エーコの「開かれた作品」を、世紀末以降、音楽家が調性組織を放棄したのは建築のポスト・ポストモダンの問題かもしれない、と感じながら読んでいる。つまり、ここにはアドルノと同じように近代建築への批判が読み取れる。中世以来の調性組織からウィーン世紀末、創作者である多くの音楽家が離れたのは、建築に関わるテーマと考えていたが、音楽における「現実参加」に注目するエーコは終章で興味深い検討を加えた。
エーコは音楽家の調性組織に対する反逆は、慣習の硬直化とか創造的可能性の枯渇とか言うことでも、類型化し暗示能力が消えアイロニカルな形でしか表現できなくなってしまったことでもない、としている。放棄したのは調性組織が世界観や世界における在り様全体を、構造的関係性の問題にすり替えてしまったからなのである、と書くのだ。
これは、作品の創作者の問題であって享受者の問題ではない。演奏者でも、工事者でもなく、創作者という観点に立てば、調性音楽の実践は理論面においても、社会的関係の面においても、あらゆる教化をその目的とする、という根底的な信念をひたすら反復してきたにすぎない、と感じられたことに関わっている。
調性音楽は現代においては、演奏会という儀式に補強された一つの一時的な共同体のための音楽である。固定された時間に、ふさわしい衣装を着て各人が美的感受性を働かせる。しかるべき心のカタルシスと緊張の解消を果たしている寺院を後にするように、危機と心の安らぎとを享受するために客は入場券に金を払う。これは確かなこと。音楽家が調性組織に危機を感じるとき、それを介して感じることはなんであろうか。
「楽音間の関係があまりにも長い間、特定の精神的関係やある特定の現実の見方と一致してきた結果、聴き手の心がある一つの音響的関係群に出会うと必ず、その関係系が長い間繰り返してきた道徳的・イデオロギー的・社会的世界に本能的に依存するということが起きているのではないか、と感ずるのである」。(p297)
そして創作者は調性組織において表わされる理論的世界観、社会的倫理や道徳といったものすべてに疎外されているのではないかと感じてしまう。この伝達体系を解体した瞬間「音楽は通常の伝達状況を逃れ、反人間的意味で行動しているように見える。しかしそうすることでしか、聴き手を偽り欺くことを逃れる道はないのである。」(p298)
今現在、調性に何が起こっているのか。リズムにおいて目新しさはまったくない。歌詞の最後が<心>という言葉なら、<愛>にふれたその心の歓びが悲しみに変わることがわかったところで別に驚きはしない。調性の世界が繰り返し提示する人間関係の世界、秩序立って安定した世界と我々が習慣的に考えてきた世界とは、それはやはり我々が生きている世界なのであろうか。とエーコは問う。
体系を破壊するのではなく、体系の内部で行動すること。その体系を離れ、それに修正を加えるために、体系において敢えて疎外されながら、その兆しを受け止めること。今生きている世界をまさにあるがままの危機的世界として受け入れること。
現在の状況の混乱を収拾しようとすれば、欺瞞者と言われるだろう。そのような人は共同体とは無関係だと言われ、伝統的世界こそが維持するものとみなされるが、しかし、現実はまったく逆の事態なのだ。
新しい作品、それが本当のものである限りにおいて、伝達性にしっかりと根ざしながら、現在の世界と意味作用の関係を維持してゆく唯一のものとなるのである。