2009年11月3日火曜日

ミケランジェロ(サン・ピエトロ大聖堂の計画案)

現在のサン・ピエトロ大聖堂の最終案はミケランジェロの計画。ローマに呼び出され、ユリウス二世に託された彼の仕事はシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の制作だった。ブラマンテやラファエロが進めているサン・ピエトロ大聖堂の計画は当時のローマ最大の関心事、ミケランジェロとて当然、気にはなっていたであろうが、彼にその任が与えられることも、また彼がそれに関わる為の時間もなかった。
ユリウス2世が他界しブラマンテ、ラファエロが没した後、計画はメディチ家のレオ10世によってアントニオ・サンガロに任された。しかし、その時すでにカール5世のドイツとの関係は著しく悪く、資金も集まらないまま計画は遅々として進まない。そして、1527年、サッコ・デ・ローマ。大聖堂の建設はおろかローマはわずか3日間で壊滅してしまった。
ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建設に乗り出すのは1546年、晩年も晩年七十二歳の時のこと。彼は36年以降カンピドリオの広場の建設をパウロス三世から任されローマにいたが、前任の教皇庁主任建築家アントニーオ・サンガロが亡くなると、いよいよサンピエトロ大聖堂の建設に携わることになった。

「ブラマンテが、古代以来の名のある人物と同じく、建築に熟達していたことは、何人も否定できない。彼はサン・ピエトロの最初の計画を立てたが、それは乱雑なものではなく、明快で、単純で、輝かしいもので、宮殿のどの部分にも損傷を与えないようなやり方で分離独立しているデザインである。それは美しいデザインだと評価されてきたが、いま見ても明らかに美しい。それゆえ、サンガロが言ったように、ブラマンテの指図から離れた者は誰でも、真実からも離れてしまうのだ」。
サンガロの案を「まるで牛の放牧地だ」と非難するミケランジェロはブラマンテに立ち戻り集中式平面で設計する。すでに完成した柱の一部を取り壊すことまでした彼の最大の成果は、遅れていた工事を迅速に捗らせたことにある。
ミケランジェロはブラマンテの素案では構造的に実現不可能なドームを可能な形で具体的に示し、それに基づいた規模の設定と支柱の工事を行い、彼自身が没する1564年までには、そのドームの建設の直前のところまで工事を進行させた。

大ドームを実現するために、全体の面積を小さくし、支柱をとてつもなく大きくした結果、ブラマンテの意図した、小さな自立した空間が次々と連なり、大空間に集結するというイメージは完全に消えてしまった。従って、図面で比べれてみれば、空隙部分より柱となる支持部分のほうが圧倒的に多くなったかのような内部空間ではあるが、大聖堂は老年のミケランジェロの理屈よりも実践の力によって見事、実現されることとなった。

注目しなければならないのはドームの形態。ブラマンテは当然、聖堂だから、内外とも正半球によって計画した。
失敗の許されない大聖堂の大ドームの建設、全体の規模まで縮小してまでのチャレンジでしたが、さすがのミケランジェロも正半球ドームでの実現は不可能であったのです。
したがって、ここはフィレンツェのドーム同様、自重に耐える紡錘形となったが、その内部天井は正確な正半球形態で見事完成されている。主任建築家ミケランジェロの深い坤吟がここに表れていることを見逃してはならない。