2010年12月18日土曜日

ザンクト・ガレン修道院の図面と楽譜

 

 中世ヨーロッパの人々が現実的世界から目を背けることなく、真摯に俗世と関われるようになったのは、修道院が各地に誕生したからだという。
人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせ、俗人は俗世に生きるという道を徹底することが可能となったから、との説明。
物理的のみならず精神的にも人が生きると言うことは、確かに、自分以外の自分をいつも持っていなければ落ち着かない、わかるような気がする、個人的経験としては神を信じたことはないのだが。

7世紀のはじめ、アイルランドの聖ガルスがスイスの東北シャルナッハの渓谷に住み着き、多くの人々の信頼と祈りを集めて行く。
やがて、その地は人々の心の安息所であるばかりかザンクト・ガレン修道院と呼ばれ、様々な中世文化の花を咲かせていく。
修道院は決して俗世とは無縁であったわけではない。
聖職者たちもまた土地所有者となり農民を抱え、国王とも交渉し政治にも関わっていく。
中世社会における修道院は祈祷の場であるばかりでなく、大学であり研究所、病院であり、農業開発センター、そして裁判所という役割を担うようになるのだ。

さらに重要なことは、ザンクト・ガレンは9世紀以降の貴重な書物の図書館でもあったことです(エーコの「薔薇の名前」の修道院のモデル)。ここは多くの僧侶たちが写本の筆写に訪れた所、筆写に訪れるということはまた沢山の写本が集まる所ともなっていく。
そんなザンクトガレンであったから、理想都市としての修道院の平面図が残されることとなった(古代ローマのヴィトルヴィウスの建築書もまた、ここザンクト・ガレンに保存されていた)。
この修道院は聖と俗がせめぎあう場でもあった、したがって人間の理念と現実がいつも明解である必要があったのだ。

多くの写本を制作したザンクト・ガレンは音楽史の幕開けの場所でもある。
そしてもっとも重要なことは、ヨーロッパ音楽の原点ともいえる記譜法成立の中心地、グレゴリオ聖歌に多声音(ポリフォニー)を持ち込む試みがなされたところ。
ポリフォニックな音の広がりはヨーロッパ独自のオーケストラの原点、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化するのは、ここザンクト・ガレンにおいてでもあったのです。

修道士たちは毎日毎日、夜明けから深夜に至るまで一日八回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行った。
その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌、歌を伴わない祈りはあり得ない、福音書朗読さえも、ある特定の音の高さを持って歌われた。
典礼のための福音書や聖歌集、それは聖具として神に捧げられたものだが、9世紀の写本の中に朗読する為の記号が書きこまれた。
ネウマという音符の登場です。
口頭伝承から楽譜記載による伝承へ、聖歌を統一化しようという動きが伝承形態を変化させ、やがて音楽そのものを大きく変える道を開く。

写本であっても聖具であることには変わりはない。
聖具に人為が関わることは許されないことだが、しかし記号の書き込みが許された聖歌集には、新たな歌詞や旋律の挿入も許された。それがトロープスと呼ばれる装飾部分。
この挿入部分がやがてネウマが聖具であることから離れ、楽譜となり作曲することの契機となる。
つまり、神からの授かりものであった音楽が人間的行為の結果としての音楽となる契機となったのがトロープス。

ザンクト・ガレンの写本の中に記されたネウマとトロープス、それは楽譜の成立と作曲の誕生を促した。ネウマとトロープスは単旋律の音の流れを幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変えるばかりか、時間の経過とともに消えてしまう音楽では果たすことができなかった、全体を見渡し思考するという場をも音楽に与えていた。つまり音楽はここザンクト・ガレンで建築と同様、空間性を獲得したことにより、やがて作曲という行為が学として認められ、後に数多くの音楽家・作曲家が誕生することとなる。




(Convent of St. Gall from UNESCOVideos on YouTube)