2011年12月27日火曜日

パルマのテアトロ・ファルネーゼ

十六世紀後半のイタリアにはもう一つの重要な演劇形式が存在した。
中世の馬上武術試合は新しい時代になっても決して無くなったわけではなく、新たに勃興したイタリアの君主にとって、最も有効な政治権力のプロパガンダとして発展している。
騎士による馬上の戦いが確実に君主を勝利者とする演出が尽くされることにより、馬上武術試合は祝祭の中に取り込まれ、政治色濃い演劇形式として発展する。
その形式を最も有効に利用したのもコジモ大公以降のフィレンツェ・メディチ家だが、インテルメディオ同様、その形式を洗練させることに力を注いだのはフェラーラ・エステ家だった。
この宮廷は早くからフランドルの音楽家を重用するなど北の文化情勢には敏感で、
ギリシャ・ラテン的諸要素とアルプスの北の中世の騎士道神話を結合させ、1560年代、アルフォンソニ世のもとで幾つかの「主題付き馬上武術試合」が演じられた。
一流の詩人たちによる筋立てにともない生み出された詩句や対話、そして歌と伴奏、複雑な仕掛けのついた舞台、馬上武術試合もまた後のオペラを予感させる重要な演劇形式であったと言える。

アルフォンソニ世の一連の馬上武術試合で最も有名なものは1565年の「アモルの神殿」。
彼とオーストリアのバルバラとの結婚を祝う祝宴の際、宮殿の中庭で演じられている。
この時の劇場には段席が設けられ、幾段にも重なって観客は見物するが、その中央は半円形で構成され、まるでアリーナ(競技場)のような形態を持った平戸間となっていた。

「アモルの神殿」はもちろん愛の神殿、「名誉」や「美徳」を経て神殿に到達しようとする騎士たちの館。
近づこうとする神殿の近くには六人の年老いた魔女、彼女たちは「高慢」「肉欲」となって「栄光の騎士」を奴隷にし岩に変えてしまう。
「凱旋」の姿で現れた騎士たちの長大な騎馬行列が進む中、囚われの騎士たちはこの行列を魔女から守ろうと放免され戦いに挑む。
魔女たちはつねに勝ち、騎士たちは迷路や森の中に追いやられる。
しかし、最後には「名誉」や「美徳」の騎士たちが優れた力を持って魔女の力に打ち勝つという物語。
「アモルの神殿」は試合の開始とともに舞台上に現れるが、試合中はずっと隠されていて、目にすることが出来ない。
可動式の舞台背景ときらびやかに仮装した騎士たちの行列、やがて再びいっそう壮麗な姿となって神殿が現れ、試合はエステ家を讃えるものとなって終わる。

プロセニアム・アーチはこのような馬上武術試合には不可欠な装置。
自由な場面転換も当然だが、壮麗な神殿を登場させたり隠したり、その為の雲をアーチの両側から押し出したりするのには便利。
しかし、最も重要な役割はドラマの中での凱旋門。
アリーナ(競技場)となる土間部分はアーチ(凱旋門)より登場した凱旋の騎士たちの騎馬行列の舞台となっている。
アルフォンソ二世の中庭にしつらえられた劇場は凱旋門と競技場そして最前面に手すりが付設された段席がU字型で囲む形態で構成されていた。
つまり、後のオペラ劇場に不可決なプロセニアム・アーチとU字型の客席は馬上武術試合の劇場をその範型としていたのだ。

アルフォンソ二世の劇場とパラーディオの劇場を足して二で割ったような劇場がパルマに作られ、現在に残されている。
プロセニアム・アーチを持ち、古代の円形劇場をそのまま引き延ばし、アレーナを取り込んだ形態の劇場、テアトロ・ファルネーゼ。
1617年パルマ公ラヌッチオ一世は広大なピロッタ宮殿の二階ホールに劇場の建設を開始した。設計はすでに七十歳を超えていたジャン・バティスタ・アレオッティ。彼はフェラーラ・エステ家に仕え多くの仕事をし劇場を建てていた建築家。
この劇場はパルマよりフェラーラこそ相応しかったのかもしれない、しかし、17世紀を迎えることなく、もっとも劇場を必要としていたフェラーラ・エステ家は没落してしまった。

テアトロ・ファルネーゼの完成・柿落としは1628年。劇場の建設は思わしくなく、着工から10年後、パルマの依頼者ラヌッチオ一世が逝去した翌年、嫡子オドアルドがメディチ家のマルゲリータとの結婚式の時、ようやっと完成した。
テアトロ・ファルネーゼはパラーディオのテアトロ・オリンピコを下敷きにしたと考えられている。
しかし、アレーナを持ったアレオッティの劇場は古代劇場風ではあるが宮殿の広間(テアトロ・ダ・サラ)を改装したもの、その観点ではブオンタレンティのテアトロ・メディオにも似ている。
つまり、テアトロ・オリンピコ以後、それは丁度オペラの誕生期のことですが、各都市の貴族の祝宴の場となる劇場は様々な形式を模索していたのだ。

3000人も収容できるというテアトロ・ファルネーゼは奥行きが間口の約2倍半もある。
観客席はU字型、舞台と観客席の間にはサッビオネータ劇場と同様の空間があり、その両脇にはファルネ−ゼ家の初期の公爵オッタヴィオとアレッサンドロの騎馬像が載せられたアーチ形状の出入口が付けられていた。
U字型の観客席は後ろに行くほど高くなる傾斜を持っているが平戸間とも2m程の段差があり、最前列には手すりが付いている。
最後部には二層のアーケード、その形態はパラーディオがデザインしたヴィチェンツァのバジリカ(市公会堂)のファサードに酷似している。
舞台周辺には台座の付いた巨大コリント式の列柱が並び、中央のエンタブラチャ(軒蛇腹)の上には二人の幼児がファルネーゼ家の紋章の付いた旗を持って載っている。

この劇場の柿落としは1628年、その祝宴を飾る豪華オペラはモンテヴェルディもその制作に関わったとされている「水星神と火星神」。
フルスケールの馬上武術試合や場内に仕立てたプールを使っての嵐や難破、はては海獣同士の戦いのシーンとその上演は大変衝撃的であったという。
しかし、この時の祝祭の舞台はすこぶる不興。
理由の一つはフィレンツェの生まれのオペラの形式にあった。この時代の劇場は貴族の饗宴の場に他ならない。
そこで歌われ演じられるインテルメディオの持つ祝祭性とスペクタクルは、出来立ての音楽劇(フィレンツェ・オペラ)には追いつくことが出来ない大きな魅力を持っていた。
そしてもう一つはプロセニアム・アーチ付きの舞台にある。
知的なオペラの形式より娯楽的なインテルメディオのほうが祝宴向きであったことは容易に理解できるが、ではプロセニアム・アーチのどこに問題があったのだろうか。

祝宴に参加した諸侯や貴族たち、彼らにとって最大の不満は、プロセニアム・アーチがステージの演技と聴衆との間に障壁を作ってしまうことにあった。 
当時の宮廷人にとって、牧歌劇や寓意物語に始まる祝宴の魅力は、ドラマの終幕部において、彼ら自身もまた演技者となりドラマに参加し、踊り歌い、様々な聴衆と無礼講的な交流を繰り広げることが最大の魅力だったのだから。
演技に参加した宮廷人は聴衆と踊った後で、劇のファンタジーの世界に入り込み、劇の登場人物である神や女神、ニンフや森の精と踊り、現実=幻影的世界を楽しむ。
つまり17世紀始めとは言え、テアトロ・ファルネーゼは、オペラ劇場とは異なり、舞台と客席が未分化で全員参加の祝祭空間である必要があったのです。

2011年12月25日日曜日

マントヴァのサッビオネータ劇場

パラーディオの弟子ヴィンチェンツォ・スカモッティはマントヴァの郊外に興味深い劇場を作った。
1580年8月に他界したパラーディオに変わりテアトロ・オリンピコを完成させた彼は1588年、ヴェスパシアーノ・ゴンザーガから新都市サッビオネータに劇場を作ることを依頼される。
この劇場は近年再建され、同じマントヴァを題材とした「リゴレット」の映画版オペラの舞台とし利用されている。https://youtu.be/RybU-no7VEM?list=PL1DAF33ED1F12A1BB

サッビオネータ劇場は舞台上に固定背景を持ち、客席の外周に円形のコロネードを配し、全体はテアトロ・オリンピコに良く似ている。しかし、舞台の間口が狭く中央に広間を持ち、奥行きが深い平面構成を持つこの劇場は、インテルメディオ等の上演に向くテアトロ・ダ・サラ型の劇場の一つと言える。
パラーディオは舞台の間口を広く取ることで、古代の円形劇場と同様の、均質な観客席からの視線の確保につとめているが、スカモッティは広間または観客席の中央という特別な場所からの視線のみを重視している。このU字形の観客席は意味深いものがある。後世の観客席はすべてこの形態、スカモッテイはテアトロ・オリンピコを踏襲しながら古代劇場の持つ世界劇場としての建築的意味を解体したことになる。

パラーディオのテアトロ・オリンピコとの違いは舞台上の固定背景の作り方にもある。サービオネーターは大きなア−チの奥に透視画法の立体模型による宮殿や豪邸が建ち並んでいてパラーディオと同じ都史風景だが、ここでは古代ローマの劇場のようなの三つの出入口ではなく、たった一つのアーチ、その形状はテアトロ・ファルネージャのプロセニアム・アーチに近い。
しかし、ここでは演技者はアーチの内側で演技することは出来ない。このアーチはパラーディオ同様 、透視画法による視線の強調に過ぎない。

スカモッティはなんとも奇妙な劇場を作ったと言える。アーチの中の幻想世界で演技するためには、折角の立体模型を全て取り壊さなければならない。パラーディオを真似た立体都市、しかし、スカモッティは劇場全体で都市あるいは世界をイメージさせようとしたのではなく、単なる視線の強調の為のアーチを作ったに過ぎない。さらにまた、このアーチは後世のプロセニアム・アーチのように、舞台上の幻想世界を演出する装置にもなっていないのだ。

プロセニアム・アーチの役割は客席という現実世界と舞台上の幻想世界とを明確に分離することにある。インテルメディオの上演には度々このアーチが重要な手がかりとされて、後のテアトロ・メディオのブオンタレンティにとっては欠くことのできないもので、<美徳>や<悪徳>が出たり入ったりする自由な場面転換のための装置となっていた。

2011年12月22日木曜日

祝祭から社交、16世紀のテアトロ・ダ・サラ


人文主義者を中心とした古代の劇や劇場の再興の試みはルネサンスという時代が必要とした新しい生き方、ライフスタイルを探しだすための知的活動の一環と意味づけられる。
その活動の成果が先に触れた、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコであり、やがて、オペラ・オルフェオの誕生へと繋がってく。
しかし、貴族の宴会の催し物が切っ掛けのオペラの誕生にとって、その上演の場は当初から独立した劇場というわけではなく、貴族館の広間であったということは当然のこと。ルネサンス劇の上演は宴会を飾るものでり、その為に必要なのは、演じられる場、舞台であって、劇場という建築ではなかった。

16世紀に入ると、劇の上演は、人文学者による文学的・教養主義的な場であることより、君主の祝宴に参列する貴族や貴婦人のお楽しみの場としての意味合いが強くなった。
祝宴における楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、あるいはインテルメディオ。上演が終われば祝宴の参加者たち、劇で歌うサチュロスや美しいニンフ、女神と共にダンスを楽しんだ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)であった。
祝宴外交に明け暮れた16世紀後半、演じられるものが文学的なラテン喜劇ではなく、見て・聴いて、役者とともに踊りを楽しむ音楽劇インテルメディオであるならば、どこの宮廷も広間型の劇場を必要としたのであって、専門の劇場など必要とされなかった。同時期のテアトロ・オリンピコはなんとも時代遅れ、あるいは早すぎたのか、これはヴィチェンツァそしてパラーディオのみが持つ異端な建築であったと見なさなければならない。

劇場空間としての広間、つまりテアトロ・ダ・サラがどのような形態を持っていたか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型と言える。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを、1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが改装した。
その形式はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」の考え方を踏襲したものと考えられる。
広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景が透視画法で描かれていた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景のみを作ることにあったようだ。
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」(劇場p65)
つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかが彼の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。

テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのは1598年のジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世の設計のもの。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた頃のこと、ヴァザーリ二世はメディチ家の依頼により理想都市の一部となるような劇場を設計した。
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている。(図版劇場p66)
大事なことは、壁龕を持った外周壁で示されるように、ヴァザーリはこの劇場を独立した記念的建築物と捉えていること。さらに、重要なことは、劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着くということにある。
このことにより、全員参加の祝祭としての劇場という概念は、全く意味を失ってしまった。ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口は全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上にしつらえられた出入口より劇場に入る、というのが常識。劇場は祝祭空間であり、全員参加の場であったから。しかし、この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。

この分離は現代劇場においては当然のこととなっているが、この時代にあって、劇場には新たな使命が課せられたことになる。観客(見る人)と演技者(見られる人)が明快に分離された劇場、そこはもはや祝祭の場であることより、観客の為の社交空間。演技者とは異なるエントランス階段を得たことで、劇場は観客自身のための演技の場、壮大な社交の空間となる道を確保したのだ。古来、劇場は神あるいは自然と直接関わる場、人間と世界の関係が示す場であった。しかし、ここに至り劇場の新たな役割、それは人間と世界の関係より、人間と人間の関係を構築する場、つまり、18世紀以降のオペラ劇場の役割につながる、新たな使命を持つものとなったのです。

2011年11月26日土曜日

ヴェッキオ宮殿の劇場

ヴィチェンツァのアカデミア・オリンピカの活動の成果がテアトロ・オリンピコであり、この劇場のデザインはほどなく生まれるオペラと呼応しオペラ劇場へと変容していく。オペラ劇場こそ祝祭と文化的資質を原理とする都市の象徴、中世のゴシック大聖堂に変わり近世のヨーロッパ都市の中心的建築とみなされる。 しかし、まだ十六世紀、君主を中心としたイタリアの各都市にとって、ラテン喜劇やインテルメディオ、あるいは生まれたばかりのオペラの上演にあたって必要とされたものは、独立した劇場ではなく、貴族館の広間や中庭だった。 
上演は宴会を飾るものであり、その為に必要なのは、演じられる場、舞台であって、劇場という建築ではない。どこの都市のアカデミアもヴィトルヴィウスの世界劇場への関心は高かったが、実際に劇場を必要としたのは上演以上に都市の象徴を必要とした、共和制「都市の持続」を目指したヴィチェンツァ。まさに、テアトロ・オリンピコの誕生は画期的な出来事だったのだ。 

人文主義者を中心とした古代の劇や劇場の再興の試みはルネサンスという時代が必要とした新しい生き方、ライフスタイルを探しだすための知的活動の一環。十六世紀に入ると、劇の上演は、人文学者による文学的・教養主義的な場であることより、君主の祝宴に参列する貴族や貴婦人のお楽しみの場としての意味合いが強くなる。
 彼らの楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、インテルメディオ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場構成(テアトロ・ダ・サラ)が便利であった。 
祝宴外交に明け暮れた十六世紀後半、演じられるものが文学的なラテン喜劇ではなく、見て・聴いて、役者とともに踊りを楽しむ音楽劇インテルメディオであるならば、どこの宮廷も必要としたのは広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)。同時期のテアトロ・オリンピコはなんとも時代遅れ、ヴィチェンツァという異端な都市が生み出した異端な建築ということになる。 

劇場空間としての広間、テアトロ・ダ・サラがどのような形式を持っていたのか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型とされる。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが上演ために改装している。
その形態はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」に似ている。 広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景画が透視画法で描かれた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景を作ることにあった。 
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」( 劇場 建築・文化史:早稲田大学出版部 )つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかがこの建築家の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。 

テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのはピッティ宮殿でのオペラ誕生の前年にジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世が設計した劇場。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた。メディチ家はヴァザーリ二世にテアトロ・オリンピコのように「理想都市」のイメージを表出する劇場の建設を依頼している。 
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている劇場。特徴的なことはテアトロオリンピコ同様、壁龕を持った外周壁に囲まれていたことだ。 

ヴァザーリ二世はこの劇場を独立した記念的建築物と捉えている。しかし、驚いたことに劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着く形式に変わっている。結果、古代から引き継がれた全員参加の祝祭としての「劇場」の意味は、もはや完全に失われてしまっている。 
ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口だけは全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上に設えられた出入口より劇場に入るというのが常識。古代において「見る・見られる」という関係が一般化し、さらに演じられる内容も変わったが「劇場は全員参加の祝祭空間」という意味はこの時代まで引き継がれていたのだ。 

この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。この分離は現代劇場においては当然のこと、しかし、ヴァザーリは知ってか、知らずか、あるべき劇場の本来の形式を意図も簡単に変容してしまった。 
そして劇場には新たな大きな使命が課せられる。観客(見る人)と演技者(見られる人)が明快に分離された劇場、そこはもはや全員参加の祝祭の場ではない。劇場は観客の為の社交空間としての意味を強めなければならないのだ。
 演技者とは異なるエントランス階段を得たことで、劇場は観客自身の演技の場、華麗な社交の空間という使命を持つ、このことから観客席は舞台以上の豪華な設えが求められた。 古来、劇場は神あるいは自然と直接関わる場、「人間と世界の関係」を示す場であったが、ここに至り劇場は社交の場、「人間と人間の関係」を構築する場、という大きな役割を持つこととなるのだ。

2011年11月25日金曜日

メディチ家の祝祭、オペラの誕生/©

(メディチ家の復権と教皇レオ一世)

花の聖母大聖堂のドームの完成から六十年、フィレンツェ・ルネサンスの中心的役割を果たしたメディチ家は十五世紀末から波瀾万丈の時を迎える。共和国でありながらすでに君主のように振る舞っていたメディチ家だが、豪華王と呼ばれたロレンツォ・イル・マニフィーコが没すると、ドメニコ会修道士サヴォナローラの反メディチ運動により一挙に窮地に立たされた。

そして1494年のフランス王シャルル八世のナポリ遠征に伴うフィレンツェ入城により、フィレンツェは揺れに揺れ、遂に、ロレンツォの息子ピエロ・デ・メディチとその弟たちは、ほとんどの財産を没収されたまま、ヴェネツィアへと脱出しなければならなかった。

復帰を果たすのは1512年、今度はフランス軍をイタリアから追い出したスペインの後押しによってだ。メディチ家のフィレンツェ帰還にもっとも尽力したのは枢機卿のジョヴァンニ・デ・メディチ。フィレンツェを追われたまま、フランスとスペインの戦いに参加し、遂に戦死したピエロ・デ・メディチに代わり、弟のジョヴァンニは当主として画策する。

幼いころから聖職者の道を歩まされていた彼は、兄弟の中では最も非凡。父ロレンツォは後のメディチ家の苦難を予測していたからであろうか、財力と権力の限りを尽くし、わずか十六歳のジョヴァンニを枢機卿にすることに成功した。それは十五世紀末のこと。ロレンツォの画策でジョヴァンニの叙任を許した教皇インノケンティウスの死の僅か三ヶ月前。ロレンツォ自身の死の三週間前、そしてメディチ家の苦難の始まる三十ヶ月前のことだった。

1512年、共和派ソデリーニやマキャヴェリが退けられ、フィレンツェの市民総会はその権力を緊急評議会に委譲する。評議会のメンバーは四十人、そのほとんどをメディチ派が占めることとなり、枢機卿ジョヴァンニと新しいメディチ当主ジュリアーノは帰還することが許された。

千五百人の兵を率いて入場した枢機卿ジョヴァンニはあふれるばかりの民衆に迎えられ、まさに一国の君主の入市式の趣。サヴォナローラ時代の陰鬱な雰囲気が一遍に吹き飛び、フィレンツェはたちまちにして昔の賑わいを取り戻し、街中に音楽が鳴り響いた。

メディチ家が復権してまだ半年、ジョヴァンニは突然ローマに戻らなければならなかった。彼の後盾でもあった教皇ユリウス二世の死去の報が届いたからだ。名門の出身ではない教皇はフランス、スペインどちらに荷担することもなかった。それ故にメディチ家の復帰には幸いしたのだが、その教皇の死はフィレンツェにとっては再び後ろ盾を失う一大事。この時、ジョヴァンニ自身も体調を崩し、暗鬱な気分でローマに向かわなければならなかった。

ローマには到着したが、遅れて参加したコンクラーヴェ(教皇選出会議)。結果はなんと、ジョヴァンニが次期教皇として選出される。メディチ家出身の教皇レオ十世の誕生にフィレンツェは驚喜する。祝典では大聖堂の鐘が打ち鳴らされ、祝砲に、花火、クラッカー、酔いしれた群衆の叫びと、延々の燃えつづける火の中には家具や住家の厚板までが投げ込まれる狂乱状態が四日も続いたと言われている。


(トスカーナ公国の誕生)

メディチ家一色に塗られたかのようなフィレンツェだが、その政体はあくまでも共和制、相変わらずの内憂外圧、その後も揺れつづける日々が続く。復帰を支援したスペインが程なく外交上の失敗でミラノやナポリから追い出されると、今度は在位したばかりの若いフランス王フランソワ一世が、またまたイタリア半島に足を踏み入れる。

一方、スペイン王フェルナンド一世から王位を引き継いだのがハプスブルグ家カルロス一世、彼はほどなく神聖ローマ帝国皇帝(カール五世)をも叙任することとなり、ここにきて、ドイツとフランスはイタリアを挟んで大きく対峙することとなった。

こんな時代、揺れるのはフィレンツェだけでなく、イタリア全体。ヴェネツィア共和国はもちろん、ミラノ、フェラーラ、マントヴァ、ウルビーノと、どこの公国もその存亡に四苦八苦する。そんな中、1521年、フィレンツェは教皇レオ十世を失った。しかし、程なくフィレンツェはまた新たなメディチ家出身のローマ教皇を得ることとなる。優柔不断(サッコ・デ・ローマ)の教皇と言われるクレメンス七世。

こんな時代のフィレンツェが再びメディチ家出身の教皇を得ることは共和国にとって幸いであったかどうか。イタリアの一都市に過ぎないフィレンツェは、その生き残りの全てはクレメンス七世の存念に支配されることになった。

新教皇は自分自身の庶子であるアレサンドルをドイツ勢力下のフィレンツェ公として迎えることを画策した。当初、アレッサンドルは巧みに振る舞い、共和国としての対面を保ったが、カール五世の庶子であるマルガリータと結婚、ついにフィレンツェ共和国は実質的にはドイツ支配下の君主国に移行することとなった。


(メディチ家の祝祭)

君主となったメディチ家はフィレンツェの持つ共和制時代の伝統を巧みに隠蔽しつつ、専政的な支配体系(君主制)を確立することが必要となる。さらに新興貴族のメディチ家がハプスブルグ家やヴァロア家のような一大貴族の仲間入りを果たすためには、その一族の栄光と新たな権力の強調は不可決だった。

その権力の強調のため、数々の祝祭や宴会を開催し、かってのように一市民としてではなく、独裁者・君主として都市を華麗に飾らなければならない。都市を舞台としての祝祭は諸外国の君主との対面上の必要であるばかりでなく、フィレンツェ市民そのものに、その威光を印象づけるためにも欠かせぬもの。

メディチ家はこうした祝祭のたび毎に宮殿(パラッツォ)や別荘(ヴィッラ)を建て、その内部には数々のフレスコを描いた。あるいは都市のそこここには公共の記念建造物や彫像を置く。君主は君主である為には建築を作り、都市を飾らなければならなかったのだ。

祝祭のための飾り付けには様々なアレゴリー(寓意)を表現したアトリビュート(事物・持ち物・属性)の使用がもっとも効果的。威光や権力という目に見えないものを見えるようにするためには、古来より事物に意味を託すという手法が最も役に立った。

メディチ家は神話的体系の形成に関わる様々なアトリビュートを祝祭のたびに飾り付ける。それは一族の歴史そのものを、いにしえの王の継承者に匹敵しうるもの、と印象づける為に不可決なことだったのです。


( トスカーナ大公の結婚式)

メディチ家の大々的な祝祭の最初は1539年のトスカーナ大公・コジモ一世の結婚式。花嫁は神聖ローマ皇帝カール五世によって選ばれたナポリ総督の娘、エレオノーラ。彼女はスペイン人、トレドの生まれだった。

その祝祭のすべてはスペインのカルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)への賛辞とフィレンツェ市民への誇示で覆われ、記念門や騎馬像が建てられる。

婚礼の祝祭は当然、宮廷の中にも持ち込まれる、そこでの山場はインテルメディオ(幕間劇)、その経過はことごとく記録に残された。

ラテン喜劇にインテルメディオ(幕間劇)を挿入することで、宮廷人がラテン語文体を学ぶという文学的朗読会の場を、音楽的娯楽的色彩の強い観劇の世界に変えたのは前述した十六世紀の始めのフェラーラ・エステ家宮廷。そのインテルメディオはフィレンツェに持ち込まれ、新興のメディチ宮廷の神話作りに最も効果的な催し物として利用される。インテルメディオの上演は娯楽の対象であると同時に、政治的意図を伝える格好の機会。メディチ宮廷ではインテルメディオを手の込んだ視覚的スペクタクルに仕上げ、声楽と器楽曲を相あわせた一つの芸術形式のようなものにまで発展させている。

1539年の祝宴では七つのインテルメディオが上演された。この時の上演はアントニオ・ランディのラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディチ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、観客席と初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセニアム・アーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じている。


(建築家ヴァザーリのプロデュース)

1565年の祝祭はさらに大がかりなものだった。コジモの息子フランチェスコ・デ・メディチと神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の妹、ヨハンナとの結婚式。祝祭のプログラムの作成はドン・ヴィンチェンツォ・ボルギーニ、アートディレクターはジョルジョ・ヴァザーリと記録されている。

二人は十六世紀半ばのもっとも著名な学識経験者、多彩な活動で知られる修道院長と建築家。フィレンツェには婚礼のための都市への入場式門やメディチ一族を讃える野外劇場が建設され、さらにヴェッキオ広場には「宗教」と「市民の賢明さ」「公衆の平静」を主題とする三つの記念門が作られた。

この時の建築家ヴァザーリは多くの街路装飾の総合監督。多くの建築家、彫刻家、画家の一団をまとめあげ、フイレンツェ市民があたかも、いにしえのローマの中を歩き回っているような体験を演出したと言われている。

ヨアンナとフランチェスコの祝宴での演目はフィレンツェに題材を採った「ラ・コファナリア」。この時のインテルメディオは観劇していた花嫁と花婿に繋がるもの、すべてがアモールとプシケの物語。

会場はヴェッキオ宮殿、中世以来の共和国の城館がメディチ家の宮殿、その二階の「十六世紀の間」だった。内装は当然、ジョルジョ・ヴァザーリが担当。広間には観客の為の段席が設えられ、大公の席はその中央に設けられた。

舞台にはプロセニアム・アーチ、そのアーチには下に落とす形の幕まで用意されている。声楽には器楽の伴奏が付き、間奏曲はチェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団が演奏した。


(メディチ家の大狂宴)

もう一つ重要なインテルメディオもまた克明な記録に残されている。フェラーラのエステ家同様、メディチ家も記録を出版することで婚儀のもつ政治的意味を積極的にフィレンツェ内外に知らしめることができたからだ。

1589年、フェルディナンド大公とロレーヌ家のクリスティーヌとの結婚式。この時の劇場はフィレンツェのウフィッツ宮殿に設えられた。ウフィッツィ宮殿はコジモ一世の命によりジョルジョ・ヴァザーリが1560年に設計した建築。現在は絵画美術館として使われている。

1575年、メディチ宮廷は手狭になったヴェッキオ宮殿からこの新宮殿で公務を執ったが、ここの広間を改造した劇場がすでに触れたテアトロ・メディオ。この劇場は十七世紀初頭のカロの版画として残され、当時の様子を知る重要な資料となっている。そして、この劇場こそバロック劇場の原型、中庭や広間で仮設化された当時の舞台の集大成と目される。

フェルディナンドとクリスティーヌの結婚式は1589年5月2日。ジローラモ・バルガーリの五幕の喜劇「女巡礼」(ラ・ペレグリーナ)、その幕間とその前後、六つのインテルメディオが上演された。

この時のインテルメディオはイギリスのテレビ局によって再現されている。制作はちょうど、四百年後の1989年。「メディチ家の大狂宴」と題されたこの企画はその後イタリア賞も得ることになり、世界中で発売された。(東芝EMI・TOLW-3620)画面は全て明るい光に包まれたギリシャ神話の世界、神々が雲に乗り、高らかにマドリガーレを響かせる。

器楽奏者は二十人を優に越え、当時の世俗音楽としては驚くほどの大編成。ムーサイやシレーナやニンフたちのマドリガーレは六声から八声、歌合戦のシーンや最後の地上に降りた神々の贈り物では三十声部を二人づつ六十人で歌う一大アンサンブル。

当然、この上演は大評判、楽譜はもちろん台本や舞台デザイン、その全てがヴェネツィアやフィレンツェで出版された。音楽そして舞台構成、残された記録は上演内容とそれに関わった人々を含め、祝典の姿を余すところなく今日に伝えてくれる。

全体の構成はメディチ神話の視覚化作業を担当するアカデミア・フィオレンティーナ。台本はリヌッチーニ、作曲は当時大人気のマドリガーレの作曲でフィレンツェの音楽界を風靡していた面々、バルディ伯爵やルーカ・マレンツォ、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ、クリストファノ・マルヴェッツィ等が担当。

後の「エウリディーチェ」作曲者ヤーコポ・ペーリも何曲か担当しているが、まだ若い彼はこの時、アポロン役の歌手でもあった。さらに興味深いのは舞台担当の建築家ブオレンタレンティ、彼はジョルジョ・ヴァザーリを次いだメディチ家筆頭の建築家。

しかし、ここでの役割は、建築以上に重要だった祝祭・祝典の装飾係。この時、彼が書き残した舞台画は個人により生み出される幻想の数々、透視画法が持つルネサンスの理想とは程遠く、それは個人という作家による作品制作の時代の始まりであり、バロック時代の到来を確実に物語るものとなった。

作品の時代の到来を告げる真のオペラの誕生はモノディ様式による「エウリディーチェ」の完成を待たなくてはならないが、1589年の「メディチ家の大狂宴」はオペラ誕生以前に早くもバロック・オペラの全容を記録した画期的な出来事となっていたのです。


(バルディ伯のカメラータ)

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる、生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。十六世紀後半、フィレンツェには二つのアカデミア(メディチ家の周囲に集まった人文主義者のサークル)があった。

そのうちの一つ、アカデミア・フィオレンティーナは新興の君主であるメディチ家を神話化する為、その視覚化作業に中心的役割を果たした。1589年、フランチェスコ・デ・メディチとの結婚の際のジョヴバンナの入城門の設置やサロンでのインテルメディオはこのアカデミアが中心となって運営される。

もう一つのアカデミアは音楽に関わるサークル、正式にはアカデミアを名乗る資格は持ってはいないが、音楽家としても名高いジョバンニ・バルディ伯爵がサンタ・クローチェ教会の近くの館で個人的に開いていた。

そこに集まった人たちをカメラータと言い、バルディ伯のカメラータと呼ばれている。参加しているのは貴族ばかりではない、教養のある市民、音楽家、詩人、哲学者たち。彼らは天文学を研究し、詩や劇を書き、作曲もした。音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見すること、さらに詩と音楽をいかに結びつけるかなどを研究している。


(コルシ伯のカメラータ)

バルディ伯のカメラータの有力メンバーの一人はガリレォ・ガレリーの父。彼は「古代音楽と現代音楽に関する対話」を出版し、伴奏付きモノディ様式の理論的基礎を築いている。

自らも詩や劇を書き、作曲もするジョバンニ・バルディ伯爵は古典神話の研究に力を注ぐアカデミア・フィオレンティーナに協力し、その音楽的サポート、ギリシャ音楽の本質の発見と古代の習慣に合わせた当時の音楽の改革に力を注いだ。

トスカーナ大公が代替わり、フランチェスコから弟のフェルディナンドに代わると、先代の大公に近い立場にあったバルディ伯やガリレオは宮廷から疎んじらる。残されたカメラータたちをバルディ伯に代わって保護したのはフィレンツェ貴族ヤコポ・コルシ伯爵だった。

コルシ伯爵は富裕でもあり、新大公に取り入ろうとする政治的野心も持ってる。やがて、コルシ邸にも沢山の人々が集まるようになる。バルディ伯のカメラータたちを教師として育ってきた若い詩人のオッタヴィオ・リヌッチ-ニや作曲家ヤコポ・ペリという人たち。さらに、有名な独唱曲マドリガーレ「アマリッリ」の作曲家ジュリオ・カッチーニ。彼はバルディ伯の館でのカメラータでもあったが、この曲をコルシ邸の集まりの頃この曲を作曲し、彼自身の研究書「新音楽」の中に挿入している。

バルディ伯からコルシ伯と引き継がれたアカデミア、そこでのテーマは引き続きは古代ギリシャの音楽劇の様式についての研究が中心だった。


(ポリフォニーからモノディへ)

コルシ伯のカメラータの関心は牧歌劇やインテルメディオを、ただただ上演すれば良いというものではなかった。どちらかというと学究的な集まり、ギリシャにおける厳粛なドラマと音楽の結合に関心を集中させている。

そして、「ギリシャ劇では言葉と旋律が一致している、そこでは言葉が全体を支配し、音楽がそれに従う」と考えていたのだ。宮廷におけるマドリガーレやヴェネツィアにおける複合唱、それらはかなりイタリア的、ホモフォニックな趣を持っている。しかし、その音楽のみからではオペラは生まれ得ない。マドリガーレはヴェネツィアの複合唱ともども時代を謳歌していたポリフォニー音楽の一つに他ならないからだ。

コルシ邸のカメラータたちは、ポリフォニーは鼻持ちならないもの、抒情に走る音の綾織りとみなしている。ギリシャ悲劇の再生にはリズムと音、単純なメロディを重視した楽曲が必要と考えた。さらに彼らは、劇の上演にあたってはテキストがはっきりと理解できる状況こそが大事であって、その為には音楽は、簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。

ポリフォニー音楽を、知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎないとまで言う彼らは、ハープシコード、チェロ、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバの通奏低音の管弦楽の上に立つ単旋律のソロの歌にこだわり、それが「モノディ様式」として確立された。結果として、その試みから見いだされたもの、それはドラマのなかに音楽を挿入する方法ではなく、音楽とともに進行するドラマの形式。ここで見るオペラの誕生は、ゴシック様式がイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したのに似て、曖昧さのない知的構築物を求めた結果と言ってよいようだ。


(初めてのオペラ、ダフネ)

史上初めてのオペラ「ダフネ」は1598年の謝肉祭にコルシ邸で初演された。リヌッチーニの台本に最初はコルシ伯自身が、やがてペーリが作曲に加わり完成する。現在に残こされた楽譜はコルシ伯の作曲部分のみ、従って「ダフネ」はオペラの歴史からは消えていく。しかし、初演後の評判は高く、謝肉祭の明くる年、そのまた明くる年と大公の宮廷で再演されたと記録されている。

「ダフネ」は牧歌劇による音楽劇。その内容は比喩的にはトスカーナ大公の歴史を概観したもの。アモールの二本の矢から始まるアポロとダフネの物語。アモールの黄金の矢を受けダフネに心を奪われたアポロン。彼に追われダフネが変身する月桂樹はメディチ家の木を意味している。アポロンはその木を勝利と喝采に捧げ、自分自身の悲しみを昇華させる。

この物語はまた、混沌に対する秩序の勝利と回復が主題となっている。アポロンはもともとフィレンツェそのものを意味する。そのアポロンをコジモ一世の象徴とすることで、メディチ家そしてフィレンツェの復興を印象づけようとすることがそもそも牧歌劇「ダフネ」の筋書きなのです。


(ピッティ宮殿のエウリディーチェ)

「ダフネ」の上演で積極的に大公フェルナンドに取り入ったコルシ伯は次に「エウリディーチェ」を世に生み出すことになる。「エウリディーチェ」は1600年10月6日、トスカーナ大公の娘のマリアとフランス国王アンリ四世の婚儀の際、パラッツォ・ピッティで上演された。

現在のオペラのレスタティーボ(オペラにおける詠唱ではなく、語りの部分)とは異なり、多少メロディアスであったとは言え、通奏低音の上の単旋律のソロや合唱だけの音楽劇は宮廷の結婚の祝宴の催しものとしては華やかさに欠けている。

すべての「言葉」を音楽として歌う新しい形式は、スペクタクルな場面をマドリガーレで盛り上げるインテルメディオに比べ、祝宴に適するものであったかどうか気になるところだ。しかし、新しい音楽劇「エウリディーチェ」は多くの人々の関心を呼んだと記録されている。

「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果が必要であったのではない、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠い、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なこと、それはカメラータのモノディ様式が音の綾織りの嫌悪し、ソロを確立したことだけにあったのではなく、「音楽によってドラマが進行する」という様式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎をデザインしたことにあったのだ。

「エウリディーチェ」のドラマの形は悲劇でも喜劇でもない、第三の劇、牧歌劇だ。音楽の寓意によるプロローグで始まる形式も当時人気の「アミンタ」や「忠実な羊飼い」となんら変わるところはない。牧歌劇の舞台はアルカディアであり、題材は恋愛、物語は諸々の事情により始めはうまくいかないが、最後は幸福な結末となるというのが一般的。

しかし、「エウリディーチェ」はオルフェオの物語、牧歌劇としてはいたって単純、オルフェオが黄泉の国からエウリディーチェを救い出す話。物語が単純であることから、「エウリディーチェ」は新しい音楽の様式にすっかり合い、音楽でしか果たせない情感表出の場面にも恵まれたのだ。

この単純ではあるが情感豊かな「エウリディーチェ」の上演はドラマでもなければ、インテルメディオでもない、初めての音楽劇(オペラ)として位置づけられることになった。

オペラはブルネレスキやアルベルティよる透視画法の発見からほぼ百五十年余り後、同じフィレンツェの地で誕生した。古代ギリシャ以来「神のいる世界」を眺めてきた人間は「オペラの誕生」によりこれから後、 「音楽と建築」をメディアとして、神に代わり人間が眺める「風景の世界」と関わって行くことになるのです。

2011年11月24日木曜日

フィレンツェのカメラータの音楽

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる。
生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。16世紀後半、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の近くのジョバンニ・バルディ伯の館ではユマニストの集まりがあった。彼らの集まりをアカデミーと言うが、集まった仲間たちをカメラータという。テーマはギリシャ悲劇の上演、音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見することにあった。

ギリシャの音楽は言葉と旋律が一致している。
言葉が全体を支配し音楽がそれに従う、バルディのカメラータが考えたギリシャ悲劇。テキストがはっきりと理解できるように、音楽は簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。当時流行のポリフォニー音楽は知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎない。当時流行のフランドルの多声は複雑な音の綾織りに過ぎないと嫌悪されている。
そして和声的感覚の上になり立つソロの歌にこだわった。
建築デザインにおいて、ゴシックがイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したことに通じるものがある。彼らは曖昧さのない知的構築物を求めていたのだ。

カメラータは1594年田園劇「ダフネ」を完成させる。
さらに1600年10月6日、トスカーナ大公の娘の婚儀には「エウリディーチェ」をパラッツォ・ピッティで上演した。レスタティーボだけの音楽劇は今の私たちには、結婚式用の華やかなイメージとはほど遠いもののように思える。しかし、演奏された「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果とは異なるもの。詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠く、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なことは、ソロの確立や音の綾織りの嫌悪ではない。音楽によってドラマが進行するという(モノディ)形式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎がはじめて作られたことにあった。
この形式はブルネレスキやアルベルティの建築から遅れること100年あまり、しかし同じフィレンツェの地で誕生したことは重要だ。

2011年11月23日水曜日

インテルメディオ


古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない、しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、ソロや二重唱やコーラスも用いられていた。音楽が積極的に展開される場は、挿入部であるがゆえにインテルメディオと呼ばれていた。その題材はネウマのトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持っていた、しかし、あくまで劇本体とは別種なもの。それぞれ独立した物語であった。
教養主義的なラテン喜劇に音楽劇を導入する契機は、その上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。古典劇への関心の大小に関わらず、より多くの人々をそのドラマの世界に引き込んでいる。ここで重要なことは、インテルメディオへの関心が高まれば高まるほど、それが演じられる場は朗読会のような内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界を必要としたであろうということだ。

 インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは15世紀初めのメディチ宮廷です。共和制から君主制に移行したフィレンツェ、1539年コジモ一世とトレドのエレオノーラとの結婚式では7つの続きもののインテルメディオが上演され、精巧な透視画法を用いた舞台装置まで採用された。
インテルメディオはラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディテ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、ヴァレリウム(古代ローマ風のテント)の下の観客席、そして初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセ二アムアーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じられた。

1565年、オーストリアのジョバンナとフランチェスコ・デ・メディチの結婚式、演じられたのは「ラ・コファナリア」、会場はメディチ宮殿の16世紀の間。内装はジョルジョ・ヴァザーリ、観客の為の段席まで用意され、大公の席はその中央、プロセミアム・アーチには下に落とす形の幕が用意された。声楽に器楽の伴奏、間奏曲の演奏は、チェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団、そしてこの時のインテルメディオはすべてクピドとプシケの物語、当然この物語はそのまま観劇してしていた花嫁と花婿の結婚に繋がっている。

北イタリアのマドリガーレ



17世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地です。
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。
しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という3大勢力の政治的バランスの調整地でもあったのです。
衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたがミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントバ、パロマ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。
どこの都市も政略的な結婚とそれに伴う華麗な祝宴を演出することで外交上の生き残りの道を画策している。
加えて1630年以来の諸都市に日常化し、蔓延していたたペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教的混乱、イタリア半島の17世紀はイタリアは精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っているものと、言えるのではないだろうか。
オペラと劇場がもてはやされた時代はそんな時代。
その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈り。
とは言え、その時代が前時代の形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。
その時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが最も関心を持っていたこと、それは近代的な意味での際限のない人間追求であった。
 

2011年11月22日火曜日

オペラ劇場、その建築的役割


















演技者や音楽家にとって、劇場は必ずしも必要なものではない。
現代のピーター・ブルックに示されるように、都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇にとっては必要なのは舞台であって、劇場ではない。
劇場を必要としたのはむしろ建築家でした。
劇場をつくることで、建築家は建築家に与えられた社会的使命を果たさなければならなかった。

ペロポネソス半島のエピダウロス劇場は、アイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した100年も後の建設。
北イタリアのテアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す50年も前の建築です。
興味深い事に、ギリシャ劇場はむしろギリシャ悲劇の低迷期に作られている。
現代社会からはじめて言える事だが、たくさんの劇場が作られる時代、その時代は必ずしも演劇が盛んであったわけではない。
さらにまた、演劇が建築としての劇場の形式を決定したということはほとんどない。(ワーグナーだけは自分の音楽のために自分の劇場=バイロイト劇場を作った)。
演劇は劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えて行った。その最も具体的な例がオペラ。

フィレンツェの貴族館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開いた。つまり、オペラはバロック劇場を得る事で音楽の形式を完成させたのです。














建築は、人間の生活のための安全で便利・快適な箱を作ることがその役割だが、必ずしもそれだけが役割の全てではない。
建築は人間と人間、人間と世界との関係を調整するという役割を持っている。
エピダウロス劇場やテアトロ・オリンピコは演劇や音楽のための建築という以前に、人間と世界の関係を示した実物模型としての役割を持っていた。
劇場空間は「世界のかたち」、世界とはこのような形であるという実感させる似姿(モデル)であったからだ。
つまり、建築家は世界模型としての劇場を作ることで、世界の中での人間のあるべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにしようとしたのだ。「世界」そのものを知り、自分自身が「世界」のどこにいるかを実感させる建築空間、そんな空間の創出がギリシャあるいはルネサンスの都市の衰退期に建築家が社会から要請された使命だったのだ。




演劇の上演にあたって音楽が用いられることは、古代よりどこの文化シーンでも常識化している。その目的が宗教的経験であったり、世俗的娯楽であったりすることも共通。中世の受難劇がオペラと異なるのは、題材の違いは当然としても、前者が場面、衣装、舞台装置を用いないだけで、音楽とせりふの関係はほとんど変わらない。むしろオペラの特色は演じられる場、劇場にある。近代の祝祭空間であるオペラは宗教改革に揺れるヨーロッパ社会にあって、教会とは異なる<劇場>を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんだように思える。一方、ギリシャや中世の祝祭空間から見ると、劇場を必要としたのは音楽家や演奏者ではなく観客。見る・見られるという視線の分離が不必要な全員参加の古代の祝祭にあっては、まだ劇場空間が必要とされることは無かったのです。
オペラと近代劇場の誕生、各々は決して同時に同じ場所で生まれたものではない。発展の経緯は後述に譲り、その契機を見る限り、オペラはすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えて行ったように思える。つまり全員参加の祝祭空間に<劇場>の持つ<見る・見られる>という装置を巧みに取り込むことにって、オペラと言う形式を整えていった。 

一般に劇場をめぐって建築家と音楽家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のために作られていない」。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のためにあるのだから、建築家はこの批判に対処しなければならなのは当然、しかし、契機から見る限り、かっての建築家には弁護の余地はある。何故なら建築家は祝祭から誕生した劇場を観客のために作ったのであって、音楽家の為ではない。

図版はロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」が1816年2月20日初演されたローマ・アルジェンティーナ歌劇場」http://www.and.or.tv/operaoperetta/1.htm

2011年11月21日月曜日

劇場の固定背景とシェークスピア劇


現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータの劇場。
紀元二百年頃のこの建築、リビア出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられた。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。
その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打って作られている。
両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。
この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが可能となった。
舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有し壁龕を作っている。
この壁龕に挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所となっている。
この舞台背景(スカエナ・フロンス)は何を意味しているのか。

全体の印象は後のルネサンスに沢山登場する理想都市のイメージ。
アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景はテアトロ・オリンピコに共通している。
ヴィトルヴィウスの建築書から類推すれば悲劇用のスカエナと言えるが、興味はむしろ、背景が何故、劇の内容以前に設置され、固定化されているかにある。

舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇とは異なり、この固定化されたローマ劇場の背景はどんな意味を持っていたのだろうか。
「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマはもちろん西欧社会では十六世紀以前、舞台背景はいつも固定的なものであったのだ。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場つまり観念的な世界(コスモス)を示すもの、あるいは中世においては天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものであった。
そのような舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物に他ならない。

劇場は二つのコスモスが重なりあった空間であるという説明はすでにした。
そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として位置つけられていたのです。
つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場にほかならない。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピアです。
「十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ時代同様のコスモス(世界観)の象徴性で満たみたされていたのに対し、シェークスピアの登場人物が生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。
その理由は登場人物が世界観ではなく特定の場所に強く結びついているからです。

同時代の他の作家と異なり、シェークスピアは主役たちに特定の物理的背景を与える必要性を感じていた。
彼の場所に対する感受性は、時代を先取りしていた。
やがて、西洋社会では自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピアの見方が多くの人々に共有されるようになった、と言って良いだろう。

舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行していると考えられる。
舞台が一つのコスモスであった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、また万人でもあったのだ。
しかし、舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景(シェークスピア劇)が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。(個人空間の誕生:p147)

つまり、ローマの劇場は特定の場所ではなく世界劇場(コスモロジー)を意味しているのです。
世界劇場の祝祭舞台は普遍的な場に他ならない。
そこは神がつくる天国や地獄であり、人間が生み出す理想都市。
一方、シェークスピアは世界劇場を否定し、人間劇場を創世した。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上階下階に設えられた舞台となり、あらゆる所を所狭しと使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。
そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であったのです。

ここで重要なことは、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあったことにある。

後に見るように、この変局点こそギリシャ悲劇からオペラの誕生に移行する変局点に他ならない。
つまり、オペラとは古代と近代の微妙な重ね合わせにより誕生した。
オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を重ね合わせているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言えるのだ。

2011年11月20日日曜日

オルフェオの世界

キリスト教が中心であった中世社会に代わり、神に依存しない「人間を中心」とした新しいライフスタイルを模索始めた時、 彼らは神によって作られた「自然的世界」と同時に、人間によって生み出される「作品的世界(オペラ)」に関心を示した。
  神の世界と人間の世界、それは自然的世界と作品的世界、人々は想像としての二つの世界に住んでいた。 その二つの世界を橋渡しをしたのは「オルフェオ」です。 

オルフェオは竪琴を弾き、言葉を音楽に載せることで無秩序な動物的世界を秩序だった人間的世界に変える音楽の「神」。 
あるいはまた、抒情詩人として言葉を歌によって話すことが許された唯一の「人間」でもあったのです。

 「ギリシャ神話」に始まり、ローマ時代の「変身物語」に引き継がれる「オルフェオの物語」はオペラの題材としてはしばしば登場する。 フィレンツェに生まれる最古のオペラを始めとして、その数は30を超え、やがてオルフェオはオペラのみならず、あらゆる「作品的世界」のテーマともなっていく。

 オペラ作品としての「オルフェオの物語」。 その中で最も良く知られているのがモンテヴェルディとグルック。 
前者は十七世紀の始め、オペラの誕生期の作品、後者はその転換期、十八世紀半ばに作られている。 
二つのオルフェオはオペラ作品として重要だが、オルフェオとオルフエオの間の150年間もまた極めて興味深い時代。
 モンテヴェルディのオルフェオの初演はローマ、サン・ピエトロ大聖堂の大ドームの完成の時期に一致する。 
それは美術史に言うバロック時代の始まり。 二つのオルフェオの間、バロック時代はオペラのみならず、建築、絵画、彫刻と人間による沢山の作品が作られた時代でもあったのです。 

 オペラの誕生を準備するルネサンス、そしてオルフェオとオルフェオの間のバロック。
 どちらの時代の作品も旺盛な想像力に満ち、知的好奇心を刺激する複雑多彩な虚構性を秘め、作り上げようとする人間の意志と想像力が満ちていた。 
現代にない豊穣な形態を持ち、多義的であり饒舌、豪華多彩、物語性に富み、祝祭的感覚で私たちを圧倒する、 この時代の建築は音のないオペラ(作品)といえる。
 一方、数多くの名歌手と演奏者、豪奢な衣装とスペクタクルな舞台構成、演じられるものは話す代わりに歌うという、 極めて非現実的なドラマであるオペラ。 
それは理性と享楽という、あい反する趣味を合わせ持った、人間が生み出す最大の「構築物」でもあったのです。 

「オルフェオの世界」の「音楽と建築」、それはともに装飾的、複合的、力動的、厚みのある「作品的世界」だ。 
「音楽と建築」の世界に同時に踏み込みたいとする試みは、人間の意識によって作られた世界、作品の持つ<虚構の世界>への関心にある。 
そこには「人間が人間として生きる」というヨーロッパ文化の持つ伝統が色濃く刻まれているからだ。


イマージナルとイリュージョナル

絵画は詩や音楽同様シンボルによる構築物です。

描かれている世界はいかに写実的であっても、それは実在の類似物、絵画空間はそこに指し示されたシンボルによって構築されている。

写実的にみえる絵の試みはおそらくギリシャ・ローマ時代の劇の書き割りから生まれたと考えられる。

このような例はポンペイのいくつかの家の壁画(図版)に残されているが、やがてこの手法はキリスト教社会の中では全く消えてしまう。14世紀のはじめジョット(図版)を代表とするイタリアの画家によって、同世紀末期にはヤン・ファン・アイク(図版)などオランダの画家によって、驚くような写実的な絵が生み出された。

しかし彼らは後の透視画法のような奥行きのある空間を描き出す技術的手法を持ち得ていたわけではない、むしろ当時の科学者に匹敵する詳細な自然観察から、これらの写実性を生み出していったと考えられる。

私たちの目で見る世界が、距離と共に物体の大きさもだんだん小さくなることを理論づけたのはブルネレスキやアルベルティだが、透視画法は古典古代の復興という観点からも注目された。

ルネサンスにおけるローマ時代の劇場の復興。15世紀、ローマのテレンティウスやプラトゥスの再評価が人文主義者の間で起こりラテン喜劇への関心が高まる。彼らは古代劇場こそ市民の教養(フマニスタ)の証し、劇場はフマニスタ表現のための格好な場であると考えた。

公演にあたってはウィトルーウイウスの研究が進められる。
ウィトルーウイウスとはローマ時代の建築家、彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。

人文主義者の関心はこの書の中の舞台背景画にあった。
ウィトルーウイウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の3つの背景画が存在する。

1508年、プロスペッティーヴァ(透視画法)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われている。
1518年、ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はウィトルーウイウスの記述の再現、有名な理想都市像(図版)が作られた。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適していた。
人間の五感は不完全なもの、従って世界に関する信頼に足る情報を伝えることが出来ないという、プラトン以来の哲学者の偏見から人間的視野を解放したのが透視画法と位置付ける(時間と空間誕生・青土社)ゲーザ・サモシに従えば、透視画法で描かれた理想都市こそ、ルネサンスの人間が神の支配とは乖離した、唯一生きうるに足る世界とみなしていたことが理解出来る。
透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルなモノではなく、現実以上に信頼できる確固とした空間であったのだ。

ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるこの理想都市像はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容し始める。

本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化するしていく。

ウィトルーウイウスは古代の円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

つまりルネサンス期の宮廷のための古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったのだが、と同時に絶対君主が操作するイリュージョナルな空間の誕生でもあったのだ。

オペラはこのイリュージョナルな空間を発見することから始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。オペラはそのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな音楽劇的な世界を生み出していく。

ルネサンス、古代劇場の再生/©



(ルネサンスの祝祭)
ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。

しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかに自らのの権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。

前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。

周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。

宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。

祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。

彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。

スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。

十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。

古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。


(ラテン喜劇はルネサンス市民の教養)

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。

そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。

テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。

ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。


(古代劇場の再生)

ラテン喜劇の上演にはローマ時代の「ヴィトルヴィウスの建築書」が使われた。彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。小宇宙=大宇宙の原理に関わるダヴィンチの人体比例図やアルベルティの「建築論」、パラーディオの「建築十書」等に大きな影響を与えたこの書は、すでに触れたが、ルネサンスの人文主義者・建築家にとって欠くことができないもの。

同時代のヴィトルヴィウスの研究とラテン喜劇への関わり、その数は記録が残されているだけでも膨大な量にのぼっている。フラ・ジョコンド、チェザリァーノ、ブラマンテ、セルリオ、バルバロという人たちはヴィトルヴィウス研究で名をなした人文主義者・建築家たち、彼らは各々の研究書の中で古代劇場の再生を試みている。


人文主義者の関心はこの書の中では特に舞台背景画にあった。ヴィトルヴィウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の三つの背景画が存在する。「一つは悲劇の、他は喜劇の、第三は風刺劇のスカエナと呼ばれるもの。これらの装飾は手法において互に異なり別々である。悲劇のスカエナは円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸宅や露台の外観また一般建物の手法を模して配置された窓の情景を持ち、風刺劇のスカエナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の景色で装飾される。」(前掲ヴィトルヴィウス建築書)この記述から類推すれば先述したローマ時代のサブラータ劇場のスカエナ(舞台背景)は円柱や破風であるから悲劇用と言えるようだ。


(舞台の背景画と透視画法)

上演の舞台背景には発見されたばかりの透視画法の空間が不可欠。ブルネレスキが発見し、アルベルティが理論付けた、人間の想像による等質・等方の透視画法の空間こそ、神の支配を受けないルネサンス劇の舞台を支えるものと言える。

つまり、理想都市とアルカディアがその舞台背景を構成している。そして、ルネサンスの舞台と透視画法、それはどちらも人間の計画的意志を持ってその中にシンボル配置することから生み出される新しい世界。その新しい世界こそ、神なき世界の生き方をレヴューするルネサンス特有の思考の空間となっていたのです。

劇の上演だけであるなら貴族館の広間か中庭が用意され、そこに舞台背景画を掲げるだけで十分であったが、劇場全体の再構成を試みるとなると容易ではない。と同時に、最初の実践が具体的にどのようなものであったのか、実はまだ充分には解っていない。

アルベルティは1452年にニコラウス五世の為のテアトルムを建てている。このテアトルムは当然、ヴィトルヴィウス劇場の再現であり、最初の実践と目されているが、資料が少なく詳細が解らない。むしろ、残された透視画法との関連でのヴィトルヴィウスの舞台背景の再生の試みはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初と考えられている。

「アトランティコ手稿」の街路の情景のための素描がその舞台背景。その手稿の制作が1496年あるいは97年であるならば、現存する最古の再生スケッチとなる。


(舞台の背景のスケッチ、透視画法による理想都市図)



一般的な研究ではウフィッツ美術館に保存されているブラマンテの版画が最初のスケッチ。十六世紀初頭の理想都市図だ。

線画描写の絵は左右に柱廊を持った街路が広場の入口を構成する古代風アーチの門を潜り、アルベルティ風のルネサンスの教会まで続いている。人文主義者あるいは建築家は舞台背景画は描くことで、彼らがイメージする理想都市を具現化していたことがよく解る。


プロスペッティーヴァ(透視図)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われる。ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はヴィトルヴィウスの記述の再現、理想都市図が作られたという記録がある。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適している。ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるウルビーノの理想都市図はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

興味深い透視画法の背景画がもう一つある。ラッファエロとともに沢山の舞台背景を設計したペルツィッヒの作品。中央に格子状に仕切られた床模様を持つ街路、その左はアーケード、右は列柱廊、ルネサンス風宮殿の上にはパンテオンのドームにサンタンジェロの円筒の城砦が描かれている。

ポポロ広場のオベリスクの左にはゴシック風尖塔アーチ窓、後ろには空高くコロッセオの最上階の列柱も望める。この背景画は古代ローマ建築のコラージュとなっている。この背景を使いどんなラテン喜劇が演じられたかは定かではないが、観客にとってその世界はもう、迷うことなくイメージとしての理想都市ローマそのものであったことは間違いない


(透視画法の役割と劇場の変容)

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容する。本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化する。

ヴィトルヴィウスはその円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、やがて、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

ルネサンス期の古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったが、劇場そして透視画法はバロックの絶対君主が操作するイリュージョナルな空間へと変容していく。

オペラはこのイリュージョナルな空間の誕生から始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。さらに、そのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな劇的な世界を生み出していくことが、その発展の大きな道であったこともまた確かなのだ。

2011年10月25日火曜日

ラテン喜劇はルネサンス市民の教養

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。 そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。 テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。 ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。

2011年10月15日土曜日

古代社会の音楽と建築/©




(アテネ風の塔)

アテネのロ-マ広場の「風の塔」。エオル通りの終点に建つこの塔はアクロポリスを真後ろ背負う白い大理石の八角形の建物。水時計と風見が組み合わされた、紀元前一世紀の建築。塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向を知らせる。

「ロ-マ時代の風見」は聖ピエトロの故事にある鶏ではなく、海神ポセイドンの息子、いつも呑気そうに法螺貝を吹くトリトンだった。ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせギリシャ神話の風の神々が飾られている。

 

エオル通りに面する北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンの浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に合わされている。

花の女神フロ-ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をする。その恋に嫉妬したフロ-ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、恐ろしさ、優しさ、気まぐれさ、にあふれている。

そのような神々に囲まれた「風の塔」は古代の人々の風に対する関心と、当時の都市生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示していてとても興味深い。

「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかったアテネの人々にとって、風の神々の物語が書かれた「風の塔」は「一冊の書物」、大事な「愛読書」となっていた。


(記憶装置しての音楽と建築)

自然界に充ちあふれる音、その音はどんなに美しくとも反復しない、録音・再生技術がなければ繰り返し聞くことはできないからだ。 しかし、人が謡う詩や歌は記憶され再現可能。無文字社会にあって、詩や歌は人類最初の記憶装置となった。人ひとりの頭脳に入りきらない情報を歌に仕込むことで集団の記憶となる。

古代の人々は石や羊皮紙に「文字」を刻んでいる。 「文字」こそ最初の記憶装置か、しかし、それは権力者やエリートの専有物。「文字」は彼らの権力装置、あるいは呪力装置だった。

ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」のヴォータンはルーン文字を彫った槍を持ち、神の力を示している。槍に刻まれた「文字」そのものが、呪力的パワーを発揮しジークフリートを助けるという場面は印象的だ。 しかし、ここでは「文字」は記憶装置ではなくヴォータンの力。

私たちは愛の告白、神への祈願、心に秘めた胸の内を「歌」に託す。「歌」は古来から感情を伝える有効な媒体。 しかし、集団で生きる人間にとって、「歌」は知識や情報を保存し共有する、生きる上に不可欠な記憶装置でもあったのだ。

古代社会において「歌」とともにもうひとつ、権力者やエリートだけでなく、誰もが自由に利用できる記憶装置がある、それは「建築」。ギリシャの神殿、古代ローマ広場の風の塔あるいは中世の教会、「建築」はただ居住や利用に役立つだけが役割ではない、誰もが共有できる情報媒体でもあるのだ。

「建築」には様々な物語が託される。 物語は「建築」が人々に体験され、読み取られることで伝達される。「建築」は世界の形を示し、神々の世界を伝え、目に見えない歴史を語り、夢と現実を想像させる媒体としての役割を果してきた。

風の塔のあるアテネのローマ広場から北西部のアクロポリスを見上げれば、そこには紀元前四世紀のパルテノン神殿が建つ。その建築の東のペディメント、三角形の破風部分の彫刻はゼウスの頭から生まれるアテネの情景。アテネはゼウスの娘、しかし、ゼウスは母親である知恵の女神メティスがゼウス自身より賢い子を生むのではないかとおそれ、妊ったメティスを丸ごと呑み込んでしまう。やがて九ヶ月、ゼウスは頭痛に襲われ、彼の頭からアテネが誕生した。

西に回れば都市アテネの守護神をかけての争い。アテネと彼女の叔父であるポセイドン。神々の世界は何とも喧しい。

南北の柱列を屋根の下で連結するメトープ(三層の柱上帯の中央部分をフリーズといい、その中の矩形部分)には様々な蛮族、野蛮人とギリシャ人の闘いの場面が彫刻されている。

内陣の梁の小壁(フリーズ)には四年ごとに行われるパンアテナイア大祭の行列に参加しているアテネの市民たちの姿。アゴラからアクロポリスの上のパルテノンの東入口に到達するまでの様がまさにリアルタイムの動画を感じさせるがごとく装飾されている。

パルテノン神殿はだれが見ても美しいプロポーションだ。しかし、その全体から「神の家」と呼ぶ以外の特定の情報は見当たらない。

神殿を、生け贄に用いられた、食物を含んだ素材のあれこれの集合体と解釈する J・ハーシー、彼は 「何故に建築家たちは、元々は古代ギリシャの神殿から由来した円柱や神殿の正面を使い、(その意味も解らないのに)建築を建てるのであろうか。古代ギリシャの宗教が、何世紀ものあいだ死に絶えてしまっているというのに。」( 古典建築の失われた意味:鹿島出版会)と書いている。確かに、神殿に施された壁面彫刻からは様々な物語を読み取ってはいるが、構築された建築本体からは具体的なメッセージはなにも受け取っていない。しかし、ヨーロッパでは何世紀にも渡って、そのファサード(建物の外観正面)部分デザインを利用し、建築を作り続けた。

紀元前六世紀のピタゴラスは、ギリシャの美は、調和が源泉、ある特定な数比にあるといっている。さらに、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスは解説する。「1モデユールは円柱の直径の半分、柱頭を含めた円柱の高さは14モデユール、したがって円柱の高さと直径の関係は7対1、パルテノンの場合は6対1である」(ヴィトルヴィウスの建築書第四書三章:東海大学出版会)

建築においては「数と比例」がいつも問題となり、いかなる数値も最終的には「正数」として表現されている、というのだ。ヴィトルヴィウスは古代建築のデザインを読みとるには欠かせない人。この書では度々登場するが、まず建築は「数と比例」 が鍵となっていることに留意しよう。

(現実の背後の想像的世界)

盲目の吟遊詩人ホメーロスがキターラ(竪琴)を奏でながらトロイヤ戦争の叙事詩を歌ったのは紀元前八世紀。アテネのペリクレスとフェイディアスによってパルテノン神殿が作られる三百年も前のことだ。ギリシャの陶器を飾る壷絵が人物像ではなく、幾何学紋様に終始している頃、ホメーロスは吟唱によって英雄たちの世界を詩った。

 

人々は詩を聴くことで「世界」を知ろうとした。世界は絵や文字が「見る」ことによってではなく、言葉あるいは音を「聴く」ことによって理解されたのだ。それは聴覚から生まれる想像世界。世界は音楽から始まったと言って良い。

古代ギリシャの人々にとって耳で聴く想像世界のほうが、目でみる現実世界よりリアリティを持っていた。何故なら、いつも神々と共にある彼らの生活において、山々や木々や川や水や雲の流れ、天変地異、季節の到来、天体の運行など、すべては神々のなせる技。人々はその技を目で見ることより、想像することで理解した。

ギリシャの人々は何故、想像世界に強いリアリティを感じていたのか、そこには古来からの彼ら特有の考え方がある。天体はいつも規則正しく秩序立っている。生きるべき世界もまた同じ、世界は決して混沌としたものではなく、規則正しいある法則が支配している。

人が五感で知る世界はいつも不完全、捕らえどころなくバラバラ。現実の世界は不完全だが、その表面にではな く、背後にある世界には天体と同じ美しい秩序(ハーモニー)があり、そのハーモニーが完全なる世界を支えている。

人間が生きるべき本来の世界とは、自然や動物と共にある目の前の現実ではなく、その背後にある想像世界と考えていたの。

「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」(シンボリック・イメージ・日本語版への序:平凡社)と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。

ヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない言葉だ。古代ギリシャにおいては、人間が五感で把握する世界は不完全だが、イディアが人間が生きるべき本来の世界を支えている。

中世においては、唯一の創造主がいて、世界は神により支えられ、理性で理解できる教義により成り立っている。

目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術を支える土台と言って良い。その土台は古来からの合理主義。「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念が生きるべき「世界」を支えているのだ。

ゴンブリッジが東洋にその例を見ないということもよく理解できる。私たちは合理主義より経験主義「事柄の理解はすべて経験の結果」と考えている。

従って、「理性によって組み立てられた世界」より「経験的現実の世界」が生きるべく総てであって、 感覚界の背後の世界には関心が無い。 仮に「もうひとつの世界」はと問えば、それは夢か彼岸、死後の世界となってしまうのだ。

ゴンブリッジは同じ日本語版への序で次のようなことも付け加えている。「プラトンの学園、つまりアカデミアの入口の上には、幾何学に通ぜざる者ここを潜ることなかれ、という銘文が記されてあったという。それは何故か。奇妙に響くかもしれないが、幾何学上の真理は我々の転変常なき感覚界には適用されないのである」。

幾何学という数と形の学問は「建築」を支える基盤。しかし、その基盤もまた現実ではなく、現実を理性的に認識するための根拠にすぎないと言っている。つまり、確かなことは理性的認識だけなのだ。

人間が描く三角形はいかなる三角形も真実ではないし、また真実である必要もない。現実の紙の上に書かれた直線は、真なる直線であることは決してない。真なる直線とは理性的なあるいは観念的な認識の世界に存在するもの。

プラトン主義は感覚で知る現実の背後に、本来の世界が存在すると考え、真の理性的客観的知識とは、その世界にあるものと考えている。現実的感覚界にあるのは主観的意見に過ぎない、従って、誰もが共有する「合理」は現実の背後の想像世界のみの存在となる。


(天体の音楽と天上の館)

ヨーロッパの人々が信頼する「合理」支える想像世界とは「音楽と建築」が生み出す世界だ。どちらも共に主観的感覚的な存在というより理性的認識媒体。

古代ギリシャから近代の始まりまで、天体は音楽という楽しい観念も持っていた。天体は唯一、感覚的にも 毎日「秩序だって」運行する。それは「合理」の象徴。一方、音楽は感覚的にも美しい。「美しい」ということは「秩序だっている」「調和がとれている」ということを意味する。

つまり、秩序だつ音楽は天体と同じ、目にする天体の運行は音楽と考えたのだ。ハーモニーを持つ天体と音楽は「数」という客観的体系により秩序正しく論理化されている。

さらにまた、「地」はカオスだが、音楽が響く「天」はコスモス(ギリシャ語のkosmosの意味は秩序でもある)。天(宇宙)に響く音楽を地上に引き戻すことでカオスである地上もまた秩序化できる。 音楽が響く天上に建つ館を地上に引き写すことで、地上が秩序づけられる。それが想像世界に建つ「建築」のメッセージ。「建築」を音楽同様、ハーモニーを持つ 「数」という客観的体系で生み出すことにより地上が秩序づけられると考えた。

これがギリシャ神殿が意味する建築世界。ギリシャ人の合理を支えるもの、現実の背後にある確かなもの、それは秩序(ハーモニー)を認識させるコスモス(天=宇宙)であり、天に響く音楽と天上の館がその象徴。そんな宇宙の誕生をヘシオドスは紀元前七世紀の「神統記」の中で宇宙はムネモシュネ(記憶)の娘である九人の「ムーサ=ミューズ」の音楽に満ちたものと見なしている。

「麗しい歌声が疲れも知らず

ムーサたちの口から流れ

彼女たちの百合にも似た歌声が

広がりゆくとき

雷 轟かす父神ゼウスの館は笑いにさんざめき

雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館は木霊を返す」(神統記・廣川洋一訳:岩波文庫)

あるいはまた、ヘンデルの「聖セシリアの日のための頌歌(Ode on St. Cecilia's Day)」は十七世紀の詩人ジョン・ドライデンが不協和な「自然」に響く天上の和音を謡った詩に作曲した。

「和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

「自然」が不協和な原子の山に

埋もれて、顔を

起こすこともできなかったとき

妙なる声が中天より響きわたった、

断て汝、死に果ててはおらぬものよ!

たちまち冷と熱と湿と乾の四気は

それぞれの部署に正しく立ち帰り、

「音楽」の力に服したのだ。

和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

和音から和音へと

すべての音階をめぐって、

その全音域の極まるところ、それが「人間」なのだ。」(ジョン・ドライデン「聖セシリアの日のための歌」:世界文学全集第六十六巻・筑摩書房)さらに、図版はジョージ・フレデリック・ワッツの「希望」。消えてしまった天体の音楽を賢明に蘇らせようとする少女(ミューズ)の姿が、コスモスという想像世界が解体した十八世紀に描かれた。


 (fig4)


(ピタゴラス音階)

世界の美しい秩序の根本にあるのは「数」、和音はそこから得られるものとし、天体は音階(調和)であり「数」であると考えたのはピタゴラス。ギリシャ人にとって科学は実利的なものではなく、審美的あるいは形而上学的営みだ。

ギリシャ科学では宇宙の生成は美しく秩序だったもの、ヘシオドスの宇宙の誕生は詩であるとともに科学でもあった。

その根本となる「数と比例」、紀元前六世紀ピタゴラスは協和音程と数の比例との間に密接な関係があることを発見し合理化した。ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーが奏でる様々な音の良く響き合う瞬間があることに気付き、世界の美しい秩序の元にあるものは「数」であり、和音はそこから得られると確信したのだ。

音程とは二つの音の高さの隔たりを言う。一度はユニゾンつまり隔たりがない。ドレミファ・・・ではドとレの隔たりは二度、四度はドとミ、五度はドとファの隔たりを言う。伝説ではピタゴラスはキターラの開放弦を使って、ということになっているが、二点間に単弦を張り、開放弦の音と単弦の中央を押さえた時の音、つまり弦の長さの比が2対1の時、2つの音は互いに良く響きあうことを確かめた。

次に弦の長さを2対3、3対4に分割し弦を弾き、同じく開放弦と良く響き合うことを確認する。弦の長さを2対3に分割して弾くと開放弦とは五度の隔たり音、3対4の分割では四度の隔たり音、どちらもお互い良く響きあう。このことから1対2はオクターブ、2対3は完全五度、3対4は完全四度の音程を持ち、協和音程は「数の比例」と密接な関係にあることを発見している。


(アリストテレスとプラトン)

その後アリストテレスはピタゴラスの考えを強調し「数」をすべての存在の構成要素であるとした。天体は数であり音楽であると紀元前四世紀、彼の「形而上学」で定義づけている。一方、アリストテレスより早くプラトンは「国家」の中で算術と幾何、つまり数と形に関する学問こそ、現実を理性的に認識するための根拠なのだと言っている。

彼らの仕事はヨーロッパにおける合理主義、視覚や経験では捉えられない現実を、理性(ロゴス)と思考によって捉えるものとしたことにあり、その原理は「数」の「美しき秩序=ハーモニー」そして「天体の音楽」にあったと考えられている。

さらに古代ギリシャおいて音楽は現実の響きではなく、世界全体が照らし出される場となるもの、それは官能をくすぐるものではなく、理念に導かれる人工的世界とみなしている。笑いにさんざめく父神ゼウスの館、雷 轟かす雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館、神々が住まう天上の館もまた「数と比例」による人工的世界なのだ。

構成された建築や音楽の中に数比関係が見いだされたからといって、それが感覚的な美しさを証拠だてる根拠はどこにもないが、感覚ではなく合理への信頼、理性的認識としての「音楽と建築」は全く同相にある。ともに「数」から生まれた兄弟。天(コスモス)に鳴り響く天体の音楽と天上の館はギリシャ神殿が石造建築として誕生するまぎわの時代、すでに確固たるイメージを持って地中海世界に広まっていた。



(クレタのクノッソス宮殿)

ミノス時代のクレタが西洋建築の歴史的起源と目されている。ギリシャ本土のミケーネがホメーロスに謡われる遥か昔、紀元前十六世紀にはすでに大宮殿が建設された。クレタ島はギリシャからはエーゲ海を南に越え、アフリカに最も近い島。その位置と形状は東西に細長く、ギリシャと小アジアあるいはアフリカを結ぶ位置にあり、古代から文化と謎につつまれている。

紀元前六千年にはすでに、穀物栽培と土器焼成の技術が当時の先進地小アジアからこの島にもたらされた。紀元前三千年には青銅器文化が導入され、ギリシャ本土よりもいち早く、野生オリーブの栽培果樹化が進み、島全体は農業の生産性は急激に高まっている。この生産性の向上がもたらした経済発展が政治的・社会的変化を生み出し、ギリシャ本土の低迷を尻目にクレタではクノッソスを始めいくつかの壮大な宮殿が造営された。

 (fig5)

しかし、その後のクレタの宮殿は紀元前千四百年を頂点として徐々倒壊してゆく。クレタ島に花咲いたミノス文化の終焉はサントリーニ島の火山噴火を含め度々の大噴火と地震が原因、あるいはギリシャ本土に台頭したミケーネ文化との悲劇的な関わりの結果なのか。クレタの倒壊から三千年余り後の二十世紀始め、アーサー・エヴァンス卿の発掘によりその全貌は徐々に解明されてゆく。

クレタ島の中央部北側の大都市イラクリオンはいつの時代もこの島の中心。この都市から南へ5kmあまり、カイラトス川に近い丘の斜面を利用してクノッソスの宮殿は建設された。後に迷宮(ラビリュントス)と呼ばれるこの宮殿は、その後のギリシャの建築とは異なり、複雑な構成と、形や大きさが不揃いの何百という部屋を持ち、あるいは上に太く下に細い柱や縦横に張り巡らされた通路と階段によって構成されている。しかも幾つかの部屋の壁面は色彩豊かに描かれた草花や海豚や魚、沢山の牛に人間たちが描かれていて、その全体は多くの人々の様々なの想像を掻きたてずにはおかないふしぎな世界となっている。

クノッソスは当時のクレタ全体を支配したミノス王の宮殿。その遺跡全体は150m、南北に長い50m×30m程の中庭を囲んだ三層から四層の複合建築。代々のミノス王とその重臣たちはここを拠点とし、政治を動かし経済活動を行った。宮殿内には大量物資の為の倉庫と数々の美術品のための工房がある。中庭では凄惨な宗教行事まで行われ、その全体は宮殿と呼ぶより政治・宗教・経済が一体となった都市のような様相を示している。


(ミノタウロス神話)

クノッソスの前王アステオーンは子供が無いまま世を去った。人望の無い弟ミノスは王位を継承しようとするが民衆に反対される。ミノスは王国は神々から授かったものと民衆に伝え、その証拠はミノス自らが望めば神はいかなる願いも叶えてくれると豪語する。

ミノスは海神ポセイドンから牡牛を贈られることを祈り叶えられる。その牡牛をポセイドンに捧げると約束し王国を得るが、ミノスは見事な牡牛を惜しみポセイドンには別の牡牛を捧げ、怒りを買ってしまう。ポセイドンは牡牛を凶暴にし、王妃パーシパエーが牡牛に欲情を抱くようにさせてしまった。

ダイダロスはアテネのもっとも優れた工匠、斧や錘、水準器などの発明者。しかし、彼は鋸を発明した弟子ターロスを嫉妬し、崖から突き落としてしまう。有罪となったダイダロスはアテネを追放され、クレタ島にやってくる。

王妃パーシパエーはダイダロスに木製の牡牛をつくらせ、彼女はその中に入りミノスの牡牛と情交を交わす。やがて王妃パーシパエーは身ごもり生まれたのが半人半獣のミノタウロス。

ミノス王はダイダロスに迷宮(ラビリントス)をつくらせ、その奥深くにミノタウロスを閉じ込める。怪物ミノタウロスの食欲を満たしたのは、クレタの占領地アテネから生け贄として送られてくる美しい少年少女たち。

生け贄を救うべく志願したのがアテネ王エーゲウスの息子テーセウス。黒い帆を掲げた船でクレタ島に上陸したテーセウスはたちまちミノス王の娘アリアドネに恋をする。彼は成功したら妻とすると約束したアリアドネの糸玉に助けられ、この迷宮に忍び込み、みごとミノタウロスを討ち果たしクレタ島を脱出した。

迷宮の秘密をもらしたダイダロスはミノス王の怒りを買い、今度はダイダロス自身がイカロスと共にここに閉じ込められてしまう。イカロスはミノス王の女奴隷ナウクラテとダイダロスの間に生まれた息子。ダイダロスは鳥の羽を蝋で張り付けた翼を作っておき、ふたりは無事ミノスの怒りから逃げ出すことに成功する。


 (fig6)

しかし、イカロスは太陽に近付き過ぎたため蝋が溶けだし、イカリア島の近くに墜落する。ダイダロスはシチリア王コーカロスの元に逃げおおせる。ミノス王はシチリアに行き、コーカロスにダイダロスの引き渡しを求める。

しかし、シチリア王は彼の娘たちにミノス王を殺させた。死して冥界に降りたミノス王は冥界を治めるハーデス神のもとの死者を裁く裁判官となり、黄泉の世界の支配者の一人となる。

一方、アリアドネとクレタ島を逃げ出したテーセウスはアテネへの帰還途中ナクソス島に立ち寄る。あろうことかテーセウスは眠っているアリアドネをこの島に置き去りにし、ひとりアテネに帰ってしまった。

アテネの王エーゲウスはテーセウスが戻る時、無事であれば白い帆を張るよう命じていたが、アリアドネを置き去りしたことを悔やみ悲しんでいるのか、テーセウスは父の命令を忘れたまま入港する。船が黒い帆を張っているのを見たエーゲウスは、我が子の死を嘆き海中に身を投じてしまう。

クレタ島のミノス王の神話は尽きないが、オペラの話にも触れてみたい。フィレンツェの最初のオペラがダフネやオルフェオの物語であったように、多くのギリシャ神話がオペラの題材となっている。


(オペラとギリシャ神話)

オペラはフィレンツェのカメラータたちのギリシャ悲劇の再演に始まっている。それが理由と言うわけではないが、その後、モンテヴェルディをはじめとしてリュリにヘンデル、パーセル、グルック、ハイドン、モーツァルトやシュトラウス等々、多くの音楽家がギリシャ神話を題材にたくさんのオペラを書いた。楠見千鶴子さんの「オペラとギリシャ神話」(音楽之友社) 巻末にその全作品がリストアップされているがとても数え切れない。

オペラの作曲には音楽とともに動くドラマが求められる。オペラのためには単純な物語であること、感情の起伏に富み、心の浄化に役立つこと。そして最も重要な事は「ある特定な人物」の喜びや悲しみではなく、あなたでもあり、わたしでもある、特定されない、どこにでもいる総ての人間のドラマがテーマとなっている。誰でもなく、誰でもある、世界中どこにでもいる普遍的人間のもつ運命とその悲しみ、それを豊かな感情を持ち表現するのがオペラだ。

このミノタウロス神話からも幾つかのオペラが生まれている。ナクソス島に置いてきぼりされたアリアドネの嘆きはモンテヴェルディとハイドン、そしてR.シュトラウスが作曲している。

モーツァルトの「クレタ島のイドメネオ」は神話を直接オペラ化したものではないが、彼の初期オペラの名作。それは運命としてのポセイドン神との約束、親子にしろ男女にしろ愛ある人間であるならだれもが持つ悲劇をモーツァルトは十八世紀特有の寛恕のオペラとして完成させた。


(迷宮が意味するもの、それは都市と建築)

様々な神話を持つ古代ギリシャ。しかし、建物が中心となる物語はこのミノスの宮殿の他にはない。この神話とそれを育んだクノッソス宮殿、その間には現代の私たちの想像を刺激するどんな事柄が潜んでいるのか。

そもそも何故、クノッソス宮殿が迷宮(ラビリントス)なのか。実際に、この宮殿を見学してみる、あるいは図面からの想像でも良い、歩いてみると決して迷宮ではない。中庭に立てば、ほぼ全貌が掴める。複雑で分かり易いとは言えないが、現代建築に比べても迷宮とはほど遠い。しかし、都市か宮殿か墳墓か、三千年も経過したこの大きな複雑な構造物はその至る所に、様々な物語を秘めていることだけは間違いない。


 (fig7)

ギリシャ先住民の言葉ではラブリュスは双斧を意味する。クノッソスの宮殿には双刃の斧を祭った部屋があり、その部屋をラブリュントスと呼んでいる。双斧は王章でもあり、このことから、この大宮殿全体を迷宮(ラビリントス)と呼ぶようになった。

さらに双斧すなわちラブリュスが権力の象徴以前に、石工の持つ平鎚をも意味するものであるならば、それは石を削り組み合わせ、石造の建築物を生み出すものとなる。つまり双斧で象徴されたラビリントスとは長い年月をかけ人間がもくもくと作り上げた人工的世界そのものを意味している。

そしてもうひとつ、直接神話に結びつく、もっと重要な事柄も想像される。この宮殿はシュリーマンの発掘したギリシャ本土のミケーネの宮殿とは似ていないわけでもない。しかし、クノソッスの豪奢で美しい造りと巨大さを体験すればミケーネは地方植民地の一前進基地に過ぎない。その前進基地がアガメムノンやイピゲニア、トロイ戦争の英雄たちの神話の故郷であるならば、このクレタにダイダロスの建築神話が生まれるのは当然だろう。

神話が示すアテネのテーセウスやダイダロスとクレタのミノス王との確執はエーゲ海の覇権をめぐるアテネとクレタの争いと読み取れる。この神話が後世に覇権を握ったアテネ側に生まれたものであることを考えあわせると、この迷宮神話はギリシャ人が抱いたミケーネ以前の建築あるいは都市の文化への憧れを意味している。

大規模の建築ならすでにエジプトやメソポタミヤでは存在していた。2ヘクタール余りのこの建物を迷宮として神話化させたもの、それはまぎれもなくこの宮殿は、ギリシャの人々にとって、野蛮世界とは隔絶した古代における大都市としてイメージされていたのだ。

ミノア文化を支えたのはクノッソスばかりではない、クレタ島にはいくつかの都市が存在していた。ホメーロスはイーリアスでクレタのことを「民が群がい集う諸都市」と歌っているが、クレタはギリシャ人にとって想像を絶する怪物的な文化を持つ都市であり、その人間的集合もカオス的なものではなく、迷宮的なものとして理解していたと考えられる。


(ダイダロスとデミウルゴス)

ミノスの迷宮が都市であり、その神話が古代における都市のイメージを直接的に表わしているとするならば、ここで立ち戻らなければならないのは「ミノタウロス」は何を意味するのか。

都市には魔物が棲むという想像は現代社会でも通用する事柄だが、ミノタウロスはもっと深読みする必要がある。建築家ダイダロスによって作られた迷宮の奥処に幽閉された半人半獣のミノタウロス、彼は建築によって調伏されるべく不定形なもの、無秩序なもの、カオス(混沌)としてイメージされるのだ。


 (fig8)

この神話は建築の有様を示す原神話であり、ダイダロスは半人半獣のミノタウロスという両義的なカオス(混沌)を幽閉する迷宮を「数と幾何学」によって作った。「建築」はカオスを綴じ込めることがその役割、その観念はプラトンのティマイオスが支えてくれる。

不可視な世界にあるイディアと私たちの目に見える世界のモノとの媒介者の役割を担ったのがデミウルゴス。彼は決して無やみやたらにモノを生成するのではなく、「宇宙は混沌を秩序づけることによって生成される」という原理に基づいて、不可視のイディアをモデルとし、様々なモノを生み出している。

つまり、プラトンのデミウルゴスと神話のダイダロスは同相にある。そして、クノッソスの迷宮はダイダロスとデミウルゴスの建築意志の原神話、「数と幾何学」という秩序によって不定形なカオスを調伏する人、それが建築家であることが説明される。



(オルフェオと音楽神話=音楽的調和は社会的調和を生み出す)

カオスを調伏するミノスの迷宮が建築の原神話であるならば、野卑な獣たちをおとなしくさせ、無生物である雲や小川をも音楽に巻き込む竪琴名手オルフェオは、音楽の創生神話だ。音楽的調和は社会的調和を導く、音楽と建築は共に「数と幾何学の子供」、つまり動物的人間が住むカオスのような自然世界を「数と幾何学」によって秩序だったコスモスとしての人間的世界に転換する、これが古代ギリシャがイメージした音楽と建築の役割だ。

高山と峡谷により隔絶されたニンフと牧人が住まうのどかな理想郷。オルフェオはテッサリアの谷間、アルカディアに住んでいる。彼はアポロンと九人のミューズ(知的活動を司る女神)の中の一人、カリオペとの間に生まれた音楽の神。オルフェオは毎日、金の竪琴を弾く。その音と彼の歌によって鳥や獣だけでなく、木々も頭をたれ耳をすました。空に漂う雲も、小川のせせらぎも、彼の歌に合わせ流れたという。

オルフェオには最愛の妻エウリディーチェがいる。ある日、彼女は川岸を散歩して、あやまって草の中の毒蛇を踏みつけてしまった。毒蛇は怒り、エウリディーチェに噛みつく。やがて、彼女はオルフェオとの別れをおしみつつ、草の上に顔をうずめ息たえた。エウリディーチェを失ったオルフェオは、悲しみのあまり竪琴も手にせず歌うことも止めてしまう。いつもの川岸に座り、ただただ涙を流すばかりの毎日。

ある日、彼はエウリディーチェを取り戻そうと心に決める。エウリディーチェを探しに出かけたオルフェオは、やがて大きな黒い門の前に出た。そこには頭が三つの化け物のような大きな犬が番をしている。闇の中の六つの火のような眼と歯をむき出しにして。すさまじい声で吠える化け物の前に立ち、オルフェオは金の竪琴を肩から降ろし、静かに弾きはじめる。すると犬はだんだんとおとなしくなり、足下で眠り始める。もう一度オルフェオが歌を歌うと、門はひとりでに開きはじめた。

死の国に着いたオルフェオは宮殿の門に立つ。そこにはいかめしい番兵、しかし、彼もまた竪琴の音を聴くとおとなしくオルフェオを見送った。広間にはハデス王、生きたままこの国にやって来たオルフェオを烈火のごとく怒鳴りつけるが、オルフェオはだまって竪琴を取り、えもいえぬ音を響かせ静かな美しい歌を聞かせた。

王の怒りはおさまり「美しい音楽を聞き、こんなにいい気持ちになったのは生まれて初めてじゃ。死してもいないのに、こんな寂しく、悲しい国にやって来たのだから、そなたにはなにか願いがあるのであろう。どんな願いか申しなさい、ひとつだけは叶えよう。」オルフェオはエウリディーチェを地上に戻してくれるようにお願いした。

死したエウリディーチェを再びこの世に返す願いに、さすがに王は渋る。しかし、あんな美しい音楽を奏でるものの願い聞き届けてやろうと、エウリディーチェを黄泉の国から地上に戻すことを許した。ただし、二人が地上に戻るまで、どんなことがあっても、後からついてくるエウリディーチェを振り返ってはならぬぞと、オルフェオに王は約束させた。

何度もエウリデーチェを見たいと思ったオルフェオだが、必死に我慢して道を進む。しかし、地上に戻る寸前、ついに辛抱しきれずエウリディーチェをわずかひと目と振り向いてしまう。 そこにはなつかしい妻の声が聞こえただけで、すべては霧の中に消えて行く。


 (fig9)

以上が、山村静さんのギリシャ神話(教養文庫)から要約させていただいたオルフェオとエウリディーチェの物語。フィレンツェのピッティ宮殿でのオペラの誕生となる「エウリディーチェ」を始めとしてモンテヴェルディの「オルフェオ」、十八世紀にはグッルクの「エウリディーチェとオルフェオ」と、この物語はオペラ史の底流、ターニングポイントにもなりたびたび登場する。

さらに、そのテーマを愛と救済の物語と敷衍させれば、モーツアルトの「魔笛」、ベートゥヴェンの「フィデリオ」もまた同じ、詩と音楽による劇という世界では、このテーマは決して消えることなく、現代に引き継がれている。「オルフェオ」はなぜオペラの底流なのか、なぜ音楽家を引きつけるのか。そこには音楽神オルフェオが社会的調和を生み出すばかりでなく、音楽家の持つ知的関心、つまり音楽家自身が発する「言葉の世界」が深く秘められている。


(オルフェオ・音楽の持つ力)

音楽家の持つ知的関心とは「時代」を生きる音楽家自身の姿のことだ。オルフェオのテーマは失われたアルカディアの牧歌的幸せを「音楽の力」によって再生しようとするもの。この場合の音楽とはアポロンでありオルフェオという神のことを言う。

ルネサンス期、フィレンツェのオルフェオは中世キリスト教世界に変わる新しい時代をイメージさせる象徴。それは従来の聖職者ではなく人文主義者(ユマニスト)としてのオルフェオを意味し、時代を再生する神。十六世紀末のマントヴァのオルフェオは聖職者でも人文主義者でもない。同時代に誕生しつつあった画家や建築家、「作家」としての音楽家の姿を表している。モンテヴェルディは「音楽の力」を発見し、音楽家としての自信と気概を、オルフェオに置き換え示しているのだ。

グルックのオルフェオはオペラを改革せざるを得ないグルック自身の姿。十八世紀のオルフェオは理知的で啓蒙的な愛ある人間そのもの。グルックは神話から逸脱し、人間オルフェオの愛の賛歌としてオペラを作曲した。