「シェーンベルク音楽論選」の訳者序文の「アーノルト・シェーンベルクの調性感について」によると、
世紀末のシェーンベルグの無調への変化は、美術・建築にみるドラスティックな変化ではないとのこと。拡大された調性のなかにあって主題の新たな展開を求めることは、中世以来、連綿と続いてきた音楽表現上の変容の一端にすぎない。無調音楽は古い時代の最期ではなく、音楽の世界では絶えず新しい時代が始まっている、と書かれている。
なるほど、ということであるならば、先日のブログの「近代音楽では、何故、「調性」を棄てなければならなかったのか。」は愚問かもしれない。しかし、「無調」はひとまず置き、「音楽」は美術・建築とどう関わってきたかも大事なテーマ。今日は海野弘氏の「世紀末の音楽」のウィーンに触れてみる。
最大の関心はシェーンベルクの「無調」とロースの「ポチョムキン都市」批判との関連。しかし、今日は「世紀末ウィーンその第一期」、マーラーやクリムト等によるゼツェッション展(分離派展=1902年)。海野氏の「世紀末の音楽」から読みとれることは、ロースや、シェーンベルクは第二期だが、その第一期、マーラー・クリムトの世紀末ウィーンはベートーヴェンとワーグナーとともにあったというところ。
マーラーは分離派の画家たちとは知り合うが、音楽は造形芸術とは無縁と考えている人。しかし、愛妻であるアルマはクリムト等とは親しい間がら。一方、ゼツェッション展のベートーヴェン像やフリーズを作ったクリンガーやクリムトもベートーヴェンとは遠く隔たっていたと言われている。しかし、マーラーは分離派の人々の要望で、展覧会でベートーヴェンの「第九」を演奏、その演奏が切っ掛けとなり、宮廷オペラ監督に就任、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を1903年に上演する。
大事なのはここからなのだが、1902年のゼツェッション展は旧体制から分離しようとした新しい芸術、それ古い時代を超える、文化的総合運動であったということ。音楽、文学、演劇、美術などの中世以来ばらばらであった芸術を統一し、総合的な空間を作り出し、古い社会の危機を救済することが分離派運動のポイントだ。
なるほどだからこそベートーヴェン=ワーグナー、それは19世紀オーストリア=ハンガリー帝国の階級的・民族的対立の危機に直面した帝国を文化政策によって統一をつなぎとめようとするものだった。1902年はつかの間の安定期、社会的な対立・分裂の危機を救い、まとめるために文化=総合芸術が不可欠として呼び出された。
1898年にオルブリッヒが設計したゼツェッション館はその代表。そのモチーフはテンプルクンスト=神殿芸術、それはキリスト教とは異なる芸術のみの神殿による救済。神殿建設は世紀末の特徴である、と海野氏は書いている。
神殿芸術は世紀末の特徴というところで、もう一つ大事なことを思い出した。それはバルセロナのガウディ=ワーグナー。総合芸術としてのサグラダファミリアとワーグナーはかって「ガウディ・オペラ」として、ある雑誌に書かせてもらった。しかし、ここにきてまた一つわかった。新都市に建つサグラダファミリアは産業革命で疲弊したバルセロナの救済、世紀末の「自然=真正」のモチーフはワーグナーの神殿=総合芸術にも重なっていたのだ。