莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは30年代のバルベリーニ家のオペラとは時代が異なってしまった。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場。しかし、クリスティーナの時代はすでにヴェネツィアではオペラは商業的事業となっている時代。
巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある60年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きなの関心の的となっている。世俗のオペラとその為の公共劇場は、教皇庁のお膝元においても、すでに、充分に採算の取れる事業となっていた。
1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設する。クレメンス九世についてすでに触れている。しかし、この教皇こそオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージだったというところが面白い。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者はあの恐惶の迫害から逃れ、やがて、自身が教皇になった。
ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペイン生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれる。
ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出したことになる。聖なる世界の中心に立つローマ教皇庁が世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外には考えられない。事実、後の教皇の中にも寛容な人がいないわけではないが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。
それは当然のこと、宮廷に生まれた世俗オペラは聖なる教会とは相反する音楽。カソリック・ローマにとってオペラは当初は全くふさわしくない音楽だったのだ。
しかし、クリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人であったからこそ、ローマに公共劇場の建設が実現されるという歴史的なことが起こる。
テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになった。残された図面によると、この劇場は当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。
実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行くのです。
やがて、楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展、その原型がこのテアトロ・トル・ディ・ノーナ。後の歴史的なローマのオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設されたと言って過言ではない。
テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちが、このプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。
現在とは異なるが、当時、最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャ−という人たちです。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は、楕円の一方の焦点に集まった反射音が、もう一つの焦点にも音を集中させて音の「柱」を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。
フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由にあった。
劇場は古来より観劇だけが目的ではない。