シェーンベルクはロースとは、彼の建築の施主であるウィーンの女学校の経営者シュヴァルツヴァルト夫妻の文化サロンで1905年頃知り合っている。
まだ無名、「グレの歌」の完成前のシェーンベルクには、コンサート開催もままならず、ロースの支援経済援助はありがたかった。
しかし、ロースはもともとワーグナーファン、難聴でもあったので、どこまでシェーンベルクの音楽を理解していたかは疑わしい。ロースが自分を高く評価してくれるのは良いとしても、何も意見を述べたことが無いことに不満を持っていた。
そんなことを日記に書いているが、シェーンベルクは1931年、バルセロナからロースに手紙を書いている。
「僕は君のことを度々、思い出している。もし僕にお金があったら、君に住宅を設計してもらって、そこに住みたいと思っている。」
シェーンベルクはロースの設計した建築は高く評価していて、ロースの建築の核心とでも呼べるラウムプランによる建築空間を見透すなど、シェーンベルクの眼識は高く、興味深い。
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1951年7月13日、喘息発作のために、ロサンゼルスにて死去した。76歳。故郷ウィーン中央墓地の区に葬られており、墓石は直方体を斜めに傾けた形状である。