2010年11月10日水曜日

システィーナ礼拝堂


大聖堂の建設はカトリックの復興を内外に示す格好の舞台ではあるが、その姿が実際に都市ローマを凌駕するようになるのは17世紀を迎えてからのこと。
それはちょうどオペラの誕生に似て、16世紀という丸々の一世紀が、生まれ出る為の準備の時間、大半が大建築構築の為の基礎工事に費やされていた。
一方、アルプスの北の人々の間に広がりつつあるローマ・カトリック批判に対抗するためには、16世紀の始め、ユリウス二世は敬虔なカトリック信仰の持つ真の意味を、早急に説明する必要があった。
大聖堂の完成を待つまでもなく、至急にローマ・カトリックのメッセージを示すもの、それがミケランジェロやラファエロの壁画・天井画であったのです。
システィーナ礼拝堂が全世界に示さなければならないメッセージとは、それは「最後の審判図」や「天地創造図」という旧約聖書に記される「神と人間との契約の物語」、ローマ・カトリックは初源に立ち戻り、神と人間との関係という最も重要なメッセージを発信しなければならなかった。

システィーナ礼拝堂は先の教皇シストゥス四世によって造営されている。
長さ40.93m、幅13.41m、旧約聖書に記されたソロモンの寺院と全く同規模、同型のプランによって作られていたパラフィナ礼拝堂を、この教皇は改築整備し、自分自身の名シクストゥスを冠し、1483年に最初の礼拝を行った。

シクストゥス四世はニコラウス五世やピウス二世に続く人文主義教皇として知られている。
彼はトルコへの対策や教皇領の安定、無法な貴族の横行に対し精力的に関わると同時に、文学や芸術のパトロンとしての役割もニコラウス五世にならい充分に発揮した。
ニコラウス五世が創設したバチカン図書館を一般の学者に解放したのも、この教皇だが、彼の最大の業績はカッペラ・グランデと呼ばれた聖歌隊に25名も歌手を雇い、教皇の聖歌隊、カッペラ・システィーナ(システィーナ礼拝堂聖歌隊)として組織し直したことにある。

シクストゥス四世はユリウス二世にとっては叔父に当たる人。
甥であるユリウスはこの教皇によって枢機卿に抜擢され、やがて自分自身も教皇となる道が開かれた。従って、叔父の創設したこの礼拝堂こそユリウス二世にとって、全ての要であった。

その内部装飾を仕上げることはシクストゥスを継承する彼自身の存在の証でもある。さらにまた、彼は13世紀以来のローマ法王選挙秘密会議であるコンクラーベをここで実施するばかりか、教皇自身の為の公式の礼拝の場所をこの礼拝堂に位置付けた。つまり、システィーナ礼拝堂はユリウス二世によって教皇庁で最も重要な建築として位置づけられたのだ。

ユリウス二世は叔父にならい音楽にも貢献している。
1513年創設されたカッペラ・ジューリア(ユリウス)は大聖堂の聖歌隊。
ユリウスは教皇の私的聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊に対し、もう一つ大聖堂の聖歌隊をも組織した。このことから音楽家の立場は、教皇や君主という個人に雇われる仕事ではなく、大聖堂という公的な場に職を得ることとなる。

後に、この公的な聖歌隊がモデルとなり、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーナ教会やサンタ・マリア・マジョ−レ教会にもカッペラが創設され、数多くの音楽家たちの活躍が公的にも社会的にも多くの人々国々に知られ音楽家の立場は画家に劣らぬものとなる。
音楽家の社会的立場作りにも貢献したユリウス二世だが、時はまさにフランドルに代わりイタリアの音楽家が盛んに力を発揮した時期でもあった。
16世紀初めのこの教皇は、武器を持つことが好きで、戦う教皇と見なされていが、音楽と建築をこよなく愛した人でもあったでもあったのです。




(via YouTube by bacabaca420)