2010年11月4日木曜日

ポポロ広場の双子の聖堂

 

 ローマの北の門、ポポロはフラミア街道から訪れる人々の為の玄関。
フランスやドイツから訪れる人々の到着点。
その門を入ると不正形なポポロ広場、幾世紀にも渡って神聖都市ローマの表玄関としての役割を果たしてきたところです。
そんな重要な広場ですから、オベリスクが立つのは最も早く、シクストゥス五世が最初に設置した四本の中の一本がここポポロ広場です。

紀元10年、ローマ皇帝アウグスティヌスがエジプトから持ち帰った、古代ローマにとっては最も重要なヘリオポリスのオベリクスが1589年、この場所に立てられた。
しかし、ローマの表玄関であるならまず必要だったものはオベリスクよりも噴水。
広場では眺めるということより、のどを潤し、汗を拭う場であることがまず求められる。
ヨーロッパから到着した人々はようやっとここで長い旅の終わりを実感する。
従って、ここの噴水は最も貴重、ローマ最初の公共噴水として1573年、教皇グレゴリウス十三世によって作られた。

ローマの玄関口であるこの広場が17世紀のバロック・ローマの都市整備の起点となるのは当然で、そのデザインは早くから多くの関心を呼んでいる。
それを最も特徴あるものにしたのは当時の著名な建築家カルロ・ライナルディ。
彼はオベリスクと噴水を持つこの広場にさらにユニークな二つの教会を作ることで特徴づける。
特徴を生み出すのは双子の聖堂、その建設は1662年に始まった。

かって、シクストゥス五世がこの広場にオベリクスを置いたのは単にローマの玄関口であったからだけではない。こここそ、彼が意図するバロック都市が成りたつためのプロトタイプと位置づけられていたからだ。
ポポロは多焦点ネットワークの為の主要な結節点としてデザインされている。
重要な場所に向かっての集中と、そこから他へ散っていく放射状街路の基点となるところをいかにデザインするか、それは視線を重視するバロック都市の基本的考え方を意味する。
シクストゥスはこことサンタ・マリア・マジョーレの広場を主要な焦点と位置づけ、重要なオベリスクを設置した。

リぺッタ通り、フラミア(コルソ)通り、パルヴィーノ通りという三つの主要街路がちょうど鳥の嘴のような形を持ち、このポポロのオベリスクを起点としローマの街奥深くへ踏み込んでいるはよく知られている。
しかし、この嘴の位置に双子の聖堂がこの三つの街路に挟まれる二つの用地に配置されていることは都市デザインの上では極めて重要。
左右に並びたつ聖堂は入口の門の役割が課せられデザインされているのだ。
真ん中を走るフラミア通り、この街路はローマの心臓部、カンピドリオに至る最も主要な街路だが、双子の聖堂はこの街路のゲートとなるような形で建設されている。
ドーム屋根をもった瓜二つの聖堂はどちらもライナルディのデザイン。
二つは一つ、カトリック・ローマの凱旋門と見なされているのだ。

左右どちらも全く同じ形に見える二つの聖堂だが、実はその建築は微妙に異なってい。
平面図を見ると、広場から見て左のサンタ・マリア・イン・モンテ・サントは楕円形、右のサンタ・マリア・デイ・ミラコリは円形の聖堂。
なぜ異なる形状を持ったのか。
それは広場から見ての正面の部分の敷地の幅は左側が狭く右側が広かったことが原因。
同じ形状の聖堂を前面の建築線を揃えたまま建築すると、敷地幅の狭い左側の聖堂は右に比べドームの直径が小さくなってしまう。
ライナルディはサンタ・マリア・デイ・モンティを楕円でつくり直径の位置を後退させることで、広場から見て二つの聖堂が同じ大きさの聖堂として並び立つように調整しているのだ。
フラミア通りの入口に建つの門の役割を担う為には、ポポロ広場の二つの聖堂は、お互いが左右対象の形態をとらせることが重要なことだった。

ここで大事なことは、建築の結果が都市の形態を作るのではなく、都市が建築を生み出しているということ。
都市空間が建築のデザインを、この場合は都市が聖堂の形を決定しているのだ。
バロック建築はその建築自身の内部空間も意味深いものがあるが、むしろ都市を演出する装置としてデザインされていることが重要なこと。
この時代は、建築の外部空間が都市なのではなく、都市は建築による内部空間であり、建築を作ることは、都市をデザインすることであったのです。




(via YouTube by AdinaAmironesei)