2020年11月21日土曜日

ダゴベルト・フライとジェームス・ファーガソン

19世紀ウィーンのダゴベルト・フライは演劇の現実性に関する考察を展開し、「建築は私の生活空間に所属する」と言っている。

当たり前と思うが「模写的絵画や彫刻では、作品と観照者である自分との間には、時間的・空間的な隔たりや境界があるが、建築ではそのような隔たりがなく、作品と私は同一の時空を共有する」(建築美学・中央公論美術出版)と書かれるとややややと思う。

つまり、一般美学では建築は絵画や彫刻と同じように自然をある種の幻影として表現することがあるが、建築では現実性として表現しなければならない。しかし、実用性がそのまま美となることもなく、建築は芸術的に形成された現実性であるというのだ。
これは現代都市にこそ相応しい言及、彼の「観客と舞台」はちょっと気になる論文だ。


ジェームス・ファーガソンは、宗教改革期以降の西洋建築は全て模倣様式と言い放ち、19世紀イギリスの建設ブームの真っ最中にあって折衷主義建築を鋭く批判した人として有名だ。
その彼がさらに面白いのは、まだ見ぬ近代建築を、野獣によって表現されるほどの喜びや悲しみしか表現できない建築と語っていることだ。
人間の術としての建築は初歩的な技術段階、感性的美術段階、そして最後に言語を用い知性に訴える音声術段階の三段階あるとするのがファーガソンの論だが、20世紀の建築からは形態の持つ人間的意味情報はすべて消去されうると予測していたのだ。

2020年11月18日水曜日

シェーンベルグの音楽と近代建築

「ひとつの基本的な音、すなわち根音が和音の構成を支配し、その連続を制御するという考え方は、拡大された調性の概念へと発展した。すぐに疑問視されるようになったのは、そのような根音が、すべての和声の中心として、依然として維持されうるのかどうかということであった。さらに疑いを持たれるのは、冒頭や終始、あるいはそのほかのどんな 場所に現れるにせよ、主音は構成的意味を持っているのかということであった。」

音楽を生み出す以前から存在している根音や主音に疑問を持ったシェーンベルクは音楽の構成における全く新たな方法を打ち立てた、十二音音楽です。
「互いにのみ関係づけられた十二の音による作曲方法」。

第一次世界大戦勃発までのシェーンベルクは調性和声のシステムに依存することなく、いかにして自律的な音楽構造を達成するかの模索している。
そして1920年から23年、「ピアノのための組曲」など小規模ではあるが十二音技法による重要な作曲された。
しかし、調性を亡くした十二音音楽だが、その後はテクストの内容や感情に依存する、表現主義的傾向を示したことは良く知られている。
シェーンベルクは結局、音楽の外の世界の秩序を、なんらかの形で音楽の内部に取り込むことなしに、音楽を作る方法は見つからなかったのかもしれない。

https://youtu.be/sGLcUfbVF3k
Arnold.Schoenberg' manuscript-Six Little Piano pices op.19

同時代の建築はどうだろうか。
自律的建築の模索は同じウィーンのアドルス・ロースによってなされている。
彼はシェーンベルグとは大変親しい間柄にあった。
「装飾と犯罪」という彼の著作は有名だが、音楽との関連では「ラウムプラン」(三次元の空間中に各部屋空間を切り取っていく方法)がシューエンベルグの十二音音楽の方法に照合する。



ロースは建築を建築空間だけで作ろうとした最初の人。
建築以外の世界の秩序を使って建築を作ること拒否した人であると言える。
その後、彼の建築を引き継ぐ建築家は沢山登場する。
コルビジェがその筆頭です。

表現主義に陥ったシェーンベルグはその後、古典主義的な方法、伝統的な音楽形式を用いるようになり十二音技法による音楽の制作は全く停滞してしまう。
一方、建築はその後ますます自律の道、外部からの指示(物語・世界観・象徴・記念性)には一切頼ることなく、建築の内部にのみ秩序を与えると称する、機能主義、合理主義に向かったのはすでに良く知られていることだ。


図版1−>ロース設計、ルーファー邸:アドルフ・ロース、鹿島出版会より
図版2−>コルビジェ設計、サヴォア邸:ル・コルビジェの建築、鹿島出版会より

2020年11月17日火曜日

ロッシの建築と能舞台



能の舞台上では事件は進行しない。
イタリアの建築家ロッシは、出来事・事件と関わることで形態(タイプ)としての建築は意味を発する、としている。
能の舞台では事件は既に終わっている。
登場人物はそれを思い出しているに過ぎない。
やがて登場する、主役である仕手の大半は幽霊。
今を生きている人にはわからない、仕手のこの世での出来事・事件を幽霊となり語る。
楽屋(鏡の間)と能舞台とを繋なぐ橋(橋掛かり)はこの世(舞台)とあの世(楽屋)を意味する。
仕手の生来ていた世界を語る能では、出来事は起こるのではなく顕れる。
能を観るということは、何もかも(出来事・事件)をも顕現させる現場に立ち合うことを意味する。

ロッシの建築では事物と出来事が重ね合わされる。
建築という事物は出来事を生み出す舞台。
ここでの建築デザインの役割は諸事・人間の関係の調整というより、関係を生起する役割を持つ。
つまり、建築はいつも劇場を意味するようだ。
ロッシの建築には彼のみが創造し得る独特の領域がある。
その領域はイデオロギーではない。
それは論理ではなく想像力の世界だ。
そこでは建築は発展のない形態、機能は変るが形は変わらない、それは能舞台も同じ。

参考:
1−タイプとモデル
何を論理化し、何を物語化するかが建築デザイン
ロッシの類型概念(タイポロジー)ー>集団記憶・都市的創生物・アーティファクト
タイポロジーは形態に先行し、形態をづくる
建築はまず形態、そして、物語・理念つまり美的なるもの
しかし、従来の多くの建築はタイプではなく、モデル(歴史・様式)
モデルは生産のために必要とされる、そのままの形で際限なくできる対象

2-スタンダールの「アンリ・ブリュガールの生涯」の挿し絵=ドローイングと文章
松本竣介の絵画=ホッパーと竣介
事物・出来事・記憶=劇場
人間の生きる世界=祝祭・劇場・都市・建築

2020年11月12日木曜日

ロシア構成主義のまなざし

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。
展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。
「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。
形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだ。

こんな戯れ言を思いつかせる展覧会は明日が最終日。
梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。
同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。
昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。
感想は上記の通りだが、何か痛々しいものは今も後を引いている。
それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。
同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。
しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。

名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界。
その世界が、我々の現在とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。
「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html
建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。
ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。
20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。
少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。
印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。
しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。
かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。
ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。
しかし・・・・。

最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわろうとしているのか。
あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。
秋には京都に、春には奈良に行った。
どうやら、「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。
失ったのは言葉ではない、ライフスタイルなのだ。