2011年12月21日水曜日

古代劇場の固定背景とシェークスピア劇の革新


現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータの劇場。
紀元二百年頃のこの建築、リビア出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられた。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。
その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打って作られている。
両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。
この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが可能となった。
舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有し壁龕を作っている。
この壁龕に挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所となっている。
この舞台背景(スカエナ・フロンス)は何を意味しているのか。

全体の印象は後のルネサンスに沢山登場する理想都市のイメージ。
アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景はテアトロ・オリンピコに共通している。
ヴィトルヴィウスの建築書から類推すれば悲劇用のスカエナと言えるが、興味はむしろ、背景が何故、劇の内容以前に設置され、固定化されているかにある。

舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇とは異なり、この固定化されたローマ劇場の背景はどんな意味を持っていたのだろうか。
「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマはもちろん西欧社会では十六世紀以前、舞台背景はいつも固定的なものであったのだ。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場つまり観念的な世界(コスモス)を示すもの、あるいは中世においては天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものであった。
そのような舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物に他ならない。

劇場は二つのコスモスが重なりあった空間であるという説明はすでにした。
そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として位置つけられていたのです。
つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場にほかならない。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピアです。
「十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ時代同様のコスモス(世界観)の象徴性で満たみたされていたのに対し、シェークスピアの登場人物が生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。
その理由は登場人物が世界観ではなく特定の場所に強く結びついているからです。

同時代の他の作家と異なり、シェークスピアは主役たちに特定の物理的背景を与える必要性を感じていた。
彼の場所に対する感受性は、時代を先取りしていた。
やがて、西洋社会では自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピアの見方が多くの人々に共有されるようになった、と言って良いだろう。

舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行していると考えられる。
舞台が一つのコスモスであった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、また万人でもあったのだ。
しかし、舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景(シェークスピア劇)が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。(個人空間の誕生:p147)

つまり、ローマの劇場は特定の場所ではなく世界劇場(コスモロジー)を意味しているのです。
世界劇場の祝祭舞台は普遍的な場に他ならない。
そこは神がつくる天国や地獄であり、人間が生み出す理想都市。
一方、シェークスピアは世界劇場を否定し、人間劇場を創世した。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上階下階に設えられた舞台となり、あらゆる所を所狭しと使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。
そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であったのです。

ここで重要なことは、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあったことにある。

後に見るように、この変局点こそギリシャ悲劇からオペラの誕生に移行する変局点に他ならない。
つまり、オペラとは古代と近代の微妙な重ね合わせにより誕生した。
オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を重ね合わせているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言えるのだ。

2011年11月13日日曜日

やがて来たる者へ

映画「やがて来たる者へ」はボローニャに近い北イタリアの山村。 徹底したリアリズムの中、言葉を失っていた少女が小さなあかりを灯す。 エンディングの音楽をこんなにしみじみと聴いたのは久しぶり。 お薦めします。>ぽかぽか!散歩にてたが、ちょっと暑い。映画をみることにした。久しぶりのイタリア映画。

2011年11月10日木曜日

アンナ・ボレーナ

昨晩はメト・オペラ映画ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」を観た。 日本ではほとんど上演されることのないこのオペラ。 しかし、さすが、ベル・カント時代を謳歌したイタリア・ロマン派の悲劇。 次々に繰り出されるアリア・重唱・合唱の力強さに感嘆した。 改めて、ロッシーニとヴェルディの間を支えるベリーニそしてドニゼッティの面白さを知る。

2011年10月4日火曜日

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ
休日の図書館、開架書架の本の背表紙をぶらぶら眺めていて見つけた「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ。
須賀さんの訳だというので、手に取り立ったまま読み始める。
アンソロジーのような構成、短時間で立ち読みできそうと思ったが、いやぁ、まったく違った、中身が濃い。
カウンターで借りだし、自宅に持ち帰った。
気楽な旅行記ではない、映画にでもすれば一級のロードムービー。
「僕」は飛行機でボンベイに降り立ち、凶暴なタクシーに乗ったイタリア人。
蒸発したポルトガル人の友を探しにボンベイ、マドラス、ゴアを旅する物語。
なぜ、ボンベイからか、この街のスラムに住む売春婦から友人が病気、という手紙を貰ったから。
貧民窟の売春宿で女が語る恋物語を聞き、明くる日はおぞましい夜の病院を訪ね、やけに理屈っぽい医者とゴキブリで真っ黒な廊下を歩き、100人も入る飛行機の格納庫のような病室で友人を探す。
細々書き出したら切りがない、どの行も真実味と実在感の強い環境と人物描写、しかし、物語はなぜか宙に浮いていてとらえどころがない。
気がついてみると残り数ページ。
「僕」は旧ノヴァ・ゴアの海沿いの最高級ホテルのテラスで「わたしはクリスティーヌ」と言う初対面の女性とロブスターを食べながらのスポーティなおしゃべり。
「僕は一冊の本を書いている、中身はというと、本のなかで僕はインドで失踪した人間なんだ」。
「こう言えるかも知れない。もうひとりの人間が僕を探している。だけど、僕は絶対に見つかりたくない。その男がインドに到着したときから、僕はそのことをよく知っていて、毎日そいつを追跡した、・・・・」。
ドラマの進行はすべて経験と実感、場所も時間も空気の臭いもリアリズムそのもの、しかし、その中身は実態が掴めない。
物語を外から眺め、内から壊す、あるいは裏返しなんだろうか。
写真家のクリスティーヌとの別れ、「僕」の言葉。
「ほんとうです。あなたの写真に似たようなことかも知れない。引き伸ばすと、コンテクストが本物でなくなる。なにごとも距離をおいて見なくてはいけない。アンソロジーにはご用心。」
いやぁ、うますぎ、これがイタリア。
コンテクストはすべて、切れば生々しい血が吹き出すような生肉体感覚、その経験と行動には偽りはない、すべてが実在感あるリアリティに支えられている。
しかし、表現されているものは反転に次ぐ反転、宙ぶらりん、逆さま、虚構のみの想像的世界しか見えない。
15世紀の透視画法はとっくに解体されているが、イタリア人タブッキはだまし絵の技法を今に伝えるマニエリスムの画家かもしれない。

2011年9月24日土曜日

地図のない道 須賀敦子


須賀敦子の「地図のない道」を読んでいた。 ヴェネツィアの広場と橋と島。 それも観光客はあまり関わらない、ユダヤ人のゲットとザッテレのデリ・インクラビリ。 彼女の建築とくにパラーディオ建築への見識は「時のかけらたち」に充分に示されているが、このヴェネツィアだけにまとをしぼった「地図のない道」には彼女の建築への本心のようなものが克明に記されている。 「・・・あの石の虚構を極限にまで押しすすめたような、レデントーレ教会のファサード・・・。これを設計した建築家パッラーディオは、もしかしたら、完璧なかたち以外に、人間の悲しみをいやすものはないと信じていたのではなかったか。しかし、同時に、完璧な世界、すなわち、当時パッラーディオもふくめたこの島の知識人たちにもてはやされたユートピの思想さえ、虚構を守ってくれるはずの石を海底でひそかに浸食しつづける水のちからには、いつか敗退する運命にあるという意識が、どこかで彼らを脅かしていたからではなかったか」。 長々引用したが、この部分は「時のかけらたち」に記されている。 それはパラーディオの建築が好きで、何回もイタリアを訪れたボク自身が長い間、美術書・建築書だけではつかみきれなかった彼の建築とその時代「マニエリスム」を「目から鱗」的に説明してくれた貴重な記述だからです。 須賀さんは「地図のない道」で再びジュディッカ運河をはさみデリ・インクラビリとレデントーレを対峙させ語っている。 そしてその部分では、彼女が書くべきこと、書かずにはいられないことのすべてを書き尽くしているようにボクには思えてならない。 「・・・河岸に立つと、対岸のレデントーレ教会がほぼ真正面に望めた。私がヴェネツィアでもっとも愛している風景をまえにして、淡い、小さな泡のような安堵が、寒さにかじかんだ手足と朝から不安で硬くなった気持ちをいっぺんにほぐしてくれた。」 須賀さんがヴェネツィアを訪れたのは確か、愛するペッピーノを失ってからがすべての体験であったはず。 「・・・いっぺんにほぐしてくれた。」 ほぼ読みつくしたであろう、彼女の記述。 それはボクにとって、かけがえのない人と建築の体験なのだが、この「・・・いっぺんにほぐしてくれた。」に触れ、はじめて彼女の著述の全貌に触れた思いで、恥ずかしながら・・・・涙ぐんでしまった。
レデントーレはボク自身も何度も訪れている。 その建築の内部空間は白一色に包まれた清々しい光の空間だ。 その設えはすべてパラーディオの持つ古典主義的建築言語で語られているが、 その世界は見まがうことなく現代建築、そう、彼は16世紀にすでに20世紀の建築を超えてしまった。 そして重要なのは須賀さんも書かれているそのファサードとそれを眺める位置。 そのファサードが示すメッセージは水の空間、運河そのものを「人々が集う広場」と見立てることで初めて読み解けるものとしてデザインされている。 彼岸のジュディッカ島の岸辺からでは近すぎる、此岸のザッテレからは遠すぎる。 建築の持つスケール感に最大の苦心を重ねたパラーディオの建築。
その建築を読み解こうとするなら、どうしてもゴンドラを浮かべ水の上から眺めなければならない。 そんな趣向の意味深の建築だが、年に一度ジュディッカ運河に仮設の橋を掛け、デリ・インクラビリから徒歩で渡れる祝祭があるそうだ。 そう、デリ・インクラビリとは「梅毒にかかりもはや治療の見込みがない高級娼婦」たちが収容された病院。 ヴェネツィアの水は人と人、時代と時代を隔てるものであるかもしれないが、そこにはいつも繋ぐ装置が隠されている。 つまり、水の都市ヴェネツィアはどの時代も音楽。 それは人間により生み出された「人と人を繋ぐメディア」、「地図のない道」なのです。

2011年9月23日金曜日

2016年にサグラダ・ファミリアを完成させることが、今、必要なことなのだろうか?

コンセプトづくりから始まる建築は工事が竣工してはじめて完成と見る人が多いかもしれないが、それは建築を単に「必要の道具」と見る狭量に過ぎない。 なかなか竣工しなかったゴシック教会等、それは現代とは異なる工事状況からの制約と考えることもまた同じだ。 そうではない、建築はいつの時代でも、計画から工事中、あるいは完成からリニューアルと多くの時間を生き続けている。 設計に関わる建築家や建築に関心の高いディレッタントはまず建築が存在しない状況にもっとも様々な想像を集中する。 計画され、工事され、多くの人々に経験され、想像されるすべての時間を生きるのが建築であり、建築は多くの人々の営みの連鎖として記憶され物語られる。 様々な人間は生きている建築のある部分と共時的に関わり、建築を契機とした経験を体得し、思いを巡らし、想像し、物語を読み人生を歩むのだ。 ガーディアンのジョナサン・グレンシーが2026年までにサグラダ・ファミリアを完成させようとする現況をやや皮肉っている。 1926年に路面電車にはねられ亡くなったガウディは、その100年後になにがなんでも完成させてくれとは決して望んではいない。 確かにコンピューターとの連携がその速度を一気に早めていることもまた喜ばしい、今の我々の経験。 しかし、いまの我々がこの建築から学ぶことは、彼が言うように「減速」こそ建築にとって最も重要なこと、ということかもしれない。 http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/sep/23/gaudi-sagrada-familia Gaudí's unfinished Sagrada Família does not need a completion date

2011年9月9日金曜日

ミニョンの歌

ボクのシューベルトの歌曲への関心はゲーテの詩との関わりにある。 特にウイルヘルム・マイスターの「ミニョンと竪琴弾き」の歌が大好きだ。
 シューベルトがゲーテの詩に初めて曲をつけたのは17歳(1814年)の時が最初、糸を紡ぐグレートヒェン/D118。 モーツァルトとは40年の隔たりはあるが共に天才であることには変わらない。
ミニョンと竪琴弾きの歌を作曲するのは19歳。 それから5年後の24歳・25歳であの素晴らしい一連の歌を完成させている。 (D726・727・478・479・480)。
 彼は晩年、思い出したように、ミニョンに関わって行く。 (彼の死は31歳1828年11月) それは、死の病を控えた29歳のとき。 彼はヴィルヘルム・マイスターからもっとも有名な4曲、D877
1.ただ憧れを知る人だけが(D481)
2.私に話させないで(D726)
3.この装いでゆかせて下さい(D469,D727)
4.ただ憧れを知る人だけが)を完成させた。
 こんなことをネットで調べてみたのは、全く知らなかったD727を、今日youtubeで見つけ初めて聞いて驚いたからだ。 
ボクの読んだヴィルヘルム・マイスターの中のミニョンのイメージがそのまま、それも、ごくごく単純なメロディで描かれていた。 
シューベルトの作曲家スタートは実質17歳、そして晩年を迎える29歳で再びミニョンに関わっていく。ゲーテのミニョンを知る人は何となくなんとなく納得するのではないだろうか。
しかし、聞いてほしい、彼が最も幸せであったであろう25歳、1816年につくられたのがこのミニョンなのだ。
 http://youtu.be/6FhyDkwumA8 
Youtube映像の歌手はChrista Ludwig.

2011年9月6日火曜日

石柱の歌 立原道造

私は石の柱……崩れた家の 台座を踏んで 自らの重みを ささへるきりの 私は一本の石の柱だ──乾いた…… 風とも 鳥とも 花とも かかはりなく 私は 立ってゐる 自らのかげが地に 投げる時間に見入りながら 歴史もなく 悔いも 愛もなく 灰色のくらい景色のなかにひとりぼつちに 立つてゐるとき おもひはもう言葉にならない 花模様のついた会話と 幼い傷みと よく笑つた歌ひ手と……それを ときどき おもひ出す 風のやうに 過ぎて行つた あれは 私の記憶だらうか また日々だらうか 私は おきわすれた ただ一本の柱だ さうして 何の 廃墟に 名前なく かうして 立つてゐる 私は 柱なのか 答へもなしに あらはに 外の光に? 嘗ての日よりも 踏みしめて 強く立たうとする私には ささへようとするなにがあるのか── 知らない……甘い夢の誘ひと潤沢な眠りに縁取られた薄明のほかは── 廃墟にまでなって、このように歌われる建築。 ボクは高校時代、 建築にあこがれ、詩人になりたいと思った。 立原道造は日本橋生まれ、1914年。 東大の建築科を卒業し24歳で人生を閉じた。 昨年の9月20日、立原道造の記念館を訪れた。 その日、記念館は閉鎖された。 今日久しぶりに、立原道造全集を全巻を広げてみた。 それはボクの高校時代、 道造記念館が無くなる一週間前に他界した母が昔、 毎月毎月、買いたしてくれた本。 いつもは書棚の最上段で背表紙のみ。

2011年7月23日土曜日

ハドリアヌス帝の回想、再読

ユルスナールの覚え書きより。 「人が生きるべき選ぶ土地、時代を離れて人が自分のために建てる目には見えぬ住み家。 わたしはティブルに住んだ。 そしてそこで死ぬであろう、ハドリアヌスがアキレウスの島で死ぬように。」 知りたかったことがようやっと判った気がする。 ユルスナールに半世紀にも渡り「ハドリアヌスの回想」を書き続けさせたものはなんであったのか。 やはりヴィラ・アドリアーナの建築体験。 それも彼女を古典世界に導いた、しかし、導きつつ早世した父親とのおもいで。 再読し、無謀にもいま、そんなことを考えている。 hiroyuki kato/iPhone

2011年7月16日土曜日

夜想曲 カズオ・イシグロ 

短編集は現代のイギリスでは珍しいそうだ、それもこの作家の作品というから興味深い。 カズオ・イシグロ「夜想曲集」。 題名からの想像通り、内容は5つの都市での音楽と男と女の物語。 しかし、読む前の想像を遥かに超えた、不思議?奇妙?おかしな短編集。 「ベルリンの壁の崩壊から9・11まで」、この想定がキーだろう。 わずかな不協和は何処にでもあり、何処にでもない音楽となって読む人を楽しませる。 Like0

2011年6月6日月曜日

石岡、結城、真壁から常陸太田、常陸大宮へ

建築仲間とのドライブツァー、今年は茨城西部の街を訪ねた。 大津波と原発事故でニュースの紙面は覆われているが、今回の地震はまた建物にも大きな被害を与えている。 首都圏に住む我々、被災地の物見遊山は慎むべきとの声もあったが、 情報の共有により少しでも復興のお役に立つのであればとの思いもあり出かけることにした。 茨城の建築仲間は現在も被害調査を継続中、しかし、我々の訪問を快く受け入れてくださり、お忙しい中だが長時間ご案内いただいた。 訪れた街は石岡、結城、真壁、笠間、常陸太田、常陸大宮・・・ このリポートでは状況写真のアップは控えるが、どこの街も屋根に載る青いシートが痛々しい。 周辺に豊かな農山村を控え、江戸期に繁栄した中小産業都市が連なる筑波山周辺。 そこには大きな戦火をくぐり抜けてきた明治期の貴重な木造建築の数々が今なお健在だ。 造り酒屋や見世蔵、あるいは正面だけは洋風を真似た看板建築や店ごとギリシャ風に設えた時計屋や床屋さんなど。 みなそれぞれが、後々まで長く残しておきたい建築ばかりだが、その屋根あるいは壁面は大きく崩れ、傾き、壊されていた。 久慈川に沿い山林村を深く分け入ったある集落の一画、 酒造りと養蚕倉庫おぼしき木造建築群に出くわした。 かっては充分に手入れされていたと推測され、桃源郷のような趣を醸している屋敷周りに無断で立ち入り、 主屋らしき建物に向かって声を掛けると、一人の老女が庭先におりてきた。 彼女の許しを得て庭先の小道を分けいると、涼やかな風と清らかな水が流れ。 緑の囲まれた橋の周りからは何の鳥だろう、その鳴き声が水音に和し響き渡る。 庭先に戻ると老女がにこやかに声をかけてきた。 「どこからいらっしゃいました」 やわらかくやさしい小さな声。 言葉に訛りがなく、その抑揚から山里のイメージが消えていく。 彼女はゆっくりゆっくり話してくれた。 今は女性三人だけの屋敷であること。 大学生と高校生のお孫さんが時々遊びにきてくれること。 息子は大きな病院の院長を務めていたこと。 もうリタイヤしたが、ここには戻らず同じ地名だが県が異なる大きな街にいすんでいること。 曾爺さんは天狗党に参加、藩から蟄居を命ぜられたが、やがて許され様々な事業に勢を出し今の屋敷周りを建築したこと。 幸い、この屋敷周りには大震災の被害は見当たらない。 いや震災以前、すでに崩壊は進んでいるのだ。 中間山村の今は人も少ない。 残された建物は立派だが、人の気配がほとんど感じられない。 別れを告げると彼女はまた優しく笑った。

2011年5月28日土曜日

写楽の魅力 国立博物館

5月26日、午後から上野、国立博物館の写楽展を観る。 平日の展覧会場はいつも、中高年の見学者でいっぱい。 しかし、今日は女性グループというより夫婦連れと男性客も多く目についた。 写楽は男性にも人気があるということだろう。 展示の前半は写楽以前の人気絵師たちによる歌舞伎役者のブロマイド。 歌麿、師宣、春章、清長、北斎と何でもござれだ。 弥次さん喜多さんを書いた十辺舍一九の絵もあったような気がする。 そしていよいよ、江戸の名物出版社、蔦重プロデュースによる写楽の登場。 まずは歌舞伎役者の大首絵と称する、写楽得意のクローズアップ作品群。 つづいて歌舞伎役者たちの全身の立ち姿。 大首絵が役者の表情をリアルに克明に写し取っているかと思うと、 ここでは身体の動きやひねりを画面いっぱいにレイアウトし、 役者たちの表情と仕草がその出し物における演技そのものを忠実に表現する構成となっている。 (歌舞伎に無知なボクには残念ながら、実際の舞台はイメージすることはできないが) そしていよいよ、背景まで入念に描かれた画面がつづく。 それはまるで本物の舞台のように次々と横並びに展開されている。 今回の写楽展の見所は、戦災等により、もはや国内では残存しないが、 幸いヨーロッパで保存され、生き続けた沢山の作品が里帰りし、 同時に展示されたことにもある。 同じ版木から刷られ、フランス、ドイツ、ベルギー、アメリカ、オランダ等に散っていった写楽が会場では再び出会い隣り合わせに展示されている。 同じ版木でも刷りの違いからくる表情や表現の異なりを、見学者にも読みとってもらおう配慮されているのだ。 解説を読み、一通り見学したボクの印象は以上だが、 見終わってみて何となく満足しなかった個人的感想を付け加えたい。 今日の写楽展は蔦屋重三郎が江戸時代に出版した浮世絵の集大成。 当然、部屋を飾る掛け軸や屏風あるいはふすま絵に比べれば作品は圧倒的に小さい。 手に取って個人的に楽しむものを、わざわざ大きな展覧会場で行列して眺めているという違和感は最後まで拭われることはなかった。 浮世絵と言うものに無知であるボクには、図書館で写楽の図版集を見ること以上の感想は生まれ得るはずはないのだ。 写楽の魅力は画面いっぱいの克明な表情とドラマチックな仕草、 それを小さな画面にたくみにレイアウトし、色数の少なさと合い呼応し、簡潔に表現したことにある。 しかし、曽我蕭白等が描く、見るものが立つ、生の空間をも圧倒する力は写楽には感じられない。 ボクが好きな江戸絵師たちの描く世界には、みな大きな空間が描かれている。 異次元あるいは想像のみの深淵な自然界だとしても、そこにはボク自身を包み込んでいく空間的一体感がある。 小さな版画あるいは画帳の一枚であったとしても、ボクは絵師が描く大きな空間に身を委ねたい。 決して天才写楽を疎んじるつもりはないが、ボクの好む絵師ではないなと結論し、会場を離れた。

2011年5月24日火曜日

100、000年後の安全

映画「100,000年後の安全」(東京渋谷アップリンク)、ボクのTLでほとんどツィートされていないので、ポストすることにした。 この映画は21世紀の人々、全てが見るべきだと思っている。 原子力発電により多大な廃棄物を生み出しているアメリカ、フランス、そして日本。 特に第三位の原発国日本は、不幸にして福島第一原子力発電所事故を起こしてしまった。 その結果、これからどういう被害が東日本に、日本全体に、太平洋沿岸地域に及ぶのか、想像するに恐ろしい。 さらにまた、すでに青森県六ヶ所村には3000トンの使用済み核燃料が保管されている。 映画は極寒のフィンランドが冬の安定した熱源を確保せざるを得ない事情から、多大な原子力廃棄物を生み出してしまったことに始まる。 フィンランドは「オンカロ」(=隠れた場所)と呼ぶプロジェクトによって、ヘルシンキの西240キロの小さな島、オルキルトに廃棄物貯蔵所を建設している。 貯蔵所は島の岩盤を掘削し、地下500メートルに建設している地下都市。 無色無臭、しかし、人類にとって最も危険な放射性廃棄物の処理は「太陽にロケットで打ち込むか」「海底に埋めるか」、結局は「地下に埋めるしかない」とわかりプロジェクはスタートした。 「オンカロ」の完成は100年後、つまり21世紀中建設しつづけ22世紀にようやっとの完成する。 「オンカロ」は「100,000年後の安全」のための施設、しかし、いま問われている最大の問題は、その存在を100、000年後の人々にどう伝えるのか、ということ。 「オンカロ」は永久に封じ込めら、永久に高レベル放射能と生命を遮蔽し続けなければならない施設。 そんな施設が小さな島、オルキルトにあることを未来の人々にどう伝えるのか、あるいは、伝える方法などあるのだろうか。 人類誕生からまだ数万年。 数万年前の人類はいまの我々とは全く異なる人類。 1万年前の人々が、彼らがルーン文字により「ここは危険、侵入してはならない」と書いたとしたら、本当に誰もが侵入をやめるだろうか。 多分、多くの人々が「宝が眠っている」と思い、懸命に封入を解く。 未来の人類もまた生物の生命に危険な放射性廃棄物を拡散してしまうにちがいないのだ。 ここに来て映画は情報は知らせない方が、忘れさせてしまう方が良いのではないかというテーマにも踏み込む。 つまり、人類の未来に真に関われる学問分野は。 哲学、情報学こそ重要、いやむしろ物理化学とは正反対の美術や音楽、芸術こそが最も有効ではないかと思えて来る。 ネットと新聞は毎日、事故現場の検証とその管理者原子力村の不手際を伝えている。 そして、そこから見える、日本人の政治と経済は原発の反対・賛成にかかわらず論議は5年先10年先までのこと、いまを生きる日本人、自分たちのことばかりにとどまっていると言って過言でない。 フィンランドの「オンカロ」もまた、電力と天然ガスをロシアに依存せざるを得ないトラウマからの開放目指す、自国の安全保障プロジェクトであることもまた事実であろう。 しかし、映画「100,000年後の安全」は今を超え、地政を超え、未来の安全保障をいかに生み出すかがテーマである。 なぜなら「オンカロ」を知ることが、今、地球にいる我々の責任と語っているからだ。

2011年5月14日土曜日

コジ・ファン・トッテとオリー伯爵 オペラ研修所

多難な時、自粛しろと言われそうだが、フシダラな題材の喜劇を二つ観た。 ロッシーニのオリー伯爵とモーツアルトのコジ・ファン・トッテ。 共に中世十字軍遠征時の女人館の艶色譚。 前回のこのホール、研修所公演プッチーニの三部作「外套」を観ている最中に地震が発生、 客席係員の誘導で2時間待避し、6時過ぎ歩いてようやっと自宅に戻ることができた。 今日の初台、新国立劇場はボクにとってもそれ以来の鑑賞だ。 と、ここまでが昨日の「コジ・ファン・トッテ」の幕間でのツィート。 スマフォ利用の不十分なポスト、モーツアルト・ファンに怒られそうな内容だ。 「コジ・ファン・トッテ」は十字軍にも関係がなければ、女人館の艶色譚でもない。 モーツアルト得意の「愛と寛恕」をテーマとしたアンサンブル・オペラと言うべきだろう。 恋人たちの遊び心を真実の愛に変えて行く音楽の力こそ、このオペラの魅力なのだから。 今日の公演はそのことをまじまじと実感させる素晴らしい内容だった。 オープニングの舞台挨拶で尾高氏は語っている。 「演奏会形式という異例な形ですが、急遽企画した今日の公演に、沢山の方々にお出でいただきありがとうございます。 今回の地震により、外国人をメインとしていた新国立オペラの本公演は悉く中止となりました。 毎回、本公演を支えるべく沢山の日本人歌手がメインキャストのカバー役として練習に練習を重ねております。 しかし、今回はそういう彼らの努力もまた一切報われることなく埋もれてしまいました。 カバー役として練習を重ねている歌手たちの努力にむくいたい、そして彼らの成果を聞いていただきたいと考え、 演奏会形式ですが、新たな本公演を間近に控えた今日、このような演奏会を開かせていただきました。 彼らの素晴らしい演奏をごゆっくりお楽しみください。」 メモしていた訳ではないので正確ではないがそんな内容。 この公演を知ったのは一昨日の「オリー伯爵」を東劇で見た後だった。 会員であることから早速オフィスに連絡すると、まだティケットはあるという。 席は一階最奥、右手には録画機材がならんでいたが、突然出くわした音楽シーンには大満足した。 特に、多彩なアンサンブルのみならず、6人の歌手たちのアリアもふんだんに取り入れられた後半部分、 14人の弦とピアノそしてチェンバロにのる彼らの歌声は大きな感動をともない中劇場一杯に響き渡った。 聴き終わった後、これはありだ。 中劇場でチケット代も安価ならボクにとっては大歓迎、毎回でも実施してもらいたい思ってしまった。 確かに、オペラの魅力は大劇場で展開されるプロセニアム内(舞台と客席を区切る額縁)の多彩で豪華は音楽的虚構にある。 しかし、カバーはカバーだから本公演を差し置いての今回のような公演は新国立では運営上不可能だろうが、 若い歌手が中心となる、小さな楽器編成の演奏会形式のオペラは、もっとあってもいいのではないかと思っている。 オペラをあるいは声楽を生で聴ける楽しみはもっともっとあっていい。 生のオペラを聴くことは多くの人々にとってCDやDVDに比べれば画期的な体験でありからだ。 今日のコジの歌手たちは30台前後であろうか、彼らは皆、原発建設以後生まれた人たちということになる。 ボクの知る30年前、しかし、こんな演奏は不可能だったように思う。 今日の演奏は明らかにこの最近の30年余の成果。 原発の恐怖も知らない若い世代はスクスク育ち、劇場を圧倒するこんな素晴らしいオペラを生み出している。 一方、原発を許容し、建設し続けてきた旧世代、こんな苦難を招いたボクたちのの30年はどんな成果、何を生み出したと言えるだろうか。 若い人々による演奏の内容が素晴らしかっただけに、我が身を思い暗然としたものを残してしまったのも今日の体験。 話は変わるが、ロッシーニの「オリー伯爵」にも一言、触れておこう。 すでに書いたことだが、このオペラを聴きたかったのは演出家バートレット・シャーにある。 彼は前回ユニークなホフマン物語を演出し、ボクは大きな関心を持った。 そして今回はメト初演の「オリー伯爵」、彼は何をやらかすか興味津々だった。 「オリー伯爵」はロッシーニの最後の名作、内容は間違いなく中世十字軍遠征時の女人館の艶色譚だ。 しかし、シャーはそれを18世紀の劇中劇として展開した。 つまり、演じられているのは中世の物語。 観客のボクたちは、舞台を眺める18世紀の観客の一人ということだ。 プロセニアム・アーチという大きな額縁の中にはもう一つ18世紀という額縁がつき、その中の12世紀の物語を21世紀がボクたちが劇場ではなく映画館で眺めている。 シャーは「オリー伯爵」が映画になり、TV放送され、DVDになり、額縁の額縁の額縁の中で展開されることを意識してこのオペラを演出している。 それはまさに、シュルレアリストたちが作り手としての意識を韜晦に韜晦を重ねる手法と全く同じではないか。 メトの「オリー伯爵」は遠からずNHKで放送されるだろう。 その時は、シュルレアリス得意の補助線がどう引かれているかを見破りつつ、このオペラをまた楽しみたいと思っている。

2011年5月11日水曜日

戦う操縦士 サン・テグジュペリ

「建築成った伽藍内の堂守や貸し椅子席係の職につこうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱えている者は、すでに勝利者なのである。」 これは昔読んだ「戦う操縦士」の中の一節。我々はいま、原発事故から抜け出ることはできない。 理由はともあれ、事故の収束に奮闘する「現場」をいろいろな意味で、想像してしまう毎日だ。そして、やけに、昔読んだサン・テグジュペリが気になっていた。 偶然、今朝、このブログをみつけた。こんな日常をチャンと理解されているひとがいる。書評子とは必ずしも、本を書評する人ではなく、時代を、時代の中の人間を評される人のこと。彼は仕事に関わる人間の「真摯」を「ピーター・ドラッカー」と「夜間飛行」のなかに読もうとしている。 http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/05/post-d9b4.html 「戦う操縦士」「夜間飛行」、ここには「現場」が書かれている。当然ながら、サン・テグジュペリにも結論はない。しかし、そこにはいつも「人間」がいるのだ。久しぶり「城砦」を読んでみたい。

2011年4月5日火曜日

セルジュ・ゲンズブールの死

週末のTVは三春の寺の住職のリポート。 ひと独りの死の内にその人の「死に様」を見ようとするならば、 それは、その人の死がどれだけ残された人々に「変化」を与えたかにあるだろう。 「変化」が大きければ大きいほど「死に様」は大いなる意味があったということだ。 いま、この地域では2万人あまりもの人々の死を弔らわなければならない事態が起っている。 当然、残された私たちは大きく「変化」しなければならない。 そうしなければ、人々の死は報われない。 かなりの意訳だが、かれはこんなことを語っていた。 TVをみながら、セリュジュ・ゲンスブールのことを考えていた。 東劇の試写室での「ゲンスブールの女たち」に引き続き、 週末には日仏で「シャルロット・フォー・エヴァー」を見たからだ。 もちろん、このTVとゲンズブールは何の関係もない。 ロリコンで女たらしの破滅型ミュージッシャン、スノッブなフランスの映画監督。 しかし、そんなスキャンダラスな彼の音楽は、なぜかいつも惹き付けて止まないものがあった。 (http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/14000) スノッブとは俗物根性。 社会的地位や財産などのステータスを崇拝し、教養あるように上品ぶって振る舞おうとする態度とある。 しかし、このフランス男のスノッブには、であるがゆえに生きにくいと同時に、ある種の洗練、独特の美しさが見え隠れしていた。 ふわふわと身軽な移り気、神妙な仏頂面やしくしくとした女々しさが突然、古典詩人の凛とした歌声に変わる。 フランス語を勉強したことがないので全て類推だが、彼の歌はダブル・ミーニング、 性的内容を露骨に口にするが、そこにはもう一つの意味も歌われている。 いつもジターンの煙にまみれ、酒瓶を離さない、 心臓を止み、自殺をもほのめかしていたセルジュ・ゲンスブールは1991年に死んだ。 うそだろうとも思わせる、そんな男の死は、たまたまだろうがソ連の崩壊とも呼応していて、 ボクの中では妙に忘れ難く、いつまでも尾を惹いていた。 TVのリポートとゲンスブールは全く関係ないが、 TVの住職の言葉が妙に呼応したとするならば、 それは死を意味する大きな「変化」ということかもしれない。 そう、あの頃ボクは大きく変化した。 具体的には語りずらいが仕事も生活も。 趣味娯楽だけにについて言えば、 ボクはポップスいわゆる流行歌からはほとんど離れ、 しかし、専門の建築ばかりではなく、 あらゆるヨーロッパの音楽・美術・文学に関わりたいと思った。 重ねて言う、別にゲンスブールに関係があることではではないのだが。 なんかとてつもなく、いろんなことが変化したことだけは事実なんだ。 たまたま見つけた彼の初期の歌「リラの門」の歌詞を添付しよう。 リラの門の切符きり/鳥取絹子訳 J'suis l'poinçonneur des Lilas オレはリラの門の切符切り。 Le gars qu'on croise et qu'on n'regarde pas 人の波が交差し、みんな何もみてやしない。 Y'a pas d'soleil sous la terre 地下だから、太陽はない。 Drôle de croisière 妙な旅行、サ。 Pour tuer l'ennnui j'ai dans ma veste Les extraits du Reader Digest 退屈しのぎに、オレは上着のポケットに、リーダー・ダイジェストの抜粋を持っている。 Et dans c'bouquin y a écrit Que des gars s'la coulent douce à Miami その記事によると、人はマイアミでのんびり暮らしているそうだ。 Pendant c'temps que je fais l'zouave Au fond d'la cave その間、オレは地下の穴倉で、から威張り。 Paraît qu'y a pas d'sot métier Moi j'fais des trous dans des billets 職業に貴賎は無いそうだが、オレは切符に穴をあけている。 J'fais des trous, des p'tits trous, encor des p'tits trous 穴をあける、穴、アナ、あな。 Des p'tits trous, des p'tits trous, toujours des p'tits trous それも小っちゃい穴、ふぅ、いつもいつも小っちゃな穴。
Des trous d'seconde classe Des trous d'première classe 2等車の穴。1等車の穴。 J'fais des trous, des p'tits trous, encor des p'tits trous Des p'tits trous, des p'tits trous, toujours des p'tits trous... 穴をあける、穴、アナ、あな。それも小っちゃい穴、フン、いつもいつも小っちゃい穴。小っちゃい穴、小っちゃい穴、小っちゃい穴、小っちゃい穴。

2011年3月28日月曜日

崩壊したシステム、機能するのは人の自主的な動き

この大震災のなか新聞とネットから情報を読むだけのボクだが、昨日はある会合に参加した。 帰ってきて朝刊を読むと、二人の論者がまったく同じような事を書いていた。 簡単に言えば、 「今、システムは崩壊したが、人間の力が活動している」ということ。 その実感は一人の論者の言葉では、 たまたま滞在中のフランスで各国数々の新聞を読んだが、驚くべく日本人、人々の冷静な行動、支え合うとする人々の意思、自己犠牲的な労働、他者のため頑張りつづける人々の努力、支え合い結び合う人間たちの働き、ということばが並んでいたそうだ。 そして、論者がいうシステムとは、電気システム、エネルギー供給のシステム、情報通信システム、医療システム、年金・社会保障システム・企業システム・市場システム・教育システム。 つまり、この大震災にかかわらず、この数年におこっている事のすべて、そのシステムが今、崩壊したととらえている。 システムはすべて想定の範囲内で維持可能なように設計されているものだが、想定は単なる人間の思い込みにすぎないと書き、 その思い込みが壊れた時、 機能するのは人の自主的な動き、 その動きを論者はフランスで読んだ、新聞で実感したのだろう。 そして、結んでいる。 システムから脱却し、人間の結びつきが基盤となるような社会創成が始まった。 昨日読んだ新聞は今、手元にないので、論者の名前、その内容は正確ではない。 夕食もそこそこ就寝してしまったので、今、外出中、iPhoneのメモだが、アップする事にした。 hiroyuki kato/iPhone

2011年3月26日土曜日

いよいよボクたちは放射能とともに生活しなければならなくなったようです。


大震災から10日あまり、復興活動は日に日に活発化しているようですが、 まだまだ終息していない原発からは多大な放射性物質が漏れ続けています。 この汚染とどう関わればよいか。 これは厄介な長い戦いになりそうです。 まずは乳児と幼児を守る事、そして若年層は積極的に防備しなければならない。 いまさらながら、事故当初のヨーロッパの人々のどよめきが理解できました。 「ドイツやフランス人なら国内脱出を画策するよ!」という記事を読んだのは確か3月13日。 チェルノブイリの体験から多くを学んだヨーロッパの人々、一方、われわれはまだ何も知らないのではないか。 今(3月26日午後1時00分)から「放射性物質汚染とどう関わればよいか。」をネットから調べてみることにしました。

2011年3月13日日曜日

軽水炉の安全性調べてみたが、ボクには良くわからない。


3月13日午後15時30分 経験のない大地震が原因とはいえ、 安全、安全と言われている原子力発電所が、 いとも簡単にその神話を吹き飛ばしてしまった。 安全神話などもとより信頼しておらず、 あるゆる原子力発電所建設には反対していたが、 それにしても昨日の報道状況は「えっ??!!」という思いばかりの内容だった。 多少の知識をもっていたつもりだが、 結果としてはボクはまったく判ってはいなかったんだ、と実感。 (NHKの解説も非常に判りにくい、解説者は判っているが説明しないのか、まさか、判らないのかな?という印象、) 従って、今日は改めて、「軽水炉の安全性」について調べてみることにした。 しかし、結論は「調べてみたが、ボクには良く判らない」。 以下に関連情報をアップしておくが、 「安全です」という言葉は散りばめられているが、昨日TVで見た「建家の上部が吹き飛ぶという状況が、何故起こったのか」 を説明する内容は、どこからも引き出すことは出来なかった。 取りあえずの、昨日のTVを見たボクの理解は以下です。 建家>原子炉格納容器>原子炉圧力容器 (この構造を説明する図はネットでは見つかりません。従って、東京新聞朝刊3月13日28面を参考にしています。) という施設構造において、 圧力容器へ冷却水が供給されず、格納容器の圧力と温度が上昇。 格納容器の圧力を下げるためにベント作業に入ったが、 建家に充満していた水素が酸素に触れ、建家内で爆発が起こった。 判らないのは、 1)何故、中性子に変換され安全かと、中性子とホウ素の関係は何なのか 2)何故、建家内に水素が充満しやすいか 3)水素による建家内爆発の可能性、何故、報道の専門家は一言も触れなかったのか こんな時になっての資料収集、恥ずかしい限りだ。 今は、亡くなった作業員の方々の冥福を祈るばかり、 これ以上、被害が拡散しないよう関係者の努力と奮闘に頭が下がる。 ps。 13日15時30分、3号機問題について官房長官記者会見。 1ーポンプのトラブルで炉心への水供給がうまく行かない 2-炉心(燃料棒)が露出し水素が発生 3-1号機と同じ状況は否定できない NHK解説員説明 *水素発生ー>ジルコニウム金属の温度上昇 *昨日は建家に水素が建家に露出したが今日はまだ格納容器内 *発生した水素をうまく抜けば建屋爆発はない ボクの理解 **原因はすべてポンプによる冷却水供給の不備か 資料1/http://www.atom.pref.fukui.jp/turu34/gaiyou.pdf 敦賀発電所3、4号機の安全性の確認について 平成13年9月 原子力安全対策課 4 大型化に対する実証性・安全性 1)炉心および炉内構造物 炉内構造物の流動振動、中性子反射体の冷却性能、ブロック間の隙間 流れなどを確認するための実証試験が行われている。 2)1次冷却材ポンプ 水力特性やポンプ効率などを確認するための実証試験が行われている。 3)蒸気発生器 湿分分離性能やU字管群の減衰定数を確認するための実証試験が行わ れている。 4)タービン   海外の原子力発電所では54インチを超えるタービン翼の採用実績がある。 タービン翼の振動特性などを確認するための実証試験が行われている。 5)発電機 発電機コイルの振動特性などを確認するための実証試験が行われてい る。 6)燃料設計 燃料の高燃焼度化に対して、従来燃料と同等の安全余裕を確保する設 計方針となっている。 7)炉心設計 炉心の大型化に対して、従来の炉心と同等の安全余裕を確保する設計 方針となっている。 8)原子炉格納施設 原子炉格納容器に加え、主蒸気隔離弁の閉止能力向上やアニュラス空 気浄化設備のフィルタ循環率を増加させることにより、万一の事故時の 放射能による周辺環境への影響を極力抑制する設計方針となっている。 資料2/http://www.fepc.or.jp/learn/hatsuden/nuclear/keisuiro/index.html 電気事業連合会の「軽水炉のしくみ」説明 原子炉にはいくつかのタイプがありますが、日本では、米国で開発された「軽水炉」というタイプを使っています。現在、世界でもっとも広く使われているタイプの原子炉です。 原子炉の種類は、使用する減速材、炉心から熱を取り出す冷却材などによって区別されています。わが国の原子力発電所では、アメリカで開発された「軽水炉」と呼ばれる原子炉が採用されています。この原子炉は軽水(普通の水)が減速材と冷却材に兼用されているのが特徴で、燃料には濃縮ウランを用います。軽水炉は世界の原子力発電の主流となっており、蒸気を発生させるしくみの違いによって沸騰水型炉(BWR)と加圧水型炉(PWR)の2種類に分けられますが、核分裂の方法や減速材として水を使う点は、どちらの形式も同一です。 沸騰水型炉(BWR =Boiling Water Reactor)のしくみ 原子炉圧力容器に入っている燃料が核分裂することにより、周りの水が熱せられます。すると水は蒸気になり、そのままタービンに送られて発電機を回します。このため構造はシンプルですが、蒸気は放射性物質を含む水からつくられているため、タービンや復水器についても放射線の管理が必要となります。 沸騰水型炉(BWR)原子力発電のしくみ BWRに改良を加えたのが、改良型沸騰水型炉(ABWR =Advanced Boiling Water Reactor)と呼ばれるものです。ABWRは、従来は原子炉圧力容器外に設置していた原子炉再循環ポンプを圧力容器内に設置したもので、原子炉再循環ポンプの周辺配管をなくして、単純化しました。また、制御駆動用動力源として、BWRの水圧動力源に加えて電動動力源を追加し、緊急時の安全性をより向上させています。 改良型沸騰水型炉(ABWR)の構造上の特徴 加圧水型炉(PWR =Pressurized Water Reactor)のしくみ 原子炉圧力容器であたためた水は、BWRよりも高い圧力で一次系統の配管を循環します。この高温・高圧の水から熱だけを蒸気発生器で二次系統の配管を流れる水に伝え、蒸気となったところで、タービンを回します。放射性物質を含んだ水がタービンや復水器に行かないため、タービンなどの発電部分に関するメンテナンス性がBWRよりも向上しています。 加圧水型炉(PWR)原子力発電のしくみ 資料3/http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1993/index.htm 平成5年版 原 子 力 白 書 平成5年11月 原子力委員会 第II部 各論 第1章 原子力発電 4.軽水炉技術の向上(1)軽水炉の改良標準化 軽水炉の改良標準化計画は,国,電気事業者,原子力機器メーカー等が一体となり,自主技術による軽水炉の信頼性,稼動率の向上及び従業員の被ばく低減等を目指し,1975年度より1977年度にかけて第1次改良標準化計画が,また1978年度より1980年度にかけて第2次改良標準化計画が実施され,1981年度より1985年度にかけて第3次改良標準化計画が実施された。 既に,第1次及び第2次の成果は1984年2月に運転を開始した東京電力(株)福島第二原子力発電所2号炉(沸騰水型軽水炉:BWR),また1984年7月に運転を開始した九州電力(株)川内原子力発電所1号炉(加圧水型軽水炉:PWR)等に反映されている。 第3次改良標準化計画は第1次,第2次の成果を基に機器・システムはもちろん炉心を含むプラント設計全体を対象に,我が国の自主技術による信頼性,稼働率,運転性,立地効率の向上,従業員の被ばく低減等の一層の改良を図ることにより,改良型軽水炉の開発が進められた。この改良型軽水炉を採用することとなった東京電力(株)柏崎刈羽原子力発電所6号炉及び7号炉(各々135万6千キロワット)は,世界初の改良型BWRであり,それぞれ1991年9月及び1992年2月に着工した。なお,営業運転の開始は6号炉が1996年12月,7号炉が1997年7月の予定である。 (2)軽水炉の高度化 今後,長期にわたって原子力発電の中核を担うと考えられる軽水炉については,現状に甘んじることなく,時代のニーズに応じた一層の高度化を推進していくことが必要である。この軽水炉技術高度化の在り方については,総合エネルギー調査会原子力部会の下に置かれた軽水炉高度化小委員会において1991年6月に報告書が取りまとめられており,それによると,今後の軽水炉技術の開発に当たっては,経験の蓄積を積極的に活用し,安全性の原則を再認識し,新しい知見・技術を取り入れていくことが重要であり,安全性確保を更に図るため,故障・トラブル対策の高度化,ヒューマンファクターに係る対策の高度化,安全設計の高度化,静的安全性の可能性の追求及び廃炉対応の高度化に取り組むことが必要であるとしている。さらに,ウラン資源の有効な利用のため,ウラン燃料の有効利用及びプルトニウム・回収ウランの利用基盤の確保が必要であり,長期的な視点に立った柔軟性の確保として,燃料・炉心機能の高度化及び立地技術の高度化が重要であるとしている。また,1987年4月,軽水炉技術の高度化に資する国及び民間で行われている研究について総合的に評価・検討を行い,国が支援すべき施策についても検討する場として,軽水炉高度化推進委員会が設置された。本推進委員会では,各種耐震技術,高度立地技術等に関する検討,高燃焼度燃料,ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料の評価・検討が進められている。

2011年2月17日木曜日

ド・ペイエのクラリネット

昨晩、夜遅く帰るとTVでブラームスのクラリネット・ソナタNO.1の解説をやっていた。曲の冒頭はピアノが奏でるドファミレド。そのメロディーを枯れたクラリネットが緩やかに追う。調性はクラリネットが最も豊かに響くへ短調。 61歳の時のこの曲も20代のブラームスの最初のピアノソナタも同じドファミレド。それはなんと、シューマンの妻、クララが作曲したクララ・コードと呼ばれている旋律だそうだ。音楽科卒業生なら誰もが知るエピソードかもしれないが、今、再び19世紀の音楽と建築を調べている建築科学生(??)にとっては大いなる驚き。 どうせ聴くならチョット古いがド・ペイエがいいなと、寒い中、銀座の店をはしごして、ようやっと見つけた幻の名盤。(ド・ペイエはその語りかけるようなクラリネットを一度聴き、いつかは手に入れたいとメモっておいた。今日はそのいつかだったのです。)モノラールのCDだが、これからゆっくり聴いてみたい思います。

2011年2月5日土曜日

早川式「居住学」の方法」という本がある。


題名からみると住宅関連本お得意のハウツー本と思われるかもしれないが、 とんでもない、 日本では唯一とでも言える住宅問題研究家の思索と実践の記録です。作者の早川和男氏は戦後50年、まさに孤軍奮闘、 「人間にふさわしい住まい」をテーマとしての活動と研究の日々。 TVドキュメント「空き屋放置」や建築学会誌「未来のスラム」に触れ、 そういえば最近、この種の問題から距離を置きすぎたな、との反省から、 早川氏の名前を思い出し、今日、この本を読んでみた。 紀元前2世紀の中国に「安居楽業」という故事がある。 「安心して生活し、生業を楽しむ」 住まいと仕事は人生を支える両輪、後漢書から遠く隔たった現在、 この国ではともに奪われようとしていると書かれ、この本は始まる。 内容は西山夘三氏の食寝分離論の真意から始まり、 スター建築家誕生の土壌となる住宅金融公庫、ILOが禁止した給与住宅、ウサギ小屋批判やヨーロッパの空き屋占拠運動、 阪神・淡路大震災後の復興公営住宅、 その道々に展開される「住宅貧乏物語」「日本住宅会議」「東アジア居住福祉宣言」そしてたどり着くのは「居住民主主義の実現」。 広範の分野だが著者は書斎の人というより実践家、 その内容は簡明で分かり易い。読んでいて一番気になった項は「研究者の社会的責任」。 1−住宅会議の運営委員の弁護士いわく。ある進歩的大学教授に(居住権侵害裁判の証人)依頼に行ったら「そんなことをしたら行政から資料をもらえなくなる。委託研究が来なくなる」と断られた、という。 2−ある全国紙の記者に”居住保障は憲法25条の生存権の土台である”という視点からキャンペーンするべきでないかと言ったところ、それでは記事にならない、とデスクがとりあげない。 3−某新聞社の学術奨励金へ応募し候補7点に残ったが、最終会議で、ある選考委員は「日本には住宅問題など存在しない」と政府の代弁者のような発言をして真っ先に落されたと、別の選考委員に教えてもらった。 4−デベロッパー団体である都市開発協会の事務局長は、大手不動産業者のエゴイズムとそれに追随する政治家や官僚による制度の方向を変えないと、日本の都市は乱開発が進み、業者の金儲けの場になってしまうと憂えていた。 5−中曽根内閣の都市計画や借地借家法などの規制緩和。 用途地域制決める容積率・用途規制の緩和、国有地の払い下げ、農民から農地を手放させる宅地並み課税の強化等々。 結果は不動産業者や大企業による市街地開発。時代劇に登場する悪徳代官の手先さながらの暴力的地上げが横行。 地上げにつながる制度の背景には、政府各種審議会のほか首相の私的諮問機関が大きな役割を果たしていた。 その審議会等に数多くの大学教授が参加していた。 市場原理主義を待つまでもなく、日本の土地・住宅政策は一貫して経済浮揚策の一端。その主導は政治・官僚主導であったとしても、情けない学者・知識人という助成者たちの存在。決して未知でない人々でもあるだけに読んでいて悲しい。 先週の「21世紀の歴史」に引き続き読後は暗く、正直なところ自責も感じている。しかし、早川氏があるいはアタリ氏が言う超民主主義のための人材

2011年2月4日金曜日

ドラマとしてのオペラの中でカーマンは重要な指摘をしている


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」といっている。 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性にあると考えられる。 ロマン派以降、音楽同様、形式のみで展開せざるを得ない建築では不連続な行間をどう繋ぐかが問題となった。 その方法が仮に機能主義・有用主義という倫理だけであったとするなら、近代建築は「失敗したロマン主義」ということになる。 近代建築を批判し図像論や言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消した。 しかし、まだ方法はあるはずだ。ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築のロマン主義を検討する意味 がここにある。 hiroyuki kato/iPhone

2011年2月1日火曜日

プライマリー そしてミニマルしかし饒舌な建築


プライマリーもミニマルもボクの好みではない。時間も言葉も超えることができないチープな印象を与えるからだ。しかし、この建築はプライマリーでありミニマル(極めて少ない素材の微細な変化に依拠)でもあるが解説を読むと饒舌な建築だ。いま、現代建築が持つロマン主義に関心がある。ズントーもその一人かもしれない。 http://www.archdaily.com/106352/bruder-klaus-field-chapel-peter-zumthor/

2011年1月31日月曜日

経験としての建築 S.Eラスムッセン


白状すると、ボクには「あたらしい建築を考えようとするとき、あるいは建築を考えることに行き詰まった時」必ず目を通すバイブルのような本がある。 S.Eラスムッセンの「経験としての建築」。 もう40年以上も書棚にあってボロボロだが、この本にはこんなことが書いてある。 「学校の答案のようにーーーこの建物はA、この建物はB、というようにーーー建築を判断すると、建築の与える楽しみは損なわれます。それは危険な仕事です。価値ある建物はーーーすべての芸術作品のようにーーーそれ自体の標準を持っているので、建築の評価に絶対的な価値や基準を設けることは不可能です。物知り顔で揚げ足をとる気持ちで建築を考えるならば、建築は自らを閉ざし、何にも語りかけないでしょう。しかし、印象を喜んで受け、共感をもてば、それは真のエッセンスを解放するでしょう。」

2011年1月15日土曜日

龍口寺 江ノ島


江の電江ノ島駅を2、3分海岸に向かった左側、住宅街の奥、緑の小山が龍口寺の境内です。この山の中腹に明治45年(1910年)竣工の五重塔が建ちます。木造の五重塔としては神奈川県で唯一だそうで(横浜三渓園は三重塔)、各層の軒に飾られた一元流の彫刻がユニークです。