2010年11月15日月曜日

テアトロ・トル・ディ・ノーナ

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは30年代のバルベリーニ家のオペラとは時代が異なってしまった。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場。しかし、クリスティーナの時代はすでにヴェネツィアではオペラは商業的事業となっている時代。
巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある60年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きなの関心の的となっている。世俗のオペラとその為の公共劇場は、教皇庁のお膝元においても、すでに、充分に採算の取れる事業となっていた。

1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設する。クレメンス九世についてすでに触れている。しかし、この教皇こそオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージだったというところが面白い。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者はあの恐惶の迫害から逃れ、やがて、自身が教皇になった。
ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペイン生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれる。
ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出したことになる。聖なる世界の中心に立つローマ教皇庁が世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外には考えられない。事実、後の教皇の中にも寛容な人がいないわけではないが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。
それは当然のこと、宮廷に生まれた世俗オペラは聖なる教会とは相反する音楽。カソリック・ローマにとってオペラは当初は全くふさわしくない音楽だったのだ。
しかし、クリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人であったからこそ、ローマに公共劇場の建設が実現されるという歴史的なことが起こる。

テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになった。残された図面によると、この劇場は当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。
実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行くのです。
やがて、楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展、その原型がこのテアトロ・トル・ディ・ノーナ。後の歴史的なローマのオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設されたと言って過言ではない。


テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちが、このプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。

楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断です。
しかし、これは全くの間違い。
現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。
つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していた。

現在とは異なるが、当時、最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャ−という人たちです。
ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は、楕円の一方の焦点に集まった反射音が、もう一つの焦点にも音を集中させて音の「柱」を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。
また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えられていたからだ。
しかし、凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上、大きな問題とはならなかったのは何故だろうか。それは隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席にある。
必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれている桟敷席は、僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音されかつ微細に多方向に反響させていたのだ。
つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたと考えれば良い。

フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由にあった。
ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチ(額縁)が舞台の両袖に設置されるのは常識化していた。
このアーチの存在はテアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する貴族たちには不興ではあったのは事実だが、舞台上のスペクタクルを演出しなければならない舞台装置家にとっては、もはや不可決な装置であったのだ。
くわえて演技する場はアーチの後ろ、と限定されつつある為、奥行きの深い客席からは舞台上の透視画法が強調され、アーチの存在は観劇にはますます有効なものとなっていた。

しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。
お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。
劇場は観客が他の観客から注目されたい場所でもあった。
つまり、楕円形であることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能でなければならなかった。
フォンターナは劇場空間のすべての視覚を統一するため、楕円形プランを採用したと考えられる。

劇場は古来より観劇だけが目的ではない。
舞台を眺めるだけなら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。
しかし、バロック時代、フォンターナは舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。

祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。
その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。
透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と、全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。
テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態は十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していく。