2010年11月6日土曜日

ベルニーニのサン・ピエトロ広場



世界でもっとも劇的な公共広場と言えばサン・ピエトロ広場。
その壮大な形態は、この場所こそ全人類が出会う場所、と位置づけたカソリック・ローマの強いメッセージです。
宗教改革に揺れるヨーロッパに対し、いや世界中の人々に対し、改めてローマは世界の中心であることを示さなければならない時の最も重要な建築。
デザイナーはジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。

この広場にネロ帝のオベリクスがフォンタナによって設置されてから70年後の1657年、ようよっと最終案が決定し工事が始まった。
設計を依頼したのはトスカーナ地方の高名な銀行家の子孫、キージ家出身の教皇アレキサンデル七世。
この教皇の治世の12年は、後に「大いなる造営家」と記録されるほど数々の絵画・建築が制作された時代でもあった。

サン・ピエトロ広場計画の基点となるのはもちろん、その中央に立つ巨大なオベリスク。
ベルニーニはこのモノリスの持つ意味、焦点として全て意識や視線を集めずにはおかない強力な集中力にまず着目する。
そして、この一点が全ての世界と繋がるように計画する。
結果、ベルニーニは壁ではなく柱によって広場を囲う案をつくり、建設に着手することになる。

扁平な楕円の形状に柱が並べられた列柱廊(コロンナート)、その形態は閉じられていると同時に開かれている。
「聖ペテロの教会が、その他のほとんどの教会の母であるように、この広場は、カトリック信者たちを迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているように見せる列柱を備えていなくてはならない。それによって信者たちは信仰を確認し、異端の信者たちはこの教会に再び統合され、異教徒の者たちは真実の信仰に教化されるのである。」
(図説世界建築史ー11p35)とベルニーニは語っている。

母の両腕によって囲まれるこの広場は閉じている以上に、開かれていることが大事であって、ベルニーニはこの腕を壁ではなくスクリーンのようにつくることで、広場を全人類が出会うところ、そして、広場からのメッセージが世界全体に放射されるようにと計画したのだ。

壁ではなくスクリーンとして作られたことの意味はさらに大きいなことを意味する。
完結した形態ではなく、背後の世界との相互作用が可能なコロンナート、それは街と広場が分離されるが、しかし同時に結びつけられていることをも意味している。
中世ヨーロッパから遠く隔たったバロック・ローマ、そこは最早、教皇や貴族のローマではある以上に一般の人々の為のローマである必要があったのです。
壁ではなく透過性を持ったコロンナートによって生み出された広場、そこではすべての身分も消滅し、貴賎の別無く、調和して暮らす場であることを意味づけてもいる。

さらに方形の形状を持つオベリスクは世界全体から集まる意識を大聖堂に向かう方向へと統一する役割を持っている。
広場の中央のオベリスクは求心化作用と目標に向かう方向性を指し示す作用を合わせ持っていることが極めて重要。
ベルニーニの当初の計画では大聖堂のファサードの前面に一対の鐘塔が建つことになっていた。
この鐘塔は広場から聖堂の内部空間へ、大ドームに至る為の門の役割を果たすべく計画された。
この門を通過した世界からの意識は聖者の体内と見なしうる大身廊、さらに大ドームが屹立し、聖者の墓が埋められた交差部まで至ると、そこからはオベリスクや広場の列柱が指し示すように垂直に天への方向へと意識が広がるようイメージされ計画された。

楕円形の列柱廊で囲まれたサン・ピエトロ広場は大ドームと全く同じ寓意を秘めている。
オベリスクが立ち、屋根のないこの大広場はまた大ドームで覆われた聖ペトロが眠るマルテリウム(殉教者記念堂)そのものの姿でもある。
つまり、広場は屋根のないマルテリウムと見なされているのだ。

このようにベルニーニの計画で重要なことは、形態は幾何学ではあるが、観念だけで終わるものではないということ。
表現されるものは行動と体験によってのみ理解されうる、劇場的世界となっていることが求められていたのです。


(via YouTube by castrovllllgluseppe)