2013年12月21日土曜日

オペラの時代、三つのオルフェオ/©

(オルフェオの物語)
高山と峡谷により隔絶されたニンフと牧人が住まうのどかな理想郷。オルフェオはテッサリアの谷間、アルカディアに住んでいます。
彼はアポロンと九人のミューズ(知的活動を司る女神)の中の一人、カリオペとの間に生まれた音楽の神でした。
オルフェオは毎日、金の竪琴を弾きます。
その音と彼の歌によって鳥や獣だけでなく、木々も頭をたれ耳をすましました。
空に漂う雲も、小川のせせらぎも、彼の歌に合わせ流れたといいます。
オルフェオの最愛の妻はエウリディーチェです。
ある日、彼女は川岸を散歩して、あやまって草の中の毒蛇を踏みつけてしまいます。
毒蛇は怒り、エウリディーチェに噛みつきました。
やがて、彼女はオルフェオとの別れをおしみつつ、草の上に顔をうずめ息たえました。

エウリディーチェを失ったオルフェオは、悲しみのあまり竪琴も手にせず、歌うことも止めてしまいます。
いつもの川岸に座り、ただただ涙を流すばかりの毎日。
ある日、彼はエウリディーチェを取り戻そうと心に決めます。
エウリディーチェを探しに出かけたオルフェオは、やがて大きな黒い門の前に出ました。
そこには頭が三つの化け物のような大きな犬が番をしています。
闇の中の六つの火のような眼と歯をむき出しにして、すさまじい声で吠える化け物を前にして、オルフェオは金の竪琴を肩から降ろし、静かに弾きはじめました。
すると犬はだんだんとおとなしくなり、足下で眠ってしまいます。
もう一度オルフェオが歌を歌いはじめると、門はひとりでに開きはじめました。
死の国に着いたオルフェオは宮殿の門に立ちました。
そこにはいかめしい番兵、しかし、彼もまた竪琴の音を聴くと、おとなしくオルフェオを見送ってくれました。

広間にはハデス王、冥界の王です。
生きたままこの国にやって来たオルフェオを烈火のごとく怒鳴りつけますが、オルフェオはだまって竪琴を取り、えもいえぬ音を響かせ静かな美しい歌を聞かせました。
王の怒りはおさまり「美しい音楽を聞き、こんなにいい気持ちになったのは生まれて初めてじゃ。死してもいないのに、こんな寂しく、悲しい国にやって来たのだから、そなたにはなにか願いがあるのであろう。どんな願いか申しなさい、一つだけは叶えよう。」
オルフェオはエウリディーチェを地上に戻してくれるようにお願いしました。
死したエウリディーチェを再びこの世に返す願いに、さすがに王は渋ります。
しかし、あんな美しい音楽を奏でるものの願い、聞き届けてあげようと、エウリディーチェを黄泉の国から地上に戻すことを許しました。
ただし、二人が地上に戻るまで、どんなことがあっても、後から付いてくるエウリディーチェを振り返ってはならぬぞと、王はオルフェオに約束させるのです。

何度もエウリデーチェを見たいと思ったオルフェオですが、必死に我慢して道を進みます。
しかし、地上に戻る寸前、ついに辛抱しきれずエウリディーチェをわずかひと目と、振り向いてしまいます。
そこにはただ、なつかしい妻の声が聞こえただけ。
すべては霧の中に消えて行ってしまいます。

以上が、山村静さんのギリシャ神話(文庫)から要約できるオルフェオとエウリディーチェの物語です。
ピッティ宮殿の「エウリディーチェ」を始めとしてモンテヴェルディの「オルフェオ」、グッルクの「エウリディーチェとオルフェオ」と、この物語こそ「音楽」の底流であり、二人の作曲家はオペラ史のターニングポイントとなっています。
さらに、そのテーマを「愛と救済の物語」と敷衍させますと、モーツアルトの「魔笛」、ベートゥヴェンの「フィデリオ」もまた同じ流れの中にあります。
詩と音楽による劇という世界では、このテーマは決して消えることなく、現代に引き継がれています。

「オルフェオ」は、なぜ、オペラの底流なのでしょうか、なぜ、オペラ作家を引きつけるのでしょうか。
そこには見て聴いて楽しむだけのオペラとは異なるもう一つの「オルフェオ」があります。
それは、フィレンツェ・オペラが、その始まりに提示していた大事なこと。
オルフェオの物語にはギリシャ以来、音楽でしか表現出来ない「人間への知的関心」という大事なテーマがあるのです。

(オルフェオ・人文主義者の理想像、オペラの誕生)
フィレンツェのオペラ「ダフネ」の制作コンビは詩人オッタビオ・リヌッチーニと作曲家ヤーコポ・ペーリです。
「エウリディーチェ」もまた同じ。
どちらもメディチ家の政治的装置には違いありません。
しかし、「エウリディーチェ」は「ダフネ」ほどメディチ家の求める神話と直接的関わりを持つものではありません。
共通するのは、一つは舞台はアルカディア、ドラマの形式は当時はやりの牧歌劇であったこと。
二つ目は失われた黄金時代の牧歌的な幸せを、アポロやオルフェオの持つ力により再生しようとする願いです。
当然、このテーマはメディチ家だけのものではありません。
「オルフェオの物語」はルネサンス期、キリストに変わる新しい神のイメージです。
十六世紀には、失なわれたアルカディア(イタリア)をいかに取り戻すかが、時代のあるいは社会のテーマであり、そのイメージが「オルフェオの物語」に架せられました。

オルフェオは音楽の神です。
物語はもともと牧歌ではなく神話です。
神話であるということは、人間の持つ普遍的な問題、に関わっているということです。
オルフェオは悲しみを乗り越え、音楽の力によって死者を救い出した神。
不可能を可能とする神の持つ力、それはまた音楽に与えられた役割をも意味しています。
音楽の持つ役割とは、混沌としたカオスである自然界、人間界に秩序(コスモス)を持ち込み、神の国の似姿に変えること。
オルフェオは抒情詩人でもあり、理想的な竪琴弾き、言葉と音楽の力により、人間の生活を秩序だった世界へ、と導く神とみなされていたのです。

一方、救い出した愛する妻エウリディーチェをひと目みたい。
ハデス王との固い約束にも関わらず、どうしても振り向かざるを得なかったオルフェオは、神というより人間の姿そのものでもあります。
ルネサンス期の人々にとって、オルフェオは徳に無関心な石のような人間、身体的快楽にのみ狂気した人間を、音楽によって文明生活へ導く人でもあったのです。
従って、人間性に溢れた市民へと教化するオルフェオは、まさに同時代の人文主義者(ユマニスト)の理想像でもありました。

音楽によって人々の獸的な状態から文明人へ変える教育者、神の言葉を伝える詩人、雄弁を備えるオルフェオはフィレンツェのカメラータたちにとって、その姿は自分たちの存在の証しでもありましょう。
十六世紀末のカメラータによるピッティ宮殿での上演は、その役割を失いつつあるアカデミヤの顕在化作業に他なりません。
オルフェオを最も必要としたのは、その制作を担当したカメラータ自身であったと言えるのではないでしょうか。

ピッティ宮殿でのオルフェオがどんなに多くの人を魅了したとは言え、そのままの音楽では現在のオペラのような発展はありません。
事実、その後のメディチ家での祝宴は相変わらず、オペラよりインテルメディオの方が盛んであったと言われています。
モノディ様式による話す代わりに歌うという音楽劇は言葉よりも音楽が重要です。
オペラは劇を動かすことが出来るドラマティックな音楽を得て、はじめてオペラの道を発見するのです。
その道はピッティ宮殿の「エウリディーチェ」の上演から7年後、マントヴァにおけるモンテヴェルディの「オルフェオ」が切り開いていきました。

マントヴァでは、タッソの牧歌劇「アミンタ」がフェラーラに登場する100年も前に、オルフェオが上演されていました。
1480年、アンジェロ・ポリッツィアーノ作の「オルフェオ寓話劇」です。
ウェルギリウスが生まれたマントヴァは、イタリアにおけるアルカディアであるといわれています。
つまり、ここはオルフェオの誕生の地としてはもっともふさわしい都市です。
牧歌劇の初期の例となった「オルフェオ寓話劇」の上演には、多少の独唱曲や合唱曲が使われていますが、歌が登場人物の台詞であることはなく、音楽は情景を表す道具の一つにすぎませんでした。
つまり、音楽によってドラマが動くということはまだまだ思いもつかぬこと。
しかし、この上演は大きな評判を得ることになりました。
ポリッツィアーノの「オルフェオ寓話劇」はマントヴァ以降、数々の都市で再演されておりますが、ミラノではレオナルド・ダ・ヴィンチがその舞台装置を作ったとも言われています。


(新しい音楽の可能性、モンテヴェルディのオルフェオ)
オルフェオがマントヴァ宮殿で、モンテヴェルディ以前に登場していたことはオペラ以前の「オルフェオ」を考える上でとても重要です。
世界の中央から片隅に追いやられつつあるイタリア半島、かっての理想郷を芸術の力によって再び取り戻そうという物語は本来、十五世紀にこそ必要とされたテーマなのです。
十六世紀後半のイタリアでは、もはや理想郷は彼岸のものとなってしまいました。
そこで必要とされたものはもはや、再生の為の理念ではなく、インテルメディオに見られるある種の享楽でしょう。
つまり、テアトロ・オリンピコの理想都市と同様に、フィレンツェのカメラータによる「エウリディチェ」(オルフェオの物語)の上演は、すでに時代遅れのテーマであったことは免れません。
しかし、すでにアナクロニックであった「オルフェオ」を同時代の音楽劇として再登場させ大評判となったのもまたマントヴァ、モンテヴェルディの力です。

彼はフィレンツェとは全く異なる「オペラ」を生み出したのです。
モンテヴェルディの「オルフェオ」は新様式のモノディであり、あるいは牧歌劇を越えたドラマであるということでしょうが、何よりも新しい音楽であったことが重要なのです。

モンテヴェルディの台本はアレッサンドロ・ストリッジョ、彼はマントヴァ宮殿の秘書官、人文主義者でもあった人です。
その台本をよく読みますと、その全体は音楽賛歌となっていることがよくわかります。
プロローグはインテルメディオ風であり舞台はアルカディアの情景です。
牧歌劇同様、寓喩としての「音楽」が登場し、そして歌います。

私は「音楽」、柔らかな調べで
どんな乱れた心も鎮めることができます。
そして、ときには高潔な怒りにより、またときには愛によって、
どんな冷たい心でも燃え上がらせることができます。

フィレンツェのオルフェオのプロローグは「悲劇」ですが、マントヴァのオルフェオは「音楽」によって語られ、ドラマが始まるのです。
そして、興味深いのは四幕のクライマックス。
黄泉の国からエウリディーチェを連れ帰ることを許されたオルフェオ、そこで歌われるのは愛する妻への愛情ではなく、竪琴への賛歌なのです。

どんな名誉がお前にふさわしいだろう、
私の全能のリラよ、
お前は黄泉の王国で
どんなかたくなな心をも靡かせたのだ。
お前は天上のもっとも美しいもののあいだに、座を占め、
お前の音に合わせて星くずが、
緩やかに、あるいは速く輪になって踊るだろう。
お前のお陰で私は幸せが一杯で、
愛する女の俤を見、妻の白く清らかな胸に
きょう抱かれるだろう。

フィレンツェのオルフェオはユマニスト(人文主義者)としての役割が託せられている、と書くのは「ドラマとしてのオペラ」のジョーゼス・カーマンです。
しかし、モンテヴェルディにとってのオルフェオはどこまでも音楽の神。
オルフェオを詩や劇の支配下に置くのではなく、どこまでも音楽として解放することがモンテヴェルディの試みです。
オルフェオは神であるからこそ、ドラマの中で語るよりも歌うことが許されています。
散文や詩よりも、音楽そのものが神の言葉としてもっとも正当であり納得のできるものであったからです。
モンテヴェルディはそのことに特に意を尽くし、後世の人もまねできない絶妙なレチタティーボをオルフェオに与えました。

一度失った愛する妻を音楽の力によって取り返すという、あり得ないことをあり得る現実として一挙に形式化してしまう劇の持つ力に慄然としたモンテヴェルディは、フィレンツェで始まった音楽形式の中に、今までの音楽では達成できない「音楽の力」を発見しています。
つまり「オルフェオ」は音楽であるとともに、音楽を救い、人々を救うものです。
モンテヴェルディにとって「オルフェオ」は作品であると同時に、自分自身の可能性そのものであったのかもしれません。

モンテヴェルディが示す新しい音楽の力はレチタティーボにあります。
後世に見られるアリアとアリアを繋ぐだけの叙唱ではなく、通奏低音に支えられ感情を持った生の朗唱。
あるいはアリオーソと呼ばれるアリアに近い独唱です。
マドリガーレに示されるように、音楽の役割が雰囲気や場のイメージを描くことであったこの時代、オルフェオは人間の声による感情表現をはじめて音楽によっておこなったのではないでしょうか。
「オルフェオ」ではまだ後世のオペラのようにドラマの中の登場人物が一人一人的確に描き出されてはいませんが、場面場面で示される感情の変化はコルネットやヴァイオリン、ハープによるリトルネッロで巧みに調整され叙情的な音楽となって表現されています。
牧歌劇が音楽劇として変容したのはこの時なのです。
悲劇、喜劇、そのどちらでもない第三の劇としての牧歌劇がここではじめて音楽の劇へと変容した、それが後世に引き継がれるオペラの誕生にほかなりません。
自らが持つ竪琴によって野獣をおとなしくさせ、岩や木を動かし、嵐を静めることが出来るギリシャ神話の中のオルフェオを、フィレンツェでは徳に無関心で現実的な凶器じみた快楽にのみ関心を抱く人々を、詩や音楽によって、文明生活へと導くこうとする、人文主義の理想像とみなしていました。
フィレンツェのオルフェオは人の生きる道を伝える人文主義者そのものの姿。オペラを生み出した人々にとっては、オルフェオは彼ら自身の鏡です。

マントヴァのオルフェオは、どこまでも音楽の神。語ることより歌うことが許されたオルフェオは、詩を吟じ竪琴を奏でることで、不可能を可能とした神 でた。
しかし、その神もまた最終的には、エウリディーチェを救い出すことには失敗します。
モンテヴェルディのオルフェオは主知主義的なフィレンツェとは異なり、生の情熱を持ち懇願し哀切に泣く人間の姿オルフェオでもあります。
そして音楽家オルフェオは芸術の上では成功しますが、エウリディーチェとの現世的な愛を取り戻すという人生の上では失敗したのです。
音楽家としては成功しますが、マントヴァ宮殿では妻子との生活もままならない、不遇なモンテヴェルディそのものです。


(グルックのオルフェオ、啓蒙的人間のためのオペラ)
十八世紀ウィーンに再び画期的なオルフェオが誕生します。
詩人ラニエロ・カルッツァピージの台本とクリストフ・ウィリバルド・グルックの作曲による「オルフェオとエウリディーチェ」です。
1762年10月、オーストリア女帝マリア・テレージャの夫君はトスカーナ大公フランツ一世と命名されることになり、その祝賀の祝典オペラとしてウィーン宮廷劇場で初演されました。
マントヴァにオルフェオが登場してすでに155年、新古典主義の真っただなかの時代です。
新古典主義では、前代のバロックに代わり、自由で、素朴、自然で、わざとらしくない人間感情の表現が大事にされます。
その表現ための形式は規律と秩序を原理とするルネサンス同様、再び静でバランスの良い古典古代の規範が求められました。

新古典主義の「オルフェオ」を作ったグルック。
彼はオペラ改革の人とも言われます。
音楽劇であることより歌唱中心、あるいは歌手が重視される歌の饗宴のようであった、当時のバロック・オペラに対し、グルックは再び演劇性を取り戻し、詩と音楽の有機的な結びつきによる音楽劇の制作をめざしました。

生み出されたオペラはいたって簡潔です。
グルックはフィレンツェやマントヴァと同じ「オルフェオの物語」を枠組みとしていますが、全く新たな人間像の構築を試みました。

グルックのオペラ「オルフェオとエウリディチェ」はもはや牧歌劇ではありません。
寓意によるプロローグ、「音楽」も「悲劇」も登場することなく、音楽が始まるとすぐにドラマの核心に入ります。
幕が上がると、エウリディーチェの死を嘆く合唱が流れます。
そして悲痛なオルフェオのアリアが続きます。
愛神アモールはオルフェオに冥界に行き、愛する妻を取り戻すよう勧めます。
冥府への入口では、復讐の女神たちの拒否の合唱、オルフェオはその合唱に対し静かな竪琴の調べと愛の歌声で呼び掛けます。
やがて、入場が許されとそこは、一転して輝かしく平和、やさしさと静かさで幸福な気分に満たされたワルツが奏でられる淨福の世界。
まるで天国かアルカディアに昇り着いたかの趣きの世界です。
ここまでの全体はつつましく、端正で、静かで、緩やか、バロックの狂騒とは程遠い優雅な新古典的世界が展開されます。

しかし、ドラマの核心は第三幕にあります。
そこからは一転して人間的葛藤が始まるのです。
オルフェオとエウリディーチェのレチタティーボがオペラの核心です。
振り向いてもくれないオルフェオへのエウリディーチェの嘆きと懇願。
神との約束と愛する妻の苦しみの板挟みに耐えかねるオルフェオ。
それはモンテヴェルディが示す情熱とは全く異なる十八世紀の、いや現代の私たち誰もが経験する人間的葛藤です。

エウリディーチェが歌います。
私を抱いてくださらないの?話して下さらないの?
せめて私を見て下さい!
言って下さい、私は以前のように
まだ美しいですか? 
見てください、私の顔のバラ色はあせてしまったのじゃないかしら?
言って下さい、あなたが愛し、
そして優しく呼んだ
私のまなざしの輝きは
暗くなってしまったのじゃないかしら?

オルフェオが歌います。
行こう、私のいとしいエウリディーチェ!
今は愛撫をしている
時ではない、
遅れてしまうことはわれわれにとっては致命的なことだ!

(エウリディーチェ)
でも一目だけでも!
(オルフェオ)
君を見てしまうと運命の終わりなのだ。
(エウリディーチェ)
ああ、不実な方!
これがあなたの歓迎なのですね!
私を一目見ることも拒絶なさる、
いとしい恋人から
優しい花婿から
抱擁と接吻を
期待できるはずの時に。
(オルフェオ)
さあ、黙っておいで!
(エウリディーチェ)
黙っているんですって!もっと
苦しまなければならないのですか?
それではあなたは
思い出も、愛情も、
貞節も、忠誠もなくしてしまったのですか?
愛と神と結婚の神の
あのように優しい、つつましやかな灯りを
あなたは消してしまったからには、
なぜ私の快い眠りを覚ましたのですか!答えてください、裏切り者!
(グルック・リブレット対訳:名作オペラブックス:音楽之友社)

このエウリディーチェの懇願に抗せる人はどこにもいないでしょう。
「何という苦しさ!ああ、胸が引き裂かれるようだ!もはや耐えられない・・・・・・」と歌い激しい勢いで振り向き、ついにエウリディーチェを見てしまうオルフェオ。
そして終幕です。

愛神アモールの戒めを守れず、振り返ってしまったオルフェオはエウリディーチェを再び失い、自殺まで試みます。
しかし、愛神アモールは「愛は世界中を幸福にする」と歌い、エウリディーチェをオルフェオのもとに戻してオペラは終わります。

モンテヴェルディのオルフェオはエウリディーチェが本当に自分について来てくれるか不安になり、振り返ってしまいます。
つまり、芸術家としての理想像であったオルフェオですが、救い出した妻が黙って自分に付いてきてくれているかどうか、人間としての自分自身には自信がないオルフェオの姿です。
結果として、オルフェオはその自信のなさから妻を失ってしまいます。

グルックのオルフェオはもはや神話ではありません。
そこは日常の我々と同じ、人間の世界です。
グルックのオルフェオは「愛しているなら私を見て」という懇願に負け、振り向かざるを得なかったのです。
それは人間としての憐憫の情、徳を持つ人間なら、もはや振り向かざるを得ない、と思わせるのがグルックのオルフェオです。

ドラマの筋立てには無理はありません。
愛ある人間であるなら誰も同じです。
理知的、啓蒙的に成熟している人間であるなら当然の姿なのです。
つまり、グルックは感情を持った啓蒙的人間としてのオルフェオ、道徳的モデルとしてのオルフェオを表現したのです。
そういう人間であるオルフェオだからこそ、愛神アモールは彼の気高い愛を賛美し、「愛は世界中を幸せにする」と歌い、エウリディーチェを現世に戻す、というエンディングにも私たちな納得してしまうのです。
つまり、ドラマの結末もすこぶる合理的。
十八世紀のグルックは人間オルフェオに相応しい「愛の賛歌としてのオペラ」を完成させた、と言って良いのではないでしょうか。

十八世紀の新古典主義、それを支えたのは旧来の貴族ではなく、台頭しつつある市民たちです。
彼らのオルフェオは理知的で勇気と憐憫の情を持った道徳的人間に他なりません。
グルックの30年後、モーツアルトは「摩笛」に、50年後、ベートゥヴェンは「フィデリオ」に同じテーマ、愛と救出の物語をオペラ化し、音楽によって新しい市民像のモデルを示しています。
つまり近代市民社会を迎え、オルフェオは神話的アルカディアから人間的市民社会に降り立った、と言えるのではないでしょうか。

(「オルフェオの世界」の終焉)
「ドラマとしてのオペラ」の著者ジョーゼフ・カーマンは「バロック時代の本質をなす芸術形式、神々や英雄を題材にしたオペラは、モンテヴェルディがその形式の価値を突然示したときに始まった。この偉大な伝統は、グルックがそれを独自に変形したときに終わった。だからオルフェオは、いわば一つの時代を始め、また終えたのである。」(p71)と書いています。
「オルフェオの終焉」です。

当然のこと、オペラの世界が終わった訳ではありません。
人文主義者でもなければ、音楽家でもない、私たち自身が歌う妻への愛と哀れみ、そして悲しみ。
「悲劇」「音楽」という寓喩が歌う神話的世界のオペラは人間的世界のオペラへと変容しました。
そして、グルック以降のオペラは等身大の人間が折りなす音楽によるドラマとなります。

そこはもはや「オルフェオとエウリディーチェ」のような2人だけの世界ではなく、大勢の登場人物の情実や感情が折り重なって進行する世界です。
登場人物がたとえ神話や歴史物語から選びだされたとしても、彼らはここではもう普遍的な人間ではなく、個々の役割と感情を秘めた一人一人の人間たち。
音楽はその登場人物の持つ個々の役割と感情を的確に描き出し、重ね合わせドラマを動かす。
これがグリュック以降の近代市民社会のオペラなのです。

話をその後「オペラの世界」から「オルフェオの終焉」に戻しましょう。
オルフェオは貴族や上級階級の人々に育まれ、築き上げられたものと言えます。
市民革命を待つまでもなく、「オルフェオの終焉」は彼ら特権階級の解体を意味しています。
しかし、ここで重要なのは歴史ではなく文化の変容にあります。
集団に支えられていた「作品の世界」が個人による個性の表出の世界に変容した、という事実を確認することにあります。

精霊に導かれ神から授かった言葉や音楽が人間による作品に変わるのはルネサンス。
しかし、ここから始まる「作品の世界」はすべて社会あるいは時代の要請に結びついていました。
「オルフェオの終焉」とは、作品がその依頼者の装飾やプロパガンダであったとしても、その世界は集団的意味の顕現の場あって、個人的世界の表出ではなかった、という「作品の世界」の終焉です。

オルフェオの持つ神話性の解体とは、作品がライフスタイルのナビゲーターや社会秩序のシンボルであることより、個々人の人間性の高揚に、その役割が移ったことを意味しています。
つまり、十八世紀グルックは、「オペラ」を集団の為の構築物ではなく、個人的生き方、感情に関わる「構築物」に変容させたと言って良いでしょう。



(Gluck - Orfeo ed Euridice - Dance of the Blessed Spirits from BachnerTrpt on YouTube)

2013年12月15日日曜日

オペラの時代の音楽と建築/©

(バロック社会の底流、作品を必要とする時代)

十七世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地。ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という三大勢力の政治的バランスの調整地。

衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたが、ミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントゥバ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。どの公爵家も政略的な結婚とそれに伴う華麗な「宴会」を演出することで外交上の生き残りの道を画策してきた。

加えて前世紀以来日常化し蔓延したペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教改革派との抗争、イタリア半島はどこもかしこも、精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っていたと考えられる。その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈りかもしれない。

オペラがもてはやされたのはそんな時代を引き継いでいる。神の支配から離脱した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、オペラはその風景を眺めるための装置に他ならない。そのような時代を生きなければならない人々であったからこそ必要とされたもの、それは古典古代への窓口としての教養ではなく、真に新しい意味での際限のない人間追求のドラマ、新しい形での娯楽だった。

時代はもはやルネサンスの絵画、彫刻で見るような、端性・典雅であることより、風変わり・不規則なものを求めていた。とは言え、その時代がただ闇雲に、ルネサンスの秩序ある静かな佇まい、その形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。同時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが関心を持っていたことは、近代的な意味での際限のない人間追求と自然肯定であったことは理解すべきだ。

そこに流れているものは形式的あるいは構成的であることより、流動的・絵画的。人間は変転生成する世界の中での一片の葦に過ぎないが、その存在は神にも伍するものと考えている。バロックとはそんな時代ではなかったのか。

(劇場のデザイン)

演技者や音楽家にとって劇場は必ずしも必要ない。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇や音楽にとって必要なのは舞台であって劇場ではない。身振りと言葉だけで俳優はそこにはない空間や時間を現出すると語る現代の演劇のピーター・ブルックにとって、劇場はおろか舞台すら必要ない。劇場を必要としたのは観客だ。全員参加の古代における祝祭空間が「見る人・見られる人」に分化した時、観客が生まれ、劇場が誕生した。

ギリシャからローマ、ルネサンスから近代とヨーロッパではたくさんの劇場が作られた。しかし、ギリシャのエピダウロス劇場、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ、これらの劇場はともに演劇低迷期に建設されている。エピダウロスはアイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した百年も後の建設。テアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す五十年も前に建てられた。この事実は劇場は必ずしもオペラや演劇の上演ために作られたのではないことを示している。

劇場は世界を知るメディアであり、社交を生み出す装置なのだ。建築デザインの現在は、安全・便利・快適という個々人の生き方に資するもの。しかし、建築は「人と人、人と世界の関係を調整する」という集団的意味を持つメディア。劇場は演劇以前に人間と世界の関係、コスモスを示す役割を担っていた。建築家は劇場を「世界模型」として作ることで、世界の中での人間の在るべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにした。観客は劇場を体験することで世界に立ち、自分自身がいまどこにいるかを実感したのだ。

イタリアに近代劇場が誕生した十六世紀後半、日本でも同時期、能のための常設舞台が西本願寺に完成した。劇場建築をめぐる洋の東西の同時現象は興味深い。絶対的な宗教権力の失墜と下克上が劇場を生み出すきっかけであろうか。劇場を新たに必要とする人々、それはまごうことなく、時代の節目に現れた人間たち。清貧禁欲な宗教的価値観ではなく、現実的、合理的、あるいは多少の快楽が赦される社会に生きる新しい人々だ。

テアトロ・オリンピコという近代劇場の誕生は時代の変局点を示している。この劇場に示されたもう一つの役割。それはコミュニケーションや交歓、「人間と人間の関係を調整する」という社交空間。テアトロ・オリンピコは古代劇場、中世キリスト教会を引き継ぐ「世界劇場」であると同時に、西本願寺の「能舞台」と同様、争いを回避し、文化的資質を生み出す社交空間としてデザインされていた。

劇場を必要としたのは音楽家ではない。演劇関係者でもなく建築家だった。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇に必要なのは舞台であって、劇場ではない。仮設的に作られた野外の演劇の為の空間を劇場という建築の形式に変えたのは建築家であり、建築家に架せられた社会的使命です。建築家は演技によって世界が演じられる以前に、劇場という物理的架構によって世界を表現しなければならなかった。

オペラの誕生の経緯や見ると、むしろオペラの方がすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えていったことが解る。さらにまた、19世紀のワーグナーを除いて、オペラの形式が劇場の形式を決定したということはほとんどなく、むしろオペラが劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられる。17世紀初頭、フィレンツェのメディチ館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開くこととなった。

(建築術と印刷術)

建築は「世界を知る」最も有効なメディア。建築が「世界模型」であった時代を「建築術」の時代と呼ぶことがある。一方、ルネサンス以降を「印刷術」の時代と呼ぶ。グーテンベルグ発明の印刷術が新しい「世界を知る」メディアとなったからだ。十五世紀以降、印刷術の発明により、沢山の聖書が印刷された。中世以来、教会の奥深く厳重に管理されていた写本に変り、人々は印刷された聖書を誰もが自由に手にするようになる。

ヴィクトル・ユーゴの「ノートルダム・ド・パリ」のなかで主席助祭が印刷されたばかりの真新しい聖書を手にし「この本があの建物を滅ぼしてしまうだろう」と呟く。ユーゴは十五世紀のグーテンベルグの発明によって、建築はその役割を閉じると、主席助祭に語らせたの。聖書が教会を滅ぼす、ユーゴは何を意味したのか。土地と一体である建築は移動させることは不可能、一方、印刷術から生まれた書物は持ち運びが自由(ポータブル)。グーテンベルグの発明は知識や情報を建築から剥ぎ取り、印刷された書物に綴じ込め、何処でも自由に持ち運ぶことを可能にした。

人々は最早、建築としての教会は必要なくなり、教会は個々人の枕元の聖書に、あるいは日々持ち歩く鞄の中の書物に代わって行く。人々は世界を建築体験ではなく、印刷された書物を読むことで知る。つまり、ユーゴが語らせた主席助祭の呟きはコスモスとしての建築の解体を意味していた。

印刷術が建築術を解体し、枕もとの聖書が教会に変わることで、キリスト教社会は大きく揺らぐ。十五世紀ルネサンスの人々はキリストに変わる新しい神、教会に代わる新しい世界、新しいコスモスを模索している。そして生まれたのが絵画や庭園のなかの理想郷(アルカディア)、あるいは透視画法の中の理想都市。十七世紀、人々はアルカディアや理想都市を背景としたオペラの世界を生み出す。その世界は建築術が解体された後のコスモスであり、人間が神ではなく自分自身の目で眺め、耳で聞く世界だ。

絵画や庭園やオペラの中のアルカディアは実在的ではあるが観念の世界、描かれた画面や印刷されたタブローの中の作品的世界、虚構の世界に他ならない。作品的世界とは神と共存する世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。神々が神殿あるいは教会に実在する世界ではなく、人間自身が想像的に眺める世界、風景の世界なのだ。

風景の世界とは、神が支配するコスモス(秩序世界)ではなく、人間の視覚によって作られたランドスケープ(眺望世界)を意味する。建築術が解体し印刷術に代わることで世界はコスモスからランドスケープへ変容したのだ。

オペラの世界とは、神と共存するコスモスではなく、透視画法に縁取られたプロセニアム・アーチを持つ額縁舞台の中の世界、動く絵画の世界、ランドスケープに他ならない。そしてこの世界を最初に準備したのがテアトロ・オリンピコ。テアトロ・オリンピコは世界がコスモスからランドスケープへ変わる変局点に立っている。それが近代劇場の誕生の真なる所以だ。

(社交空間としての近代祝祭劇場)

古代劇場、ヴィトルヴィウス劇場をモデルとし、透視画法による理想都市でもあったテアトロ・オリンピコはコスモスとランドスケープを相い合わせ持つ劇場。十七世紀に入り劇場はランドスケープとしての劇場へと変容していく。サッビオネータ、ファルネーゼはテアトロ・オリンピコをモデルとしたバロック宮廷劇場。ランドスケープの劇場はヴェネツィア、ローマの公共劇場へ引き継がれ、近代ヨーロッパ文化を象徴する新しい市民のためのオペラ劇場へと変容して行く。コスモスからランドスケープへの変容によりオペラ劇場は観客の為の社交空間としてデザインされていく。

劇場をめぐって音楽家と建築家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のためにならない」と音楽家が言えば、建築家は「劇場は音楽のためにあるのではない、観客のためにあるのだ」と。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のために建設される。従って建築家は音楽家の批判には十分に対処しなければならない。しかし、現在のミラノのスカラ座やパリのオペラ座に見るように、オペラ劇場の大半は多層の楕円形桟敷席で構成されている。その平面型からくる音響特性は音楽にとって不利であるばかりか、観客は斜めから舞台を見なければならず、決して観劇に向いた作り方とは言えない。

 (fig107)

オペラ劇場はオペラの上演の為に作られたのではない。楕円形の客席は音楽を聞き、舞台を眺める為に生まれたのでもない。劇場は観客が観客を眺めるための形式、社交のための装置としてデザインされている。劇場は貴族の館のサロン同様、十八世紀以降の近代市民にとっても必要不可欠、人間と人間の関係の構築の為の空間としての役割りを頓に強めて行く。

古代劇場は祝祭から生まれたもの。祝祭とは神との交歓の場であるばかりか人間と人間が相和し、共存する場でもある。祝祭から誕生した劇場は演技を見物し、ドラマを楽しむ以上に、人と人とのコミュニケーション、社交の場であることが重要であった。従って、ランドスケープへ変容したオペラ劇場は、観客が舞台を眺めるだけではなく、観客を眺める場でもあった。つまり古代の祝祭から引き継がれたオペラ劇場は、<人間と世界>との関係だけではなく、<人間と人間>との関係の場、ギリシャ・ローマ以来の「祝祭劇場」であったことを忘れるわけにはいかない。

( オペラと劇場 )

音楽とドラマ、どちらもオペラにとって不可欠だ。しかし、演劇の上演にあたって音楽が必要とされたのはオペラだけではない。中世の受難劇も十七世紀のオラトリオも同様。オペラの特質は劇場にある。宗教改革に揺れるイタリア、教会と劇場は反目する。オペラは「教会」とは異なる「劇場」を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんでいる。

さらにまた、演劇の形式が劇場の形式を決定したことはほとんどない、むしろ演劇が劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられている。その具体例がオペラだ。十七世紀初頭、ルネッサンスの黄昏期、ギリシャ悲劇の再興もくろんだカメラータの試みが透視画法に彩られたルネッサンス劇場を得ることによって、視覚による知的興味と音楽による感覚的喜びをあい和した画期的な芸術形式として花開いた。

見る・見られると分節された二つの空間、オペラほど舞台と観客の分離が完全な演劇形式は他にはない。にもかかわらず観客と舞台がこれほど同じ感情に満たされる演劇形式は他にはない。オペラは舞台上だけでなく、劇場全体の雰囲気もオペラを体験する上で必要不可欠。誕生当初のバロック宮廷劇場の持つ娯楽性は市民文化の中でも消え去るどころか、ますます盛んになり、豪奢と洗練を深めてゆく。

オペラ劇場はいざ作られてみると、これほど融通の利かない建築は他にはない。舞台と客席、全く形を異にする二つの巨大スペースを必要とし、かつそのどちらにも巨額な設備と装飾が必要とされる。建築としてようやっと完成しても、オペラや演劇の上演以外の使い道は他になく、古くなった後の劇場は転用もままならないばかりか、使われなくなれば壊す以外に方法が無い。

舞台上では様々な機械を駆使したスペクタクルが演じられると同時に、桟敷席でも華々しい社交と宴会、時には賭事や睦みごと、舞台以上のドラマに興じる紳士淑女も現れる。このように多くの人に愛され利用されている最中にあればあるほど、オペラ劇場はちょっとした油断ですぐ火事になる。

合い矛盾するいくつかの課題を抱えたオペラ劇場だが、歴史経過から見る限り、その後、天才建築家を必要としなかった。見る・見られる関係の深化と巨大化以外、その形式に新しいものを要請するものは何も無かったからだ。事実、ヴィチェンツァにテアト・オリンピコが誕生して以来、様々な洗練とバリエーションは繰り返されたが、新たな空間的独創性はどこにも発揮されていない。

深化と巨大化という観点で見るならば十八世紀のオペラ劇場に触れる必要がある。オペラの変質が劇場に大きな変容を与えている。客席と舞台の分節がますます要請されるグルック以後のオペラによって、結果として二つの空間はその親しみやすさを失っていく。

オペラが神話から離れ、人間のドラマへと変質していく時、劇場への要請は祝祭ではなく、機能的・合理的な箱、大小様々な音響がきめ細かく響きわたる場となることが要請された。加えてよりドラマティックなロマン派的音響の増大につれ、装飾は華麗に、階段やロビーは豪華に、宮廷から始まった空間は劇場全体が宮殿のような趣となる必要となった。

(バイロイト祝祭劇場)

 (fig108)

オペラ劇場は近代ヨーロッパの都市に君臨する。しかし、劇場がオペラの為に作られたのは、唯一、十九世紀後半のワーグナーのバイロイト祝祭劇場だけだった。舞台と客席に分節された二つの空間。前者は方形、後者は楕円形、各々は合い異なる形態とボリュウームを持ってはいるが、一つの劇場建築という視覚上の要請から、その調整のため客席の天井高は恐ろしく高く作られた。

ワーグナーはこのアンバランスを次のように指摘している。「伝統的劇場は舞台の高さに客席の天上高を合わせようするあまりプロセニアムの頂部よりも高いところにまで天上桟敷を作ることになり、より貧しい人々はオペラを鳥敢的にしか楽しむことが出来なかった。」(劇場 建築・文化史:早稲田大学出版部 )

結果、 ワーグナー は彼の持つ音楽的情熱が画期的なオペラ劇場、バイロイト祝祭劇場を完成させることになる。バイロイト祝祭劇場は唯一、オペラの為の劇場ではあるが、同時に劇場空間の持つ本来の意味を喪失した劇場でもあるのだ。客席の誰にとっても等しく舞台が見やすい劇場とするため、楕円形の客席を取り止め、舞台を直視できる方形とした。桟敷席が廃止され、社交のためのロビーやホワイエも取り除かれた。さらに、オーケストラピットを沈め、客席を暗くすることにより、観客は舞台に集中し、リアルな視覚世界のみに関わることになった。

ここにいたり劇場はコスモスでもランドスケープでもなく、観る・聴くためだけの箱に変容。グルック以来の市民オペラはこの劇場の誕生をもって全てが完成したのだ。しかし、同時にオペラ劇場はもはや劇場自身が言葉を発することのないニュートラルな建築。

バイロイト祝祭劇場は集団的意味としての作品的世界、オルフェオの持つデザイン・コンセプトを尽く喪失した劇場になってしまった。真っ暗な客席は、隣席に人がいてもいなくとも変わらない、全くの個人的な世界。オペラ劇場は集団ではなく、個人が「見る・聴く」ためだけの装置。個人がイヤホーンで聴くウォークマンやガジェットのようなオペラ劇場。もはや集団を支える社交空間でもなければ祝祭の場ではない。バイロイト祝祭劇場はオルフェオの終焉の象徴、唯一、名前だけの「祝祭劇場」なのです。

 (fig109)

(貴族の都市そして作品的世界)

作品的世界を開いたもの、それは印刷術に支えられた楽譜であり透視画法の中の理想都市やアルカディア。音楽における作品の誕生はその創り手である作曲家の誕生でもあった。記譜することで明確になった作品はその創り手自身の存在を意識づけたのだから。さらにまた、作品の誕生はその鑑賞者の姿も明確にした。作品を必要としたのは絶対君主の宮廷や貴族的市民の社交界。力を持ちだした王侯貴族が音楽作品を楽譜という形で盛んにコレクションし、作曲家を保護するようになる。

それは社会における文化受容の変化を意味する。教会の中で神の顕現、神の国の創出に関わってきた音楽・絵画・彫刻、それらを近世の王侯貴族たちは権威の象徴として、自らの都市あるいは自らの生活を彩る文化装置としてコレクションした。

印刷術に支えられ、多くの作品と作家を生み出したルネサンスは諸芸術の誕生の時代。ヴィクトル・ユーゴが指摘した印刷術による建築術の解体は芸術家の時代の到来を意味し、その鑑賞者あるいは利用者、パトロンの誕生の時代でもあったのだ。

歴史的に芸術のパトロンであった貴族たちの最大の関心は都市にある。都市は作品でもあるが、都市はまた作品を必要としている。フィレンツェ、ヴェネツィア、マントヴァ、フェラーラ、そしてローマにナポリ。どの都市も華麗な音楽と建築を生み出している。そこに生きる君主や貴族たちがその地位と威光を誇るため競って音楽と建築を必要としたからに他ならない。

外見のはでな装飾や見栄えの良さをすべて虚栄の範疇でとらえるのは容易だ。しかし、そこには貴顕の身たるものの生活様式の一つとして、あるいは当然の責務としても、作品が位置づけられていたことも見逃してはならない。

バルダッサーレ・カスティリオ-ネが優雅なルネサンスの宮廷ウルビーノで「宮廷人」を書いている。この書は宮廷での礼儀や美徳についての入門書ではあるが、人間として生きることを自覚した人間の生き方の指南書でもある。そこでは貴顕の人間としての持つべき気品、あるいは作法として位置づけられる、作品の果たす意味と役割も論じられている。貴族並びに上層市民として生きる人間にとって、戦争時においてこそ、戦うばかりではなく、詩を吟じ、楽器を演奏し、社交の場では優雅に舞踊を舞うのは必要不可欠な作法であったのだ。

(コレクションとしての作品的世界)

印刷術の時代を迎え、かっては神殿や教会のなかで一体となり神の国を現出させ、神の言葉を伝えていた音楽・絵画・彫刻は各々別々の芸術作品として自立する。さらに、作品の一つ一つはその所属ジャンルまで明確にし、区分けされる。区分けされた作品は印刷物と同じ様にバラバラとなり教会を離れる。教会をはなれた芸術作品の各々はやがて新たな場所にコレクションされる。自立した芸術作品は「コスモスとしての建築」を解体し、「風景の世界」の作品的世界を開いていく。

自立し、バラバラとなった作品は君主や貴族たちによって、祝典や外交上の貢ぎ物として利用される。さらに、作品の一つ一つは都市や庭園、宮廷や館という世俗の空間の隅々に散りばめられていくのだ。

「音楽と建築」はコスモスとしてのメディアであることからランドスケープとしての作品に変容する。作品の各々は社会的意味、集団的役割を変え、貴族の権威の象徴、彼らの館の個人的コレクションに転化して行く。貴族館の祝典の催しものの一つであったオペラもまた権威の象徴、外交上の貢ぎ物の一つに他ならない。

バロック時代、コスモスがランドウスケープに変容し、作品が教会から離れていきつつある中、「都市」はまだ「音楽と建築」を一体し、そのパトロンであった君主や教皇あるいは有力な貴族たちに保護されている。しかし、十八世紀以降の近代市民社会に入りパトロンたちは力を失う。崩壊する貴族に代わり、わずかに貴顕の身たる責務を持った実業家たちがその役割を引き受ける。

しかし十九世紀、都市もまた芸術の場としての役割を終焉していく。ロマン主義により人間の趣味・趣向・生き方が集団を離れ個人の趣向品に姿を変える。芸術がその本来の社会的、集団的意味を失って行く時、都市自体もまた芸術である必要がなくなり、そこは「小さな物語」、趣味や娯楽の集積場に転化して行くのだ。

(ミュージアムとコンサートホール)

十八世紀、オペラが専用のオペラ劇場で市民に公開されたように、貴族のコレクションであった作品も、やがて、編集・整理され市民に展示公開されるようになる。市民社会のコンサートホールやミュージアム(美術館・博物館)の誕生だ。都市が芸術の場として役割を失いつつある中、オペラ劇場とコンサートホールそしてミュージアムは啓蒙社会、近代自由市民社会のライフスタイルと都市を象徴する建物となって多くの人々に歓迎される。

オペラ劇場やコンサートホールで音楽を聴き、美術館や博物館で美術品や古代的遺物を鑑賞することは、自立した市民にとって不可決なスタイル。個々人が持つ趣味と見識によって作品を楽しむという新しいライフスタイルの誕生だ。しかし、「建築」はますます重大な局面を迎えてしまう。コスモスのみならずランドスケープとしての「建築」の解体でもあったからだ。

個々に様々なコンテクストを持つ作品たちではあるが、コンサートホールや美術館・博物館に展示される作品の各々は、その作品の持つ意味を的確に鑑賞者に把握してもらわければならない。しかも、作品各々が持つコンテクストどうしが、お互いぶつかったり干渉したり、邪魔することのない状況を作らなければならない。作品たち一つ一つはあたかも、百科辞典の中に配列された事柄のように、各々が行儀よく整理され、展示される必要があるからだ。

その為に準備される建築空間は建築自体がメッセージを発することのない、ニュートラル(ノンコンテクスト)な場となければならない。建築は饒舌であってはならず、無言、無音であることが求められる。無言の建築の中であるからこそ、饒舌な作品はその一つ一つが個々の意味を明解にメッセージすることが可能となるのだ。その饒舌もお互いが孤立した額縁(プロセニアム・アーチ)の中だけの物語。やがて、作品を取り巻く建築空間、都市もオペラ劇場もコンサートホールも美術館も博物館も、すべては祝祭性を消去した機能的な箱であることが要請された。

かっての教会は構築物と光と音によって構成された物語的世界、その「建築」の意味を増幅することが絵画や音楽、芸術の持つ役割だった。教会から飛び立ち、都市や貴族館の祝祭に関わって誕生したオペラの世界もまた、見て聴いて楽しむだけの孤立した世界へと変容する。たとえそこがどんなに華美な装飾で装わられたとしても、意味を持たないニュートラルで機能的な箱に転化するのだ。集団に支えられ、社会的意味を伝達するメディアとしての「音楽と建築」はその役割を終え、個々人の持つ感情への関わりを重視した嗜好品、装飾品への道を歩むことになる。

 (fig110)

(都市の変容)

十九世紀に入って、唯一、オペラ劇場だけがかろうじて集団的意味を保ち続けていた。オペラ劇場はニュートラルな箱以前に、社交空間、古代からの祝祭の場を敷衍した空間で在り続けていたからだ。ベルリン、ウィ-ン、パリ、ヨーロッパはどの都市もその近代化にあたってはオペラ劇場がもっとも重要な役割を果たした。中世に発達したヨーロッパの都市、その建設の時代は教会あるいは大聖堂が中心であった。十九世紀という新都市改革の時代はオペラ劇場が都市の核なのだ。都市とオペラ劇場は「風景の世界」にあっても古代からの「祝祭空間」を継続している。ヨーロッパの「都市」と「劇場」はもともと祝祭がその起源。「都市」は「劇場」であり「劇場」は「都市」なのだ。

すでに触れたことだが、都市を必要としたのは人間。人間生活を集団化し、より効率化することだけが目的なら、集落がありさえすれば良い。人間は人間として生きる為に都市を必要とした。人間が生きる残る上での利便や必要の為に集まるのであるならば、集落は拡大されるが都市は必要ない。集落とは異なる都市を必要とした本来の理由。それは、「人間が人間として生きる」ためには、人間どうしのコミュニケションや交歓拡大への要求に応える場が不可欠だったからだ。「人間が人間として生きる」ために最も必要とするもの、それは生きていくための食べ物ではなく、共に生きていく人間。この考え方が西洋の「都市」を支えてきた基盤となっていた。

現在、「都市」は終焉しつつある。それはワーグナーの祝祭劇場が示していることでもあるのだが、オペラと劇場は音楽のため、眺めて聴くためだけの世界に変容しつつあるからだ。祝祭性を失ったオペラと劇場は「都市」から離れ、集団的意味と役割を放棄する。同時に、「都市」もまた集団的、社交的使命を終え、個々人が求める利便にのみ供され集落化する。集団的意味を失った都市とオペラは「風景の世界」「作品的世界」からも乖離する。

文化的資質を失いつつある近代都市に対しトマス・マンは次のような警告をした。 それは彼自身の誕生の地リュウベック市の都市創立記念祭の式場でのこと。「都市は言葉と共に、今でも最も偉大な芸術作品である。都市が美術と秩序の象徴であることをやめたとき、都市は否定的な仕方で行動し、いわば解体の事実の蔓延を表現し、さらにそれを助長する。都市の密集地区では、邪悪が急速にひろがり、都市の石だたみには、そうした反社会的事実が深く刻みつけられるようになる。」(都市の文化:鹿島出版会)この警告は「オルフェオの終焉」から二百年、二十世紀の二度の大戦直後だった。

2013年12月10日火曜日

バロック・ローマのオペラと劇場/©


( カヴァリエーリの 「チェフアロの強奪 」)

1600年10月のフィレンツェ・ピッティ宮殿でのオペラ「エウリディーチェ」の上演はトスカーナ大公の娘マリアとフランス王アンリ四世の結婚式だった。その祝宴のメインイベントは実は「エウリディーチェ」ではなく、ヴェッキオ宮殿で上演された 「チェフアロの強奪」だったのだ。

ピッティ宮殿は私宅であり、メディチ家の本来の居城はヴェッキオ宮殿。当然、祝宴はヴェッキオ宮殿で行われており、音楽家でありローマの貴族、エミーリオ・デ・カヴァリエーリが作曲した。

しかし、この上演は舞台や衣装が完全に仕上がっていないこともあって「エウリディーチェ」ほどの評判を得ることが出来なかった。結果、カヴァリエーリはフィレンツェを即座に立ち去りローマに戻ってしまう。

この時代のローマとフィレンツェ・メディチ家との関係はきわめて深かった。大公となったフェルディナンドは即位と同時に父親が重用したバルディ伯をローマに追いやり、代わりにローマの聖十字架信徒会の聖歌隊長であり、ローマの貴族であったカヴァリエーリをフィレンツェの芸術監督の地位に置いていた。

(キエーザ・ヌオーボの「オラトリオ」)

フィレンツェでの実験であったモノディー様式の音楽劇も早くからローマには伝わっていたと考えられる。実は、「エウリディーチェ」の上演以前、ローマでもモノディー様式の音楽劇が上演されているのだ。

1600年2月、サンタ・マリア・イン・ヴァリデッラ教会での「魂と肉体の劇」の上演。作曲者はフィレンツェでは水が合わず逃げ帰えることになるカヴァリエーリ。

この教会は今ではキエーザ・ヌオーボの名で知られる教会。反宗教改革の騎士フィリッポ・ネーリの意向で再建が開始され、ちょうど「魂と肉体の劇」の上演の一年前、1599年に献堂されている。

 (fig92)

現在、ルーベンスの壁画やネーリの礼拝堂で有名なキエーザ・ヌオーボだが、「魂と肉体の劇」は「十字架に掛けられた人の祈祷室」という名の祈祷室(オラトリオ)での上演だった。

オラトリオ会の聖人であり、音楽家でもあったネーリーとローマの貴族カヴァリエーリはもともと親しい間柄。献堂されたばかりのオラトリオでの十六世紀末の謝肉祭、この音楽劇の上演はこの教会にとっていかに大事であったか想像できる。

「魂と肉体の劇」がオペラであるかどうか音楽学者にとっては意見が別れるところ。舞台も衣装もないオラトリオでの上演だが「エウリディーチェ」よりも八ヶ月も前であったと言う事実は大変興味深い。この時の楽譜や台本は出版された音楽劇としては最も早い作品でもあり、現在に残されている。

(言葉の意味が伝わる音楽劇)

「魂と肉体の劇」は フランドルのポリフォニーがベースではあるが、各声部やリズムに独立性を与えたことから明快に歌詞の意味が聞き取れる。

パレストリーナの音楽は世俗の人々の反宗教改革運動を推進したオラトリオ会やイエズス会の音楽に大きな影響を与えていた。 「魂と肉体の劇」はまさにパレストリーニの音楽を引き継ぐもの。 ラテン語ではなく、イタリア語での礼拝を行ったことからフィリッポ・ネーリーのオラトリオ(祈祷所)はラテン語を理解できない多くの人々を引きつけていた。

この祈祷所において信徒たちが参加し、歌える簡素なシラビック・スタイル(一音節一音)の音楽はとても重要であり、「魂と肉体の劇」の音楽はそのような流れを汲むものだったのだ。

音楽劇の内容はアニマ(魂)とコルボ(肉体)がヴィタ・ムンダナ(地上の生活)の誘惑と天国の契約との間で引き裂かれという寓意劇。舞踏や合唱が取り入れられた牧歌劇のようでもあり、最終的には天国での祝福を得るという宗教道徳劇。祈祷所の音楽劇は教会の中とは言え、多くの人々が楽しめるものであり、後々のオペラの展開にとっても重要なものとなっていく。

(コッレッジョの学生たちのオペラ)

イエズス会ではアゴシティーノ・アガッツァーリ作曲のオペラ「エウメリオ」が上演されている。1606年の謝肉祭、コッレッジョ (ローマのイエズス会の教育機関、反宗教改革には音楽による布教が有効) の学生たちによるこの作品の上演もまた牧歌劇と寓意劇の混合となっている。地上と天国の争いは最終的には人格化されたアポロンによって天国の力が勝利するという物語。

イエズス会のコッレッジョの学生であったステファーノ・ランディ、彼は後にローマの音楽家の最高峰、システィーナ礼拝堂の聖歌隊長に任命されるが、まだ若かった1619年、オペラ「オルフェオの死」を作曲している。

ローマ最初のギリシャ神話素材の音楽劇であるこの物語はフィレンツェとは異なり地上に戻ったオルフェオに重きが置かれていて、場面ごとの舞台効果や大規模なポリフォニックな合唱に特徴がある。全体としてはフィレンツェ同様、叙唱とアリオーソの連なる。

しかし、アリア風の歌も数多く登場し、その後のオペラを先取る音楽だ。牧歌的悲喜劇と名付けられ出版されたオペラだが、残念ながら、上演された形跡はない。宮廷を持たないローマでは、さらに十年あまり後のバルベリーニ一家の時代までは、豪華な舞台や劇場もなく、オペラは単なる個人的な娯楽の一つにすぎなかったのだ。

(バルベリーニ劇場のオペラ)
マッフェオ・バルベリーニは裕福なフィレンツェの市民の息子でした。風采があり豊かな教養を持ち、学者であり、詩人でもあった彼は1623年、五十五歳で教皇の座につき、ウルバヌス八世を名乗ります。
建築をこよなく愛したこの教皇は在任中の二十年余り、いつもジャン・ロレンツォ・ベルニーニを手元に置き、ローマの新しい都市イメージの生成を要請します。
詩人でもあり音楽好きでもあったウルバヌスの周辺にはベルニーニだけではなく、音楽家たちも絶えず控え、学者や文学者も加わり活発なサロンが展開されていました。
そのようなサロンの中の有力な一人がピストイヤ出身のジューリオ・ロスピリオージ。彼は同時代の最大のオペラ・リブレット作者であり、後に枢機卿から教皇にまで上り詰めたクレメンス九世です。
ウルバヌス八世には三人の甥がいました。フランチェスコとアントーニオは枢機卿、まん中のタッディオはローマの旧家コロンナ家の娘と結婚し、ローマ総督となった人。バルバリーニ家出身のウルバヌスは聖俗両面を一族の力で支配し、多くの芸術家、知識人を従え、バチカンとバルベニーニ宮殿はまさに宮廷の趣であったのです。

聖アレッシオ from kthyk on Vimeo.


バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭です。
新婚間もないタッデオ夫婦と二人の枢機卿が住むバルベリーニ宮殿、この宮殿には三千人の収容能力を持つ劇場が設えられました。しかし、実際の観客は数百人、ここはまだ市民のための劇場ではなく、当時のローマの特権的な聴衆の為に作られた劇場であったのです。
柿落としでの上演はオペラ「アレッシオ聖人伝」。作曲は例の「オルフェオの死」を作ったステーファノ・ランディ、リブレット作家はジューリオ・ロスピリオージです。
二人はイエズス会セミナリオで教育を受けた間柄、「アレッシオ聖人伝」は題名からも判るとおり、イエズス会の持つ中世的宗教劇となっています。
しかし、このオペラには古典的悲劇と喜劇、牧歌劇とインテルメディオ、と同時代のすべての劇スタイルが一体化されていたと言えるようです。

「アレッシオ聖人伝」を有名にしている理由の一つは、史上初めて高声部が最も優位となったオペラであることにあります。主役のアレッシオはソプラノ・カストラートが演じています。
他のキャストもまた、全て教皇の聖歌隊の歌手たち。ローマの貴族であるがアレッシオは世俗を退け、深く宗教に帰依する人、そんな人間であるアレッシオは、この世の人とは思えない聖人の声である必要があったのです。そのためには、男性でもなければ女性でもないカストラートの声はピッタリであったいえましょう。

内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話です。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいています。1634年制作の版画(図版:西洋の音楽と社会=3p74)をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれています。
この舞台背景の制作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。新装なったバルベリーニ宮殿の設計者が劇場はもちろん舞台背景を手がけるのは当然のことでありました。バルベリーニ劇場とその宮殿は宮廷のような世界とはいえ、ここはどこまでも教皇ローマ・カソリックのお膝元です。
フィレンツェやマントヴァ宮廷のようにあからさまに異教であるアルカデイアをテーマとすることは出来ません。台本を書いたロスピリオージにとっては、オペラの持つ世俗的楽しみを、いかに正当化するかが問題でした。その為には「アレッシオ聖人伝」という道徳的な教えをもった聖人伝説は、もっとも都合のよい題材でもあったのです。

(ローマの世俗オペラ、二つ)

ローマでも世俗的なオペラがないわけではなかったが、舞台や劇場では上演されることのない、単なる個人的な娯楽にすぎなかった。

そんな作品の中ではロマン・ロランが十七世紀前半のもっとも美しい抒情的なドラマと評した「ガラテアの女」が有名。1639年、カストラートのロレート・ヴィットーリが作詞作曲した作品と言われている。

ギリシャ神話の海のニンフの物語。イタリア最後の牧歌劇と目される作品で、ローマでは上演されなかったが、やがて1644年ナポリで初演され、多くの人に知られるものとなった。

ローマでもっとも大掛かりの世俗オペラは「魔法にかけられた宮殿」。1642年、バルベリーニ宮殿に住む枢機卿アントーニオがパトロンとなって上演された。バルベリーニ家お抱えの音楽家ルイージ・ロッシの作曲、ロスピリオージのリブレットによるこのオペラ、七組もの恋人たちが巻き込まれる誤解と混乱のドラマ。

魔術に彩られての悲劇と喜劇の連続は、そのまま後のヴェネツィア・オペラに引き継がれるもの。このオペラの上演はウルバヌス八世在位のローマであるからこそ許されたことであって、新たな教皇が支配する後々のローマでは決して生まれることはなかった出来事なのです。

(ローマのオペラのパリ亡命)

寛容なバルベリーニ家のウルバヌス八世が1644年没するとローマの世俗音楽は一気に停滞する。次に即位した パンフィーリ家のインノケンティウス十世は音楽には無関心の人。世俗に走りすぎる前教皇の施策にはいつも苦々しく思っていた。

新教皇が実権を握るとウルバヌス八世の甥、アントーニオ・バルベリーニ枢機卿は当然居る場所が無くなる。彼は政変に敗れ、財産没収のまま、パリに亡命せざるを得なかった。やがて、バルベリーニ劇場は打ち捨てられ、ロスピリオージはスペインへと旅立って行く。

しかし、バルベリーニ家の音楽家たち、ルイジ・ロッシもまたフランス宰相ジュール・マゼランの好意によりパリに招かれる。ローマ・バルベリーニ劇場のオペラはそっくりパリに亡命した。

ルイジ・ロッシが1647年3月、パレロワイヤルで「オルフェオ」を上演する。フランチェスコ・ブーティによる台本は最早、フィレンツェのオルフェオに見るヒューマニストの理想からは程遠いもの。しかし、その音楽は極めて多彩。フランス人好みのバレーも入り、様々な情景が入れ替わり立ちかわり変化する。

ヴェネツィア生まれの機械仕掛けの中、後の定番ダカーポ・アリアも数多く挿入される。音楽の神オルフェオはついにパリにおいても、その力を宮廷の人々に披露することとなったのだ。



(イーブリンのローマ)

グランド・ツァーのジョン・イーヴリンはヴェネツィアを訪れる前年、1644年ローマに立ち寄った。その時の日記の一部、建築家ベルニ−ニについて次のように書いている。

「わたしがこの都市に到着する少し以前に、彫刻家・建築家・画家・詩人の騎士ベルニーニが、公衆歌劇(パブリック・オペラ)を上演したが、自ら背景を描き、彫刻を刻み、装置を考案し、作曲し、喜劇を書いて、舞台を全部独りで作り上げたのだ。」

イーヴリンが訪れたローマはオペラ好きの教皇ウルバヌス八世が亡くなりオペラはもちろん、絵画や彫刻の裸体表現をも嫌悪したインノケンティウス十世が即位した年のこと。
ベルニーニやプーサン等の絵画・彫刻は退けられ、もはやバルベリーニ宮殿のオペラはまったく鳴りを潜めていた。
実際のベルニーニの多芸多才の活躍はイーヴリンの帰国後に発揮されているのだが、ケンブリッジで学んだイーヴリンにはローマやヴェネツィアのオペラの評判は十分に伝わっていたと考えられる。
新しい芸術表現を嫌っていたはずのインノケンティウス、しかし、彼がベルニーニにナヴォナ広場の「四大河川の泉」の制作を依頼するのはイーヴリンの帰国後から4年後のこと。
サン・ピエトロ広場の計画が現在のように決定されるのも教皇アレクサンデル七世の時代、12年後のことだ。
つまり、イーヴリンの日記はその後のベルニーニの活躍を予見したもの、バロック時代最大の建築家への賛辞となっている。


(クリスティーナ女王の謝肉祭)

べルニーニとオペラを本格的に活気づける出来事は、イギリスのイーヴリンの訪問ではなく、スェーデンの一人の 王女です。
1655年12月、スェーデンの前女王クリスティーナがローマにやってきた。彼女はその18ヶ月程前、カソリック信仰に帰依し、王位を放棄した人、王位放棄してまでのプロテスタントからカソリックへの帰依は、失われつつあるローマの政治的影響力を復活させる画期的の出来事だった。
クリスティーナ女王はローマ教皇庁にとっては大歓迎の人材、女王のローマ訪問はわざわざその年の謝肉祭の季節に合わされ盛大に実施されることとになったのです。

インノケンティウス亡き後、新教皇アレクサンデル七世の教皇庁主任建築家べルニーニは寸暇の暇もなく、クリスティーナ歓迎の準備と様々な飾り物の制作に忙殺される。
クリスティーナのローマ入場は北のポポロ門、そこにはベルニーニによって壮麗な飾り付けが施されている。
王位のない彼女の教皇との謁見は、本来は許されることがないのだが、ベルニーニの特別なデザインによる肘掛け椅子が用意された。
婦人同席による教皇の食事も、儀礼上前例が無かったのだが、クリスティーナ歓迎の宴会では、ここでもベルニーニの弟子たちによる、金箔を振りかけられた砂糖菓子など周到な準備とあらゆる種類の飾りものが並べられることになり実施された。

クリスティーナの歓迎祝典は教皇庁だけではない。
コッレッジョ・ゲルマーニコでは宗教劇「イサーコの犠牲」が上演される。
貴族の宮殿では音楽の伴奏付きのバレェと宴会そして馬上武術試合等々。
中でも最大の呼び物はやはりバルベリーニ宮殿。
ここではジューリオ・ロスピリオージによる二つのオペラ、「禍転じて福となる」と「人間の生あるいは慈悲の勝利」が上演されている。
ウルバヌス八世の他界の後、バルベリーニ家に親しかったロスピリオージもしばらくはスペインでの生活を強いられていたが、インノケンティウス十世の治世も終わり、新しい教皇のもとローマに戻った彼は幾つかのオペラの台本を書いていたのだ。

「女王の謝肉祭」で上演された「人間の生あるいは慈悲の勝利」はカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」と似たような主題を持っている。クリスティーナ歓待の為の寓意が込められ教訓的主題を持つこのオペラは、マルコ・マラッツォーリにより作曲されている。
クライマックスとなった終幕のシーンでは、サン・タンジェロ城を取り囲んだローマの町並みを背景に、祝典の主人役マッフェオ・バルベリーニによって、女王クリスティナとローマを讃える盛大な花火が打ち上げられ、その壮大な花火は版画によって後々の世までもつたえられることとなった。(図版;西洋の音楽と社会ー3P81)

(クリスティーヌが庇護した音楽家)

活発で機知に富み因習に拘束されないクリスティーナは、その後、四人の教皇の治世の間、ローマの芸術の庇護者の立場を取り続ける。

彼女の貢献はオペラが最大であろうが、いくつかのオラトリオへに対しても財政的な援助も行い、さらに当時まだ若いがすでに才覚を表していた二人の音楽家に大規模な作品を依頼している。
アレッサンドロ・スカルラッティとアルカンジェロ・コレッリです。

クリスティーナ自身の音楽監督にも任命されたスカルラッティは1683年にナポリに去るまでの間、「顔のとり違え」というオペラを含み、彼女のためにオペラ、オラトリオ、カンタータと沢山の曲を作曲する。

この頃、オラトリオもまたローマ以外の様々なイタリアの都市に拡がっていく。
その特徴は通奏低音の伴奏の上に載ったアリアにある。
スカルラッティと彼の音楽はクリスティーナによって育てられたと言っても過言ではない。

クリスティーナはテレベ川に近い道ぞいに邸館を一つ借り受け「王妃のサロン」と呼ばれる集会を開催した。
当初、非公式であったサロンだが1674年にはアッカデミア・レアーレ(王立協会)と称され教皇庁からも公認されるようにもなる。
そこには音楽家や文学者ばかりでなく考古学者、天文学者、古典学者も集まった。
著名な学者の講義、論文発表、ゼミナール、そして様々な新しい音楽。器楽の演奏に始まり、声楽の演奏で閉じるというこのサロンは定期的に開催され、ローマ最大のサロンとなっていく。
その集会ではカンタータにコンチェルト・グロッソやトリオ・ソナタというまだ発展途中の音楽の形式も沢山試みられ、厳しくその質が吟味されている。
スカルラッティやコレッリの新曲はこのサロンで披露され、主催者クリスティーナ女王に献呈される、つまり、アッカデミア・レアーレは二人の音楽家を育てる格好の場となっていたのです。

(クリスティーナと教皇クレメンス九世)

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは三十年代のバルベリーニ家とは異なっていた。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場だった。しかし、ヴェネツィアではすでにオペラはビジネスとなっている。

巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある六十年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きな関心の的となっていた。世俗のオペラとその為の公共劇場はすでに教皇庁のお膝元においても、充分に採算の取れる事業と考えられていたのだ。


1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設した。クレメンス九世について先に触れておこう。この教皇、実はオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージのことだ。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者、その人。ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペインでの亡命生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれた。

ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出した。聖なる世界の中心に立つ教皇庁ローマが世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外に考えられない。事実、後の教皇の中には寛容な人がいないわけではなかったが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。つまり、ローマの公共劇場の建設はクリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人によって実現された歴史的事件であったのだ。


(オペラ劇場のプロトタイプ、テアトロ・トル・ディ・ノーナ)

 (fig106)

テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになる。

残された図面によるとテアトロ・トル・ディ・ノーナは当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行く。

楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展する。ローマ最大のオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設された。

(十八世紀の劇場の音響理論)

テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちがこのプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。

楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断だ。

しかし、現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していたのだ。

現在とは異なるが、当時最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャー。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は楕円の一方の焦点に集まった反射音がもう一つの焦点にも音を集中させて音の<柱>を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えていたからだ。

凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上大きな問題とはならなかった。それは何故だろうか。十八世紀のオペラ劇場は隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席、それも必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれていた。僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音され微細に多方向に反響する。つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたのだ。

(社交空間としてのオペラ劇場)

フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由だった。ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチで舞台の両袖を区切るのは常識化している。テアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する観客たちには不興ではあったが、舞台上のスペクタクルを演出する舞台装置家にとってはアーチはもはや、不可決な装置なのだ。くわえて演技はプロセニアム・アーチの後ろと限定され、奥行きの深い客席からは眺める舞台上の虚構の世界は透視画法により強調され、ますますリアリティあるドラマチックな世界となっていく。

しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。劇場は見るばかりか、見られる空間でなければならない。つまり社交の空間。舞台を眺めると同時に、他の観客から注目される場所でなければならなかった。

U字形の形態を楕円形にすることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能となる。フォンターナは劇場空間のすべての視覚を有効に統一するため楕円形プランを採用したのです。

劇場は古来より観劇だけが目的ではない。舞台を眺めるだけが目的なら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。しかし、フォンターナは観客席を楕円形にすることで、舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。

祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態はその後十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していった。

ナポリのバロック・オペラ/©

(ナポリのサン・バルトローメオ劇場歌劇団)

南イタリアの中心ナポリは風光明媚。しかし、自然環境は厳しく石灰岩が多い土地は夏は乾燥、飲み水や食料の確保は決して容易ではなかった。地中海の中央に位置するところから、絶えず外国勢力の脅威にもさらされているナポリは十六世紀末から十七世紀はスペインのハプスブルグ家の支配下にあった。

ナポリの支配者はスペイン国王、ナポリを統治したのはスペインから派遺された副王オニャーテ伯爵 。十七世紀半ば、彼は不安定な宮廷を確かなものにし、多くのナポリ市民から信頼を得るために、当時ヴェネツィアで評判となっていたオペラの上演がもっとも有効と考えた。

イタリアだけでなく、ヨーロッパ中の知られ渡ったヴェネツィア・オペラ、オニャーテ伯爵はその上演のために北イタリア巡業中の歌劇団の歌手を集める。そして、彼らのためには宮殿も提供し、フェビ・アルモーニチという歌劇団まで組織した。しかし、宮殿を提供はするが、それ以上の金銭的援助までは伯爵一人ではなかなか手が回らない。劇団の維持と公演には、ナポリ貴族と上流階層の人々が福王と共に支援している。

オニャーテ伯爵の亡き後、この歌劇団は歌劇団自らが伯爵が持つオペラ上演の為の サン・バルトローメオ劇場の賃貸権も得て積極的にオペラの上演を続けるようになる。この劇場はヴェネツィア同様市民に公開された劇場。

最初の公演は1650年のオペラ・シェーニカ「ディドーネ」、翌年は音楽寓話「エジスト」劇、どちらも 作曲はヴェネツィアのカヴァッリの曲、四十年代の始めにヴェネツィア、テアトロ・サン・カシアーノで初演されたものだった。ほとんどヴェネツィア・オペラに依存したナポリのオペラだが、1655年、ナポリの音楽家によるオペラが誕生する。チェスコ・チリルロ作曲の「エレーナの強奪」がサン・バルトローメオ劇場で初演されている。

(ナポリのスカルラッティ)

ナポリのオペラ環境はその始まりからヴェネツィアにとても良く似ている。市民に開放された公開劇場、サン・バルトローメオ劇場を中心に展開されたナポリのオペラの上演はしかし、劇場や歌劇団のみで可能だったわけではない。ヴェネツィアではサン・マルコ寺院の聖歌隊が必要とされたように、ナポリでは王室礼拝堂聖歌隊の協力が不可決だった。

聖なるキリスト教世界とは一線を画したことから始まったオペラとは言え、宗教改革の時代からはもはや遠く隔たった十七世紀後半のナポリ。この都市はもともと熱狂的信仰と高い宗教心に支えられた土地殻でもあり、バロックの持つ恍惚とした感情が礼拝堂とオペラ劇場、どちらにも流れている必要があった。

1675年スペイン、カルロス二世の即位の祝典がナポリでも行われる。その時の王室礼拝堂ではサン・バルトローメオ劇場の歌劇団が聖歌隊としてミサ典礼に参加する一方、宮殿内の祝典では彼らがチェスティのオペラ「ドーリ」を上演している。

1680年には、副王はヴェネツィアのオペラ作曲家ピエートロ・アンドレア・ジアーニを礼拝堂楽長に任命。その後すぐに、ローマで活躍していたシチリア、パレルモ出身のアンドレア・スカルラッティがサン・バルトローメオ劇場に招かれた。

オニャーテ伯爵を継いだ副王デル・カルピオ侯爵はかって教皇庁のスペイン大使。ローマ赴任時代、スカルラッティの評判を良く知っているばかりか当然面識もあり、カルピオ侯爵は副王になると同時に彼をナポリに招いた。

スカルラッティはオペラ作曲家ジアーニ亡き後、礼拝堂楽長にも就任する。礼拝堂楽長スカルラッティはこれ以降、十八世紀に至るナポリオペラの中心人物として活躍する。

海の都市、ヴェネツィアはその特殊性から、多くの孤児を生み出す社会問題を抱えている。ナポリもまた同じ。ヴェネツィアの十六世紀以来の慈善院が十七世紀には音楽教育が中心となり、多くの音楽家を生み出していく。ナポリにも十七世紀後半、四つの音楽学校があった。ここから沢山の歌手そして音楽家が育っていく。

王室礼拝堂と歌劇団の一体化、音楽学校からの優れた人材の供給、そしてスカルラッティの才能。オペラの為の環境は十七世紀後半のナポリにはすべてが整った。そして十八世紀、ナポリのオペラは後にナポリ派と呼ばれるほどの力量を持ち、ヴェネツィアに代わりヨーロッパ中で活躍するようになる。

(スカルラッティのイタリア風序曲)

十七世紀のナポリのオペラはまだヴェネツィアの延長。モンティヴェルディの後継、ピエル・フランチェスカ・カヴァルリとマルク・アントーニオ・チェスティのオペラがそのままナポリで展開される。

カヴァルリはまず序曲の形式を変えてゆく。モンテヴェルディの「オルフェオ」の幕開けはトッカータと呼ばれる数小節だけの器楽曲だが観客の注意を促す役割しか持っていない。カヴァルリのオペラ「ジャゾーネ」では、序曲には「プロローグ前のシンフォニア」という題がつき、緩やかで荘重な導入部と、オペラのテーマを引き出し発展させるかのような急速な部分の二部によって構成されている。

急速な部分が付け加えられた序曲はもはや、単に始まりの合図を示すだけではない。十八世紀、スカルラッティはこれを急緩急の三つの部分へと発展させ、楽器編成も弦楽器にオーボエやホルンも加えたオーケストラで演奏する。このスカルラッティの序曲はイタリア風序曲と呼ばれる。当時すでに広まっていたもう一つの序曲、ジャン・バティスト・リュリによって形式化されたフランス風序曲と好対照となっている。

一般に当時のオペラの序曲はシンフォニアと呼ばれ後のシンフォニーの原形となっている。フランス風序曲はポリフォニーで書かれた貴族好みの形式、優雅な緩急緩のオーケストラ曲であった。スカルラッティの序曲は誰にでも判りやすいホモフォニックなスタイル。軽快に始まるオーケストラはやがてロココの華麗な様式を生み、古典主義音楽へ向かうもの。スカルラッティの序曲は十八世紀後半の交響曲の先駆けとなるもの。モーツアルトのシンフォニーまではもはや、そう遠くはないのだ。

(バロックの華・アリア)

カヴァルリの「ジャゾーネ」は沢山のアリアを持っているオペラだ。アリアはもともとレチタティーボが高潮した時の表現力豊かなアリオーソが発展したもの。従って、オペラそのものの流れからは、本来、切り離すことが出来なかった。

しかし、カヴァルリを継ぐヴェネツィア・オペラ最大の作曲家チェスティはアリアをレチタティーボとは明確に分離し、オペラの流れを制止させるかのような、独自の時間を生み出すようになる。そして、音楽的興味がより強く聴衆の趣味をそそり、求めに応じる抒情的な歌に向かっていく。

オーストリア皇帝レオポルト一世とスペインのマルゲリータ皇女の結婚式が1667年ウィーンで挙行された。その時上演されたオペラはチェスティの「金の林檎」。このオペラは競争相手ヴェルサイユのルイ十四世に対抗して、ハプスブルグ家が示すことができる、華美の限りを尽くしたもの。それはまさに、ヴェネツィア・オペラの集大成と言えるものだった。

プロローグから五幕六十六景、場面の転換は二十四回、その中には精巧な機械仕掛けも持ち込まれている。各幕にはバレェとコーラスも挿入され、オーケストラの構成も大掛かり、楽器総数は三十を超えていた。こんな大掛かりで長大なオペラでは、アリアは一層明確な輪郭を持ったものでなければならない。その輪郭とは歌手の持つ声の技術によって生まれるもの。アリアは後々の「歌手のオペラ」の道を指し示していた。

百年前のフィレンツェのカメラータたちの考えは、音楽を犠牲にしても、詩的価値を重んじようするもの。モンテヴェルディは音楽とテキストを同列に扱い、両者の平衡と統一を保っていくが、十七世紀半ば過ぎ、チェスティのオペラは劇的な表現よりも、大掛かりな視覚的世界を統一する新しい楽曲の形式に向かっていく。そして、作曲家はリブレット作家の上に立ち、名歌手が劇場全体を支配する時代となる。

しかし、アリアの隆盛はフィレンツェ・オペラの当然の帰結であったのかもしれない。それはルネサンスからバロックへという、人間のが生む必然の流れ。アリアはギリシャ語のアエロ(空気)に由来し、様相、風態、形相を意味する。つまり、典型的なまたは個性的な相貌を持つ旋律にこの言葉が用いられた。従って、バッハのG線上のアリアのように、歌曲以外にも使われることもある。

元来、レチタティーヴォと一体であり、その中で劇的なシチュエーションが急速に展開し、一定の情感が押さえがたく高まった時、そのシチュエーションの音楽的捌け口がアリア。オペラの中のアリアは際立った感情表現のために用意されたものと言える。

人間の理性の表現がルネサンスのテーマでありバロックはその変奏であるとするならば、同じテーマを感情領域で展開する芸術形式こそオペラの役割。この観点に立てばオペラこそバロックの典型であり、その中のアリアはまさにバロックの華と言えよう。

(スカルラッティのカンタータ)

スカルラッティのローマ時代のアリアはまだ通奏低音だけの伴奏だった。アリアの前後にリトルネッロと呼ばれる数小節のオーケストラが入るだけにすぎない。アリア全体が切れ目なくオーケストラによって伴奏されるようになるのは十八世紀のナポリからのこと。

1707年、スカルラッティはヴェネツィアの劇場のために「ミトリダーテ・エウパトーレ」をナポリで作曲する。そこでは、アリアはオーケストラと結びつき雄大な表現を見せるようになった。

ナポリ・オペラを作り上げ、十八世紀イタリア音楽を切り開いた人として知られるスカルラッティだが、彼はむしろカンタータのスタイルを確立した人としても重要。レチタティーヴォとアリオーソ、アリアからなり、独唱、重唱、合唱によるカンタータはオペラと並ぶバロック時代の重要な楽曲の一つ。宮廷や貴族館のサロンで演奏されることの多いカンタータは華やかな名人芸により洗練された細やかな表現力が必要とされた。

カンタータは音楽的教養を持つ貴族的ディレッタントに好まれたもので、スカルラッティは八百にも及ぶ作品を仕えていた諸侯のために作曲している。カンタータにおけるアリアの特徴は各々の曲の規模は小さいが、和声は複雑で微妙な色彩を持っていることにある。

貴族的な優雅さを持ち、決して過度に陥ることなく、独唱者の技量によってドラマティックに歌われることがこの音楽形式では必要であった。蛇足かも知れないが、カンタータの器楽曲版がソナタ。ここでもまた、モーツアルトの時代はすぐ間近なのだ。

( リブレット作家、ピエートロ・メタスタージオ )

ナポリ最大の作曲家をスカルラッティとするならば、最大のリブレット作家はピエートロ・メタスタージオだ。メタスタージオは十七世紀流行の荒唐無稽な神々の話とは異なり、歴史的実在の中の理想的人間をオペラにしている。そのようなオペラをオペラ・セリアと呼んでいる。そこには機械仕掛けの神々の出現もなければ、大げさな感情表現もない。フィレンツェのオルフェオに戻るかのような台本改革だった。

メタスタージオのオペラでは主役となる歌手の表現がポイントとなる。明確な性格を持った人物が場面に相応しい情緒を示し、聴衆に向かって朗々と自身の持つ思想を伝えなければならない。そのようなことが可能なのはアリアのみ。メタスタージオのオペラではアリアこそオペラの中心。つまり、オペラ・セリアという形式は十八世紀のアリアが最も効果的に使われたスタイルと言って良いだろう。

メタスタジオの傑作の一つが1740年の「毅然たるアッティリョ」。カルタゴの捕虜となった主人公アッティリョはローマに戻り、カルタゴの利益のためローマの元老院を説く約束で自由の身となる。しかし、ローマでの説得は効を奏さず、家族、友人の願いも振り切り、決然と捕虜の運命に戻るべく船出する、という物語。

(オペラ・セリアと様々なアリア)

アリアは単に劇的でありさえすれば良いのではなく、高度な技術を用いて、様々な表情を持った感情表現を行なわなければならない。その微妙な感情の機微を的確に表現するために、十八世紀オペラでは八種類ものアリアのタイプが用意された。優しい情緒を歌いあげるアリア・カンタービレや、威厳と品位の表現に適すアリア・ポルタメント等はその典型。

1740年フランス人シャルル・ド・ブロッセは次のように書いている。「イタリア人たちは、非常に活気のある、かがやかしい音と和声にみちた、はなばなしい声のためのアリアをもっている。その他にも、快いひびきと魅惑的な旋律をもつ、デリケートなやわらかい声のためのアリアがあり、もっと別の種類には、熱情的で思わず人の胸をうち、感動の自然な発露の抑揚をそのままに、深い感情にみちていて、舞台効果を高めたり、俳優の長所を最大限に発揮させるアリアがある。いきいきしたアリアは、さまざまな出来事を絵画的にえがき、嵐、台風、激流、狩人に追われて逃げまどう獅子、トランペットの音に耳をそばだてる馬、夜のしじまの恐怖など、すべて音楽にとってふさわしい音や姿をえがくのに用いられるが、悲劇的場面には用いられない。この種類の大がかりな効果をめざすアリアには、たいがいオーボエ、トランペット、ホルンなどの管楽器が助奏につき、とくに海上の嵐をあらわすアリアの場合などには、なかなかいい効果を持っている。」(グラウトのオペラ史:音楽之友社)

(楽譜を残さないオペラの作曲)

多種多様、高度に体系化されたアリアを持つ十八世紀のナポリのオペラ、その作品量は膨大だが、現在の我々はそのほとんどを耳にすることが出来ない。

ナポリのオペラの特徴は貴族的というより民衆好み、単純で分かりやすいことにある。さらに、音の組み合わせが軽快で伸びやかな旋律と装飾音に恵まれている。しかし、近代の批評家たちはナポリのオペラを一様に非難している。その矢面に立たされているのがメタスタージオ。

彼のドラマはマンネリで技巧的、優美ではあるが、力が乏しいと見なしている。「彼の描く人物は古代のローマ人よりもむしろ十八世紀の宮廷人に近く、感傷的な愛情はあらゆる場面にみちみちていて、寛仁大度な潜主というタイプも、またかという感じがする」(オペラ史 :音楽之友社 )と書くグラウトだが、彼は「もしわれわれが当時の劇の一般的な習慣を受け入れるつもりになれば、メタスタージオの作品は今日でも十分に楽しめる。」 とも書いている。

グラウトの言う当時の劇の一般的慣習とは、それは十八世紀のオペラは今日に見るような真面目な劇作品というより、気楽な娯楽であったことを意味する。それは劇場はオペラを観るためだけの場所ではなく、社交の場でもあったからだ。

この時代のオペラの上演は夜八時か九時に始まり真夜中までであるのが一般的。地位や財産のある人は桟敷を買い占め、友達同士が集まる社交の場として利用している。そこではオペラを楽しむ以前に桟敷にいることが大事であり、始めの二度三度は通しで聴くこともあるだろうが、その後はお気に入りの歌手のアリアに耳を傾けるだけのオペラ鑑賞。

居心地の良い家具をしつらえられ、自宅のサロンのような桟敷席はカード遊びやチェスを楽しむ場となっていたのだ。

桟敷席の意味が変わると、上演作品はなじみ深いリブレットが何度も繰り返されることほうが好まれた。もっとも音楽を楽しみたいという観客は当然、シーズン毎に新しいオペラであることも望んでいるのだが。

一方、当時の演奏は即興的な色彩が強く、楽譜は今日の楽譜とは異なり、作曲者のメモ程度の役割にすぎなかった。音楽を完全に仕上げるのは演奏者の仕事なのだ。さらに、著作権のない時代、人気のあるアリアとは言え大半は写本、楽譜が印刷されることはほとんどなかった。模倣も多く、出版すれば作曲者の収入はそれだけで終わってしまうからだ。

つまり、現代から見ると印刷されたオペラは少なく、写本の大半も失われていて、当時のオペラを上演したくとも、事実上不可能な状況。従って、十八世紀前半のオペラはスカルラッティやベルゴジーレ、チマローザにパイジェロという僅かの音楽家のオペラの全曲を現在、ようやっと耳にする程度となっている。