2021年8月15日日曜日

シェーンベルクとルイジ・ノーノ

オペラ劇場の指揮者であるインゴ・メッツマッハーは「新しい音を恐れるな」という興味深い本を書いている。シェーンベルクの無調「三つのピアノ曲」を暗譜で演奏したことが、ピアニストの道に進むキッカケになったという。
時間、色彩、自然、ノイズ、静寂、告白、遊びという7項目から、11人の音楽家を平明に解説していく。従来のクラシック音楽を批判し、壮大な嵐の中から各々の音楽を発見していく20世紀の音の探求者たちの紹介といって良い。

「世界が調和に満ちているなんて、一度も感じたことが無い時代、音楽にあるのもまた軋轢と不協和音だ。」というシェーンベルク。彼は「モーゼとアロン」により、「見ることの悲劇」をオペラ化した。それは仮象を見ることではなく、現実を聴くことの意味をモーゼで表現したのだ。

「聴くことの悲劇」をオペラとし「プロメテオ」を作曲したのはヴェネツィアのルイジ・ノーノ。人類に火をもたらした彼は、言うならば現代の原子力に繋がる、人間の力ではどうにもならないリスクの大きい技術を手にしてしまった現代の象徴。シェーンベルクを引き継いだ彼は「聴くことの悲劇」によって群島状に分布する様々な人の声、矛盾と敵対を孕んだ歌や合唱を響かせる。そこでは、オペラを脳内のシナプス連繋のように響き渡る世界を聴く装置として作り上げた。

20世紀初頭のブゾーニにとって十二音平均律は代用品に過ぎず、無限の階調を求め三分音、六分音を使用していく。この動きはまさに音楽における最初の自然参加であったのかもしれない。
そして、シェーンベルクの十二音列、従来の協和音から離れ、自然から新たな秩序を引き出そうとする最初の方策と考えれば良い。もっとも、世紀末、音楽における不協和音に関心を持ったのは彼だけではない。始まりはワーグナー、ドビュッシーもまた興味深い作品を作曲している。

オクターブ内の十二の半音が相互に関連づけられる。他の全部の音が現れたあとでなければ、同じ音を繰り返してはならないという規則。
音の現れる順番は音列として定められ、その音列が曲全体を支配する。どんな音も調も、他に対して上位に立つことはなく、すべてが平等な価値を持つ、という一つの基準となるシステムを作り上げる。それはかなり人工的な作業だが、言うならば、シェーンベルクは嵐を表現しようとしてきたのだ。 現代音楽の世界はまさに事前が荒れ狂う壮大な規模の嵐の時代なのだ。

シェーンベルク音楽にあるもの、それは軋轢と不協和音。 緊張を否定し現実の和解をオブラートでくるんでしまおうとする音楽をどうしてつづけなければならないのだろうか、という疑問がまず始まりであったろう。音楽はしっかりとした土台の上にあったのだから。

ワーグナーのトリスタンとイゾルデに嵐の兆し、崩壊の始まりが感じられる。 マーラーの交響曲は前途の危うさを予感のなかにあった。 そして、永遠不変にみえた和声の組立を捨て、新しい音楽言語をつくろうとしたのがシェーンベルクの音楽だ。

彼はシュトラウスの交響詩からストーリーを語り、情景を描写する音楽(標題音楽)の原理を抽象的な形式による音楽芸術の聖域、つまり室内楽に応用しようと考え「浄められた夜 」を作曲している。そして、室内交響曲第一番。
四度音程に規定されたマーラーの第九交響曲で終わりゆく時代に別れをつげ、シュトラウスはエレクトラで既存のあらゆるものの基礎を揺るがし、ブラックとマティスは具象から抽象へ、キュビズムを興し最初の未来派が宣言された。
古い世界の崩壊というより、もはや世界がこれまでのように堅固なものでなくなったため、世界に対するわれわれの認識は大きく崩れさった。 そして、 長二度と短七度という不協和がシェーンベルグの新しい調性の柱となる。

歴史からの離脱、モダニズム建築との違いはここら辺りにあるようだ。
建築は世紀末からもはや100年、合理主義を弁証法的に繰り返し、過去の合理主義を継承するしか方法がない。しかし、これが建築の宿命なのかもしれない。
どの時代も建築は全体主義的なユートピアを希求してきた。
偉大な作曲家たちは、すべての人に語りかけてくいる。
心を開いてさえいれば、その音楽は誰でも迎えいれてくれる。
そしてぼくたちに向かって、つねに何かを語り続けかけている。そして、 ぼくは考え続けている、建築はもはや、なにも語ることができないのだろうかと。

2021年8月13日金曜日

音楽的建築体験

建築は絵画より音楽に近い、その経験は視覚的に明瞭であることより、感情的、触覚的蓋然的である。建築の面白さは何かと問えば、工学的にどう作るか、芸術的に美しいか、実用的で使いやすいか、精神的に居心地が良いか、だけではではないだろう。

それは、建築を経験することから生まれる、日常とは異なる異種の世界に入り込んだという感覚的な楽しみ。

ロマネスクの聖堂では、暗闇の中に据えられた柱頭飾りついての知識がなくとも、反響する音と呼応し、実際にはまったく目には見えないのだが、不可解な妖精に見張られているような体験をする。

そこでは音楽が無くとも、柱が刻むリズムや差し込む光に誘われて耳には聞こえないメロディーを聴く。この異次元の経験が建築の持つ面白味だ。その想像的世界はある種の物語性、音楽性を秘めたオペラなのかもしれない。