2010年11月17日水曜日

スティーブン・ホールの建築


スティーブン・ホール、ギャラリーT Space 。 
昔からこの建築家は好き。 
ミニマルだがプアーではない。 
寡黙だが豊穣(さまざまな意味の世界に関わっている)でもある。

2010年11月14日日曜日

イル・カンピエッロ 昭和音大のオペラ


舞台と演奏者は変わるが、連続して同じ出しものを鑑賞することは珍しい。 先週の東京室内劇場コンサートはたまたま二つのラ・ボエームを聴くというプログラムだった。 どうやらボクのOpera趣味もかなりマニアックか? 誘われ時間があれば何でも聴くというのがボクの音楽スタイル、自主的な選択ではないからまだマニアックとは言えないとおもうが。 まぁ、そんな事はどうでもいい、共に研修中の若い歌手たちによるイル・カンピェッロ、どちらも充分に愉しませてくれた。 ポピュラーでは無いがこのOpera、ボクの好みであることは間違いない。 際立ったアリアも無ければ、主役もないイル・カンピェッロ、研修生公演の所以もこの辺りだろうが、結果として、時系列としてのドラマではなく、絵を観るように静止画のような音楽を楽しむというOpera鑑賞法にはピッタリな演目だ。 あそこがいい、あの人がいいに拘ってしまいがちなOperaの鑑賞、拘れば拘るほどある種の不満を引きずってしまう。 壮大な構築物であるOperaでは全てに完璧である事は目標ではあろうが不可能だ。 無責任かもしれないが、スカラ座もメトも奏楽堂もジーリオも変わりはしない。 違いがあるとすれば、時系列に表現されるシーンの出来と舞台構成、むしろどんな壮大なOpera でも、全体が一つの音楽的世界になっていないとしたらそれこそ興ざめだ。 今日の演目のポイントは見終わった後の印象を一幅の絵画のように表現する事、そんな目的と成果が充分に果たされていたことが愉しかった理由だろう。 もっとも、今日のOperaとスカラ座を同じ平面で比較し、語る事はもとより無理な話だ。 しかし、Operaの楽しみは時系列以上に一幅の静止画にあるという観点に立ち返れば、イタリアの小都市で繰り返し演奏されるOpera、その演目がボクたちにとってポピュラーであろうがなかろうが、いつでもどこでも楽しまれているという、本場のOpera事情は容易に理解できる事かもしれない。 残りはちょっとだけ感想を記しておこう。 あえて意味のない時系列で今回の二つのイル・カンピェッロを追ってみると、その出来は今日の方が優れていた。 決して奏楽堂が不満足だったわけではなく、今日の歌手と舞台の出来は先月より一段上だったということだろう。

2010年11月4日木曜日

ウフィッツ美術館・自画像コレクション展


ウフィッツ美術館・自画像コレクション展(損保ジャパン東郷青児美術館14日まで)を観る。何年か前、東京芸大の卒業制作が自画像であり、明治以来の四年生の自画像4800枚をNHKが取材し特集番組として放送したことがあった。 絵画制作はもっともラディカルな表現行為だ。 その表現のためのテーマが「自己」だとは、なんと厳しい卒業制作かと驚いた,、 さらにまた、あまりにも明解、直裁なテーマ、全てが己、現実・想像、過去・未来。 表現者として立つことは、かくも過酷なことかと放送を見て感じた。 自画像は文字通り自分自身を描くこと。 自分を見つめ、自分を読み、自己の技術で、自分を描く。 そんな状況に立ち会ったことの無いボク自身、技術のなさは当然としても、 自分なら、自己をどう捉え、どう描き出したいか、しばらく考えてしまった。 「自分は何者なのか」を自分自身で答え、自分自身で表現しなければならない。 ボクには不可能だ。 フィレンツェの「ヴァザーリーの回廊」に展示されている多大なコレクションから選ばれた60点。 その1つ1つ作品は当然だが、一連の展示方法もまた興味深い内容。 全体は17世紀初頭から現代まで5室に分類されていて、群としての通時的な絵画史が読み取れる。 一方、1つの室に留まれば、そこは共時の中の様々な画家の姿。 表現の方法は異なるが、見えてくるのは彼らの生き方。 表現である以上、そこにはあるのは引用と韜晦、目一杯の修辞の結果が小さな額縁の中のキャンバスに閉じ込められている。 面白いと思ったのは19世紀、この時代は芸術は神、その所以は音楽だと思っていたが、それは間違い、かくも画家達が大事にされた時代だったのかと感心した。 見落としていけないのはティントレッタ・ベルニーニ・ハウフラーケン・アングル・ルッソロ・キリコ・タピエス・草間弥生、すべてボクが事前に知識を持つ有名画家たちばかりだが、展示された自画像からは全く予期しない彼らの言葉が聞こえてきた。