2020年2月9日日曜日

タフーリーのポスト・モダン建築批判

ポストモダン建築はマンフレッド・タフーリによって徹底的に批判された。タフーリがヴェネツィア建築大学に着任した1968年は、パリ革命に示されるようにヨーロッパは政治的なスペクタクルの究極の年、彼の「建築の理論と歴史」はそんな中で書かれているが、1920年代の政治状況と現代を比較し「操作的批評」というテーマのもと近代の批評家たちを批評した。 
その内容は近年の流行を説明するために歴史を読み取る批評家たち、現代にも適用できる利便的なイデオロギー的判断によって、過去から都合の良いものを選び取り、誤読するばかりと言っている。

そして核心は多くの近代建築史の本はでっち上げられたもの、なぜなら1920年代の建築家たちは、その革命的野望を実現できなかった。そして批評はイデオロギーのための理論や偽りの理論の道具となってしまった、とタフーリは書いている。

 タフーリのその後の言説は70年代のポストモダン建築批判に進む。 「曖昧さ」のような歴史的概念を自分自身のデザインの好みを正当化するために持ち込むヴェンチューリーを資本主義との暗黙を結びつきを即座に見抜き、歴史の自立性と理論を、現代の実践から切り離すことを主張した。
20年代のアヴァンギャルド運動もタフーリーは評価せず、デ・スティルの作戦もダダイストの非合理的なものの挿入も、同じ結果。巨大産業資本が、建築の基礎とするイデオロギーを取り込んでしまった、と言っている。 

ヴェンチューリーとスコット・ブラウンのラスベガスをポピュリスト的に受容したことは資本主義勢力への降伏以外のなにものでもない。ロッシのガララテーゼは当初「時間に置き去りにされた空間の中で凍りついている」と評したが、後に「彼の幾何学的な建物の聖なる精緻さイデオロギーを超え、新しい生活のあらゆるユートピア的な提案を超越している」と評価した。
 IAUSの建築誌の初期号(1972年)でのタフーリの評論記事「閨房建築」でロッシとアイゼンマンの建築を「残酷さの建築」と評した。それは「デザインのアプローチが現実世界の機能的社会的関心から退却していて、マルキ・ド・サドの放埒なサディズムに匹敵する、と言う。

そもそも彼は「ポストモダン」という呼称にも不満を持っている。「これが本当の転換点であるかどうかはわからない。反対に「モダン」の最も表面的な特長が極端にまで強調されている。われわれが手にしたのは「楽しき学問」ではなく「放埒な誤り」。それを支配しているのは、形態と意味の完全一致、歴史を視覚的に侵略する場にまで貶めることによる歴史の無効化、テレビから学んだショックを与えるテクニックなどだ。
結果として虚構の建築がコンピューター時代の中で難なく確立してしまった。このような部品のみの混合体はハイパーモダンと名づけるのが適当だろう。 ハイパーモダンいわゆるパッケージデザイン時代にある現在、技術主義主導のイデオロギーに乗りユートピアを描いてきたモダニズムと形態探しに邁進し、ポストモダンの意味のかけらに翻弄され、形の無いフラットなニューアーバニズムに消えていく現代建築。
タフーリーが70年代に展開しつつあると認めた二つのデザイン戦略<記号学と構成的形態主義>はどちらも資本の完全な支配のもとにあり、革命的意味から見ればむなしい試み。建築家も批評家も今はたせる役割は一つ。それは「時代錯誤的なデザインへの期待、不毛で無効な神話から決別すること。」  

重要なのは80年代以降の言語の科学的な研究(記号論)としての建築論を批判。それは「建築における公共的意味の喪失」という危機を解決するものではない、という批判だ。
現代建築における意味論的危機、それは18世紀後半から19世紀前半に発生している。
記号論への関心、それは科学的な歴史分析を排斥しようとする欲求から始まっている。言語の問題は、現代建築の言語危機に対する応答にすぎず、タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。

建築が言語であり続けることは当然ながらミメーシスの問題。反ミメーシスであることはイェーニッヒの現代芸術感とは鋭く対立する。
タフーリーの批評を待つまでもなく、今一度モダニズム以前の建築に立ち戻ろうとディーター・イェーニッヒの著作に触れていたのが最近の個人的な関心。自律した建築は芸術ではないが、「タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。」