2020年2月22日土曜日

モダニズム建築の存続

50年代前半、ロンドンのAAスクール(英国建築協会付属建築学校)に学んだケネス・フランプトンはアイゼンマンに誘われ、アメリカのニュージャージー、プリンストン大学の教員となる。プリンストンでの関心はアドルノ、マルクーゼ、アーレントのいわゆるフランクフルト学派。社会の生活水準を自動車やテレビ、飛行機によって測ろうとする価値観を否定、芸術的前衛の役割は資本主義文化が生み出してきたキッチュに抵抗すること、というまさにこの学派の「批判理論」そのものを主張した。

従って、彼がヴェンチューリーとスコット・ブラウンのポピュリズム的立場に反論するばかりか、アイゼンマンの形態主義的建築にも関心がなく、同調しないのは当然かもしれない。

1980年のヴェネツィア・ビエンナーレのテーマは「過去の現前」。キュレターのパオロ・ポルトゲージは「ポストモダンの状況は存続する。それは我々の文明の急速な構造的変化によって形成されたもの。建築を歴史の胎内に立ち戻らせ、伝統的な形態を新しい統合論的文脈の中で再利用すること。」と主張。しかし、ビエンナーレのイベントに招かれたフランプトンは参加者たちにも、ポストモダンという用語の使用にさえも辟易し、イベントへの参加を撤回した。「私はこのビエンナーレを、多元主義的なポストモダニスト宣言だと見ている。・・・私自身はそこからは距離を置き続けるべきだと考えている。」

同時代、ポストモダンの流行に反対する声は高かったが、運動そのものに批判的だったのは「カサベラ」誌の編集者はヴィットリオ・グレゴッティ。彼は社会的関心を顧みず「歴史への執着」に走るポストモダニズムに反対。「建築は、それ自体の問題を反映し、それ自体の伝統を探求するだけでは生き延びることができない。たとえ、建築という分野に必要な専門的手段は、その伝統の中でしか見つけることができないとしても。」

そんな中、注目すべきはベルリンの大規模な住宅および復興事業。ヨーセフ・クライフースが参加するベルリンの国際建築展(IBA1988)において単一の住宅団地という案は否定され、ベルリンの壁に隣接する未だ戦争の傷痕を残していた都市地域全体に、一連の再構築計画を分散させる事になった。ここでは国際的に活躍している建築家が多数招かれている。日本の建築雑誌にもたびたび特集され、個人的には新しい建築の到来を感じていた。

クライフースは「地域的再構築」の提唱者、それは、革新的でありながら同時にベルリンの場所の「記憶」を尊重し、かつ「一般の人が理解できる言語」で表現するデザインを提案。戦前の街路システム、混合用途ゾーニング、緑の中庭を再構築し、19世紀初頭の近隣住区スケールに再び焦点を戻すことを狙っていた。このガイドラインはポストモダニズムともう一つ当時発展途上にあった地域主義者とが交錯したものと捉えることができる、と「現代建築理論序説」でマルグレイブが書いている。

地域的モダニズムの理念はモダニズムそれ自体と同じくらい古くからある。その再燃は1981年の二つの評論、歴史的テーマに集中したポストモダニズムを批判した「地域主義の問題」と1950年代の教条的モダニズムからの解放をテーマとした批判的地域主義を主張する「ギリシャ建築」。批判的地域主義の本質はヒューマニズム、流行を追いかけて歴史形態を受け入れることに反対するものだった。

1983年ケネス・フランプトンは「批判的地域主義に向けて、抵抗の建築に関する六つの考察」を書いている。この評論はフランクフルト学派の影響を受けているが、さらに彼は文明(道具を根拠とする理性)と文化(創造的表現)を区別しポストモダニストの前衛気取りは「解放された近代のプロジェクトの破綻」と「批判的な対立文化の衰退」を示していると論じた。そして、彼は批判的地域主義による「アリエールギャルド=後衛」の立場を提唱、それは皮相的な文化を解体し、普遍的文明の実証主義的ないし科学技術力を継承するとともに和らげることができる、としている。

彼の批判的地域主義はハイデガーの「建てる・住まう・考える」に立ち戻り、場所/形態、地形、文脈、気候、光、触覚、テクトニックフォーム(構築的形態)し、生態学的感受性への着目を呼びかけるもの。特にテクトニクスは建設の方法とディテールに関わり、「材料、工芸と重力の間にあってそれらをまとめあげる潜在的手段」「ファサードの表現よりも、構造の詩的な表現」に寄与するものとしている。

1920年代、ロシア構成主義において建築はすでに意味する言葉としての形態を失っている。1980年代の脱構築はその確認に我々はその後60年を必要としたと言うことだろう。建築を意味と記号という二面ではなく、三次元的空間の現象として検討し始めたのは18世紀のカンシーからだが、しかし、建築の空間構成あるいは空間のシンフォニーが「建築は何を作るか」の主題には未だ成りえていない。(原広司の「建築になにが可能か」は60年代後半の均質空間批判、彼の建築論は一貫して形態ではなく空間をテーマとされている)

現代建築理論序説でマルグレイブは「60年代と70年代に政治や建築専門外の理論から出発した主要な建築理論のいくつかは1990年代中頃には疑わしいものとされ、さらに的外れとさえ見られるようになっていた。」と書く。建築へは外からの要請、「地域主義と環境」つまり地域活性化、地球温暖化、リサイクルあるいは生態学的持続可能性などをめぐって国際的な論議を駆り立てるようになってきた。そして、90年代中期は過渡的な時代、その前線を幾何学的操作や純粋な効果作戦、社会的政治的な関心に対応した変形技術、技術決定論的な立場をとっての新たなデジタルテクノロジーの時代としてマルグレイブは記述していく。

ここからの大半は、プラグマティシズム、コンピューター利用による技術決定論(ランダム応答解析)、幾何学的操作(非線形的幾何学)であって、どう作るかが主題となり、個人的な関心である、建築は何を作るか、からは離れていく。スリランカ出身の構造エンジニア、セシル・バルモンドの「ニュートンの決定論とは異なる物理学の再概念化」に関心を残し、本書を閉じることにした。

バルモンドへの関心はAI社会のテーマ、「建築家は単なる媒介者ということもありえる。もちろん、ある段階で建築家は中に介入し、アルゴリズムを指揮すべきであり、あるいは少なくともそれが無限に作動することを止めなければならない。その時点にこそ、必然的に主観性と作家性が再登場するだろう。」というところにある。


2020年2月20日木曜日

ポスト構造主義の建築


80年代、「建築をどうつくるかより、なにをつくるか」への関心が強かったが、チャンスがあり、住宅の設計だけでなく、友人たちと共同しプロジェクト企画の業務にも参画した。様々な本を読み、遅くまで議論し、住宅の建設現場に立ち、製図台にも向かう、というてんやわんやの毎日。しかし、ある意味では充実していた時期、懐かしささえ感じている。

「建築理論序説」のマルグレイブによれば、1980年代は「理論金箔時代」、建築理論・文化論研究が特に学問的な象牙の塔の中で最高潮に達していたとある。現象学、記号論、フロイト派心理学、ポストモダニズムそして批判理論。さらにポスト構造主義、デコンストラクションが加わり、理論はますます多彩となる。マルグレイブはポストモダニズムを歴史主義や記号論と連動した運動と限定し、ポスト構造主義(フランクフルト学派とフランス構造主義の上に構築されたもの)と区別し論を進める。

フランクフルト学派の社会研究所はすでに1930年代に活動が始まっている。50年代から60年代、ベンヤミンやハンナ・アーレントの本が出版され、古典的芸術と決別し、ブルジョワ的構造による簒奪からの断絶を図った。1970年、80年代に最も評判になったのはホルクハイマーとアドルノ。特にアドルノは個人的には音楽的関心も高かったので、音楽に関わる彼の本を買い漁り、その残骸は今も書棚を飾っている。

彼らの主張のポイントは「啓蒙の弁証法(1947年)」の批判理論が詳しい。資本主義は経済的自己破壊から崩壊することはない、なぜなら実際に資本主義は大衆消費社会(そこでは個人が文化産業に支配される)に進化することにより、きわめて弾力的な経済システムであることが証明されたからだ。その後、2008年、ジャック・アタリが「21世紀の歴史」が出版され、いまも書棚にある。省みるならば、アドルノは50年前に21世紀の予兆を示し、21世紀初頭、アタリはその確認作業を行ったのかもしれない。

超民主主義時代の建築に何が可能か、この書ではマルグレイブはこのことには一切触れていない。「現在の新聞雑誌映画等の情報産業が大衆の最も無批判的態度に迎合しただけでなく、同時に、狭い範囲の絶対確実な紋切り型に対する文化的順応性を作り上げた。このようなことが文化理論に与える影響は何一つ良いことはない。もし文化が市場への絶え間ない迎合によって堕落したのなら、芸術は終点に来ている」とのみ書き、建築の問題からは離れている。

アドルノは「芸術は自律的かつ社会的であるべき、芸術はそれが社会に対して抵抗する力を有する限りにおいてのみ生き残るだろう。」とし、シェーンベルクの無調音楽の精神、カフカの自意識の誇張、クレーの線による黙想などに見られる抵抗を例として示している。つまり、アドルノの批判理論(芸術は根本的に抵抗の行為)は、20世紀初頭の前衛戦略の幾つかの擁護という意味で、しばしばモダニズム擁護として特徴づけられる、とマルグレイブは書いている。

建築は芸術ではない。しかし、建築の自律はアルベルティ以来のテーマだ。分離派の芸術建築を批判し続けた世紀末のアドルフ・ロースは芸術と建物の違いを「装飾と犯罪」の「建築について」に書いている。さらに、自分の構想の細部を図面にする必要は全くなく、すばらしい建築は言葉で説明できるものと言っている。彼は「私は建築家と呼ばれるのはうれしくない、単純にアドルフ・ロースと呼んでほしい。」と言う。芸術と建築の違いを明文化するのはロースの仕事ではない。しかし、アルベルティ、パッラーディオ、さらに18世紀以降のカンシー、シンケル、ゼンパー、ロース、ロッシ等々。小生の80年代以来のテーマ「建築はなにをつくるか」は今も終わることはない。

構造主義とは現象をある普遍的な法則の下で作用する変数から出来たシステム。言語は大きな構造をによって統率される記号あるいは意味のシステムであり、人間の精神には普遍的な構造が存在するというレビストロースの仮説に基づいている。

フランス構造主義の論客とはロラン・バルト、ミシェル・フーコ、ボードリヤールにリオタール。特にリオタールは知がますますデジタル化されるに伴い、一般教養(リベラルアーツ)は教育の普遍的基盤としては時代遅れとなり、情報(科学的知見)が市場で激しく競って売買される商品になるだろうと推論している。さらに、科学的知は伝統的に一般教養に基づく二つの「大きな物語」に支えられてきた。一つは啓蒙主義的信念、もう一つは、いつか人間への奉仕のために再び知の統合が起こるだろうという信念。経験的には「大きな物語」はモダニズムのユートピア的政治基盤、ポストモダン世界とはいかなる物語も支配することのない世界、普遍的正当性を装うことのない、狭い地域に限られた「小さな物語」、とマルグレイブはリオタールを解説している。

しかし、リオタールの論にはジャック・デリダは全く当てはまらない。彼は何らかの哲学的前提や大きな物語ではなく、テクストの中に意図されていない隠された意味やテクストが必然的に持つ表に出ないヒエラルキーを暴露する(デコンストラクション)ことを提唱した。デリダが問題としたのは「西洋思想の全体的体系が、歴史的に「中心」というロゴス中心主義的理念の周辺で構築されてきた」ということだ。

この「中心」の例としてはプラトンのイデア、大きな物語、あるいは神への信仰が挙げられる。このような中心は、次には「他者」なるものを疎外あるいは抑圧することで対立を作る。私たちはこの対立によって世界を概念化し理解する。

したがって、ある一つの用語(例えば建築における「モダニズム」)の存在はもう一つの用語(19世紀の歴史主義)の不在を隠す、そして歴史主義の様式は「痕跡」と見なされる。それゆえ「モダニズム」という用語(20世紀の四分の三の間、特権を持っていた)は歴史主義(「他者」として嘲笑された)の理念を通じることによってのみ定義できる。

デリダのデコンストラクションの全体的戦略は特権化された用語に揺さぶりをかけ、中心から排除することから成り立っていて、それによってその用語が成立する根底にあったヒエラルキーを転覆することにある。とマルグレイは言う。しかし、デリダは建築理論ではない。建築言語が持つ形態決定の不可能性が示されたのであるならば、建築は沈黙し、解体されたことになる。

60年代のデリダの著書は70年代中頃、英訳され、ヨーロッパではポストモダニズムとポスト構造主義はコインの裏表として読まれていたものが、アメリカでは特に建築界は70年代後半、ポストモダニズム批判と見なされた。さらにポスト構造主義を「理論を纏ったモダニズムの蘇り」であると評されさえもした。

1983年、ハル・フォスターは「反美学」の序文で「モダニズムをデコンストラクションするポストモダニズムを抵抗のポストモダニズム、モダニズムを否認し既存体制を讃えるポストモダニズムを反動のポストモダニズムと呼んでいる。ブルジョワ文化と闘争を続ける前者は善、ポピュリズムと結びつけられたヴェンチューリーは後者であり、既成文化を支持し模倣していると見なされたのだ。一方、フレデリック・ジェイソンはポストモダニズムの美学は「模倣と分裂的性格」であり、モダニズムほど既存の内部にありながら危険かつ破壊力があり転覆的ではないが「その戦略に資本主義の論理に抵抗できる道があるはず」と言う。

1985年、マイケル・ヘイズは「批判的建築、文化と形態の間で」において建築は、自律性と完全な社会参加の中間に位置付けられ、「批判的建築」は「支配的文化の自己承認的で懐柔的働きかけに抵抗しつつ、場所や時間の偶発性とは関係ない単なる純粋形態構造にまでは還元されないもの」と言う。しかし、小生にはかっての抵抗のモダニズムをプラグマティックに運用したアメリカらしい建築論の復活に思えてならない。つまり、ヘイズにとっては批判的建築の実践者は他ならぬミース・ファン・デル・ローエのこと。ミースのフリードリッヒ・シュトラッセのオフィスビルの反射するガラス面は、戦後ベルリンの落胆と混沌に対して「抵抗的かつ対立的」であると同時に「形態分析による解読は困難」とヘイズは論じているのだ。

イタリアの論客ジャンニ・ヴァッティモは1983年に「弱い思考」と題する評論を編集。伝統的形而上学の「強い思考」を批判し、ハイデガーの癒し、回復、忍従、容認と記憶、回想、再考を奉じての前進を論じた。つまり、モダニズムのへーゲル的思考やマルクス主義が共に強い弁証法的対立項による超克を要請したとするならば、過去の伝統に対して、その他のメタ物語で置き換えるのではなく、温厚な敬意を表することを示唆している。

さらにスペインのイグナシ・デ・ソラ・モラレスは「弱い建築」を1987年に世に出す。弱い建築はイベント、偶然性のこと。いかなる美学的体系も持たない装飾性、記念碑性の建築のこと。弱い建築という言葉は好みではないが、個人的には「建築はロースが書く芸術でも建物でもなく、形を持った音楽」とするならばモラレスには同意する。

2020年2月15日土曜日

機械主義の建築、そしてポピュリズム


第二次世界大戦以降の建築の使命は戦後世界を改良し、荒廃した都市環境の再生にあった。そのためにモダニズムが主張した方法は科学的合理主義による秩序の提供、しかし1959年のCIAM以降、そこで主張されたような人間的都市イメージは生み出されてはいない。60年代以降の建築では、それ以降一層さまざまな批評と理論が展開されることになった。

1947年にはルイス・マンフォードが地域的モダニズムの可能性を提起したが、しかし、ニューヨークMOMAは排除している。

同じ年、アルド・ファン・アイクがブリッジウォーターのCIAMでモダンデザインの過度な合理主義に異議申し立てをしたが、そこではほとんど支持者はいなかった。

1959年、雑誌「カサベラ・コンティヌイタ」は「ネオリバティ様式」の形態を評価し、幾何学的モダニズムからの「イタリアの退却」を表明している。それは歴史的建築にも敬意をはらう寛容なモダニズムの主張、BBPR設計のミラノの中心街につくられた高層建築「トーレ・ヴェラスカ」のデザインが、イタリア中西部の雰囲気を思い起こさせることに対し、モダニズム正統派から批判されたことへの回答だった。

「ネオリバティ様式」への多少の理解を示したイギリスのレイナー・バンハムだが、彼は科学技術勢力の推進役。同時代を代表する理論書「第一機械時代の理論とデザイン」を1960年に刊行している。そこでは「機能主義と科学主義」が自動車や汽船のような機械から、洗濯機・冷蔵庫・掃除機、テレビへ、つまり文化的エリートのステータス・シンボルから大衆に娯楽を提供する第二機械時代の到来が論じられている。そして現在は第三機械時代、あるいは情報時代、IT・AI時代の建築はますますリゾーム化し、複雑多様な機械時代はどんな建築を生み出すのだろうか。

第一機械時代から第二機械時代へ(レイナー・バンハム)、そこからもたらされた秩序ある人間的都市とは一体なんであったであろうか。60年代後半、巨大都市建設はヨナ・フリードマンの「空中空間都市」を導き、フライ・オットーの「可動都市」、さらにアーキグラムの「プラグイン・シティ」「ウォーキング・シティ」等々、SF的構想も建築雑誌を飾った。60年代後半、「宇宙船としての地球」で人気の高かったバッキー・フラーは「ダイマキシオン・ハウス」から「ジオデシック・ドーム」を自作している。

しかし、実際世界は北アメリカ主導、世界はどこも鉄鋼とガラスによるカーテンウォールを持つ高層ビル。高速道路建設による社会分断を不用意に受け入れたプロジェクトはやがて人種差別、貧困犯罪を抱える多くのスラム街を生み出した。建築家がさまざまな方策の限界に気づき、それらの計画の理論的根拠を問題にし始めたのは1960年代に入ってからだった。

ルイス・マンフォード「歴史の都市、明日の都市」

ジェイン・ジェイコブス「アメリカ大都市の死」

ケヴィン・リンチ「都市のイメージ」

ハーバート・ガンズ「都市居住者たち」

エドワード・T・ホール「沈黙のことば」

アレグザンダー「コミュニティーとプライバシー」と「パターン・ランゲージ」

個人的にもっとも興味深かったのはアレグザンダーの「都市はツリーではない」、「A Pattern Langeguage」「The Timeless Way of Building」は英語版を買い込み挑戦した。更に懐かしいのは「建築における複雑さと矛盾」(鹿島出版会)だが、これはなかなか読み取れない訳書だった。ポスト・モダニズムの先駆者、ロバート・ヴェンチューリーの著作。

住宅を中心とする設計事務所に勤め始めた頃のこと、彼の作品「母の家」と共に建築誌SDに紹介されていたので懸命に読んだ記憶がある。この書はイギリス詩の批評家ウィリアム・エンプソンの「曖昧の七つの型」(思潮社Seven Types of Ambigutty)を下敷きとしている、と教えてくれたのは大学時代の親友、しかし彼はもう、今はいない。「曖昧の七つの型」はその後の事務所開設による別分野との関わりから必要とされたことなのだが、当時への思いはともかく、マグレブの書に戻ることにする。

ヴェンチューリーはミース・ファン・デル・ローエの"Less is more"を”Less is bore"と言い換えたり、モダニズムは今やマニエリスム段階にあると批評した建築家。彼は大衆的、通俗的要素への嗜好をサブテーマとし、ポップアートに刺激されたとは言え、それがリアリズムであり、進行中の悪い(ヴェトナム)戦争に従事している政治体制抗議の意見表示であるとし、新しい多様な建築デザインを提案した。

「日常的な風景、通俗的だと軽蔑されている風景から、我々は複雑で矛盾に満ちた秩序を引き出すことができ、それこそが都市的な全体性を有する建築にとっては不可欠。」という彼の主張。

更に1965年に「意味のある都市」というタイトルの記事を書いていたスコット・ブラウンと結婚し、共著「ラスベガスから学ぶ」が1972年に生まれる。夫人は都市を四つのテーマ(知覚・メッセージ・意味・モダンイメージ)から分析し、それらをつなぐものは「シンボル」のアイディアであると書き、多くの住民は都市の形態を記号として読んでいるが、都市計画家はそのことを理解できていないと言っている。

二人はプロたちはうぬぼれから図像学的な伝統を放棄し、いわゆる「説得力ある建築」からは遠く離れてしまったと論じているのだ。

しかし、この書に対してアルゼンチンの画家トマス・マルドナードは「ラスベガスのネオンサインはポピュリストの行為でもなく、視覚的豊さの条件でもなく、むしろ「無駄話」「コミュニケーションの深さの欠如」「カジノとモーテル所有者のニーズと不動産投機家におもねるもの」にすぎないと批判した。

一方、「ポップから学ぶ」という小論で、スコット・ブラウンはアメリカの都市再開発プログラムは大失敗、それはエリートたちに備わった一般教養が支配しているからとした挑戦的なポピュリスト的反論を繰り返した。ここまでくると、さすがに、ケネス・フランプトンはマルドナードを引き継ぎ反駁した。「デザイナーも政治家のように物言わぬ大衆の声に従うべきなのか?もしそうなら、デザイナーはその声をどのように解釈すべきなのか?レヴィットタウンのような町に住まざるを得ない大衆に対して、西海岸の高級住宅街に住んでみませんか?と勧めるのが、デザイナーの仕事だろうか?それはすでにマディソン・アベニューの広告代理店がやってきた仕事ではないのか?」と。


2020年2月9日日曜日

タフーリーのポスト・モダン建築批判

ポストモダン建築はマンフレッド・タフーリによって徹底的に批判された。タフーリがヴェネツィア建築大学に着任した1968年は、パリ革命に示されるようにヨーロッパは政治的なスペクタクルの究極の年、彼の「建築の理論と歴史」はそんな中で書かれているが、1920年代の政治状況と現代を比較し「操作的批評」というテーマのもと近代の批評家たちを批評した。 
その内容は近年の流行を説明するために歴史を読み取る批評家たち、現代にも適用できる利便的なイデオロギー的判断によって、過去から都合の良いものを選び取り、誤読するばかりと言っている。

そして核心は多くの近代建築史の本はでっち上げられたもの、なぜなら1920年代の建築家たちは、その革命的野望を実現できなかった。そして批評はイデオロギーのための理論や偽りの理論の道具となってしまった、とタフーリは書いている。

 タフーリのその後の言説は70年代のポストモダン建築批判に進む。 「曖昧さ」のような歴史的概念を自分自身のデザインの好みを正当化するために持ち込むヴェンチューリーを資本主義との暗黙を結びつきを即座に見抜き、歴史の自立性と理論を、現代の実践から切り離すことを主張した。
20年代のアヴァンギャルド運動もタフーリーは評価せず、デ・スティルの作戦もダダイストの非合理的なものの挿入も、同じ結果。巨大産業資本が、建築の基礎とするイデオロギーを取り込んでしまった、と言っている。 

ヴェンチューリーとスコット・ブラウンのラスベガスをポピュリスト的に受容したことは資本主義勢力への降伏以外のなにものでもない。ロッシのガララテーゼは当初「時間に置き去りにされた空間の中で凍りついている」と評したが、後に「彼の幾何学的な建物の聖なる精緻さイデオロギーを超え、新しい生活のあらゆるユートピア的な提案を超越している」と評価した。
 IAUSの建築誌の初期号(1972年)でのタフーリの評論記事「閨房建築」でロッシとアイゼンマンの建築を「残酷さの建築」と評した。それは「デザインのアプローチが現実世界の機能的社会的関心から退却していて、マルキ・ド・サドの放埒なサディズムに匹敵する、と言う。

そもそも彼は「ポストモダン」という呼称にも不満を持っている。「これが本当の転換点であるかどうかはわからない。反対に「モダン」の最も表面的な特長が極端にまで強調されている。われわれが手にしたのは「楽しき学問」ではなく「放埒な誤り」。それを支配しているのは、形態と意味の完全一致、歴史を視覚的に侵略する場にまで貶めることによる歴史の無効化、テレビから学んだショックを与えるテクニックなどだ。
結果として虚構の建築がコンピューター時代の中で難なく確立してしまった。このような部品のみの混合体はハイパーモダンと名づけるのが適当だろう。 ハイパーモダンいわゆるパッケージデザイン時代にある現在、技術主義主導のイデオロギーに乗りユートピアを描いてきたモダニズムと形態探しに邁進し、ポストモダンの意味のかけらに翻弄され、形の無いフラットなニューアーバニズムに消えていく現代建築。
タフーリーが70年代に展開しつつあると認めた二つのデザイン戦略<記号学と構成的形態主義>はどちらも資本の完全な支配のもとにあり、革命的意味から見ればむなしい試み。建築家も批評家も今はたせる役割は一つ。それは「時代錯誤的なデザインへの期待、不毛で無効な神話から決別すること。」  

重要なのは80年代以降の言語の科学的な研究(記号論)としての建築論を批判。それは「建築における公共的意味の喪失」という危機を解決するものではない、という批判だ。
現代建築における意味論的危機、それは18世紀後半から19世紀前半に発生している。
記号論への関心、それは科学的な歴史分析を排斥しようとする欲求から始まっている。言語の問題は、現代建築の言語危機に対する応答にすぎず、タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。

建築が言語であり続けることは当然ながらミメーシスの問題。反ミメーシスであることはイェーニッヒの現代芸術感とは鋭く対立する。
タフーリーの批評を待つまでもなく、今一度モダニズム以前の建築に立ち戻ろうとディーター・イェーニッヒの著作に触れていたのが最近の個人的な関心。自律した建築は芸術ではないが、「タフーリーは猛烈かつ情熱的に建築は言語であると信じているのだ。」

2020年2月5日水曜日

プロジェクト・アウトノミア

都市と建築は誰のものか?という問いは、いつの時代にあってもよい。しかし、その問いへの答えはあまりにも根源的であり、様々な分野の関わりが必要となる。「プロジェクト・アウトノミア ピエール・ヴィットーリ・アウレーリ」はこのテーマを近代における人間の問題として真正面から取り組んでいる。「他律的であるからこそ自律する」と目される「建築の自律」というテーマに限定すれば、それは社会的であると同時に個人的なもの、現代の「都市の建築」の批評には欠くことが出来ない視点となる。 しかし、この書のテーマは個人そして都市の「自律の企図」、その内容は後期資本主義における資本制からの自律。当然ながら、「人間の自律」と「建築の自律」、そのどちらにも関わるだけに、本書の読み取りは容易ではない。建築のみならず、あらゆる領域が資本制社会の全体主義に浸潤する現在にあって、改めて「建築の自律」を取り上げることは重要なテーマだ。 アウレーリは自律の実現性が理論の実現性として生じるというロッシに賛成している。「資本制が都市計画学の技術的に合理性を完全に吸収していく状況にも関わらず、ロッシは都市を理論的に再考するもっとも重要な分野として、建築、すなわち計画学に特権を与えている」。アウレーリはロッシの「いかなるテクノクラティックな決定論からもかけ離れた都市現象の政治的、社会的、文化的意義を再構築していく実現の可能性」に「自律の企図」を見ているのだ。 今回もロッシの「都市の建築」の解読が個人的な関心のほとんどだ。ロッシは理性主義建築の再解釈から自律的な建築形態の根拠を「場」と「類型」に求め「都市的創世物」による方法を理論化している。しかし、現代建築の大半の感心は環境や地域という状況主義に終始している。読みながら、ロッシの言う建築の持つ「形態的意味」はどこまで正当性を確保できるか、そこが問題と考えている。 ハートとネグリの「帝国」に書かれていた「資本制の持つ国家的な正当性は必要なくなり、資本性そのものが超国家的なもの」という現代にあって、状況主義はもちろん、形態主義が自律性を確保できるという根拠はどこにもない。 同相の問題はフランクフルトのホルクハイマーとアドルノの「啓蒙の弁証法」にも重なっている。ネグリが言う後期資本社会の「内も外もない」均一な全体主義的傾向は、20世紀半ばすでにアドルノが「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問いで触れている。 福田和也氏は「アイポッドの後で叙情詩を作ることは野蛮である。」で20世紀の表現ドグマといわれるテオドール・アドルノの「アウシュビッツの後で、叙事詩をつくることは野蛮である。」を解説している。 氏から簡略引用すると、かって芸術はその表現において敬虔的自制と内省を要求されていた。しかし、アドルノはかってナチス親衛隊の将校たちによる機械的、組織的大量殺人の事実から、あらゆる芸術は、ホロコーストに対する敬虔さを欠いてはもはや野蛮である、と書いた。人間性の産業的殲滅を前にして、なお心情の屈折や天然の美を賛美するとしたら、それは人類そのものが、根源的に侵され誤っている。ナチス親衛隊の将校たちは、けして無教養な無頼漢ではなく、しばしば高潔な教養人。彼らはバッハを愛し、カントを読み、収容所から音楽家を選抜し、晩餐にバッハやブラームスを演奏させていたのだ。 つまり現代を生きている我々は我々自身の自律性を問うこと自体が今や問題なのだ。啓蒙された人間にのみ許されるのが芸術だとすれば、芸術はもはや消滅している。そしてアヴァター化した「帝国」が我々の現実だとしたら、形態は決して自律することはない。しかし、建築は決して「状況」だけにあるのではない、古来より「建築はあるがままの世界に建つ、あるはずの世界」という「形」を意味しているのだから。