2010年11月27日土曜日

パレルモのクアットロ・カンティ

ミケランジェロはカンピドリオ広場を、舞台の中の演劇的空間としてデザインした。その結果、観客である我々に舞台上の俳優のような体験を提供し、都市広場は劇場空間であることを教えてくれた。
それからほぼ90年後、都市がその内部に劇場を再現した都市が作られた。
シチリア・パレルモのクアットロ・カンティ。

ここでは都市なかの十字路に建つ四つの建築の全てが四十五度に隅切りされ、道路と建物で八角形の広場が生み出されている。
その特異な景観はテアトロ・デル・ソーレ(太陽の劇場)と言われ、パレルモ市民や観光客に愛されている。
特徴的なことは広場の中央に立ち止まりどの方向の建物を見ても、その両側はあたかも舞台の奥へと向かう通路として構成されていることにある。
それはテアトロ・オリンピコの舞台を眺める印象とそっくり。
テアトロ・オリンピコでは正面に大きな道路、左右の建物の両脇にも各々通路が走り、三本の道路で構成される広場となっているが、ここでの背後は舞台からは切り離された客席。
しかし、テアトロ・デル・ソーレでは背後もまた舞台と言える。

四面の舞台に取り囲まれた広場、その広場の周囲は全てが舞台、つまり、広場に入ることで、人々はすでにドラマに参加しているように感じられる。
それはカンピドリオと全く同じ、人々は観客ではなく、演技者として広場を体験し、都市そのものが劇場の舞台空間としてでデザインされているのです。

シチリアの首都パレルモはイタリアでは早くからスペインの支配下にあり、16世紀の宗教改革の渦中にあってもカソリック教会の力が圧倒的に強く、都市全体はローマ以上にバロック的雰囲気に満ち満ちていた。
従ってここでは、祝祭の為の装置が都市を飾るのではなく、都市そのものが始めから祝祭の舞台となるように作られたと考えれば良い。

美術史におけるバロックという観点からみると、その様式を生み出す主導的要因は、宗教的危機に直面したカソリックということ。
バロックはプロテスタントに対抗し、民衆にとって判りやすい宗教体験を生み出すための様式。
知的観照ではなく、理屈ぬきの全身感覚によって信仰を体現させるための様式がバロック本来な意味です。
民衆の感情を高揚させ、その熱情を共通の信仰へと収斂させる最も有効な場、それは祝祭。
従って、バロックとはカソリックの持つ宗教的意味を祝祭つまり、音楽や美術・建築を通し身体的に体現する装置と考えれば良い。
そんな体現装置をパレルモは非日常的な祝祭時だけでなく日常的な都市空間に恒常的に再現した、それがパレルモのクアットロ・カンティ。

バロックの祝祭は、中世のアプリオリの宗教体験とは異なり、主催者である教会あるいは君主が民衆の参加を強く必要としていたイベント。
クアットロ・カンティはそのような祝祭ための、宗教的プロセッション(行列)と各種パレードを実施するための全員参加の野外劇場、と同時に、広場を構成する十字路はキリストを象徴する十字架として意味づけられている。
十字路を持った都市広場はそのまま反宗教改革のイメージを表出するカソリック世界のための大劇場ということになる。

サンタ・ロザーリはパレルモ市の守護聖女。毎年七月の半ばに祭礼が行われるが、1686年の大祭の記録では、巨大な機械仕掛けのトロイの馬が進むと、その後は長い騎馬の行列、さらに四頭の熊と四頭のライオン、四頭の象が引く凱旋の山車が続いたと記録されている。
山車の上の台は大きな黄金の貝殻の形、その上には黄金の鷲が羽を広げ、さらに高いところには聖女ロザーリが勝利の旗を手にしている。
貝殻の上や鷲の背にも聖歌隊や演奏者が乗り、彼らは上からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカというネームプレートを、さらに下にはヨーロッパとイタリアの主要都市名を記したプレートを持って立つ。
つまり、パレルモのこの祝祭には世界全体を記号化し、カソリックがその全体の支配者であることを示す主催者の意図が明確に表現されるている。

祭りのメイン・イヴェントは仕掛け花火。市の中心の広場には堡塁も壁も橋も鉄の門を持った複雑な精緻なトロイの町の模型が作られる。
その町の内部には劇場、王宮、回廊、さらにドーム屋根の神殿が建られ、ドームの頂にはトロイの町の紋章の鷲が据え付けられる。
この模型のトロイの町は民衆の期待通り、一瞬に火を吹き、最後は、全体が大掛かりな花火に包まれる。
夜が深け暗くなると、トロイの馬から武装した兵士たちが松明を掲げて現れ、宮殿と神殿を囲む城壁に火をかける。
ここが焼け落ちるとやがて火は宮殿にそして神殿、ドームを駆け登り、上の鷲へと燃え移っていく。
最後は大きな火薬がはねる音と共にトロイ陥落の仕掛け花火。やがて、全てが終わり、町は灰燼に帰し、残骸と化した建物だけが煙を残すこととなる。
そんなわかり易いドラマが毎年この広場で展開され、パレルモ市民はその祭に酔いしれる、それが都市が劇場として作られる意味であり、楽しみなのです。

クアットロ・カンティの広場を構成する四つの建物の偶部はわずかな凹面状のカーブで作られている。
その各々の足下には噴水が設けられていて、四つはそれぞれに春夏秋冬を表現する。
三層に構成される建物の上層二層はすべてニッチ(壁龕)が穿かれていて、そのニッチから四人のスペイン人と四人の守護聖人たちが広場を見つめている。
広場は最早、都市に不随する機能的な場というより、明確なコスモロジーに縁取られた物語の世界にほかならない。

この広場に隣接したもう一つの広場、パラッツォ・プレトーリア、ここには大きな円形の噴水が作られている。
噴水は元々、イスラム建築の中庭部分に設けられ楽園を作る装置となっていたが、イタリアの都市なかに設けられるのは17世紀になってからのこと。
パラッツォ・プレトーリアの噴水は十六世紀半ば、フィレンツェのヴィラから持ち込まれたといわれている。
中庭やヴィラという個人的世界を構成していた噴水が、集団的な場である町の中にまで持ち込まれたのはパレルモが最初かもしれない。
長らくアラブ世界からの支配も受けたこの都市のこと、町中にはイスラム的迷路もそこここ見られる。パレルモは劇場都市である以前、すでに楽園(理想郷)としてイメージされていた都市でもあったのです。