人文主義者を中心とした古代の劇や劇場の再興の試みはルネサンスという時代が必要とした新しい生き方、ライフスタイルを探しだすための知的活動の一環と意味づけられる。
その活動の成果が先に触れた、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコであり、やがて、オペラ・オルフェオの誕生へと繋がってく。
しかし、貴族の宴会の催し物が切っ掛けのオペラの誕生にとって、その上演の場は当初から独立した劇場というわけではなく、貴族館の広間であったということは当然のこと。ルネサンス劇の上演は宴会を飾るものでり、その為に必要なのは、演じられる場、舞台であって、劇場という建築ではなかった。
16世紀に入ると、劇の上演は、人文学者による文学的・教養主義的な場であることより、君主の祝宴に参列する貴族や貴婦人のお楽しみの場としての意味合いが強くなった。
祝宴における楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、あるいはインテルメディオ。上演が終われば祝宴の参加者たち、劇で歌うサチュロスや美しいニンフ、女神と共にダンスを楽しんだ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)であった。
祝宴における楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、あるいはインテルメディオ。上演が終われば祝宴の参加者たち、劇で歌うサチュロスや美しいニンフ、女神と共にダンスを楽しんだ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)であった。
祝宴外交に明け暮れた16世紀後半、演じられるものが文学的なラテン喜劇ではなく、見て・聴いて、役者とともに踊りを楽しむ音楽劇インテルメディオであるならば、どこの宮廷も広間型の劇場を必要としたのであって、専門の劇場など必要とされなかった。同時期のテアトロ・オリンピコはなんとも時代遅れ、あるいは早すぎたのか、これはヴィチェンツァそしてパラーディオのみが持つ異端な建築であったと見なさなければならない。
劇場空間としての広間、つまりテアトロ・ダ・サラがどのような形態を持っていたか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型と言える。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを、1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが改装した。
その形式はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」の考え方を踏襲したものと考えられる。
広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景が透視画法で描かれていた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景のみを作ることにあったようだ。
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」(劇場p65)
つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかが彼の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。
テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのは1598年のジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世の設計のもの。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた頃のこと、ヴァザーリ二世はメディチ家の依頼により理想都市の一部となるような劇場を設計した。
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている。(図版劇場p66)
大事なことは、壁龕を持った外周壁で示されるように、ヴァザーリはこの劇場を独立した記念的建築物と捉えていること。さらに、重要なことは、劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着くということにある。
このことにより、全員参加の祝祭としての劇場という概念は、全く意味を失ってしまった。ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口は全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上にしつらえられた出入口より劇場に入る、というのが常識。劇場は祝祭空間であり、全員参加の場であったから。しかし、この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。
劇場空間としての広間、つまりテアトロ・ダ・サラがどのような形態を持っていたか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型と言える。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを、1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが改装した。
その形式はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」の考え方を踏襲したものと考えられる。
広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景が透視画法で描かれていた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景のみを作ることにあったようだ。
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」(劇場p65)
つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかが彼の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。
テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのは1598年のジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世の設計のもの。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた頃のこと、ヴァザーリ二世はメディチ家の依頼により理想都市の一部となるような劇場を設計した。
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている。(図版劇場p66)
大事なことは、壁龕を持った外周壁で示されるように、ヴァザーリはこの劇場を独立した記念的建築物と捉えていること。さらに、重要なことは、劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着くということにある。
このことにより、全員参加の祝祭としての劇場という概念は、全く意味を失ってしまった。ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口は全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上にしつらえられた出入口より劇場に入る、というのが常識。劇場は祝祭空間であり、全員参加の場であったから。しかし、この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。
この分離は現代劇場においては当然のこととなっているが、この時代にあって、劇場には新たな使命が課せられたことになる。観客(見る人)と演技者(見られる人)が明快に分離された劇場、そこはもはや祝祭の場であることより、観客の為の社交空間。演技者とは異なるエントランス階段を得たことで、劇場は観客自身のための演技の場、壮大な社交の空間となる道を確保したのだ。古来、劇場は神あるいは自然と直接関わる場、人間と世界の関係が示す場であった。しかし、ここに至り劇場の新たな役割、それは人間と世界の関係より、人間と人間の関係を構築する場、つまり、18世紀以降のオペラ劇場の役割につながる、新たな使命を持つものとなったのです。