2021年6月5日土曜日

かって建築は

かっての建築は
人間の生きている世界は現実的世界と観念的世界、その二つの世界を建築は同時に視覚化してきた。しかし、前者のみを建築とするのがモダニズムあるいは唯物論的視点。ここでは、建築は存在せず、テクノロジーの産物としての建物のみが造り続けられる。かって建築は「建築の背後にある意味・メッセージを形象化する」というところにあった。建築は視覚化できない人間の観念をも外部化し、形にしてきたのだ。形にならないもの、見えないものをどう視覚化するか、その方法は古代のギリシャ以来ヨーロッパ建築を支えている。

ヨーロッパ社会ではまず、観念としてのイディア、我々はどこにいるかという世界観。世界はこんな形をしているという世界模型、そして神(キリスト)の世界、聖書の世界を具現化、その世界はどんなカタチかをしているかを示すことが、建築の役割だった。
16世紀の宗教改革、人間のもつ理知的な知性(美学)つまり新たな秩序がテーマとなり、建築は大きく変容した。
18世紀半ば、近代はモデルネ<新しさ>を探した。個人主義による個々人が持つ理性とか崇高が問題視され、その意味の外形化がテーマとなる。しかし、集団的人間が持つコスモロジーが消滅し、建築は何を手がかりにし、何を生み出したら良いか解らなくなってしまう。結果、この時代のモデルネは実体の建築より建築論の方が盛んになった。
そして19世紀、神の秩序から離れ、全ての芸術は人間の世界を模索する。しかし、近代人が自らの根拠と方法を見うしなう。彷徨を重ねたのは文学だけの問題ではない。美術も音楽も建築も、その後のヨーロッパの芸術分野に共通しているテーマは、ザイン(存在)とシャイン(仮象)の対立、あるいは観念論から唯物論への変容と言って良いようだ。
20世紀に入り、抽象的なイデオロギーに支えられた技術と経済が優先される。しかし、60年代以降の芸術はその解体と終末が実感された。
モダニズム建築は現実世界(リアリティ)の中の機械主義の美学をテーマとなり、その表現はシャイン(仮象)やミメーシス(模倣)であることが批判される。そして今は情報化時代、再びモデルネ<新しさ>が検討されている。しかし、機械には抽象的だが形はあるが、電子情報には形がない、インビジブルな時代、建築はカタチを見出すことは可能だろうか。
建築に何が可能か、視覚化は不要か、不可能か、今は全く見えない。手がかりはモデルネ。消費社会から情報社会、生産重視から生活重視を標榜するなら、建築は社会からの要請に応えるのではなく、社会を切り開く存在に立ち戻らなければならない。

参考:小説への序章 辻邦生
今世紀の芸術全般にわたる問題、それは存在と仮象の対立。小説が自由な散文を使用するためには芸術の自律性を失い、日常の事実性の中に拡散していく。しかし、単に現実をなぞるだけの小説はリアリズム。

自注:神の秩序から人間中心の秩序というモデルネは、自らの根拠と方法を見うしない、彷徨を重ねたのは19世紀文学だけの問題ではない。ヨーロッパの全ての芸術分野に共通しているテーマはザイン(存在)とシャイン(仮象)の対立、あるいは観念論から唯物論への変容と換言される。技術と経済が益々優先される現代、60年代以降はまさにその解体と終末が実感された。
ザインとシャイン
古来より、想像力を持った人間はフィジカルな空間とメタフィジカルな空間という二つの空間を持っている。人間は動物と同じように自然空間、現実的物理的空間に生きるが、もう一つ、観念的あるいは精神的空間をも住処としている。従って、構築される建築とは観念の空間と現実的世界が重ね合わされた想像の空間でなければならない。それはかっての人間が注目した「特別な場所」と言って良い。つまり、我々はどの時代も虚構の空間を必要としている。

ザイン ー>実体としての現実空間・地理的時間と空間・人間の外界にアプリオリに存在している。・自然空間・人工空間。
シャインー>虚構による仮象空間・観念的象徴的時間と空間・世界観としての想像の空間・神話的記号的時空・人間の体験によって想像的に産み出された空間。人間の集団に共有されている心的態度、世界と芸術の関係はいつもシャインを媒介として結びついてきた。




2021年6月4日金曜日

いま建築は

いま建築は
建築は現在、テクノロジーの一環。その形態には意味はなく、文字どうり与えられた役割を機械的に果たすだけ。もし、建築に語る言葉があるとしても、それはジャゴン、体験者が共有するものは何もない。建築は使用価値以外にはなにもなく、安全・便利・快適という、生活する個々人が必要とする役割のみを果たす。かっての建築が持っていた、カタチが表象する集団的意味を問うことはほとんど無い。

建築を含め現代の創作活動は作家個人の持つ知性・感性による制作。創作された作品に集団的意味が必要とされることはない。作品への関心は作家の持つ感性やコンセプト、あるいは知的活動であって、受容者の参加や批評は考慮されない。作品は主観的であって、作者の持つ観念的遊戯の世界に過ぎない。しかし、批評性や意味性を持って多くの人々の自由な感性をネットワークしてゆくような創作活動が本来の人間社会の作品の基盤。歴史はともかく我々は言葉のないクモの巣のような世界と今後どうか関わろうとするのか。問のみが残されている。

情報時代を迎え、プロダクトデザインにおいては機能の視覚化が意味を持たなくなった。プログラムが変容、またはデザインのアルゴリズムが変質することにより、作品の外側にその根拠を求めるようになる、つまり新たなシンボルやアレゴリーやストーリーという集団的意味が必要となったのだ。他のデザイン活動に比べ保守的な性格を持つ建築はもともと個人の問題ではなく、集団あるいは社会的感性の問題。加えて建築は他のデザインに比べ創作のためのプログラムが複雑である。現在の建築においては安全・便利・快適という内部的要請は、他のどんな外部的要請よりも圧倒的優位だが、しかし、もはや機能は可変であり、形態を生み出すものでは無くなった。情報時代を迎え建築もまた新たな外部的要請と関わらざるを得ない。では、建築を生み出すものはなんなのか。それは、かっての時代と同じものであるはずはない。ある種のメッセージ、その意味が必要となっても、今は一時的、個別的、ジャゴーンであることから抜け出すことはない。