2020年2月5日水曜日

プロジェクト・アウトノミア

都市と建築は誰のものか?という問いは、いつの時代にあってもよい。しかし、その問いへの答えはあまりにも根源的であり、様々な分野の関わりが必要となる。「プロジェクト・アウトノミア ピエール・ヴィットーリ・アウレーリ」はこのテーマを近代における人間の問題として真正面から取り組んでいる。「他律的であるからこそ自律する」と目される「建築の自律」というテーマに限定すれば、それは社会的であると同時に個人的なもの、現代の「都市の建築」の批評には欠くことが出来ない視点となる。 しかし、この書のテーマは個人そして都市の「自律の企図」、その内容は後期資本主義における資本制からの自律。当然ながら、「人間の自律」と「建築の自律」、そのどちらにも関わるだけに、本書の読み取りは容易ではない。建築のみならず、あらゆる領域が資本制社会の全体主義に浸潤する現在にあって、改めて「建築の自律」を取り上げることは重要なテーマだ。 アウレーリは自律の実現性が理論の実現性として生じるというロッシに賛成している。「資本制が都市計画学の技術的に合理性を完全に吸収していく状況にも関わらず、ロッシは都市を理論的に再考するもっとも重要な分野として、建築、すなわち計画学に特権を与えている」。アウレーリはロッシの「いかなるテクノクラティックな決定論からもかけ離れた都市現象の政治的、社会的、文化的意義を再構築していく実現の可能性」に「自律の企図」を見ているのだ。 今回もロッシの「都市の建築」の解読が個人的な関心のほとんどだ。ロッシは理性主義建築の再解釈から自律的な建築形態の根拠を「場」と「類型」に求め「都市的創世物」による方法を理論化している。しかし、現代建築の大半の感心は環境や地域という状況主義に終始している。読みながら、ロッシの言う建築の持つ「形態的意味」はどこまで正当性を確保できるか、そこが問題と考えている。 ハートとネグリの「帝国」に書かれていた「資本制の持つ国家的な正当性は必要なくなり、資本性そのものが超国家的なもの」という現代にあって、状況主義はもちろん、形態主義が自律性を確保できるという根拠はどこにもない。 同相の問題はフランクフルトのホルクハイマーとアドルノの「啓蒙の弁証法」にも重なっている。ネグリが言う後期資本社会の「内も外もない」均一な全体主義的傾向は、20世紀半ばすでにアドルノが「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問いで触れている。 福田和也氏は「アイポッドの後で叙情詩を作ることは野蛮である。」で20世紀の表現ドグマといわれるテオドール・アドルノの「アウシュビッツの後で、叙事詩をつくることは野蛮である。」を解説している。 氏から簡略引用すると、かって芸術はその表現において敬虔的自制と内省を要求されていた。しかし、アドルノはかってナチス親衛隊の将校たちによる機械的、組織的大量殺人の事実から、あらゆる芸術は、ホロコーストに対する敬虔さを欠いてはもはや野蛮である、と書いた。人間性の産業的殲滅を前にして、なお心情の屈折や天然の美を賛美するとしたら、それは人類そのものが、根源的に侵され誤っている。ナチス親衛隊の将校たちは、けして無教養な無頼漢ではなく、しばしば高潔な教養人。彼らはバッハを愛し、カントを読み、収容所から音楽家を選抜し、晩餐にバッハやブラームスを演奏させていたのだ。 つまり現代を生きている我々は我々自身の自律性を問うこと自体が今や問題なのだ。啓蒙された人間にのみ許されるのが芸術だとすれば、芸術はもはや消滅している。そしてアヴァター化した「帝国」が我々の現実だとしたら、形態は決して自律することはない。しかし、建築は決して「状況」だけにあるのではない、古来より「建築はあるがままの世界に建つ、あるはずの世界」という「形」を意味しているのだから。