十八世紀に作られた有名な地図があります、ノッリのローマ地図(1748年:図版)。
ネガフィルムの黒色部分を構成するかのようにビッシリと建ち並ぶ住宅やパラッツォ(宮殿)に聖堂、その中を貫き、広がりを持つ白色部分が街路であり、教会の内部空間となっています。
貧富貴顕に関わらず、全ての人々の生活と精神を支えるのがこの白色部分であり、庶民のための都市空間、公共の空間なのです。
つまり、ローマでは聖堂は全ての人々に開放された場所、ノッリの地図で見る限り、光が降り注ぐドーム屋根のもとの内部空間は都市の広場とまったく同じ意味と役割を持っていて、どちらも、誰もが自由に使える広場であり都市のリビングルームであることを示している。
十七世紀、改善されたとはいえ、ローマのパラッツォ(宮殿)での生活は決して快適ではない。
夏の暑さは貴族も庶民も全く同じです。
特に石づくりのパラッツォの中は、とても耐えきれるものではなかった。
従って、多くのパラッツォの住人は暑い一日が終わりかける頃、馬車を繰り出し夕涼みに出掛けるのが習慣となる。
出掛ける先はフウラミア通り、ポポロ広場の双子の聖堂を門とした中央の街路。
整備されたばかりのこの街路には涼やかな風が吹き通る。
そこには、すでに貴婦人たちの馬車が連らなっている。
彼女たちもまた夕涼み?。
若き貴族の殿方たちもまたパラッツォにいては体験できない風を求め、ゆっくりと街路を馬車で流していく。
それはオペラ劇場の桟敷席を訪ね歩く光景そのまま。
街路は次々にならぶ留め置かれた馬車で埋まり、それはまるでオペラ劇場の桟敷席。
馬車はご婦人方各々の部屋のように連なっている。
そして、夕涼みで馬車を流す若殿たちはその部屋(桟敷席)を一つ一つ訪ね歩く、愛らしき未来の伯爵夫人を見つけるために。
コルソは道筋を意味する。
夕方の道筋を馬車で流すことの流行は、そのまま「コルソ流し」として定着した。
そしていつか、ローマのメインストリートはコルソと呼ばれるようになり、フウラミア通りは現在のコルソ通りと名前を変えることになったのだ。
つまり、街路はローマという大建築の廊下であり応接間、あるいはまた前奏曲が鳴り響く桟敷席を持ったオペラ劇場となっていたと言えるようです。