2010年11月3日水曜日

シクストゥス五世のバロック・ローマ

多焦点とその連結というバロックの都市システムを生み出したシクストゥス五世、彼にとって重要なことはローマをイメージとしてではなく、実際に訪れ体験した時、そのローマがまさに実感としてのカープト・ムンディ(世界の首府・頂点)であること。
ローマを観念ではなく現実として全く新しい都市とするもの、それは主要な教会堂を結ぶ幅広の直線道路の建設だけではなく、結節点となる広場に物語を与え、その場所に特別のイメージを持たせること。
その為にはオベリスクが必要不可決です。

直線道路だけの体験では場所の持つイメージは喚起できない。
道路にリズムと変化、あるいは道ゆく人にある種の抑制を与える結節点、そこには由緒ある教会堂が必要ですが、サンタ・マリア・マジョーレのような大きな建築物では、そこを焦点として意識づけるアクセントとしてはいささか大きすぎます。
大きな建築が立つ広場には細く鋭い垂直に立つ目印こそ重要。
シクストゥスはこのことに気づき、数々のオベリスクをローマ中の主要な広場に建設しました。

広場や大きな教会堂の前に垂直立つオベリスクは「多焦点とそれを結ぶ直線道路」という二次平面上に展開されたバロックの都市システムを三次元の空間へと拡張したことを意味しています。
従来の城壁内の一点を核としていた都市概念を無限の彼方まで包括することを可能としたバロックのシステムは、オベリスクによって平面だけではなく、立体的にも展開されたのです。
つまりオベリスクの建設はバロック都市をイメージとしての平面から具体的、現実的な立体へ、生身の人間が生きる実在的な空間へと変容したのです。

オベリスクの発明は古代エジプトです。
原始の丘に登る太陽の象徴として作られた直線的な塔はその後、古代ローマに略奪され、円形競技場やその他の公共的な場所を飾るエキゾティックなトロフィーとして利用されました。
かって皇帝ネロの戦車競技場にあったオベリスク、それはちょうどバティカンのサン・ピエトロの南側、サン・タンドレーア礼拝堂に隣接して立っていました。
そのオベリスクを大聖堂の正面に移動したいと考えたのはルネサンスのヒューマニスト法王と呼ばれたバチカンの再生者、ニコラウス五世が最初です。
しかし24m、500tにも及ぶモノリス(一本の石)を移しかえるのは至難の技。
このオベリスクは自分自身の重さだけで、すでに地表深く沈んでいました。
ミケランジェロは不可能といい、ヨーロッパ中から何百と寄せられた案の中にもこのオベリスクを移動する妙案は見つかりません。
家屋が密集した地区を通過させる手段もまた皆無です。
しかし、法王シクストゥス5世の命をうけたドメニコ・フォンタナ、彼は決して自信があったわけではないが、建築家の使命を掛け、この大事業を成功させると宣言してしまいたした。

「ある都市の伝記」を書いたクリストファー・ヒバートはこの日の作業を次のように記しています。
「1586年4月30日、2時に作業が開始された。見物できる窓や屋上は残らず成り行きを見守る顔で満ち溢れていた。下方では総勢八百人のサン・ピエトロ大聖堂の労働者たちが、夜明けにミサに列席したのち、ロープや巻き上げ機の傍らで、フォンタナが一段高くなった檀上に立って穴からオベリスクを持ち上げる合図をするのを、立ったまま待ち受けていた。オベリスクは藁の蓆と鉄の帯金を巻いた厚板で保護されて、揺るぎない姿を見せ、また群衆の中の幾人かが述べたように、頑丈な支柱と横桁で組まれたピラミッド型の桁組の中で、微動だにしないかのように建っていた。その時が片手を上げ、喇叭が鳴り響いて、労働者たちと百四十頭の荷馬車馬が全力をふり絞ってロープを引っぱると、巻き上げ機がキーキーと軋りながら動き出し、見物人たちの拍手とサン・タンジェロ城の大砲の轟音と鐘の響きの中で、巨大な方尖柱は地面からゆっくりと持ち上がった。その後水平に地面のころの上に横たえられた。オベリスクが持ち上げられるのを見物したよりもさらに大勢の人々が、十字架称賛の祝日(9月14日)に再び真っ直ぐに建られるのを見物するために、サン・ピエトロ広場に集まった。しかし彼らは固唾をのみながら無言のまま集まった。教皇が、少しでも作業を危険に晒すような音を立てる者は即刻処刑すると命じており、命令に恐るべき権威を付与するために広場に絞首台が組み立てられたからである。それでもオベリスクが持ち上げられ、一瞬地響きを立てて再び地面に落ちてしまうかと思われた瞬間、ある男が大声のジェノヴァ方言で叫んだ。「ロープに水を」。それはボルディゲーラからきた水夫で、ロープが摩擦熱で焦げてしまう寸前であるのを見てとったのである。教皇の命令に対するこの男の勇敢な違反は報われて、聖下にお願いがあれば申すようにと求められた。この男は生まれ故郷の都市ジェノヴァが今後毎年枝の主日(復活祭直前の日曜日)にサン・ピエトロ大聖堂のための棕櫚の献上を許されるように願ったと伝えられる。この願いは喜んで聞き届けられ、何世紀もの間守られた。」(p252)

翌年にはシクストゥス計画の最も重要な街路、フェリーチェ街道の中央、サンタ・マリア・マジョーレ広場にアウグストゥス廟墓からのオベリスクが建られました。
さらに翌年にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの広場にも、そしてまたその翌年、1589年、バロック都市ローマの玄関口ポポロ広場には、紀元前十年ラメセス二世の時代のヘリオポリスの太陽の神殿のオベリスクが据えられたのです。
同時期はまさにサン・ピエトロの大クーポラの完成間際。
どのオベリスクもその頂部には大クーポラ同様球形の地球が載せられ、十字架が加えられています。
それは、エジプトの太陽崇拝を土台としてのことですが、カトリック・ローマのキリスト教における世界制覇の実現を、天高く表明しているのです。