2020年7月23日木曜日

住まいは人になじみ、人は住まいになじむ  アドルフ・ロース

ウィーンのアドルフ・ロース「他なるもの」(1903年10月)の記事。 ロースは近代のもっとも注目すべき建築家、彼は建築家ではあるが、同時代の美術芸術建築家を徹底的に批判し、 私を建築家と呼んでほしくない、ただアドルフ・ロースとだけ呼んでいただきたい、と書いている。
 彼は音楽・美術・文学の世界に多くの友人を持つだけでなく、服飾や家具はては馬の鞍にまで言及する、まさに近代の達人、 いや当代の本物の目利きの人といって良い。 そんなかれが何処かに書いた、意味も味もあるコラム。 住まいは人になじみ、人は住まいになじむ。
 趣味の悪い住居になることを恐れてはならない、趣味はそれぞれ。 これは正しくてあれは間違いだ、と誰が決められよう。 自分がつくった住居であれば君たちの選択はいつも正しいのだ。 
現代芸術のスポークスマンは言うだろう。 われわれはその人の個性に合わせて住居のすべてをしつらえてみせましょうと。 それは嘘だ。

 芸術家は自分のやり方でしか家をしつらえられない。 自分の住居は自分でしかしつらえられない。 自分自身が手掛けることではじめて自分のいえになる。 画家であれ壁貼り職人であれ、他人がやるとそこは自分の住まいではなくなる。 せいぜい無個性きわまるホテルのへやになるか、住まいのカリカチャーになるだけ。 そんな部屋に一歩足を踏み入れると、私はそこで人生を過ごさなければならない哀れな住人をいつも気の毒に思う。 ここに、人々が家という存在によって大きな悲劇を背負いこむ本当の事情がある。 こんな無味乾燥な家に住むなんて、まるで貸し衣装屋で借りてきたピエロの格好を着込んでいるようなものだ!

2020年7月5日日曜日

装飾と犯罪 アドルフ・ロース


装飾家達はこう主張する。
「ある消費者が家具を買ったとする。そしてその家具がイヤになってしまうとする。となると、十年毎に家具を買い替えなければいけないわけで、こういう人の存在自体、古いものの寿命がつきてもう使えなくなった状態になって、はじめて新しいものに買い替える人の存在より、ずっと好ましいことだ。ものを作る産業界がそれを望んでいるのである。人がつぎつぎとものを買い替えることによって、多勢の人達が仕事にありつくことになるのだ」こうした言い分に、オーストリアの国民経済の秘密があるようにも思える。というのは、火災がおこる度に、「やれやれ、有り難い。これでまた人々に仕事ができた」といった言葉を幾度となく耳にしたことか。それ私しにもいい考えがある。都市に火をつけて燃やしてしまう、そして国中に火を付けて燃やしてしまえばいい。そうすれば沢山、金儲けができ、楽な生活ができて、国中、わきかえるだろう。そして買って二、三年もすればオークション会場にもっていっても労賃と材料費の一割の金にもならないのだから、暖房用の焚き木にでもしたほうがいいような家具を作ればいい。金具類にしても、四年もしたらもとの金属溶かして地金にしてしまうような金具を作ればいい。そうすれば我々はますます金持ちになるだろう。冗談はこのくらいにして、話を元に戻そう。・・・・・近代人とは、自分の創意・工夫のみ才を他のものに集中するものである。」

ロースは平明な文章で、世紀末の金持ちの「装飾」を「犯罪」として批判しているのだが、よく読むと、安物の物質環境に踊る、現在の我々の消費者主義が「犯罪」なのだ。
アドルフ・ロース「装飾と犯罪」中央公論美術出版p99。

2020年7月1日水曜日

コーラ・ル・ワークス(建築)とコーラル・ワークス(音楽)


「建築におけるフォルマリスト的アプローチ」を模索するピーター・アイゼンマンと「反ー形態の提唱者」デリダとの協働を画策したのはベルナール・チュミ。二人は協働し「ラ・ヴィレット公園」プロジェクトの別セクションでチームを組むことになる。
ピーター・アイゼンマンは1984年「古典的なものの終焉ー始まりの終わり、終わりの始まり」を書き、この時デリダの著作に言及している。デリダはまたアイゼンマンの設計した住宅を気に入っていた。「それは見えはするが決して中には入ることができない屋根のついたもの。」デリダはこの住宅を「コーラ」のアナロジーとみなしていたのだ。
「コーラ」はアイゼンマンと出会う前からすでに着手していた論文、デリダはこの時のアイゼンマンとの協働を通じて完成させている。
「コーラ・ル・ワークス  ジャック・デリダとピーター・アイゼンマン」と題された本が1997年に刊行されている。それは1985年9月に始まるデリダとアイゼンマンほか、何人かの編集会議議事録である。

コーラは空間として理解されると同時に、物質的なものと非物質的なもののあいだにある第三の空間のようなもの。デリダはプラトンの「ティマイオス」のなかの「コーラ」の概念に触れる。不可思議なイデア界とわれわれが生きている感性界の間の第三の空間。イデア界は永遠不変の形態や理念が住まうところ、感性界はイデアの多くの不完全な複製物のみの人間の経験による不完全な世界。知性界と感性界という二つの空間は対置されるが、この両方の世界の起源となる第三の世界としてプラトンは「コーラ」を導入している。
コーラは空虚な場所ではなく、製作者であるデミウルゴスが範型となる形相を眺めながら、それをモデルとして感覚的似像を創り出すが、そうしたかたち作られたり、刻み込まれたりする「場」のこと、デリダの解釈は、この「場」を矛盾をはらんだ受け入れる存在であり、イデア界、感情界に先行しており、それらに還元することができないと考えている。

「コーラ」の概念が説明されたとき、アイゼンマンは「では、このプログラムを具体化するに物理的に取り組んでみるのはどうだろうか」。アイゼンマンは「コーラの不在」の現前化を構築する可能性を目指したが、デリダはかたちにすることは人間中心主義の極みではないかと反論した。
デリダは「コーラ」根源的な書き込みのできないアポリアとしている。そこは、一方はさまざまな形相が書き込まれる受容者だが、それ自身は決して現前しない。あらゆるものを受け入れながら、白紙のままであり続ける。つまり、「根源的な書き込みのアポリア」。
世界の起源は痕跡であり、それは決して現前しなかった出来事の痕跡。現前と不在の二者択一では説明出来ない痕跡の場。デリダはこの場を「間隔」と呼び、起源という点から始まる線状的な時間を攪乱する時間錯誤の場としているのだ。

デリダは自身の「ティマイオス」の読解から引き出されたオブジェクトの図面を書いている。グランド・ピアノの輪郭が平面的に大まかに描かれている。「ハープのように見えるが、弦はグリッドのように張られているので楽器として使用されるものではない」。そして「垂直でも水平でもなく太陽のほうへ傾くように設置されたひとつのソリッド・フレーム、それはフレームワーク(機織り)と同時に篩い、あるいは格子のようにも見えるし、さらに弦楽器(ピアノ、ハープ、リラ)のようにも見える。弦、弦楽器、声帯などなど・・・それは多声コーラスのコンサートを、つまり、「コーラル・ワークス」のコーラを指示する記号を作ろうとするのである」。

プラトンの「ティマイオス」には宇宙の起源であるような一種のカオスの考え方が書かれている。プラトンが提示しているのが、カオスのなかで要素同士の混合、篩い分け、定着という概念。この概念がインスピレーションとなり、デリダは「コーラ・ル・ワークス」プロジェクトへの参加要請に答えている。コーラには空間、場所、カオス、受容者、誕生、複雑性、矛盾、差し引き、表現不可能性という概念が群がっている。
つまりコーラ・ル・ワークスは「リラとライアーを踏まえたコーラル・ワークス(合唱曲集)」。
アイゼンマンとデリダのプロジェクトについてのタイトル(コーラ・ル・ワークス)が議論された時、コーラル・ワークス(Choral Works)という案は出ていた。アイゼンマンは賛成している。「われわれはあらゆるものを手にしている。ーーわれわれはあなたを、私を、ストーリーを、そしてタイトルを手にしている」。しかし、デリダは反論している。「まだその作品をつくることが残っている」。「明瞭かつ手で触れられる表現を与えるのが建築。この表現はモニュメンタルな物質性や建物の永続性をとおして与えられる。物質性・永続性によって文化的基礎は保存・伝達され・脱構築に抵抗する。デリダにはとっては、この手で触れられるゆえに、「建築が形而上学の最後の砦」に変えることが企図されているのである。