2020年9月14日月曜日

アドルノの美的なるもの、そのミメーシス


アドルノの美的なるものの構成は、キルケゴールの人は自己の中の美的なるものによって生きる、を引き継いでいる。
しかし、キルケゴールは自己の理性・精神の行き詰まりを、そのかなたに神を捉え、それにすがってしまうところにはアドルノは納得しない。
形式としての主体が、内容としての客体の正当な権利を侵害してしまうからだ。
アドルノはキルケゴールの主張を、弁証法で乗り越える方法的態度をとる。

本来、精神ないし理性は自然(外部)なくして存在することは出来ない。精神の批判は自然との和解の自覚を示唆するものなのである。(同一性・非同一性の弁証法)
アドルノの理性批判は自然との和解、自然こそ根源的なもの。精神(理性)は自然について由来する自然の一契機にすぎない、と言うところにある。

キルケゴールの実存主義は、資本主義から自己喪失され、大衆化・物象化していく歴史に対し、自己の自由・自律・主体性を頑なに守ろうとするもの。
それは客観的精神・理性の展開に真理を見る、ヘーゲルに対抗している。
つまり、人間とは精神、精神とは自己、内面的精神が行為の尺度なのだ。
しかし、アドルノのキルケゴール批判のポイントは客観的・外的な対象を持たない内面性としてのみの主体性にある。

アドルノの美的理論のポイントは自己の中にある美的なるもの自体が客体に対する関わりを示している。つまり、美的なるものは動的であると同時に、ミメーシスなのだ。
アドルノの美的理論は18世紀のカントの観念論と同時代に誕生したばかりの芸術家の主観主義(反ミメーシス論)を批判している。
アドルノのミメーシスはシェーンベルクの無調音楽から読み取れる。それはシェーンベルクの弟子であり、アドルノ自身の音楽の師でもある、アルバン・ベルクに引き継がれていく。