2020年2月15日土曜日

機械主義の建築、そしてポピュリズム


第二次世界大戦以降の建築の使命は戦後世界を改良し、荒廃した都市環境の再生にあった。そのためにモダニズムが主張した方法は科学的合理主義による秩序の提供、しかし1959年のCIAM以降、そこで主張されたような人間的都市イメージは生み出されてはいない。60年代以降の建築では、それ以降一層さまざまな批評と理論が展開されることになった。

1947年にはルイス・マンフォードが地域的モダニズムの可能性を提起したが、しかし、ニューヨークMOMAは排除している。

同じ年、アルド・ファン・アイクがブリッジウォーターのCIAMでモダンデザインの過度な合理主義に異議申し立てをしたが、そこではほとんど支持者はいなかった。

1959年、雑誌「カサベラ・コンティヌイタ」は「ネオリバティ様式」の形態を評価し、幾何学的モダニズムからの「イタリアの退却」を表明している。それは歴史的建築にも敬意をはらう寛容なモダニズムの主張、BBPR設計のミラノの中心街につくられた高層建築「トーレ・ヴェラスカ」のデザインが、イタリア中西部の雰囲気を思い起こさせることに対し、モダニズム正統派から批判されたことへの回答だった。

「ネオリバティ様式」への多少の理解を示したイギリスのレイナー・バンハムだが、彼は科学技術勢力の推進役。同時代を代表する理論書「第一機械時代の理論とデザイン」を1960年に刊行している。そこでは「機能主義と科学主義」が自動車や汽船のような機械から、洗濯機・冷蔵庫・掃除機、テレビへ、つまり文化的エリートのステータス・シンボルから大衆に娯楽を提供する第二機械時代の到来が論じられている。そして現在は第三機械時代、あるいは情報時代、IT・AI時代の建築はますますリゾーム化し、複雑多様な機械時代はどんな建築を生み出すのだろうか。

第一機械時代から第二機械時代へ(レイナー・バンハム)、そこからもたらされた秩序ある人間的都市とは一体なんであったであろうか。60年代後半、巨大都市建設はヨナ・フリードマンの「空中空間都市」を導き、フライ・オットーの「可動都市」、さらにアーキグラムの「プラグイン・シティ」「ウォーキング・シティ」等々、SF的構想も建築雑誌を飾った。60年代後半、「宇宙船としての地球」で人気の高かったバッキー・フラーは「ダイマキシオン・ハウス」から「ジオデシック・ドーム」を自作している。

しかし、実際世界は北アメリカ主導、世界はどこも鉄鋼とガラスによるカーテンウォールを持つ高層ビル。高速道路建設による社会分断を不用意に受け入れたプロジェクトはやがて人種差別、貧困犯罪を抱える多くのスラム街を生み出した。建築家がさまざまな方策の限界に気づき、それらの計画の理論的根拠を問題にし始めたのは1960年代に入ってからだった。

ルイス・マンフォード「歴史の都市、明日の都市」

ジェイン・ジェイコブス「アメリカ大都市の死」

ケヴィン・リンチ「都市のイメージ」

ハーバート・ガンズ「都市居住者たち」

エドワード・T・ホール「沈黙のことば」

アレグザンダー「コミュニティーとプライバシー」と「パターン・ランゲージ」

個人的にもっとも興味深かったのはアレグザンダーの「都市はツリーではない」、「A Pattern Langeguage」「The Timeless Way of Building」は英語版を買い込み挑戦した。更に懐かしいのは「建築における複雑さと矛盾」(鹿島出版会)だが、これはなかなか読み取れない訳書だった。ポスト・モダニズムの先駆者、ロバート・ヴェンチューリーの著作。

住宅を中心とする設計事務所に勤め始めた頃のこと、彼の作品「母の家」と共に建築誌SDに紹介されていたので懸命に読んだ記憶がある。この書はイギリス詩の批評家ウィリアム・エンプソンの「曖昧の七つの型」(思潮社Seven Types of Ambigutty)を下敷きとしている、と教えてくれたのは大学時代の親友、しかし彼はもう、今はいない。「曖昧の七つの型」はその後の事務所開設による別分野との関わりから必要とされたことなのだが、当時への思いはともかく、マグレブの書に戻ることにする。

ヴェンチューリーはミース・ファン・デル・ローエの"Less is more"を”Less is bore"と言い換えたり、モダニズムは今やマニエリスム段階にあると批評した建築家。彼は大衆的、通俗的要素への嗜好をサブテーマとし、ポップアートに刺激されたとは言え、それがリアリズムであり、進行中の悪い(ヴェトナム)戦争に従事している政治体制抗議の意見表示であるとし、新しい多様な建築デザインを提案した。

「日常的な風景、通俗的だと軽蔑されている風景から、我々は複雑で矛盾に満ちた秩序を引き出すことができ、それこそが都市的な全体性を有する建築にとっては不可欠。」という彼の主張。

更に1965年に「意味のある都市」というタイトルの記事を書いていたスコット・ブラウンと結婚し、共著「ラスベガスから学ぶ」が1972年に生まれる。夫人は都市を四つのテーマ(知覚・メッセージ・意味・モダンイメージ)から分析し、それらをつなぐものは「シンボル」のアイディアであると書き、多くの住民は都市の形態を記号として読んでいるが、都市計画家はそのことを理解できていないと言っている。

二人はプロたちはうぬぼれから図像学的な伝統を放棄し、いわゆる「説得力ある建築」からは遠く離れてしまったと論じているのだ。

しかし、この書に対してアルゼンチンの画家トマス・マルドナードは「ラスベガスのネオンサインはポピュリストの行為でもなく、視覚的豊さの条件でもなく、むしろ「無駄話」「コミュニケーションの深さの欠如」「カジノとモーテル所有者のニーズと不動産投機家におもねるもの」にすぎないと批判した。

一方、「ポップから学ぶ」という小論で、スコット・ブラウンはアメリカの都市再開発プログラムは大失敗、それはエリートたちに備わった一般教養が支配しているからとした挑戦的なポピュリスト的反論を繰り返した。ここまでくると、さすがに、ケネス・フランプトンはマルドナードを引き継ぎ反駁した。「デザイナーも政治家のように物言わぬ大衆の声に従うべきなのか?もしそうなら、デザイナーはその声をどのように解釈すべきなのか?レヴィットタウンのような町に住まざるを得ない大衆に対して、西海岸の高級住宅街に住んでみませんか?と勧めるのが、デザイナーの仕事だろうか?それはすでにマディソン・アベニューの広告代理店がやってきた仕事ではないのか?」と。