2011年12月27日火曜日

パルマのテアトロ・ファルネーゼ

十六世紀後半のイタリアにはもう一つの重要な演劇形式が存在した。
中世の馬上武術試合は新しい時代になっても決して無くなったわけではなく、新たに勃興したイタリアの君主にとって、最も有効な政治権力のプロパガンダとして発展している。
騎士による馬上の戦いが確実に君主を勝利者とする演出が尽くされることにより、馬上武術試合は祝祭の中に取り込まれ、政治色濃い演劇形式として発展する。
その形式を最も有効に利用したのもコジモ大公以降のフィレンツェ・メディチ家だが、インテルメディオ同様、その形式を洗練させることに力を注いだのはフェラーラ・エステ家だった。
この宮廷は早くからフランドルの音楽家を重用するなど北の文化情勢には敏感で、
ギリシャ・ラテン的諸要素とアルプスの北の中世の騎士道神話を結合させ、1560年代、アルフォンソニ世のもとで幾つかの「主題付き馬上武術試合」が演じられた。
一流の詩人たちによる筋立てにともない生み出された詩句や対話、そして歌と伴奏、複雑な仕掛けのついた舞台、馬上武術試合もまた後のオペラを予感させる重要な演劇形式であったと言える。

アルフォンソニ世の一連の馬上武術試合で最も有名なものは1565年の「アモルの神殿」。
彼とオーストリアのバルバラとの結婚を祝う祝宴の際、宮殿の中庭で演じられている。
この時の劇場には段席が設けられ、幾段にも重なって観客は見物するが、その中央は半円形で構成され、まるでアリーナ(競技場)のような形態を持った平戸間となっていた。

「アモルの神殿」はもちろん愛の神殿、「名誉」や「美徳」を経て神殿に到達しようとする騎士たちの館。
近づこうとする神殿の近くには六人の年老いた魔女、彼女たちは「高慢」「肉欲」となって「栄光の騎士」を奴隷にし岩に変えてしまう。
「凱旋」の姿で現れた騎士たちの長大な騎馬行列が進む中、囚われの騎士たちはこの行列を魔女から守ろうと放免され戦いに挑む。
魔女たちはつねに勝ち、騎士たちは迷路や森の中に追いやられる。
しかし、最後には「名誉」や「美徳」の騎士たちが優れた力を持って魔女の力に打ち勝つという物語。
「アモルの神殿」は試合の開始とともに舞台上に現れるが、試合中はずっと隠されていて、目にすることが出来ない。
可動式の舞台背景ときらびやかに仮装した騎士たちの行列、やがて再びいっそう壮麗な姿となって神殿が現れ、試合はエステ家を讃えるものとなって終わる。

プロセニアム・アーチはこのような馬上武術試合には不可欠な装置。
自由な場面転換も当然だが、壮麗な神殿を登場させたり隠したり、その為の雲をアーチの両側から押し出したりするのには便利。
しかし、最も重要な役割はドラマの中での凱旋門。
アリーナ(競技場)となる土間部分はアーチ(凱旋門)より登場した凱旋の騎士たちの騎馬行列の舞台となっている。
アルフォンソ二世の中庭にしつらえられた劇場は凱旋門と競技場そして最前面に手すりが付設された段席がU字型で囲む形態で構成されていた。
つまり、後のオペラ劇場に不可決なプロセニアム・アーチとU字型の客席は馬上武術試合の劇場をその範型としていたのだ。

アルフォンソ二世の劇場とパラーディオの劇場を足して二で割ったような劇場がパルマに作られ、現在に残されている。
プロセニアム・アーチを持ち、古代の円形劇場をそのまま引き延ばし、アレーナを取り込んだ形態の劇場、テアトロ・ファルネーゼ。
1617年パルマ公ラヌッチオ一世は広大なピロッタ宮殿の二階ホールに劇場の建設を開始した。設計はすでに七十歳を超えていたジャン・バティスタ・アレオッティ。彼はフェラーラ・エステ家に仕え多くの仕事をし劇場を建てていた建築家。
この劇場はパルマよりフェラーラこそ相応しかったのかもしれない、しかし、17世紀を迎えることなく、もっとも劇場を必要としていたフェラーラ・エステ家は没落してしまった。

テアトロ・ファルネーゼの完成・柿落としは1628年。劇場の建設は思わしくなく、着工から10年後、パルマの依頼者ラヌッチオ一世が逝去した翌年、嫡子オドアルドがメディチ家のマルゲリータとの結婚式の時、ようやっと完成した。
テアトロ・ファルネーゼはパラーディオのテアトロ・オリンピコを下敷きにしたと考えられている。
しかし、アレーナを持ったアレオッティの劇場は古代劇場風ではあるが宮殿の広間(テアトロ・ダ・サラ)を改装したもの、その観点ではブオンタレンティのテアトロ・メディオにも似ている。
つまり、テアトロ・オリンピコ以後、それは丁度オペラの誕生期のことですが、各都市の貴族の祝宴の場となる劇場は様々な形式を模索していたのだ。

3000人も収容できるというテアトロ・ファルネーゼは奥行きが間口の約2倍半もある。
観客席はU字型、舞台と観客席の間にはサッビオネータ劇場と同様の空間があり、その両脇にはファルネ−ゼ家の初期の公爵オッタヴィオとアレッサンドロの騎馬像が載せられたアーチ形状の出入口が付けられていた。
U字型の観客席は後ろに行くほど高くなる傾斜を持っているが平戸間とも2m程の段差があり、最前列には手すりが付いている。
最後部には二層のアーケード、その形態はパラーディオがデザインしたヴィチェンツァのバジリカ(市公会堂)のファサードに酷似している。
舞台周辺には台座の付いた巨大コリント式の列柱が並び、中央のエンタブラチャ(軒蛇腹)の上には二人の幼児がファルネーゼ家の紋章の付いた旗を持って載っている。

この劇場の柿落としは1628年、その祝宴を飾る豪華オペラはモンテヴェルディもその制作に関わったとされている「水星神と火星神」。
フルスケールの馬上武術試合や場内に仕立てたプールを使っての嵐や難破、はては海獣同士の戦いのシーンとその上演は大変衝撃的であったという。
しかし、この時の祝祭の舞台はすこぶる不興。
理由の一つはフィレンツェの生まれのオペラの形式にあった。この時代の劇場は貴族の饗宴の場に他ならない。
そこで歌われ演じられるインテルメディオの持つ祝祭性とスペクタクルは、出来立ての音楽劇(フィレンツェ・オペラ)には追いつくことが出来ない大きな魅力を持っていた。
そしてもう一つはプロセニアム・アーチ付きの舞台にある。
知的なオペラの形式より娯楽的なインテルメディオのほうが祝宴向きであったことは容易に理解できるが、ではプロセニアム・アーチのどこに問題があったのだろうか。

祝宴に参加した諸侯や貴族たち、彼らにとって最大の不満は、プロセニアム・アーチがステージの演技と聴衆との間に障壁を作ってしまうことにあった。 
当時の宮廷人にとって、牧歌劇や寓意物語に始まる祝宴の魅力は、ドラマの終幕部において、彼ら自身もまた演技者となりドラマに参加し、踊り歌い、様々な聴衆と無礼講的な交流を繰り広げることが最大の魅力だったのだから。
演技に参加した宮廷人は聴衆と踊った後で、劇のファンタジーの世界に入り込み、劇の登場人物である神や女神、ニンフや森の精と踊り、現実=幻影的世界を楽しむ。
つまり17世紀始めとは言え、テアトロ・ファルネーゼは、オペラ劇場とは異なり、舞台と客席が未分化で全員参加の祝祭空間である必要があったのです。

2011年12月25日日曜日

マントヴァのサッビオネータ劇場

パラーディオの弟子ヴィンチェンツォ・スカモッティはマントヴァの郊外に興味深い劇場を作った。
1580年8月に他界したパラーディオに変わりテアトロ・オリンピコを完成させた彼は1588年、ヴェスパシアーノ・ゴンザーガから新都市サッビオネータに劇場を作ることを依頼される。
この劇場は近年再建され、同じマントヴァを題材とした「リゴレット」の映画版オペラの舞台とし利用されている。https://youtu.be/RybU-no7VEM?list=PL1DAF33ED1F12A1BB

サッビオネータ劇場は舞台上に固定背景を持ち、客席の外周に円形のコロネードを配し、全体はテアトロ・オリンピコに良く似ている。しかし、舞台の間口が狭く中央に広間を持ち、奥行きが深い平面構成を持つこの劇場は、インテルメディオ等の上演に向くテアトロ・ダ・サラ型の劇場の一つと言える。
パラーディオは舞台の間口を広く取ることで、古代の円形劇場と同様の、均質な観客席からの視線の確保につとめているが、スカモッティは広間または観客席の中央という特別な場所からの視線のみを重視している。このU字形の観客席は意味深いものがある。後世の観客席はすべてこの形態、スカモッテイはテアトロ・オリンピコを踏襲しながら古代劇場の持つ世界劇場としての建築的意味を解体したことになる。

パラーディオのテアトロ・オリンピコとの違いは舞台上の固定背景の作り方にもある。サービオネーターは大きなア−チの奥に透視画法の立体模型による宮殿や豪邸が建ち並んでいてパラーディオと同じ都史風景だが、ここでは古代ローマの劇場のようなの三つの出入口ではなく、たった一つのアーチ、その形状はテアトロ・ファルネージャのプロセニアム・アーチに近い。
しかし、ここでは演技者はアーチの内側で演技することは出来ない。このアーチはパラーディオ同様 、透視画法による視線の強調に過ぎない。

スカモッティはなんとも奇妙な劇場を作ったと言える。アーチの中の幻想世界で演技するためには、折角の立体模型を全て取り壊さなければならない。パラーディオを真似た立体都市、しかし、スカモッティは劇場全体で都市あるいは世界をイメージさせようとしたのではなく、単なる視線の強調の為のアーチを作ったに過ぎない。さらにまた、このアーチは後世のプロセニアム・アーチのように、舞台上の幻想世界を演出する装置にもなっていないのだ。

プロセニアム・アーチの役割は客席という現実世界と舞台上の幻想世界とを明確に分離することにある。インテルメディオの上演には度々このアーチが重要な手がかりとされて、後のテアトロ・メディオのブオンタレンティにとっては欠くことのできないもので、<美徳>や<悪徳>が出たり入ったりする自由な場面転換のための装置となっていた。

2011年12月22日木曜日

テアトロ・メディオ


人文主義者を中心とした古代の劇や劇場の再興の試みはルネサンスという時代が必要とした新しい生き方、ライフスタイルを探しだすための知的活動の一環と意味づけられる。
その活動の成果が先に触れた、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコであり、やがて、オペラ・オルフェオの誕生へと繋がってく。
しかし、貴族の宴会の催し物が切っ掛けのオペラの誕生にとって、その上演の場は当初から独立した劇場というわけではなく、貴族館の広間であったということは当然のこと。ルネサンス劇の上演は宴会を飾るものでり、その為に必要なのは、演じられる場、舞台であって、劇場という建築ではなかった。

16世紀に入ると、劇の上演は、人文学者による文学的・教養主義的な場であることより、君主の祝宴に参列する貴族や貴婦人のお楽しみの場としての意味合いが強くなった。
祝宴における楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、あるいはインテルメディオ。上演が終われば祝宴の参加者たち、劇で歌うサチュロスや美しいニンフ、女神と共にダンスを楽しんだ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)であった。
祝宴外交に明け暮れた16世紀後半、演じられるものが文学的なラテン喜劇ではなく、見て・聴いて、役者とともに踊りを楽しむ音楽劇インテルメディオであるならば、どこの宮廷も広間型の劇場を必要としたのであって、専門の劇場など必要とされなかった。同時期のテアトロ・オリンピコはなんとも時代遅れ、あるいは早すぎたのか、これはヴィチェンツァそしてパラーディオのみが持つ異端な建築であったと見なさなければならない。

劇場空間としての広間、つまりテアトロ・ダ・サラがどのような形態を持っていたか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型と言える。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを、1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが改装した。
その形式はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」の考え方を踏襲したものと考えられる。
広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景が透視画法で描かれていた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景のみを作ることにあったようだ。
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」(劇場p65)
つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかが彼の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。

テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのは1598年のジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世の設計のもの。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた頃のこと、ヴァザーリ二世はメディチ家の依頼により理想都市の一部となるような劇場を設計した。
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている。(図版劇場p66)
大事なことは、壁龕を持った外周壁で示されるように、ヴァザーリはこの劇場を独立した記念的建築物と捉えていること。さらに、重要なことは、劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着くということにある。
このことにより、全員参加の祝祭としての劇場という概念は、全く意味を失ってしまった。ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口は全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上にしつらえられた出入口より劇場に入る、というのが常識。劇場は祝祭空間であり、全員参加の場であったから。しかし、この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。

この分離は現代劇場においては当然のこととなっているが、この時代にあって、劇場には新たな使命が課せられたことになる。観客(見る人)と演技者(見られる人)が明快に分離された劇場、そこはもはや祝祭の場であることより、観客の為の社交空間。演技者とは異なるエントランス階段を得たことで、劇場は観客自身のための演技の場、壮大な社交の空間となる道を確保したのだ。古来、劇場は神あるいは自然と直接関わる場、人間と世界の関係が示す場であった。しかし、ここに至り劇場の新たな役割、それは人間と世界の関係より、人間と人間の関係を構築する場、つまり、18世紀以降のオペラ劇場の役割につながる、新たな使命を持つものとなったのです。

2011年11月25日金曜日

メディチ家の祝祭、オペラの誕生

(メディチ家の復権と教皇レオ一世)

花の聖母大聖堂のドームの完成から六十年、フィレンツェ・ルネサンスの中心的役割を果たしたメディチ家は十五世紀末から波瀾万丈の時を迎える。共和国でありながらすでに君主のように振る舞っていたメディチ家だが、豪華王と呼ばれたロレンツォ・イル・マニフィーコが没すると、ドメニコ会修道士サヴォナローラの反メディチ運動により一挙に窮地に立たされた。

そして1494年のフランス王シャルル八世のナポリ遠征に伴うフィレンツェ入城により、フィレンツェは揺れに揺れ、遂に、ロレンツォの息子ピエロ・デ・メディチとその弟たちは、ほとんどの財産を没収されたまま、ヴェネツィアへと脱出しなければならなかった。

復帰を果たすのは1512年、今度はフランス軍をイタリアから追い出したスペインの後押しによってだ。メディチ家のフィレンツェ帰還にもっとも尽力したのは枢機卿のジョヴァンニ・デ・メディチ。フィレンツェを追われたまま、フランスとスペインの戦いに参加し、遂に戦死したピエロ・デ・メディチに代わり、弟のジョヴァンニは当主として画策する。

幼いころから聖職者の道を歩まされていた彼は、兄弟の中では最も非凡。父ロレンツォは後のメディチ家の苦難を予測していたからであろうか、財力と権力の限りを尽くし、わずか十六歳のジョヴァンニを枢機卿にすることに成功した。それは十五世紀末のこと。ロレンツォの画策でジョヴァンニの叙任を許した教皇インノケンティウスの死の僅か三ヶ月前。ロレンツォ自身の死の三週間前、そしてメディチ家の苦難の始まる三十ヶ月前のことだった。

1512年、共和派ソデリーニやマキャヴェリが退けられ、フィレンツェの市民総会はその権力を緊急評議会に委譲する。評議会のメンバーは四十人、そのほとんどをメディチ派が占めることとなり、枢機卿ジョヴァンニと新しいメディチ当主ジュリアーノは帰還することが許された。

千五百人の兵を率いて入場した枢機卿ジョヴァンニはあふれるばかりの民衆に迎えられ、まさに一国の君主の入市式の趣。サヴォナローラ時代の陰鬱な雰囲気が一遍に吹き飛び、フィレンツェはたちまちにして昔の賑わいを取り戻し、街中に音楽が鳴り響いた。

メディチ家が復権してまだ半年、ジョヴァンニは突然ローマに戻らなければならなかった。彼の後盾でもあった教皇ユリウス二世の死去の報が届いたからだ。名門の出身ではない教皇はフランス、スペインどちらに荷担することもなかった。それ故にメディチ家の復帰には幸いしたのだが、その教皇の死はフィレンツェにとっては再び後ろ盾を失う一大事。この時、ジョヴァンニ自身も体調を崩し、暗鬱な気分でローマに向かわなければならなかった。

ローマには到着したが、遅れて参加したコンクラーヴェ(教皇選出会議)。結果はなんと、ジョヴァンニが次期教皇として選出される。メディチ家出身の教皇レオ十世の誕生にフィレンツェは驚喜する。祝典では大聖堂の鐘が打ち鳴らされ、祝砲に、花火、クラッカー、酔いしれた群衆の叫びと、延々の燃えつづける火の中には家具や住家の厚板までが投げ込まれる狂乱状態が四日も続いたと言われている。


(トスカーナ公国の誕生)

メディチ家一色に塗られたかのようなフィレンツェだが、その政体はあくまでも共和制、相変わらずの内憂外圧、その後も揺れつづける日々が続く。復帰を支援したスペインが程なく外交上の失敗でミラノやナポリから追い出されると、今度は在位したばかりの若いフランス王フランソワ一世が、またまたイタリア半島に足を踏み入れる。

一方、スペイン王フェルナンド一世から王位を引き継いだのがハプスブルグ家カルロス一世、彼はほどなく神聖ローマ帝国皇帝(カール五世)をも叙任することとなり、ここにきて、ドイツとフランスはイタリアを挟んで大きく対峙することとなった。

こんな時代、揺れるのはフィレンツェだけでなく、イタリア全体。ヴェネツィア共和国はもちろん、ミラノ、フェラーラ、マントヴァ、ウルビーノと、どこの公国もその存亡に四苦八苦する。そんな中、1521年、フィレンツェは教皇レオ十世を失った。しかし、程なくフィレンツェはまた新たなメディチ家出身のローマ教皇を得ることとなる。優柔不断(サッコ・デ・ローマ)の教皇と言われるクレメンス七世。

こんな時代のフィレンツェが再びメディチ家出身の教皇を得ることは共和国にとって幸いであったかどうか。イタリアの一都市に過ぎないフィレンツェは、その生き残りの全てはクレメンス七世の存念に支配されることになった。

新教皇は自分自身の庶子であるアレサンドルをドイツ勢力下のフィレンツェ公として迎えることを画策した。当初、アレッサンドルは巧みに振る舞い、共和国としての対面を保ったが、カール五世の庶子であるマルガリータと結婚、ついにフィレンツェ共和国は実質的にはドイツ支配下の君主国に移行することとなった。


(メディチ家の祝祭)

君主となったメディチ家はフィレンツェの持つ共和制時代の伝統を巧みに隠蔽しつつ、専政的な支配体系(君主制)を確立することが必要となる。さらに新興貴族のメディチ家がハプスブルグ家やヴァロア家のような一大貴族の仲間入りを果たすためには、その一族の栄光と新たな権力の強調は不可決だった。

その権力の強調のため、数々の祝祭や宴会を開催し、かってのように一市民としてではなく、独裁者・君主として都市を華麗に飾らなければならない。都市を舞台としての祝祭は諸外国の君主との対面上の必要であるばかりでなく、フィレンツェ市民そのものに、その威光を印象づけるためにも欠かせぬもの。

メディチ家はこうした祝祭のたび毎に宮殿(パラッツォ)や別荘(ヴィッラ)を建て、その内部には数々のフレスコを描いた。あるいは都市のそこここには公共の記念建造物や彫像を置く。君主は君主である為には建築を作り、都市を飾らなければならなかったのだ。

祝祭のための飾り付けには様々なアレゴリー(寓意)を表現したアトリビュート(事物・持ち物・属性)の使用がもっとも効果的。威光や権力という目に見えないものを見えるようにするためには、古来より事物に意味を託すという手法が最も役に立った。

メディチ家は神話的体系の形成に関わる様々なアトリビュートを祝祭のたびに飾り付ける。それは一族の歴史そのものを、いにしえの王の継承者に匹敵しうるもの、と印象づける為に不可決なことだったのです。


( トスカーナ大公の結婚式)

メディチ家の大々的な祝祭の最初は1539年のトスカーナ大公・コジモ一世の結婚式。花嫁は神聖ローマ皇帝カール五世によって選ばれたナポリ総督の娘、エレオノーラ。彼女はスペイン人、トレドの生まれだった。

その祝祭のすべてはスペインのカルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)への賛辞とフィレンツェ市民への誇示で覆われ、記念門や騎馬像が建てられる。

婚礼の祝祭は当然、宮廷の中にも持ち込まれる、そこでの山場はインテルメディオ(幕間劇)、その経過はことごとく記録に残された。

ラテン喜劇にインテルメディオ(幕間劇)を挿入することで、宮廷人がラテン語文体を学ぶという文学的朗読会の場を、音楽的娯楽的色彩の強い観劇の世界に変えたのは前述した十六世紀の始めのフェラーラ・エステ家宮廷。そのインテルメディオはフィレンツェに持ち込まれ、新興のメディチ宮廷の神話作りに最も効果的な催し物として利用される。インテルメディオの上演は娯楽の対象であると同時に、政治的意図を伝える格好の機会。メディチ宮廷ではインテルメディオを手の込んだ視覚的スペクタクルに仕上げ、声楽と器楽曲を相あわせた一つの芸術形式のようなものにまで発展させている。

1539年の祝宴では七つのインテルメディオが上演された。この時の上演はアントニオ・ランディのラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディチ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、観客席と初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセニアム・アーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じている。


(建築家ヴァザーリのプロデュース)

1565年の祝祭はさらに大がかりなものだった。コジモの息子フランチェスコ・デ・メディチと神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の妹、ヨハンナとの結婚式。祝祭のプログラムの作成はドン・ヴィンチェンツォ・ボルギーニ、アートディレクターはジョルジョ・ヴァザーリと記録されている。

二人は十六世紀半ばのもっとも著名な学識経験者、多彩な活動で知られる修道院長と建築家。フィレンツェには婚礼のための都市への入場式門やメディチ一族を讃える野外劇場が建設され、さらにヴェッキオ広場には「宗教」と「市民の賢明さ」「公衆の平静」を主題とする三つの記念門が作られた。

この時の建築家ヴァザーリは多くの街路装飾の総合監督。多くの建築家、彫刻家、画家の一団をまとめあげ、フイレンツェ市民があたかも、いにしえのローマの中を歩き回っているような体験を演出したと言われている。

ヨアンナとフランチェスコの祝宴での演目はフィレンツェに題材を採った「ラ・コファナリア」。この時のインテルメディオは観劇していた花嫁と花婿に繋がるもの、すべてがアモールとプシケの物語。

会場はヴェッキオ宮殿、中世以来の共和国の城館がメディチ家の宮殿、その二階の「十六世紀の間」だった。内装は当然、ジョルジョ・ヴァザーリが担当。広間には観客の為の段席が設えられ、大公の席はその中央に設けられた。

舞台にはプロセニアム・アーチ、そのアーチには下に落とす形の幕まで用意されている。声楽には器楽の伴奏が付き、間奏曲はチェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団が演奏した。


(メディチ家の大狂宴)

もう一つ重要なインテルメディオもまた克明な記録に残されている。フェラーラのエステ家同様、メディチ家も記録を出版することで婚儀のもつ政治的意味を積極的にフィレンツェ内外に知らしめることができたからだ。

1589年、フェルディナンド大公とロレーヌ家のクリスティーヌとの結婚式。この時の劇場はフィレンツェのウフィッツ宮殿に設えられた。ウフィッツィ宮殿はコジモ一世の命によりジョルジョ・ヴァザーリが1560年に設計した建築。現在は絵画美術館として使われている。

1575年、メディチ宮廷は手狭になったヴェッキオ宮殿からこの新宮殿で公務を執ったが、ここの広間を改造した劇場がすでに触れたテアトロ・メディオ。この劇場は十七世紀初頭のカロの版画として残され、当時の様子を知る重要な資料となっている。そして、この劇場こそバロック劇場の原型、中庭や広間で仮設化された当時の舞台の集大成と目される。

フェルディナンドとクリスティーヌの結婚式は1589年5月2日。ジローラモ・バルガーリの五幕の喜劇「女巡礼」(ラ・ペレグリーナ)、その幕間とその前後、六つのインテルメディオが上演された。

この時のインテルメディオはイギリスのテレビ局によって再現されている。制作はちょうど、四百年後の1989年。「メディチ家の大狂宴」と題されたこの企画はその後イタリア賞も得ることになり、世界中で発売された。(東芝EMI・TOLW-3620)画面は全て明るい光に包まれたギリシャ神話の世界、神々が雲に乗り、高らかにマドリガーレを響かせる。

器楽奏者は二十人を優に越え、当時の世俗音楽としては驚くほどの大編成。ムーサイやシレーナやニンフたちのマドリガーレは六声から八声、歌合戦のシーンや最後の地上に降りた神々の贈り物では三十声部を二人づつ六十人で歌う一大アンサンブル。

当然、この上演は大評判、楽譜はもちろん台本や舞台デザイン、その全てがヴェネツィアやフィレンツェで出版された。音楽そして舞台構成、残された記録は上演内容とそれに関わった人々を含め、祝典の姿を余すところなく今日に伝えてくれる。

全体の構成はメディチ神話の視覚化作業を担当するアカデミア・フィオレンティーナ。台本はリヌッチーニ、作曲は当時大人気のマドリガーレの作曲でフィレンツェの音楽界を風靡していた面々、バルディ伯爵やルーカ・マレンツォ、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ、クリストファノ・マルヴェッツィ等が担当。

後の「エウリディーチェ」作曲者ヤーコポ・ペーリも何曲か担当しているが、まだ若い彼はこの時、アポロン役の歌手でもあった。さらに興味深いのは舞台担当の建築家ブオレンタレンティ、彼はジョルジョ・ヴァザーリを次いだメディチ家筆頭の建築家。

しかし、ここでの役割は、建築以上に重要だった祝祭・祝典の装飾係。この時、彼が書き残した舞台画は個人により生み出される幻想の数々、透視画法が持つルネサンスの理想とは程遠く、それは個人という作家による作品制作の時代の始まりであり、バロック時代の到来を確実に物語るものとなった。

作品の時代の到来を告げる真のオペラの誕生はモノディ様式による「エウリディーチェ」の完成を待たなくてはならないが、1589年の「メディチ家の大狂宴」はオペラ誕生以前に早くもバロック・オペラの全容を記録した画期的な出来事となっていたのです。


(バルディ伯のカメラータ)

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる、生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。十六世紀後半、フィレンツェには二つのアカデミア(メディチ家の周囲に集まった人文主義者のサークル)があった。

そのうちの一つ、アカデミア・フィオレンティーナは新興の君主であるメディチ家を神話化する為、その視覚化作業に中心的役割を果たした。1589年、フランチェスコ・デ・メディチとの結婚の際のジョヴバンナの入城門の設置やサロンでのインテルメディオはこのアカデミアが中心となって運営される。

もう一つのアカデミアは音楽に関わるサークル、正式にはアカデミアを名乗る資格は持ってはいないが、音楽家としても名高いジョバンニ・バルディ伯爵がサンタ・クローチェ教会の近くの館で個人的に開いていた。

そこに集まった人たちをカメラータと言い、バルディ伯のカメラータと呼ばれている。参加しているのは貴族ばかりではない、教養のある市民、音楽家、詩人、哲学者たち。彼らは天文学を研究し、詩や劇を書き、作曲もした。音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見すること、さらに詩と音楽をいかに結びつけるかなどを研究している。


(コルシ伯のカメラータ)

バルディ伯のカメラータの有力メンバーの一人はガリレォ・ガレリーの父。彼は「古代音楽と現代音楽に関する対話」を出版し、伴奏付きモノディ様式の理論的基礎を築いている。

自らも詩や劇を書き、作曲もするジョバンニ・バルディ伯爵は古典神話の研究に力を注ぐアカデミア・フィオレンティーナに協力し、その音楽的サポート、ギリシャ音楽の本質の発見と古代の習慣に合わせた当時の音楽の改革に力を注いだ。

トスカーナ大公が代替わり、フランチェスコから弟のフェルディナンドに代わると、先代の大公に近い立場にあったバルディ伯やガリレオは宮廷から疎んじらる。残されたカメラータたちをバルディ伯に代わって保護したのはフィレンツェ貴族ヤコポ・コルシ伯爵だった。

コルシ伯爵は富裕でもあり、新大公に取り入ろうとする政治的野心も持ってる。やがて、コルシ邸にも沢山の人々が集まるようになる。バルディ伯のカメラータたちを教師として育ってきた若い詩人のオッタヴィオ・リヌッチ-ニや作曲家ヤコポ・ペリという人たち。さらに、有名な独唱曲マドリガーレ「アマリッリ」の作曲家ジュリオ・カッチーニ。彼はバルディ伯の館でのカメラータでもあったが、この曲をコルシ邸の集まりの頃この曲を作曲し、彼自身の研究書「新音楽」の中に挿入している。

バルディ伯からコルシ伯と引き継がれたアカデミア、そこでのテーマは引き続きは古代ギリシャの音楽劇の様式についての研究が中心だった。


(ポリフォニーからモノディへ)

コルシ伯のカメラータの関心は牧歌劇やインテルメディオを、ただただ上演すれば良いというものではなかった。どちらかというと学究的な集まり、ギリシャにおける厳粛なドラマと音楽の結合に関心を集中させている。

そして、「ギリシャ劇では言葉と旋律が一致している、そこでは言葉が全体を支配し、音楽がそれに従う」と考えていたのだ。宮廷におけるマドリガーレやヴェネツィアにおける複合唱、それらはかなりイタリア的、ホモフォニックな趣を持っている。しかし、その音楽のみからではオペラは生まれ得ない。マドリガーレはヴェネツィアの複合唱ともども時代を謳歌していたポリフォニー音楽の一つに他ならないからだ。

コルシ邸のカメラータたちは、ポリフォニーは鼻持ちならないもの、抒情に走る音の綾織りとみなしている。ギリシャ悲劇の再生にはリズムと音、単純なメロディを重視した楽曲が必要と考えた。さらに彼らは、劇の上演にあたってはテキストがはっきりと理解できる状況こそが大事であって、その為には音楽は、簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。

ポリフォニー音楽を、知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎないとまで言う彼らは、ハープシコード、チェロ、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバの通奏低音の管弦楽の上に立つ単旋律のソロの歌にこだわり、それが「モノディ様式」として確立された。結果として、その試みから見いだされたもの、それはドラマのなかに音楽を挿入する方法ではなく、音楽とともに進行するドラマの形式。ここで見るオペラの誕生は、ゴシック様式がイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したのに似て、曖昧さのない知的構築物を求めた結果と言ってよいようだ。


(初めてのオペラ、ダフネ)

史上初めてのオペラ「ダフネ」は1598年の謝肉祭にコルシ邸で初演された。リヌッチーニの台本に最初はコルシ伯自身が、やがてペーリが作曲に加わり完成する。現在に残こされた楽譜はコルシ伯の作曲部分のみ、従って「ダフネ」はオペラの歴史からは消えていく。しかし、初演後の評判は高く、謝肉祭の明くる年、そのまた明くる年と大公の宮廷で再演されたと記録されている。

「ダフネ」は牧歌劇による音楽劇。その内容は比喩的にはトスカーナ大公の歴史を概観したもの。アモールの二本の矢から始まるアポロとダフネの物語。アモールの黄金の矢を受けダフネに心を奪われたアポロン。彼に追われダフネが変身する月桂樹はメディチ家の木を意味している。アポロンはその木を勝利と喝采に捧げ、自分自身の悲しみを昇華させる。

この物語はまた、混沌に対する秩序の勝利と回復が主題となっている。アポロンはもともとフィレンツェそのものを意味する。そのアポロンをコジモ一世の象徴とすることで、メディチ家そしてフィレンツェの復興を印象づけようとすることがそもそも牧歌劇「ダフネ」の筋書きなのです。


(ピッティ宮殿のエウリディーチェ)

「ダフネ」の上演で積極的に大公フェルナンドに取り入ったコルシ伯は次に「エウリディーチェ」を世に生み出すことになる。「エウリディーチェ」は1600年10月6日、トスカーナ大公の娘のマリアとフランス国王アンリ四世の婚儀の際、パラッツォ・ピッティで上演された。

現在のオペラのレスタティーボ(オペラにおける詠唱ではなく、語りの部分)とは異なり、多少メロディアスであったとは言え、通奏低音の上の単旋律のソロや合唱だけの音楽劇は宮廷の結婚の祝宴の催しものとしては華やかさに欠けている。

すべての「言葉」を音楽として歌う新しい形式は、スペクタクルな場面をマドリガーレで盛り上げるインテルメディオに比べ、祝宴に適するものであったかどうか気になるところだ。しかし、新しい音楽劇「エウリディーチェ」は多くの人々の関心を呼んだと記録されている。

「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果が必要であったのではない、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠い、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なこと、それはカメラータのモノディ様式が音の綾織りの嫌悪し、ソロを確立したことだけにあったのではなく、「音楽によってドラマが進行する」という様式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎をデザインしたことにあったのだ。

「エウリディーチェ」のドラマの形は悲劇でも喜劇でもない、第三の劇、牧歌劇だ。音楽の寓意によるプロローグで始まる形式も当時人気の「アミンタ」や「忠実な羊飼い」となんら変わるところはない。牧歌劇の舞台はアルカディアであり、題材は恋愛、物語は諸々の事情により始めはうまくいかないが、最後は幸福な結末となるというのが一般的。

しかし、「エウリディーチェ」はオルフェオの物語、牧歌劇としてはいたって単純、オルフェオが黄泉の国からエウリディーチェを救い出す話。物語が単純であることから、「エウリディーチェ」は新しい音楽の様式にすっかり合い、音楽でしか果たせない情感表出の場面にも恵まれたのだ。

この単純ではあるが情感豊かな「エウリディーチェ」の上演はドラマでもなければ、インテルメディオでもない、初めての音楽劇(オペラ)として位置づけられることになった。

オペラはブルネレスキやアルベルティよる透視画法の発見からほぼ百五十年余り後、同じフィレンツェの地で誕生した。古代ギリシャ以来「神のいる世界」を眺めてきた人間は「オペラの誕生」によりこれから後、 「音楽と建築」をメディアとして、神に代わり人間が眺める「風景の世界」と関わって行くことになるのです。

2011年11月24日木曜日

フィレンツェのカメラータの音楽

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる。
生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。16世紀後半、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の近くのジョバンニ・バルディ伯の館ではユマニストの集まりがあった。彼らの集まりをアカデミーと言うが、集まった仲間たちをカメラータという。テーマはギリシャ悲劇の上演、音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見することにあった。

ギリシャの音楽は言葉と旋律が一致している。言葉が全体を支配し音楽がそれに従う、バルディのカメラータが考えたギリシャ悲劇。テキストがはっきりと理解できるように、音楽は簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。当時流行のポリフォニー音楽は知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎない。当時流行のフランドルの多声は複雑な音の綾織りに過ぎないと嫌悪されている。
そして和声的感覚の上になり立つソロの歌にこだわった。
建築デザインにおいて、ゴシックがイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したことに通じるものがある。彼らは曖昧さのない知的構築物を求めていたのだ。

カメラータは1594年田園劇「ダフネ」を完成させる。
さらに1600年10月6日、トスカーナ大公の娘の婚儀には「エウリディーチェ」をパラッツォ・ピッティで上演した。レスタティーボだけの音楽劇は今の私たちには、結婚式用の華やかなイメージとはほど遠いもののように思える。しかし、演奏された「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果とは異なるもの。詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠く、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なことは、ソロの確立や音の綾織りの嫌悪ではない。音楽によってドラマが進行するという(モノディ)形式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎がはじめて作られたことにあった。
この形式はブルネレスキやアルベルティの建築から遅れること100年あまり、しかし同じフィレンツェの地で誕生したことは重要だ。

2011年11月23日水曜日

インテルメディオ


古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない、しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、ソロや二重唱やコーラスも用いられていた。音楽が積極的に展開される場は、挿入部であるがゆえにインテルメディオと呼ばれていた。その題材はネウマのトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持っていた、しかし、あくまで劇本体とは別種なもの。それぞれ独立した物語であった。
教養主義的なラテン喜劇に音楽劇を導入する契機は、その上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。古典劇への関心の大小に関わらず、より多くの人々をそのドラマの世界に引き込んでいる。ここで重要なことは、インテルメディオへの関心が高まれば高まるほど、それが演じられる場は朗読会のような内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界を必要としたであろうということだ。

 インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは15世紀初めのメディチ宮廷です。共和制から君主制に移行したフィレンツェ、1539年コジモ一世とトレドのエレオノーラとの結婚式では7つの続きもののインテルメディオが上演され、精巧な透視画法を用いた舞台装置まで採用された。
インテルメディオはラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディテ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、ヴァレリウム(古代ローマ風のテント)の下の観客席、そして初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセ二アムアーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じられた。

1565年、オーストリアのジョバンナとフランチェスコ・デ・メディチの結婚式、演じられたのは「ラ・コファナリア」、会場はメディチ宮殿の16世紀の間。内装はジョルジョ・ヴァザーリ、観客の為の段席まで用意され、大公の席はその中央、プロセミアム・アーチには下に落とす形の幕が用意された。声楽に器楽の伴奏、間奏曲の演奏は、チェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団、そしてこの時のインテルメディオはすべてクピドとプシケの物語、当然この物語はそのまま観劇してしていた花嫁と花婿の結婚に繋がっている。

北イタリアのマドリガーレ



17世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地です。
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。
しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という3大勢力の政治的バランスの調整地でもあったのです。
衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたがミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントバ、パロマ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。
どこの都市も政略的な結婚とそれに伴う華麗な祝宴を演出することで外交上の生き残りの道を画策している。
加えて1630年以来の諸都市に日常化し、蔓延していたたペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教的混乱、イタリア半島の17世紀はイタリアは精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っているものと、言えるのではないだろうか。
オペラと劇場がもてはやされた時代はそんな時代。
その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈り。
とは言え、その時代が前時代の形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。
その時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが最も関心を持っていたこと、それは近代的な意味での際限のない人間追求であった。
 

2011年11月22日火曜日

オペラ劇場、その建築的役割


















演技者や音楽家にとって、劇場は必ずしも必要なものではない。
現代のピーター・ブルックに示されるように、都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇にとっては必要なのは舞台であって、劇場ではない。
劇場を必要としたのはむしろ建築家でした。
劇場をつくることで、建築家は建築家に与えられた社会的使命を果たさなければならなかった。

ペロポネソス半島のエピダウロス劇場は、アイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した100年も後の建設。
北イタリアのテアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す50年も前の建築です。
興味深い事に、ギリシャ劇場はむしろギリシャ悲劇の低迷期に作られている。
現代社会からはじめて言える事だが、たくさんの劇場が作られる時代、その時代は必ずしも演劇が盛んであったわけではない。
さらにまた、演劇が建築としての劇場の形式を決定したということはほとんどない。(ワーグナーだけは自分の音楽のために自分の劇場=バイロイト劇場を作った)。
演劇は劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えて行った。その最も具体的な例がオペラ。

フィレンツェの貴族館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開いた。つまり、オペラはバロック劇場を得る事で音楽の形式を完成させたのです。














建築は、人間の生活のための安全で便利・快適な箱を作ることがその役割だが、必ずしもそれだけが役割の全てではない。
建築は人間と人間、人間と世界との関係を調整するという役割を持っている。
エピダウロス劇場やテアトロ・オリンピコは演劇や音楽のための建築という以前に、人間と世界の関係を示した実物模型としての役割を持っていた。
劇場空間は「世界のかたち」、世界とはこのような形であるという実感させる似姿(モデル)であったからだ。
つまり、建築家は世界模型としての劇場を作ることで、世界の中での人間のあるべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにしようとしたのだ。「世界」そのものを知り、自分自身が「世界」のどこにいるかを実感させる建築空間、そんな空間の創出がギリシャあるいはルネサンスの都市の衰退期に建築家が社会から要請された使命だったのだ。




演劇の上演にあたって音楽が用いられることは、古代よりどこの文化シーンでも常識化している。その目的が宗教的経験であったり、世俗的娯楽であったりすることも共通。中世の受難劇がオペラと異なるのは、題材の違いは当然としても、前者が場面、衣装、舞台装置を用いないだけで、音楽とせりふの関係はほとんど変わらない。むしろオペラの特色は演じられる場、劇場にある。近代の祝祭空間であるオペラは宗教改革に揺れるヨーロッパ社会にあって、教会とは異なる<劇場>を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんだように思える。一方、ギリシャや中世の祝祭空間から見ると、劇場を必要としたのは音楽家や演奏者ではなく観客。見る・見られるという視線の分離が不必要な全員参加の古代の祝祭にあっては、まだ劇場空間が必要とされることは無かったのです。
オペラと近代劇場の誕生、各々は決して同時に同じ場所で生まれたものではない。発展の経緯は後述に譲り、その契機を見る限り、オペラはすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えて行ったように思える。つまり全員参加の祝祭空間に<劇場>の持つ<見る・見られる>という装置を巧みに取り込むことにって、オペラと言う形式を整えていった。 

一般に劇場をめぐって建築家と音楽家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のために作られていない」。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のためにあるのだから、建築家はこの批判に対処しなければならなのは当然、しかし、契機から見る限り、かっての建築家には弁護の余地はある。何故なら建築家は祝祭から誕生した劇場を観客のために作ったのであって、音楽家の為ではない。

図版はロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」が1816年2月20日初演されたローマ・アルジェンティーナ歌劇場」http://www.and.or.tv/operaoperetta/1.htm

2011年11月21日月曜日

古代劇場の固定背景とシェークスピア劇


現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータの劇場。
紀元二百年頃のこの建築、リビア出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられた。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。
その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打って作られている。
両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。
この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが可能となった。
舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有し壁龕を作っている。
この壁龕に挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所となっている。
この舞台背景(スカエナ・フロンス)は何を意味しているのか。

全体の印象は後のルネサンスに沢山登場する理想都市のイメージ。
アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景はテアトロ・オリンピコに共通している。
ヴィトルヴィウスの建築書から類推すれば悲劇用のスカエナと言えるが、興味はむしろ、背景が何故、劇の内容以前に設置され、固定化されているかにある。

舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇とは異なり、この固定化されたローマ劇場の背景はどんな意味を持っていたのだろうか。
「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマはもちろん西欧社会では十六世紀以前、舞台背景はいつも固定的なものであったのだ。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場つまり観念的な世界(コスモス)を示すもの、あるいは中世においては天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものであった。
そのような舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物に他ならない。

劇場は二つのコスモスが重なりあった空間であるという説明はすでにした。
そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として位置つけられていたのです。
つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場にほかならない。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピアです。
「十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ時代同様のコスモス(世界観)の象徴性で満たみたされていたのに対し、シェークスピアの登場人物が生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。
その理由は登場人物が世界観ではなく特定の場所に強く結びついているからです。

同時代の他の作家と異なり、シェークスピアは主役たちに特定の物理的背景を与える必要性を感じていた。
彼の場所に対する感受性は、時代を先取りしていた。
やがて、西洋社会では自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピアの見方が多くの人々に共有されるようになった、と言って良いだろう。

舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行していると考えられる。
舞台が一つのコスモスであった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、また万人でもあったのだ。
しかし、舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景(シェークスピア劇)が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。(個人空間の誕生:p147)

つまり、ローマの劇場は特定の場所ではなく世界劇場(コスモロジー)を意味しているのです。
世界劇場の祝祭舞台は普遍的な場に他ならない。
そこは神がつくる天国や地獄であり、人間が生み出す理想都市。
一方、シェークスピアは世界劇場を否定し、人間劇場を創世した。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上階下階に設えられた舞台となり、あらゆる所を所狭しと使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。
そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であったのです。

ここで重要なことは、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあったことにある。

後に見るように、この変局点こそギリシャ悲劇からオペラの誕生に移行する変局点に他ならない。
つまり、オペラとは古代と近代の微妙な重ね合わせにより誕生した。
オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を重ね合わせているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言えるのだ。

2011年11月20日日曜日

オルフェオの世界

キリスト教が中心であった中世社会に代わり、神に依存しない「人間を中心」とした新しいライフスタイルを模索始めた時、 彼らは神によって作られた「自然的世界」と同時に、人間によって生み出される「作品的世界(オペラ)」に関心を示した。
  神の世界と人間の世界、それは自然的世界と作品的世界、人々は想像としての二つの世界に住んでいた。 その二つの世界を橋渡しをしたのは「オルフェオ」です。 

オルフェオは竪琴を弾き、言葉を音楽に載せることで無秩序な動物的世界を秩序だった人間的世界に変える音楽の「神」。 
あるいはまた、抒情詩人として言葉を歌によって話すことが許された唯一の「人間」でもあったのです。

 「ギリシャ神話」に始まり、ローマ時代の「変身物語」に引き継がれる「オルフェオの物語」はオペラの題材としてはしばしば登場する。 フィレンツェに生まれる最古のオペラを始めとして、その数は30を超え、やがてオルフェオはオペラのみならず、あらゆる「作品的世界」のテーマともなっていく。

 オペラ作品としての「オルフェオの物語」。 その中で最も良く知られているのがモンテヴェルディとグルック。 
前者は十七世紀の始め、オペラの誕生期の作品、後者はその転換期、十八世紀半ばに作られている。 
二つのオルフェオはオペラ作品として重要だが、オルフェオとオルフエオの間の150年間もまた極めて興味深い時代。
 モンテヴェルディのオルフェオの初演はローマ、サン・ピエトロ大聖堂の大ドームの完成の時期に一致する。 
それは美術史に言うバロック時代の始まり。 二つのオルフェオの間、バロック時代はオペラのみならず、建築、絵画、彫刻と人間による沢山の作品が作られた時代でもあったのです。 

 オペラの誕生を準備するルネサンス、そしてオルフェオとオルフェオの間のバロック。
 どちらの時代の作品も旺盛な想像力に満ち、知的好奇心を刺激する複雑多彩な虚構性を秘め、作り上げようとする人間の意志と想像力が満ちていた。 
現代にない豊穣な形態を持ち、多義的であり饒舌、豪華多彩、物語性に富み、祝祭的感覚で私たちを圧倒する、 この時代の建築は音のないオペラ(作品)といえる。
 一方、数多くの名歌手と演奏者、豪奢な衣装とスペクタクルな舞台構成、演じられるものは話す代わりに歌うという、 極めて非現実的なドラマであるオペラ。 
それは理性と享楽という、あい反する趣味を合わせ持った、人間が生み出す最大の「構築物」でもあったのです。 

「オルフェオの世界」の「音楽と建築」、それはともに装飾的、複合的、力動的、厚みのある「作品的世界」だ。 
「音楽と建築」の世界に同時に踏み込みたいとする試みは、人間の意識によって作られた世界、作品の持つ<虚構の世界>への関心にある。 
そこには「人間が人間として生きる」というヨーロッパ文化の持つ伝統が色濃く刻まれているからだ。


イマージナルとイリュージョナル

絵画は詩や音楽同様シンボルによる構築物です。

描かれている世界はいかに写実的であっても、それは実在の類似物、絵画空間はそこに指し示されたシンボルによって構築されている。

写実的にみえる絵の試みはおそらくギリシャ・ローマ時代の劇の書き割りから生まれたと考えられる。

このような例はポンペイのいくつかの家の壁画(図版)に残されているが、やがてこの手法はキリスト教社会の中では全く消えてしまう。14世紀のはじめジョット(図版)を代表とするイタリアの画家によって、同世紀末期にはヤン・ファン・アイク(図版)などオランダの画家によって、驚くような写実的な絵が生み出された。

しかし彼らは後の透視画法のような奥行きのある空間を描き出す技術的手法を持ち得ていたわけではない、むしろ当時の科学者に匹敵する詳細な自然観察から、これらの写実性を生み出していったと考えられる。

私たちの目で見る世界が、距離と共に物体の大きさもだんだん小さくなることを理論づけたのはブルネレスキやアルベルティだが、透視画法は古典古代の復興という観点からも注目された。

ルネサンスにおけるローマ時代の劇場の復興。15世紀、ローマのテレンティウスやプラトゥスの再評価が人文主義者の間で起こりラテン喜劇への関心が高まる。彼らは古代劇場こそ市民の教養(フマニスタ)の証し、劇場はフマニスタ表現のための格好な場であると考えた。

公演にあたってはウィトルーウイウスの研究が進められる。
ウィトルーウイウスとはローマ時代の建築家、彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。

人文主義者の関心はこの書の中の舞台背景画にあった。
ウィトルーウイウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の3つの背景画が存在する。

1508年、プロスペッティーヴァ(透視画法)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われている。
1518年、ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はウィトルーウイウスの記述の再現、有名な理想都市像(図版)が作られた。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適していた。
人間の五感は不完全なもの、従って世界に関する信頼に足る情報を伝えることが出来ないという、プラトン以来の哲学者の偏見から人間的視野を解放したのが透視画法と位置付ける(時間と空間誕生・青土社)ゲーザ・サモシに従えば、透視画法で描かれた理想都市こそ、ルネサンスの人間が神の支配とは乖離した、唯一生きうるに足る世界とみなしていたことが理解出来る。
透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルなモノではなく、現実以上に信頼できる確固とした空間であったのだ。

ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるこの理想都市像はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容し始める。

本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化するしていく。

ウィトルーウイウスは古代の円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

つまりルネサンス期の宮廷のための古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったのだが、と同時に絶対君主が操作するイリュージョナルな空間の誕生でもあったのだ。

オペラはこのイリュージョナルな空間を発見することから始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。オペラはそのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな音楽劇的な世界を生み出していく。

ルネサンス、古代劇場の再生


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(ルネサンスの祝祭)

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。

しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかに自らのの権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。

前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。

周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。

宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。

祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。

彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。

スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。

十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。

古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。


(ラテン喜劇はルネサンス市民の教養)

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。

そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。

テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。

ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。


(古代劇場の再生)

ラテン喜劇の上演にはローマ時代の「ヴィトルヴィウスの建築書」が使われた。彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。小宇宙=大宇宙の原理に関わるダヴィンチの人体比例図やアルベルティの「建築論」、パラーディオの「建築十書」等に大きな影響を与えたこの書は、すでに触れたが、ルネサンスの人文主義者・建築家にとって欠くことができないもの。

同時代のヴィトルヴィウスの研究とラテン喜劇への関わり、その数は記録が残されているだけでも膨大な量にのぼっている。フラ・ジョコンド、チェザリァーノ、ブラマンテ、セルリオ、バルバロという人たちはヴィトルヴィウス研究で名をなした人文主義者・建築家たち、彼らは各々の研究書の中で古代劇場の再生を試みている。


人文主義者の関心はこの書の中では特に舞台背景画にあった。ヴィトルヴィウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の三つの背景画が存在する。「一つは悲劇の、他は喜劇の、第三は風刺劇のスカエナと呼ばれるもの。これらの装飾は手法において互に異なり別々である。悲劇のスカエナは円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸宅や露台の外観また一般建物の手法を模して配置された窓の情景を持ち、風刺劇のスカエナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の景色で装飾される。」(前掲ヴィトルヴィウス建築書)この記述から類推すれば先述したローマ時代のサブラータ劇場のスカエナ(舞台背景)は円柱や破風であるから悲劇用と言えるようだ。


(舞台の背景画と透視画法)

上演の舞台背景には発見されたばかりの透視画法の空間が不可欠。ブルネレスキが発見し、アルベルティが理論付けた、人間の想像による等質・等方の透視画法の空間こそ、神の支配を受けないルネサンス劇の舞台を支えるものと言える。

つまり、理想都市とアルカディアがその舞台背景を構成している。そして、ルネサンスの舞台と透視画法、それはどちらも人間の計画的意志を持ってその中にシンボル配置することから生み出される新しい世界。その新しい世界こそ、神なき世界の生き方をレヴューするルネサンス特有の思考の空間となっていたのです。

劇の上演だけであるなら貴族館の広間か中庭が用意され、そこに舞台背景画を掲げるだけで十分であったが、劇場全体の再構成を試みるとなると容易ではない。と同時に、最初の実践が具体的にどのようなものであったのか、実はまだ充分には解っていない。

アルベルティは1452年にニコラウス五世の為のテアトルムを建てている。このテアトルムは当然、ヴィトルヴィウス劇場の再現であり、最初の実践と目されているが、資料が少なく詳細が解らない。むしろ、残された透視画法との関連でのヴィトルヴィウスの舞台背景の再生の試みはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初と考えられている。

「アトランティコ手稿」の街路の情景のための素描がその舞台背景。その手稿の制作が1496年あるいは97年であるならば、現存する最古の再生スケッチとなる。


(舞台の背景のスケッチ、透視画法による理想都市図)

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一般的な研究ではウフィッツ美術館に保存されているブラマンテの版画が最初のスケッチ。十六世紀初頭の理想都市図だ。

線画描写の絵は左右に柱廊を持った街路が広場の入口を構成する古代風アーチの門を潜り、アルベルティ風のルネサンスの教会まで続いている。人文主義者あるいは建築家は舞台背景画は描くことで、彼らがイメージする理想都市を具現化していたことがよく解る。


プロスペッティーヴァ(透視図)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われる。ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はヴィトルヴィウスの記述の再現、理想都市図が作られたという記録がある。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適している。ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるウルビーノの理想都市図はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

興味深い透視画法の背景画がもう一つある。ラッファエロとともに沢山の舞台背景を設計したペルツィッヒの作品。中央に格子状に仕切られた床模様を持つ街路、その左はアーケード、右は列柱廊、ルネサンス風宮殿の上にはパンテオンのドームにサンタンジェロの円筒の城砦が描かれている。

ポポロ広場のオベリスクの左にはゴシック風尖塔アーチ窓、後ろには空高くコロッセオの最上階の列柱も望める。この背景画は古代ローマ建築のコラージュとなっている。この背景を使いどんなラテン喜劇が演じられたかは定かではないが、観客にとってその世界はもう、迷うことなくイメージとしての理想都市ローマそのものであったことは間違いない


(透視画法の役割と劇場の変容)

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容する。本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化する。

ヴィトルヴィウスはその円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、やがて、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

ルネサンス期の古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったが、劇場そして透視画法はバロックの絶対君主が操作するイリュージョナルな空間へと変容していく。

オペラはこのイリュージョナルな空間の誕生から始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。さらに、そのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな劇的な世界を生み出していくことが、その発展の大きな道であったこともまた確かなのだ。



音楽のなかのアルカディア/©



(貴族の責務とアルカディア)

古代ギリシャのプラトン・アカデミーに習ったフィレンツェでの人文主義者たちの会合が最初のアカデミア。十五世紀のイタリアの人々にとって、キリスト教と古代哲学をいかに融合するか、いわゆる新プラトン主義という思考がまずはテーマだった。
しかし、文芸復興は単に古代回帰をだけを目指していたわけではない。新しい時代の担い手である自由都市市民(ポポロ・グラッツ)は、中世キリスト教社会の聖職者に代わり、正しい人間の生き方を具体的に学び得る場を必要としていた。ルネサンス宮廷でのラテン喜劇の上演もその一環と考えて良い。
豪華絢爛、趣味と娯楽の集大成、その後のヨーロッパ社会には欠くことのできないオペラと劇場の展開はこのようなポポロ・グラッツと言われる人々の社会的貢献が基盤となっている。

ヴィチェンツァの劇場とフィレンツェのオペラ、どちらも当時のアカデミアが生みの親、新しい時代の「音楽と建築」は作家という個人ではなく、人文主義者(ヒューマニスト)たちという集団であったことを心にとめおこう。
やがて、アカデミアは学問の研究というより、様々な考え方を討論し実践する場、文化活動運営の為の集まりとなっていく。戯曲の上演、サロンの劇場化、舞台設定の為の舞台背景画の制作等は新しい生活スタイルの実践そのもの。アカデミアは学ぶ場というより実践を通しての社会的貢献が責務となったのだ。

音楽や建築、絵画や彫刻、様々な作品の制作、上演という文化活動アカデミアの役割。従って、オペラ誕生の契機となった「オルフェオの物語=エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、その上演はただ単に余興として美しいメロディや華々しい音響効果が求められたのではなく、詩の意味、言葉の中身を的確に伝えることで、文体と思想をいかに具体的に表現するかが重要だった。


(フェラーラのラテン喜劇)

十六世紀後半のイタリア半島は事実上はスペインの支配下、情勢は逼迫し、どの都市もその生き残りを掛け画策する。画策とは合従連衡、その為の政略結婚そして沢山の祝宴。祝宴にはラテン喜劇やインテルメディオの上演が不可欠。

北部イタリアをアルプスからアドリア海まで東西に流れるポー河流域、フィレンツェとヴェネツィアに挟まれた肥沃な平野に位置するフェラーラ、そこはいつも政治的には微妙な状況に立たされている。もともとは自治都市だが、十三世紀にはエステ家一族の支配下に置かれた。

エステ家は近親間の血なまぐさい惨劇を繰り返したこともあるが、学芸を愛好し、多くの芸術家を積極的に保護した家柄でもある。音楽への傾倒は特に強く十六世紀初めエルコーレ一世がフランドルの音楽家ジョスカン・デ・プレを宮廷礼拝堂楽長として招いたのは有名な出来事だ。

エンコーレ一世の長女は後のマントヴァ后妃イザベラ・デステ。デ・プレの役割はエンコーレ一世の為に宗教曲を書くことだったかもしれないが、イザベラと弟たちアルフォンソとイッポリットが求めていたのは世俗音楽だ。

やがてマントヴァに嫁つぐイザベラの求めに応じ、デ・プレはフェラーラ宮廷で沢山の世俗音楽を書いた。

しかし、エンコーレ一世が最も力を入れていたのはラテン喜劇の上演。ラテン喜劇とはプラトゥスやテレンティウスというローマ時代の詩人によって書かれたラテン語のドラマを言う。

十五世紀後半からのエステ家宮廷では沢山のラテン喜劇が上演され、その度毎に上演内容は克明に記録され出版されている。当時、記録を残すことは上演することと同様とても大事なことだった。上演とその記録の出版はともにエステ家の名声を高める役割を担っていたからだ。

上演が仮に他愛ないお遊びに終わったとしても、それはエステ家が提供しえる重要な文化活動の一つとなっていたのだ。

テアトロ・オリンピコを作ったヴィチェンツァのアカデミア同様、上演は同時代の貴族が社会に対し果たさなければならない重要な責務の一つであり、その責務の履行が小都市の生き残りの為の戦略の要。残されたいくつかの記録の中で特に有名なラテン喜劇が宮殿の中庭の一辺に舞台まで設けられ上演された。プラトゥスの「メナエクムス兄弟」。舞台奥の壁面には中世風の都市住宅や城壁、塔などが描かれていて、仮設とは言え、この中庭はおそらくイタリア最初の近代劇場と言って良い。

それは、ヴィチェンツァにテアトロ・オリンピコが誕生する100年も前の出来事。題材において中世的宗教劇とは異なるプラトゥスやテレンティウスの上演は古典文化と接触しうるまたとない機会。ラテン喜劇の上演は新しいライフスタイル、非キリスト教的生活の規範となる古典的会話文体や立ち居振る舞いを身近な形で学びうる格好の場。フェラーラ宮廷のラテン語の悲劇や喜劇の上演は当時の人々にとってのカルチャーセンターとなっていた。

その教養主義的な文学的関心から上演のために専用の劇場まで必要とされるようになったとことは、宮廷の人々の関心がもはや文学だけに留まるものではなく、演劇そのものへと移行しつつあったことをも示している。当初の少数で行われる朗読会は多くの人が集う公演へと転換し始めた。

少数の朗読会が多くの人のための公演と形を変えることで、演じられる場も一定ではなく、演じられる内容も変わって行く。「メナエクム兄弟」は中庭に舞台をしつらえての上演だが、その三年後の公演は宮殿内の大広間に移されている。そして、舞台の前面に舞踏のための広いスペースまで確保され、そのスペースを三方から囲うような階段状の観客席が設えられたという記録が残されている。


(マントヴァのフロットラ)

マントヴァはイタリア半島の付け根、豊かに広がる平野の中央に位置する小都市。北のガルダ湖からの流れがポー河へ合流するミンチョ川、その川が生み出す湖に囲まれた水の都でもあり、ウェリギリウスが生まれたところ、イタリア人にとっての古来からのアルカディアだ。

十五世紀末、この都市の侯爵フランチェスコ・ゴンザーガのもとへフェラーラのエンコーレ一世の長女、イザベラ・デステが嫁ぐ。時代はイタリア半島が最も混乱し波乱に富んでいた頃のこと。

マントヴァはフェラーラ同様、北イタリアの小都市、どちらもミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリという周辺大都市の覇権争いに翻弄されていた。波乱は小都市ばかりではない、その四大都市でさえ周辺のドイツ、フランス、スペインという列強の驚異のなかで浮沈を重ね、公国や共和国の持つ自立そのものが損なわれかねない状況が続いていた。

新興著しいトルコが東ローマ帝国を滅ぼしたのもこの時代。地中海、アドリア海に君臨していたヴェネツィア共和国の権益も狭められ、スペインやポルトガルによる地理上の発見、あるいはコロンブスによるアメリカ発見により、イタリア半島の諸都市は最早、中央ではなく、世界の片隅のひとつに過ぎないことを自覚せねばならない時代だ。

こんな時代であるからこそ、その精神風土の底流に、強い民族主義的傾向が現れてくるのは当然のこと。ヴェネツィアやフェラーラ、マントヴァという北イタリアの小都市ではフロットラという世俗の音楽が流行する。フロットラとはラテン語ではなくイタリア語による歌曲のこと。

追い詰められていたイタリアはイタリア人によるイタリアの音楽を必要としていたのだ。当時主流であった音楽はフランドル楽派による複雑な対位法の音楽だが、ホモフォニックなフロットラはフランドル楽派の楽曲に比べ親しみやすく気軽でもあった。

四声の中の下声部がすべて楽器で奏されることもあり、世俗的な詩や恋の喜びや悲しみをより気楽に官能的に歌うことができ、フロットラはイタリア人にとって初めての、自分たちの心情を最も有効に表現できる楽曲となっていた。

アンドレア・マンティーニャやレオルド・ダ・ヴィンチを招き、多くの作品を描かせたイザベラ・デステだが、彼女は画家だけでなく、たくさんのイタリア人の音楽家と詩人を宮廷に招いている

彼女がまだフェラーラの宮廷で生活していたころ、そこにはフランス王ルイ十二世のもとで、数多くの世俗多声シャンソンの名曲を書いたフランドルのジョスカン・デ・プレが宮廷礼拝堂聖歌楽長として滞在していたことはすでに触れたが、彼女はフェラーラの宮廷で庶民の生活が生き生きと表現されたデ・プレの歌曲を沢山聞いている。

そんなイザベラだからこそ、マントヴァでフロットラに夢中になるのは容易に理解できる。現在の管楽器のひとつトロンボンに名を残すバルトロメオ・トロンボンチーノという音楽家がイザベラのもとにいた。彼はマントヴァで沢山のフロットラを書いた。トロンボンチーノは当時もっとも重要な作曲家、サン・マルコ寺院のガブリエリに匹敵するイタリア人の音楽家として今日に名を残し、管楽器トロンボーンの発明者としても有名だ。

少女時代から歌と鍵盤楽器を勉強し続けたイザベラはフェラーラ宮廷からマントヴァ・ゴンザーガ家に嫁いでますます詩や音楽に熱中する。しかし、ダ・ヴィンチを含め多くの人文主義者・芸術家と交流し庇護はするが、君主でもない女性の身であったイザベラは、さすがに自分自身の聖歌隊を持つことまでははばかれた。

従って、彼女は教会音楽ではなく、世俗の楽曲に力を注ぐのは当然のなりゆき。イザベラはイタリア語の世俗音楽フロットラに熱中し、詩や曲まで制作し演奏する。弱小国マントヴァにとって音楽家を雇い、自分自身だけでなく家臣にも楽器を与え、作品を筆写させることは宮廷の権威を高めると同時に、公国の持つ文化的力を誇示することでもある。世俗音楽とはいえ、マントヴァのフロットラは当時の危うい宮廷の政治的存在感のためには不可欠な戦略の一つでもあった。

(マドリガーレ)

イザベラはほどなくフロットラの詩の持つ平凡さに不満を抱く。その不満は彼女ばかりではない。フロットラが親しみやすく気楽でもある分、いささか浅薄でもあり、やがて人気は薄れていった

そして、イタリア人の文学的趣味の向上にあわせ、フロットラに代わりにペトラルカのソネット、というような文学的価値のある品格を持った詩を歌詞とした多声の声楽曲が作られるようになる。これがマドリガーレ。イザベラ・デステはトロンボンチーノにペトラルカの詩への作曲を要請する。つまり、イザベルのいるマントヴァはマドリガーレの養育の場所でもあった。

ホモフォニックでリズミカルで庶民的なフロットラはやがて高尚で貴族趣味的な多声歌曲、複雑な対位法を駆使したマドリガーレへと変貌していった。その過程では、ローマをはじめ北イタリア各地の宮廷での音楽活動の中心となっていたフランドル人音楽家の功績は大きい。マドリガーレは歌詞と音楽との間にきわめて緊密な関係を生み出して行き、歌詞の情感を繊細に表現する楽曲となる。やがて、北イタリア発のマドリガーレはイタリアばかりでなく、ヨーロッパ中に知られ、歌われる楽曲となって花開いて行く。

マドリガーレはイタリア語。一般的にはマドリガルと呼ばれ、古くは詩の形態を意味する。十四世紀にあったマドリガルはマドリガルという詩に音楽をつけた楽曲のこと、十六世紀のマドリガーレはマドリガルの発展型ではなく、十五世紀末のフロットラがマドリガーレを生み出した。そして、この大流行の世俗の多声歌曲である十六世紀のマドリガーレがオペラへの道を切り開らく。

対位法的な多声というマドリガーレでは果せない「劇の進行、真に劇を生み出す音楽」のための基礎はフィレンツェで作られたが、その後のオペラを育てたのもまたマントヴァだった。

民族主義的な風潮を底流としてマントヴァは十五世紀末のフロットラからマドリガーレを生み出すが、十六世紀末のフィレンツェのモノディ様式はマントヴァ宮廷にいた一人の天才によって言葉そのものが音楽となる画期的な芸術形式としてて確立された。その音楽家こそ、マントヴァ宮廷楽長モンテヴェルディ、まだサン・マルコ寺院の聖歌隊楽長になる前のこと。

マドリガーレの名手であった彼はフィレンツェのモノディ様式の理念とマドリガーレのスタイルを結びつけ、理論にこだわることなく、自由に力強く豊かな表現力を「オルフェオ」に注いだ。知的で理論的なフィレンツェの様式はこのマントヴァの音楽家の持つ自由な表現力により、今日にいたるオペラへの道が開く。マントヴァのマドリガーレはオペラを生み出すことはできなかったが、生まれたばかりのオペラの道を確実に切り開らいていく役割りを果たしていく。

(マドリガル・コメディ)

オペラ誕生以前、十六世紀にすでにマドリガーレで劇を構成しようという動きは始まっていた。今日マドリガル・コメディと呼ばれるもので、十六世紀末に出版された「ラムフィ・パルナッソ」は特に有名。「音楽のなかのアルカディア」はマンティーニャの絵画と同じように、ここマントヴァから広がっていく。

パルナッソスはギリシャ神話のアルカディアの霊山、アポロンやミューズが住むところであり、古代の詩人たちが神聖視した。ラムフィ・パルナッソはパルナス山の麓の周辺という程度の意味で、気楽な外界、世俗世界を題材にした音楽劇。当時流行のコメディ・デラルテの形式に基づいて五声、四声、三声のアンサンブルとコーラスによって構成されているが、全体はあくまで一連の曲集であって、演技するようには作られてはいない。

モノローグでは五声部全部が同時に歌い、ダイアローグでは上の三声と下の三声が対比を生みだし、人物の違いを表現するというような構成となっている。そして、上演にあたっては歌手と演奏者は演技者ではなく舞台の背後にいるだけ。舞台上で俳優が歌うまねをし演技をする。マドリガル・コメディは音楽劇というより、あまり生気なく人気薄の牧歌劇をより生き生きとさせるための音楽にすぎなかった。つまり、滑稽劇と音楽を結びつけたもの、この音楽には劇を生み出す要素はなく、オペラの誕生にはフィレンツェでのギリシャ劇への拘りを待たなければならない。

(インテルメディオ)

古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない。しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、独唱や二重唱、コーラスまでも演奏された。音楽が積極的に展開される場は、ドラマ全体の中では挿入部であるがゆえにインテルメディオ幕間劇と呼ばれている。

インテルメディオの題材はネウマやトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持ったもの。しかし、あくまでも本体とは別種なもの、本体とは全く異なる独立した物語が挿入されていた。

教養主義的なラテン喜劇の上演に際し音楽劇を導入することは、上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。ここで重要なことは、古典劇への関心の大小に関わらず、インテルメディオという音楽の導入により、多くの観客がますますドラマの世界に引き込まれて行くようになったことだ。

演じられる場はもはや朗読会という内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界が必要とされた。インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは十五世紀初めのメディチ宮廷だった。その上演はオペラの誕生をも促すもの。ではどのような演目がどのように演じられたか、その詳細は「フィレンツェの祝祭」に譲ることにする。

(劇を進行させる音楽)

オペラ誕生の為の音楽上の準備は十六世紀半ばすでに完了していたと言って良い。舞踏曲、アリア、マドリガル、コーラス、シャンソン、カンツォネッタ、そしてインテルメディオ幕間劇。しかし、インテルメディオにおける音楽の役割は劇的進行ではなく雰囲気づくり。演じられてはいるが情景が静止した絵画のようなものだ。その世界は詩と音楽によるスケッチ画にすぎない。

ドラマを動かし、そこに感情を吹き込むのは詩やセリフの役割だ。インテルメディオの音楽はドラマを動かすものではなく、ドラマ全体を包み込む空間、あるいは雰囲気を作り出す役割に過ぎなかった。

オペラの誕生には、音楽そのものがドラマにならなければならない。ドラマに挿入される音楽ではなく、音楽によってドラマが進行する。そこには一貫して流れる音楽にふさわしい劇が必要となる。読んで面白いドラマティックな詩の流れ、舞台で見て楽しい変幻自在な情景、そのような劇の登場が待たれていた。

マドリガーレは歌詞の情感を繊細に表現することは出来たが多声であるがために、あくまでイメージや全体の雰囲気を表現するもの。つまり、マドリガーレは情感あふれる音楽だが、劇を生み出し進行する手法は持ってはいない音楽。

従って、ここでもまた「音楽により劇が進行する」というオペラの誕生は後のフィレンツェまで待たなければならない。

「リュートやヴィオールを伴奏にして小曲を歌うのがなぜ快いかという最大の理由は、それが言葉に驚くべき優美さを与えるからである」と「宮廷人」にカスティリオーネは書いている。「宮廷人」の出版は年、楽器伴奏をともなったソロの歌はフィレンツェのカメラータがモノディ様式を生み出す前からすでに人気となり流行していたのだ。

フロットラや対位法的に書かれたマドリガーレにも下の四声部を全部楽器にゆだね、一番上のパートのみを人が歌うという楽曲はすでに存在していた。しかし、「劇を進行させる音楽」にとって大事なことは、旋律が絵画のような情景を描くことではなく、人が話をするのと同じ様に自然の抑揚を持って歌われるものでなくてはならない。

その為には舞踏風の規則正しい拍子やテキストを繰り返しを助成したり、対位法的な音の進行に縛られることのない、一音節に一音譜が載るホモフォニックな和声を音楽として認める必要がある。

ソロの歌の流行は音の綾織りのような対位法的楽曲より主要な旋律が際立って聞こえるホモフォニックな和声への好みが増していることを示すもの。民族主義的底流の中、イタリア人は対位法好みのフランスとは全く異なる音楽を求めていた。

イタリアでは元来、複雑で曖昧であることより論理的、明解であることが大事にされている。歌曲においても、一つの旋律に対する優れた感覚と言葉の抑揚にみあった、的確なりズムに対する関心が強かった。そして、このような好みと関心がフィレンツェのカメラータたちのギリシャ劇へのこだわりと結びつき、その後のオペラ誕生のきっかけとなる「劇を進行させることの出来る音楽」の形式を生み出した。

つまり、テキストはできるだけはっきりと理解できるように、言葉は人が話す時と同じように自然の抑揚を持って歌われること、旋律は人が語る高められた感動に備わった抑揚やアクセントを模倣し強調するものであること、という原則が理論化されフィレンツェのモノディ様式、オペラが誕生する。

(牧歌劇アミンタ)

年フェラーラ宮廷におけるタッソの牧歌劇「アミンタ」 愛神の戯れ岩波文庫 の上演は大好評を博した。インテルメディオの題材に過ぎなかった牧歌を悲劇でも喜劇でもない第三の劇として登場させたのが「アミンタ」の上演。

ここでは第三の劇であることが極めて重要で、「アミンタ」の上演はイタリア中に大評判となる。「アミンタ」はギリシャ悲劇やラテン喜劇でもない、古典を超え新時代を表現する、全く新しい確かな劇形式であるとイタリア中の貴族、人文主義者から賞賛されたのだ。

牧歌はルネサンスの人々にとってはなじみ深いもの。ギリシャの詩人テオクリトスは紀元前三世紀、抒情的な田園の牧人の詩を歌い、紀元前七十年にはヴェルギリウスが豊かな自然に育まれた愛詩 と のアルカディア理想郷を表した。

ローマ時代のヴェルギリウスの牧歌「アエネーイス」はギリシャの英雄叙事詩をラテン語に移植したものだが、しかし、それはその後のヨーロッパ文学の出発点として位置づけられている。ダンテ、ペトラルカという大詩人たちは「アエネーイス」を大自然という背景に立ち、地上の愛を唱い、個としての人間の価値とキリストという神とを相対化したルネサンス精神そのものとして再評価している。

この評価と憧憬は、前述の「絵画や建築のなかのアルカディア」と全く同相にある。その始まりはダンテ、ペトラルカの文学にあったと言って良い。 しかし、古来より悲劇と喜劇こそが古典文学の中心であり、牧歌はその傍らに置かれるものにすぎなかった。

田園の牧人の愛をテーマとした登場人物の少ない簡単な対話劇は格好の幕間劇インテルメディオの題材ではあったが、都市化した宮廷の人々にとっては文学ではあるが、ある種の娯楽、気楽な慰みものに過ぎなかったのだ。

その古典的牧歌を悲劇・喜劇に変わる第三の劇として再登場させたのが「アミンタ」の上演。ルネサンス精神が形骸化し、硬直化しつつあった十六世紀半ばではあったが、牧歌の持つ精神に豊かな想像力を吹き込み、悲劇と喜劇を同時に取り込んだ牧歌劇の登場は文学上の大革新となった。

黄昏期であるが故に主知のみではない、理性と享楽を相合わせ持った第三の劇の誕生、それが「アミンタ」。牧歌劇「アミンタ」では悲劇的様相と喜劇的雰囲気が交錯し、人間の感情が生に歌われている。そして、牧歌劇は単なる娯楽ではなく、古典文学に列するものと認められたのだ。

(悲劇・ 喜劇 ・牧歌劇)

音節の韻律は時には明るく、時には暗く、時には荘重、時には軽い、ドラマはある種の音調と陰影を持って進行する。牧歌劇「アミンタ」の物語は宮廷人と牧人、ともに平等に高貴な愛神の僕しもべであると歌っている。

悲劇は貴人のもの、喜劇は野人とみなす階級的差異による硬直化が一般化していた宮廷社会に対し、タッソは「アミンタ」によって、詩人が本来持っている精神の自由を主張する。そのことが、牧歌劇が古典に列する新たな文学として認められた所以となる。

タッソによる第三の劇、牧歌劇の登場は同時代のパラーディオの建築同様、ある種の前衛的実験かもしれない。と同時にタッソとパラーディオは間違いなくオペラへの道を開いた人。

彼ら二人に見る限り、ルネサンスの黄昏期、それは一般的にはマニエリス期と呼ばれるが、その時代は形式の衰退化、退廃化の時代では決してなく、近代的な意味での際限のない人間追求の時代、その為の自由闊達な作品制作の時代であったと考えなければならない。

諸外国そして近隣からの絶え間ない侵略と神の支配からの離脱、このような精神風土のなか、逼迫した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、その風景がテアトロ・オリンピコでありアミンタだ。オペラとはそのような「風景を眺めるための装置」として、登場する。

(アミンタからオルフェオへ)

牧歌劇は物語の進行ばかりではなく、情景や気分にもポイントがあり、音楽によるドラマの進行には適していた。十一音節と七音節のリズムと音調による全編の流れは、すでに音楽の楽曲そのものと言える。劇の中の美しい情景、穏やかな愛と冒険は音楽むきであるばかりか、絵画的でもあった。

アミンタの中にはルネサンスの絵画に描かれた光景が数多く登場する。野原や森、美しい田園的な情景を背景として「ダフニスとクロエ」のような男女の羊飼いに森の神々などの物語。それらは単純な愛の冒険や田園を背景としたいくつかの事件に彩られ、そして大半はめでたしめでたしで終わるものばかりだ。

現存する最古のオペラ、千六百年、フィレンツェ、ピッティ宮殿での「エウリディーチェ」はカメラータの一人リヌッチーニの牧歌劇に曲をつけたもの。七年後のモンテヴェルディの「オルフェオ」はマントヴァの宮廷書記ストリッジョが書いた牧歌劇の台本がもとになっている。

どちらも同じオルフェオ神話であることは前述した。十六世紀末、牧歌劇アミンタとオルフェオ神話との間にはどのような意味の変容があったのか、この変容とは牧歌劇から音楽劇へ、それはオペラ誕生の鍵と呼べるものに他ならない。