2011年11月20日日曜日

イマージナルとイリュージョナル

絵画は詩や音楽同様シンボルによる構築物です。

描かれている世界はいかに写実的であっても、それは実在の類似物、絵画空間はそこに指し示されたシンボルによって構築されている。

写実的にみえる絵の試みはおそらくギリシャ・ローマ時代の劇の書き割りから生まれたと考えられる。

このような例はポンペイのいくつかの家の壁画(図版)に残されているが、やがてこの手法はキリスト教社会の中では全く消えてしまう。14世紀のはじめジョット(図版)を代表とするイタリアの画家によって、同世紀末期にはヤン・ファン・アイク(図版)などオランダの画家によって、驚くような写実的な絵が生み出された。

しかし彼らは後の透視画法のような奥行きのある空間を描き出す技術的手法を持ち得ていたわけではない、むしろ当時の科学者に匹敵する詳細な自然観察から、これらの写実性を生み出していったと考えられる。

私たちの目で見る世界が、距離と共に物体の大きさもだんだん小さくなることを理論づけたのはブルネレスキやアルベルティだが、透視画法は古典古代の復興という観点からも注目された。

ルネサンスにおけるローマ時代の劇場の復興。15世紀、ローマのテレンティウスやプラトゥスの再評価が人文主義者の間で起こりラテン喜劇への関心が高まる。彼らは古代劇場こそ市民の教養(フマニスタ)の証し、劇場はフマニスタ表現のための格好な場であると考えた。

公演にあたってはウィトルーウイウスの研究が進められる。
ウィトルーウイウスとはローマ時代の建築家、彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。

人文主義者の関心はこの書の中の舞台背景画にあった。
ウィトルーウイウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の3つの背景画が存在する。

1508年、プロスペッティーヴァ(透視画法)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われている。
1518年、ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はウィトルーウイウスの記述の再現、有名な理想都市像(図版)が作られた。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適していた。
人間の五感は不完全なもの、従って世界に関する信頼に足る情報を伝えることが出来ないという、プラトン以来の哲学者の偏見から人間的視野を解放したのが透視画法と位置付ける(時間と空間誕生・青土社)ゲーザ・サモシに従えば、透視画法で描かれた理想都市こそ、ルネサンスの人間が神の支配とは乖離した、唯一生きうるに足る世界とみなしていたことが理解出来る。
透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルなモノではなく、現実以上に信頼できる確固とした空間であったのだ。

ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるこの理想都市像はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容し始める。

本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化するしていく。

ウィトルーウイウスは古代の円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

つまりルネサンス期の宮廷のための古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったのだが、と同時に絶対君主が操作するイリュージョナルな空間の誕生でもあったのだ。

オペラはこのイリュージョナルな空間を発見することから始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。オペラはそのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな音楽劇的な世界を生み出していく。