への考えかたが変わり「時代」が変わっても、建築に託された「言葉」は何時までも生き続ける。そしてまた、あしに吹く風は永遠に「王様の耳はロバの耳」とささやき続けるのだ。


ゲーテの建築術

九月の晴れ渡った日の午後、ヴィラ・ロトンダを訪れた時、ミニョンがそこここに佇み、追い掛けてくるような世界を体験した。その世界はゲーテとパラーディオの描く二つの虚構が相和し、鳴動した<作品的的世界>。建築が<作品的><観念的>世界にも実在しうることを実感したのは、この時初めてだが、ゲーテはこの旅行の後、つぎのような建築論を書いている。手近な目的、より高い目的、最高の目的と建築の目的は三段階あるというのがゲーテの認識。

「最高の目的は、あえていうなら感覚を溢れんばかりに満たすことを企て、教養ある精神を驚嘆と恍惚にまで高める。・・・これは建築術の詩的部分であり、本来ここに働くものは虚構である。・・・しかし、近代人は肝心かなめの点で最も立ち後れている。彼らは、それが最も必要なものであるのに、虚構の本来の姿、模倣の適切性をほとんど理解しなかった。彼らはこれまで寺院や公共の建物にのみ属していたものを個人の住居に持ち込み、そこに荘麗な外観を与えたのである。こうして近代では二重の虚構と二重の模倣が生まれ、そのため適用に際しても評価に際しても精神と感覚が要求されているということができる。この点においてパラーディオを凌駕した者はいない。彼はこの軌道において最も自由な活動を示した。そして彼がその限界を踏み越えた場合でも、人々は彼に非難すべき点に関してつねに寛大である。虚構とその精神的法則に関するこの理論は、建築術においていっさいを散文化したがる一種の国語浄化主義者たちに対抗するために必要である。」(ゲーテ全集第13巻:潮出版:p127)

このゲーテの建築術に触発され、実用実利中心の散文化した建築界ではほとんど見つけることが出来なくなった「虚構としての建築」をもう一つ、ゲーテに従い見学してみる必要がある。


イタリア紀行のゲーテがヴィチェンツァに到着するや否やテアトロ・オリンピコを訪れている。彼はその時の体験を次のように書いている。
「・・・それゆえ私はパラーディオを評して言う、彼は真に内面的にしてかつ内部から偉大性を発揮した人物であったと。この人が近代のすべての建築家と同じく征服しなければならなかった最高の困難は、市民的建築術における柱列の適正なる応用である。なぜなら円柱と囲壁とを結合することは、なんといっても矛盾であるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか、また彼はどんなにその作品の現前の姿によって人を讃歎せしめ、彼が単に巧みに説伏しているのだということを忘れさせているか。実際彼の設計の中にある神的なものが存している。それは虚実皮膜の間から第三の物を造り出し、それの仮の存在を持ってわれわれを魅了し去る大詩人の通力と全く同じ物だ。」
(イタリア紀行:相良守峯訳:岩浪文庫p74)

合理主義的利便だけでは到達できない建築の価値、建築の持つ詩的側面である「虚構として建築」の価値を、ゲーテの目は明確に見据えて記述している。そしてその手法は矛盾である柱列と囲壁の巧みな説伏にあると書いている。
ローマ建築の手法は日常的利便に供する空間を壁により生みだし、その壁にギリシャ的な柱列空間を巧みに付加することで、建築の目的である用と美を生み出そうとするものだが、イタリア・ルネサンスの建築家たちの関心もまた同じ手法にあった。

16世紀パラーディオの時代には、神殿や教会という聖なる建築のためばかりではなく、住宅や市民会館という世俗の建築に対して、この手法をいかに反映させるかがデザインの課題。従って、ゲーテが言う円柱と囲壁とを結合することの矛盾、それは相異なる二つの構築的要素で一つの建築を作ることの矛盾ということなのだが、それはローマ建築以来の手法であって、パラーディオの建築にのみ帰する表現手法ではないことは、すでにローマ建築がよく知られている、今の我々ならすぐに判ること。
しかし、ゲーテはその巧みな使い手である建築家を虚実皮膜の間から第三の物を造り出す、大詩人であると絶賛しているだ。と同時にゲーテのイタリア紀行の目的はルネサンスではなく、ローマにあったが読み取れる。

ゲーテはこの紀行の後、1795年に建築の虚構について触れた「建築術」を書いているが、そのテーマとなる「虚構としての建築」の着想はこのテアトロ・オリンピコから得たと考えて間違いない。
パラーディオの手法は「柱列と囲壁」という構築的要素のだけでなく、「光や色彩」さらに非古典的モチーフも同等の建築的要素として取り上げられ、巧みに建築の中に折り込んでいくところにある。
それは大詩人であるゲーテが言う「大詩人の通力」。
16世紀のパラーディオはまさに大詩人と呼んで間違いない建築家とゲーテは認識した。そんな、ゲーテは面白いことに、「イタリア紀行」を読む限りフィレンツェは素通りしている。ブルネレスキやアルベルティのルネサンスの建築には全く触れていないのだ。
ゲーテは決してフィレンツェの二人の偉大な建築家を無視したわけではないのだろう。しかし、15世紀は古典・古代を想像していた時代であって、ローマ建築を再建した時代ではない。
18世紀のゲーテの時代にはルネサンス以来のローマの遺跡の発掘が完了し、古代ローマそのものが遺物や文献をもって最も研究されている。ルネサンス初期の建築はゲーテにとって古典世界とは異なるもの、ゲーテのイメージする古典世界はこのパラーディオの建築にあると考えていたのではないだろうか。だからこそ、彼はイタリアに、あるいはヴィチェンツァに到着するや否やこのテアトロ・オリンピコを訪れたのだ。



(via YouTube by Teatro Olimpico - Vicenza Italy - fotografie di Paola Furlan)

2015年7月30日木曜日

都市革命

「特別の空間」とは、あるがままの自然空間の中に人間が生み出した建築空間、人間により構築された想像的世界だ。その始まりは「大地からの飛翔」、広大な荒野に水平な床を設え、垂直な柱を建て、時に天との間に覆いをかけることだった。そこは日常世界を生きる住処とは異なり共に生きる人間のための世界。物理的生存の場というより、別種の人間的世界として作られた。

「都市」の始まりもまた自然との決別にあった。都市建設を支えるものは、集団による効率化にあるのではなく、人間的世界を確保することにある。文明化された人間の象徴として彼らは複雑で入り組んだ構築物による都市を持つことで、日常的な自然とは一線を画したハレの場を確保した。
都市は非日常のハレの場、祭祀が中心となる祝祭空間から始まっている。祝祭はテンポラリーだが神と交流する場。日本での祝祭は神が降臨する場をヒモロギと称し、取り壊し可能の一時的装置によって「特別の空間」を創出している。しかし、ヨーロッパでは恒久的な「建築」を作ることによって、祝祭空間を「都市」として変容していく。

新石器革命、それは人間と自然との基本的な関係の変化を意味する。生活が狩猟のみではなく、定地的な食料生産へと移行していく時、人間的世界の境界を明確に設置し、モニュメントも築き、エンクロージャーを生み出していく。エンクロージャーとしての村落は食料生産を活発化し、交易という組織的合理化や潅漑という技術的効率化を生み、多くの余剰を生みだす役割を果たしてきた。
しかし、それが都市のすべてであるなら都市革命は存在せず、新石器革命のみが洗練され、村落は活発化するが都市は必要とされなかったであろう。人間として生きることを自覚した人間が最も必要としたもの、それは生き抜くための食料ではなく、共に生きる人間だったのだ。

都市革命の本質は「都市」を村落から切り離し、「人間と人間の関係」を意識的に生み出すことにある。共に生きる人間にとって、社交あるいはコミュニケーションの場は不可欠だ。建築と都市は文明が実体化したカタチに他ならない。つまり、自然空間であるあるがままの世界にカタチとして実体化された想像的世界。それは箱でもモノでもなく、情報あるいは言葉のような世界。建築と都市は「人間が人間として生きる世界」というメッセージの形象化にほかならない。

rif:「都市の文化」ルイス・マンフォード・鹿島出版会
都市を村落から分別させるものは何か、あるいは村落の消極的な農業体制を、都市の積極的な制度に変えた原因は何か。
人口規模や経済資源の拡大ばかりでなく、もっと動的な原因は人間どうしのコミュニケションや交歓拡大への要求である狩りから農業への変化による人口増加が都市化を促し、通商路の拡大と職業の多様化がそれを助長した。しかしその要因は経済的視点にのみ求めるべきではない。都市は何よりも集団的人間の生活の現れであり、合目的的な社会的複合体なのだから。