2020年9月15日火曜日

モデルネの美学、アレゴリーとミメーシス

アドルノの「美的モデルネ」はモダニズムではなく、ボードレールの現代性を引き継ぎ、ブルジョワ社会とその商品世界を批判するものだった。
アドルノの友人、ベンヤミンの美学もまたボードレールから始まる。ベンヤミンとアドルノは共に商品の持つフェティシズム(物神崇拝・呪物崇拝)と芸術作品との関係がテーマだが、アドルノはフェティシズムの持つ二律背反性に視点を据えた<ミメーシス>による美学。
一方、ベンヤミンはフェティシズムの二重性を<アレゴリーに変えた美学。二人の方法の違い、アドルノは作曲家でもあり論理的、フラヌールなベンヤミンは経験的と思える方法と言う感想を持った。仲正昌樹氏は「ポストモダン・ニヒリズム」で二人を対比し解説をしている。この書の読み取りから今日はベンヤミンの「アレゴリー」とアドルノの「ミメーシス」の対比を試みる。 
 ベンヤミンは「ドイツ悲劇の可能性」(1928年)で崇高な自然の表象体としての象徴的芸術が解体する過程で現れたアレゴリー芸術の特質を論じる。 バロック芸術のアレゴリーによって表象されるのは<精神を客体化した>自然ではなく、自然が過ぎ去った後に残された廃墟。当時の悲劇によって舞台上演される自然史のアレゴリー的相貌は実際は残骸として現前する。そのような姿をした<歴史>は永遠なる生のプロセスとしてではなく、止まることのない、崩壊の過程として現れてくる。
そして、そこからバロック廃墟崇拝が生まれてくるとベンヤミン。つまりアレゴリーによって表象されるものは<自然>そのものではなく、自然が過ぎ去った後の廃墟。結果、描かれる<歴史>は永遠なる生のプロセスとしてではなく、止まることのない崩壊の過程、<アレゴリー>は自らの美が彼岸にあることを告白する、とベンヤミンは言う。こんな言説から、無謀だが、透視画法による理想都市図の意味、あるいはアルベルティやマキャベリの様々の叙述を思い出していた。
 <アレゴリー>を読む意味作用の主体である私が、自然を取り戻そうともがけばもがくほど、自然は私から遠ざかる。ベンヤミンにとって歴史とは、自然との和解(精神=主体/客体=自然)へと収斂していく救済の歴史ではなく、自然が崩壊していく<歴史>。従って、文字に書き留められた<歴史>の中には、生き生きとした<自然>の現前性を見出すことはできない。
<歴史>とは、もはや生を失った<自然>の死骸を<記号>によって結合した意味作用の連関にすぎないのだ。そして<象徴>が隠蔽してきた<自然>と<歴史>の間の弁証法的関係が<アレゴリー>の中に映し出されてくる、とベンヤミンは言う。 中世から近代への移行期に登場したアレゴリー芸術は、<象徴>形式に付着していた<感性的な美>の仮象を破壊し、死の相貌を呈する<自然=歴史>の本質を露呈してしまうと同時に、抽象化された<記号>の中に<超越的なもの>の痕跡を保持する両義的機能を果たしている。
このバロック芸術における位置付けをめぐる議論は、資本主義社会における芸術の在り方にそのまま引き継がれる、とするのがベンヤミンのアレゴリーなのだ。 ベンヤミンは「セントラル・パーク」(1939年)でボードレールのエクリチュールにおける<アレゴリー>の破壊的性格に言及する。
芸術とは本来、自らが感性的に知覚した<物>を像として再現、模倣しようとする、人間の営み。しかし、第二帝政期のパリで生活したボードレールを取り巻いていたのは高度に発展した複製技術を通して構築された商品世界だった。
 そこでは写真に代表される複製技術の発達で、人間の知覚は関与されずに、<物>を形象化することが可能になったのだ。しかし、商品として大量生産されるようになった<像>からは、かっての芸術作品が身にまとっていた<アウラ>が消えていく。アウラの衰退は、<物>に対する我々の知覚能力の衰退を意味している。 
ボードレールは技術によって画一化され、ステレオタイプが氾濫している商品世界の現実に反抗する戦略として、<アレゴリー>の破壊力を利用する。彼はテクストの中で<アレゴリー>は、生産体制に従って合目的的に秩序づけられている<物>相互の連関を切り裂き、<断片>化する役割を果たしている、としている。 

 人間の環境は仮借なく、商品としての表情を見せるようになると、同時に物の商品的性格を覆い隠そうとする広告が始まる。この商品世界をアレゴリー的なものへと変形するのは、商品世界の欺瞞的な美化に対する反抗と言えるだろう。この試みの対をなすのは、商品をセンチメンタルな仕方で人間扱いする同時代のブルジョワの試みと同じではないかとボードレールは考える。
なぜなら、ブルジョワは家財を包んでいるケースやカバーとまったく同じ意識で商品を覆いアレゴリー化しているからだ。 ボードレールはブルジョワジーが自らの環境である商品世界が紡ぎ出すファンタスマゴーリに無自覚に囚われることに危機感を覚える。人間の願望(ユートピア)を実現するために生産された<商品>が、逆に人間の願望をコントロールし、人間自体を商品化させるという皮肉な事態が生じているのだから。 
 ボードレールはブルジョワジーの倒錯した夢から身を引き離すため、アレゴリーの手法によって商品世界の中での<物>相互の組織的連関を歪んだ形で叙述する。彼の眼差しの中では、パリはアレゴリカルなタブローへと変貌していく。アレゴリー化された都市空間においては、<商品>を拘束していた既成の意味連関は寸断され、個々の<物>はモナドとして粉々に砕け散り、散乱した<物>は自然の残骸の様相を呈するようになる。
こうして商品の持つ物神的な連鎖を断ち切ったうえで、ブルジョワのユートピア願望の反映体である<商品>に潜む固有の<アウラ>を浮上させ、それを自らのまなざしの中で自覚的に捉えなおそうとするのがボードレールの作品なのだ。 
 バロック芸術におけるアレゴリーが、象徴的なものを崩壊へと追い込むと同時に、象徴の中に現前していた<超越的なもの>を抽象的の形式で保存する役割を果たしたのとパラレルに、ボードレールのアレゴリーは<商品世界>の一元的な価値のヒエラルキーを寸断し、商品の持つアウラ的なものを我々のまなざしの中へと現象させるという両義的な機能を担っている。
商品経済の中で硬直化しつつある我々のまなざしは、アレゴリーの破壊作用によって瞬間的に<覚醒>へと導かれる。つまり、ボードレールにとって「アレゴリーはモデルネの武具なのだ」とベンヤミンは言っている。 
 しかし、やがてベンヤミンは芸術作品の脱アウラ化と共に生まれた大衆芸術の可能性について楽観的見解を示すことになる。「複製技術により、その存在の一回性は脱落しつつあるが、今、ここにしかない真正なものであるからこそ、オリジナルはコピーにはない権威を持っていっている。複製技術においてはオリジナルとコピーの関係が根本的に変化するのだ。複製技術によってアウラは衰退するが、芸術作品は伝統の拘束から解放しつつある」とベンヤミンはアレゴリーに新たな意味を見出している。
 しかしアドルノは、大量複製技術はアウラの衰退を加速させ、それによって芸術作品を祭祀価値から開いたことは評価するが、映画などのニューメディアが大衆の主体意識を覚醒させる作用があることを前提としてしまうと、映画自体が生み出す新たなフェティシズムに対して無防備になる可能性があると、彼は懸念する。
 芸術の自律化、そのプロセスは<人間性>という理想の実現。しかし、その方法は脱神話化から啓蒙のユートピア。そこでは芸術として映し出される人間性と一致することはなかったのだ。芸術という尺度から見ると、社会は次第に非人間化していった。芸術が指示する<人間性>は現実社会の基盤である<人間性>とは全く異質なものとなってしまった。
従って、ここからは自律した芸術は、非人間的社会にとっては<他者>という機能を果たさざるを得ない。芸術は自らの進んで行くべき方向に確信を持つことができない。そのため芸術は自らが作り出した<美>の仮象を次の瞬間、自らの手で破壊しなければならない、というジレンマを背負わされている。
しかし、アドルノの<美>の仮象、それは模倣<ミメーシス>の対象となるべき社会的現実は実体としては存在しない。芸術は<現実>とは異なったもの、理解不可能なものを呈示し、間接的に社会を<批判>することが芸術の自律の方法としたのだ。 世界とのコミュニケーションは、非コミュニケーションを通してしか成立しない。
アドルノは自律的な芸術は生産秩序を支えているコミュニケーションを破壊することによって、メタコミュニケーションを開示することを目指した。従ってミメーシスは逆説的機能を帯びている、と言って良いだろう。
 アドルノからみれば、後期資本主義社会における文化産業は交換経済の中で<新しいもの>、それはアウラ的なものを内包している<展示価値>であり、交換経済における反復再生産するシステムにすぎない。 アドルノのミメーシスによって<芸術>に映し出されるのは、社会が自覚していない、あるいは自覚することを回避している社会自体の物象化された姿。
後期アドルノの美学は、市民社会を支える合理性をトータルに否定するのではなく、合理性の根底に沈澱している呪術的なものの残滓を内側から露呈する戦略を取る。アドルノは一切の救済の仮象を破壊することで、形而上学の誘惑に抵抗する。 
モデルネの芸術作品の抽象性は、それが一体何のために存在しているのか理解できない苛立ちを我々の内に引き起こすことにある。それは、抽象的な<同一性>に仲介されるコミュニケーションのリズムを乱すことに意味がある。モデルネは商品世界のグロテスクな抽象性をむき出しにすることで、同一性の支配に変調をきさせるのだ。そこには、同一化の原理の圧迫の下で<人間性>の仮象が完全に死滅してしまうことだけは最低限阻止するという戦略しか残されていないのだから。