80年代、「建築をどうつくるかより、なにをつくるか」への関心が強かったが、チャンスがあり、住宅の設計だけでなく、友人たちと共同しプロジェクト企画の業務にも参画した。様々な本を読み、遅くまで議論し、住宅の建設現場に立ち、製図台にも向かう、というてんやわんやの毎日。しかし、ある意味では充実していた時期、懐かしささえ感じている。
「建築理論序説」のマルグレイブによれば、1980年代は「理論金箔時代」、建築理論・文化論研究が特に学問的な象牙の塔の中で最高潮に達していたとある。現象学、記号論、フロイト派心理学、ポストモダニズムそして批判理論。さらにポスト構造主義、デコンストラクションが加わり、理論はますます多彩となる。マルグレイブはポストモダニズムを歴史主義や記号論と連動した運動と限定し、ポスト構造主義(フランクフルト学派とフランス構造主義の上に構築されたもの)と区別し論を進める。
フランクフルト学派の社会研究所はすでに1930年代に活動が始まっている。50年代から60年代、ベンヤミンやハンナ・アーレントの本が出版され、古典的芸術と決別し、ブルジョワ的構造による簒奪からの断絶を図った。1970年、80年代に最も評判になったのはホルクハイマーとアドルノ。特にアドルノは個人的には音楽的関心も高かったので、音楽に関わる彼の本を買い漁り、その残骸は今も書棚を飾っている。
彼らの主張のポイントは「啓蒙の弁証法(1947年)」の批判理論が詳しい。資本主義は経済的自己破壊から崩壊することはない、なぜなら実際に資本主義は大衆消費社会(そこでは個人が文化産業に支配される)に進化することにより、きわめて弾力的な経済システムであることが証明されたからだ。その後、2008年、ジャック・アタリが「21世紀の歴史」が出版され、いまも書棚にある。省みるならば、アドルノは50年前に21世紀の予兆を示し、21世紀初頭、アタリはその確認作業を行ったのかもしれない。
超民主主義時代の建築に何が可能か、この書ではマルグレイブはこのことには一切触れていない。「現在の新聞雑誌映画等の情報産業が大衆の最も無批判的態度に迎合しただけでなく、同時に、狭い範囲の絶対確実な紋切り型に対する文化的順応性を作り上げた。このようなことが文化理論に与える影響は何一つ良いことはない。もし文化が市場への絶え間ない迎合によって堕落したのなら、芸術は終点に来ている」とのみ書き、建築の問題からは離れている。
アドルノは「芸術は自律的かつ社会的であるべき、芸術はそれが社会に対して抵抗する力を有する限りにおいてのみ生き残るだろう。」とし、シェーンベルクの無調音楽の精神、カフカの自意識の誇張、クレーの線による黙想などに見られる抵抗を例として示している。つまり、アドルノの批判理論(芸術は根本的に抵抗の行為)は、20世紀初頭の前衛戦略の幾つかの擁護という意味で、しばしばモダニズム擁護として特徴づけられる、とマルグレイブは書いている。
建築は芸術ではない。しかし、建築の自律はアルベルティ以来のテーマだ。分離派の芸術建築を批判し続けた世紀末のアドルフ・ロースは芸術と建物の違いを「装飾と犯罪」の「建築について」に書いている。さらに、自分の構想の細部を図面にする必要は全くなく、すばらしい建築は言葉で説明できるものと言っている。彼は「私は建築家と呼ばれるのはうれしくない、単純にアドルフ・ロースと呼んでほしい。」と言う。芸術と建築の違いを明文化するのはロースの仕事ではない。しかし、アルベルティ、パッラーディオ、さらに18世紀以降のカンシー、シンケル、ゼンパー、ロース、ロッシ等々。小生の80年代以来のテーマ「建築はなにをつくるか」は今も終わることはない。
構造主義とは現象をある普遍的な法則の下で作用する変数から出来たシステム。言語は大きな構造をによって統率される記号あるいは意味のシステムであり、人間の精神には普遍的な構造が存在するというレビストロースの仮説に基づいている。
フランス構造主義の論客とはロラン・バルト、ミシェル・フーコ、ボードリヤールにリオタール。特にリオタールは知がますますデジタル化されるに伴い、一般教養(リベラルアーツ)は教育の普遍的基盤としては時代遅れとなり、情報(科学的知見)が市場で激しく競って売買される商品になるだろうと推論している。さらに、科学的知は伝統的に一般教養に基づく二つの「大きな物語」に支えられてきた。一つは啓蒙主義的信念、もう一つは、いつか人間への奉仕のために再び知の統合が起こるだろうという信念。経験的には「大きな物語」はモダニズムのユートピア的政治基盤、ポストモダン世界とはいかなる物語も支配することのない世界、普遍的正当性を装うことのない、狭い地域に限られた「小さな物語」、とマルグレイブはリオタールを解説している。
しかし、リオタールの論にはジャック・デリダは全く当てはまらない。彼は何らかの哲学的前提や大きな物語ではなく、テクストの中に意図されていない隠された意味やテクストが必然的に持つ表に出ないヒエラルキーを暴露する(デコンストラクション)ことを提唱した。デリダが問題としたのは「西洋思想の全体的体系が、歴史的に「中心」というロゴス中心主義的理念の周辺で構築されてきた」ということだ。
この「中心」の例としてはプラトンのイデア、大きな物語、あるいは神への信仰が挙げられる。このような中心は、次には「他者」なるものを疎外あるいは抑圧することで対立を作る。私たちはこの対立によって世界を概念化し理解する。
したがって、ある一つの用語(例えば建築における「モダニズム」)の存在はもう一つの用語(19世紀の歴史主義)の不在を隠す、そして歴史主義の様式は「痕跡」と見なされる。それゆえ「モダニズム」という用語(20世紀の四分の三の間、特権を持っていた)は歴史主義(「他者」として嘲笑された)の理念を通じることによってのみ定義できる。
デリダのデコンストラクションの全体的戦略は特権化された用語に揺さぶりをかけ、中心から排除することから成り立っていて、それによってその用語が成立する根底にあったヒエラルキーを転覆することにある。とマルグレイは言う。しかし、デリダは建築理論ではない。建築言語が持つ形態決定の不可能性が示されたのであるならば、建築は沈黙し、解体されたことになる。
60年代のデリダの著書は70年代中頃、英訳され、ヨーロッパではポストモダニズムとポスト構造主義はコインの裏表として読まれていたものが、アメリカでは特に建築界は70年代後半、ポストモダニズム批判と見なされた。さらにポスト構造主義を「理論を纏ったモダニズムの蘇り」であると評されさえもした。
1983年、ハル・フォスターは「反美学」の序文で「モダニズムをデコンストラクションするポストモダニズムを抵抗のポストモダニズム、モダニズムを否認し既存体制を讃えるポストモダニズムを反動のポストモダニズムと呼んでいる。ブルジョワ文化と闘争を続ける前者は善、ポピュリズムと結びつけられたヴェンチューリーは後者であり、既成文化を支持し模倣していると見なされたのだ。一方、フレデリック・ジェイソンはポストモダニズムの美学は「模倣と分裂的性格」であり、モダニズムほど既存の内部にありながら危険かつ破壊力があり転覆的ではないが「その戦略に資本主義の論理に抵抗できる道があるはず」と言う。
1985年、マイケル・ヘイズは「批判的建築、文化と形態の間で」において建築は、自律性と完全な社会参加の中間に位置付けられ、「批判的建築」は「支配的文化の自己承認的で懐柔的働きかけに抵抗しつつ、場所や時間の偶発性とは関係ない単なる純粋形態構造にまでは還元されないもの」と言う。しかし、小生にはかっての抵抗のモダニズムをプラグマティックに運用したアメリカらしい建築論の復活に思えてならない。つまり、ヘイズにとっては批判的建築の実践者は他ならぬミース・ファン・デル・ローエのこと。ミースのフリードリッヒ・シュトラッセのオフィスビルの反射するガラス面は、戦後ベルリンの落胆と混沌に対して「抵抗的かつ対立的」であると同時に「形態分析による解読は困難」とヘイズは論じているのだ。
イタリアの論客ジャンニ・ヴァッティモは1983年に「弱い思考」と題する評論を編集。伝統的形而上学の「強い思考」を批判し、ハイデガーの癒し、回復、忍従、容認と記憶、回想、再考を奉じての前進を論じた。つまり、モダニズムのへーゲル的思考やマルクス主義が共に強い弁証法的対立項による超克を要請したとするならば、過去の伝統に対して、その他のメタ物語で置き換えるのではなく、温厚な敬意を表することを示唆している。
さらにスペインのイグナシ・デ・ソラ・モラレスは「弱い建築」を1987年に世に出す。弱い建築はイベント、偶然性のこと。いかなる美学的体系も持たない装飾性、記念碑性の建築のこと。弱い建築という言葉は好みではないが、個人的には「建築はロースが書く芸術でも建物でもなく、形を持った音楽」とするならばモラレスには同意する。