2010年6月16日水曜日

ラファエロとユリウス二世/©


(ラファエロのアテネの学堂)

ローマのバチカンの署名の間に「アテネの学堂」と呼ばれる壁画がある、盛期ルネサンスの名作。

ラファエロ・サンティは1510年、ユリウス二世の命によりこの絵を完成させた。

大きな半円形の画面のなかに、古代的建物を背景とした哲学者、科学者というギリシャの賢人たちの群像。その絵画の中に描かれた人々は現実のルネサンスの賢人たち。

古代の哲人の衣をまとい光の中を悠然と歩く画面の中の彼らの姿から、ルネサンスの人々の持つ理想的人間像が劇場的感覚をもって迫ってくる。

舞台背景となるのは厳正な左右対称、壁龕には神話的人物の彫刻像、ヴォールト天井は角型のピラスター(半柱)で支えられ、高貴な輝きに充ち、ゆるぎない安定感を放っている、屋根のない古代建築。

この絵画はルネサンスの舞台構成とまったく同質です。

透視画法の画面の中のシンボルは、この場合画面を彩る様々な人物だが、序列なく等質・等方に配置され、空間には入れ子あるいは代替可能の原則が貫かれている。

舞台とは変幻自在性を持った仮構による虚構の場、その中の役者は一時的な役割を演じるシンボルにすぎない。

「アテネの学堂」はまさに透視画法により構成された、ルネサンスの賢人たちが演じる舞台空間なのです。 

透視画法による序列なく等質・等方に配置されたシンボルの空間は、観客にとっては自由に想像的(イマージナル)に関われる虚構の世界、しかし、この想像的自由な虚構の場であることがとても重要。

やがて見るバロックの舞台空間、そこでの透視画法は観客の想像的自由を生み出す装置ではなく、特定の人間の操作による幻想的(イリュージュナル)な空間に変容する。

オペラはこのイリュージュナルな空間が基盤となって生み出された作品的世界と言えます。

しかし、「アテネの学堂」は幻想ではなく想像的世界。幻想的に透視画法を操作したのは権力の顕現をもくろむバロックの君主たち、彼らが必要とする恣意的な空間がやがてオペラを生み出して行く。

 話を「アテネの学堂」に戻そう。画面の中央はプラトンとアリストテラス。左側を歩くプラトンは「ティマイオス」を小脇に抱え、右手で天を差し、イデアの在り方を示す。

「エティカ」を持つアリストテラス、天と地の間に右掌を広げ、イデアはそれ自身だけでは存在せず、個々の事物の姿となって存在することを示している。

そして演じるのは、レオナルド・ダヴィンチがプラトン、ニコマコス倫理学書を持つアリストテレスは不明だが、前方中央の階段下で書き物をするヘラクレイトスはミケランジェロ。

上手(右)床の上の黒板にコンパスをあてるのはブラマンテが演じるユークリッド、その他ソクラテス、ピュタゴラス、ディオゲネス、ゾロアスター、プトレマイオス、アルキメデス、エピクロス、パルメニデス、アルキピアデスと各々が様々なポーズを取っての総勢53人もの人物、右袖の柱の陰からわずかに顔を出すラファエロ自身も登場する。 絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。

建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、建築の壁面に関わることなく、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。

それは絵画の自立、と同時に建築の解体。絵画のみで世界を表現することが可能となった。透視画法によるアナザーワールドの発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになる。

空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な箱、つまり、近代建築の始まり。

建築は表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなったのです。

しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者のみの道を歩めば良い、という訳ではない。

世界を生み出す役割とそのコンセプトを表現する役割は画家の役割だが、画家と同時に建築家自身も新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。

神に変わり人間自らが問題を発見し、その問題に答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法の開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割となった。 

透視画法が生み出すアナザーワールドは近代の建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割をもまた明確にした。

透視画法は彫刻によらなくとも三次元の像を作り出すことも可能となった。

従って、彫刻家の仕事は立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすこと。

画家は人物像の周りに、建築を描くことで空間を生み出すことが役割。

一方、画家は空間を生み出すと共に、部屋を取り囲む建築の持つ壁体をも解体する、そしてついには、平な天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなくして、天上の世界を表現した。

(図版いくつか)つまり、画家は実際の建築を超え、自由に建築空間を想像することが出来たのです。

(ラファエロのパルナッソス)

マンティーニャの「パルナッソス」に比べればラファエロの「パルナッソス」は判りやすい。「アテネの学堂」と同じ、バチカン宮殿の署名の間の壁画だ。山上の月桂樹の下に座り九人のミューズに囲まれ、リラ・ダ・ブラッチョを弾くアポロン。

画面は左から右へと壁画の円弧に合わせるように流れ詩人たちが配列される。ここでも描かれた人々はまるで舞台を飾る俳優たちのようだ。「アテネの学堂」と同じように登場人物は寓意ではなく実在の人たち、すべてギリシャ・ローマそして同時代に活躍した詩人たちが舞台を飾る。

彼らは桂冠をかぶりアポロンに敬意を表すためにパルナッソスに集まった。左下で巻物を持ち座っている女性がギリシャの抒情詩人サッフォー、その前に立つ三人目の詩人がペトラルカ。山上で詩を吟じる盲目のホメロスとその左手に座り耳を傾けメモを取るラテン詩の父エンニウス。ホメロスの背後ではダンテとウェルギリウスが「神曲」の場面のように視線を交わし話し合っている。右下でサッフォーに対応するかのように腰掛けているのがウェルギリウスと同時代の抒情詩人ホラティウス。その他アリオスト、ボッカチオ、サンナローザに変身物語を書いたオウディウスという詩人たちが舞台を飾る。

 (fig49)

アルカディアの情景のなかで芸術の擬人化であるミューズに囲まれた古今の詩人たち。この絵画のテーマは古今の「詩学」、あるいは「美」の象徴であることがよく解る。興味深いのはアポロンの持つ楽器、彼がいつも持つアトリビュート(象徴的持ち物)の竪琴を隣に座る青衣のミューズが持ち、アポロンはルネサンス時代のリラ・ダ・ブラッチョを持っている。ラファエロは詩を永遠の価値のシンボルとして、あえてルネサンス時代の楽器をアポロンに持たせたのだと言われている。ラファエロらしいユーモアだ。

(ユリウス二世のメッセージ)

ラファエロの絵画の読み取りは面白いが、「パルナッソス」と「アテネの学堂」を壁画とした「署名の間」全体の意味付けもまたとても興味深い。ユリウス二世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画・天井画を任せ、聖なる空間の創出を計った。

ミケランジェロの聖に対し、ラファエロには俗。「署名の間」は教皇の俗権の行使の場に見合うもの、つまり聖を象徴するシスティーナ礼拝堂に対し「署名の間」は世俗の人々のためのより調和ある世界の象徴として位置づけた。

教皇はミケランジェロとラファエロの力を借り、全世界に対する権力を与えられ、聖と俗、どちらの権威をも仲介する教会そのものの役割を強調しようとしているのだ。

「署名の間」は従って、当時の人文主義とキリスト教を統合した装飾計画により俗権の強調がテーマとなるが、具体的には啓示による真理としての神、そして理性による真理としての真・善・美、つまり、神学・哲学・詩学・法学という四つの徳と精神活動を壁画と天井画によって表現している。

そして「アテネの学堂」は哲学であり真、「パルナッソス」は詩学であり美がテーマ。すでに触れたように、ラファエロは寓意ではなく、実在の人物によって、それも舞台構成のような堂々とした建築や自然空間のなかに表現していく。その構成は大変解りやすく、完成されるや否やローマ中を熱狂させ、あらゆる人たちがその壮大さの前に立ち尽くし賛同したと言われている。


2010年6月15日火曜日

フィレンツェの二つの聖堂

(サン・ロレンツォ聖堂)
透視画法の発見によって生み出された考え方が直接的に表現された建築がフィレンツェに二つある。 サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂。ともにブルネレスキの設計。
 サン・ロレンツォ聖堂(図版)は1419年頃設計が完了、資金難のため工事は何度か中断し1461年になってようやっとその交差ドームが完成する。 しかし、ファサードは補修されただけの未完のまま現在に至っている。 平面図を見ると、聖堂は交差部の正方形が基本単位となり、身廊は四つの正方形、両脇の側廊はその二分の一の八つの正方形で構成されていることがわかる。
 実際の建築の交差部に立ってみる。(写真) ここでは前後左右均質に作られた透視画法の空間を真のあたりに体験させられる。 さらに、床の正方形パターンと格天井のグリッドにより透視画法の空間的座標が一層協調され、まるで自分自身が絵の中の世界に入り込んだかのような感覚にとらわれる。 事実、この時代、建築と絵画の違いは、今のような種類の違いではなく、芸術的手段の違いに他ならない。
 建築空間を体験することと絵画空間を眺めることは全く同質の空間体験と同じ。 建築空間と絵画空間どちらも共にシンボルによって生み出されたイメージ空間(虚構の空間)、建築空間をリアルな日常空間としてのみ体験し、絵画空間と同様の虚構の空間としての体験を軽視する現代の我々、建築は想像力で体験するイメージ空間であったということを忘れてしまっている。 

十五世紀の人々にとって建築空間はリアルな日常空間である以上に、想像によるイメージ空間、それが西ヨーロッパの建築空間を読み解くためには不可欠。 サン・ロレンツォ聖堂で体験者が持つイメージとは、それは合理的な人間的空間の中に位置付けられた、己の身体そのものを実感すること。 その体験は神の絶対的支配を前提として生きているこの時代の人々にとって、全く新しい世界、新しい神の発見に他ならない。 何故なら、彼らはいままでは神の国の内にのみ己の場所を見いだしていたはず、しかし、透視画法による距離、あるいは「数」という概念で神なしで生きる、自分自身の空間を発見する事が可能となった。透視画法の中の建築を体験することで「神の存在」ということより、古代ギリシャに通低する宇宙の秩序を実際に目にする。 神なくして秩序を目にすることを可能とした建築、ブルネスキはサン・ロレンツォ聖堂を作ることで透視画法の持つ意味を多くの人々に示している。
(サント・スピリト聖堂)

サント・スピリト聖堂はブルネレスキ晩年の仕事。この聖堂もまた交差部の正方形が基本単位となっている。 図面をみれば基本単位による幾何学的構成がサン・ロレンツォ聖堂より一層徹底して適用されていることがわかる。(図版) さらに特徴的なことは、この聖堂の入り口である正面部分を除けば、周囲の全ては側廊部の基本単位を直径とするニッチで囲まれている。 左右の両翼は内陣と全く同じ平面形状を持ち、バジリカ形式(長方形プラン、身廊が長く軸線をつくる)であるが故に身廊部分のみが内陣の三倍となっているが、このことを除けば、前後左右全く同型の点対称図形として構成されている。
 ブルネレスキはここでは最早、伝統的な教会建築ときっぱりと訣別した。 従来の教会とは全く異なる空間イメージの表出を試みている。 それはまるでチェス盤の上に立っているような体験。 そのイメージとは後の十六世紀の建築家パラーディオにも引き継がれるが、神を中心として序列化し、秩序づけられた空間を、敵でも味方でもない等質な空間に変質させていることだ。
サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂が示す明瞭さと穏やかさ、あるいはきちんとした整合性を持った佇まいと呼べるもの、それは壮大で超越的な当時の西ヨーロッパのゴシック建築とは全く異なる建築。 透視画法から生まれるこの穏やかな知的整合性は、その後に引き継がれる多くのルネサンス建築の大事な特質となっていく。

2010年6月14日月曜日

理想都市とアルカディア

(理想都市とアルカディア)

十五世紀以降のイタリアにあって、建築・絵画・庭園・音楽等が透視画法に描いた世界は理想都市(ユートピア)と アルカディア( 理想郷)。この二つの世界は同時代の人文主義に支えられた人間が想像的に生きる理想世界を意味する。そこはまた神の国とは異なり現実世界でもあるのだ。「理想都市」とは社会的秩序、規範を体現する装置とみなされている。つまり、集団として生きる人間にとっての規範を表現するのが「理想都市」の役割。

「アルカディア」は生活の規範だ。ひと一人がこの世界をいかに生きるか。生きて行くための方法、約束ごとを表現するのが「アルカディア」の役割。

イタリア・ルネサンスの透視画法による「作品的世界」は絶対的な神の力から離れ、人間自身の力によって、あるいは個々人の自由と自立がメッセージされている。それは近代社会の始まり。さらにまた、作品の誕生は作家の登場、諸芸術の「自立」をも意味し、各々は神の力無くして、各々の役割を果たさなければならない。

やがて、教会という建築の中で一体化されていた絵画・彫刻と音楽は、同時代に発明されたタブロー化した印刷物同様、教会を離れ自由に飛び立って行く。そして音楽や絵画・建築は作品的世界、風景の世界、オペラの世界を生み出していく。

(マンティーニャの天井画)

ラファエロの「アテネの学堂」よりも四十年も前、マンティーニャはマントヴァのパラッツォ・ドッカーレの「夫婦の間の天井画」を完成させた。

従来、建築では主要室の天井はドームで構成される。建築は自然界から人間的世界を切取る、あるいは人間のための特別の空間を生み出す装置だ。さらに、その建築の中でも特別重要な場所にはドームが架けられ、そこはあたかも神のいる天上、あるいは宇宙そのもの、神そして宇宙の持つ秩序と一体的に調和した場所と見なされた。

実例としてはローマのパンテオン。そのメッセージは「全宇宙」。さらには大聖堂のアプス(内陣)の上のドーム天井、そこは天上に繋がる神の世界と考えればよい。そして「アテネの学堂」の屋根のないフレームだけの古代建築を描いたが、マンティーニャの「夫婦の間の天井画」は建築としては平たい天井だが、透視画法によるドームを描くことで虚構の建築を生みだし、天上に繋がる世界を表現した。

建築の外観はともかく、マンティーニャは寝室に天井に絵を描くことで、この部屋は特別な空間、建築のなかの特別な場所であることを示している。つまり、建築空間の意味は外観と内観、バラバラに二重の意味をも表現可能となったのだ。

(虚実の空間という新たな虚構の世界)

建築が重たいドームを作らなくとも、透視画法を使うこと特別な空間を生み出すことが可能。平らな天井に描かれた建築空間では屋根が切り開かれ、雲がたなびき、鳥が舞い、天使や天上の人々が親しげに現実の世界に入り込んで来る。実際に建築空間を構築することなく、絵画によって天に繋がる特別な空間を生み出している。

建築空間に透視画法による絵画を描くことで、建築と絵画を一体化した全く別種の空間が生まれる。透視画法が開いた空間は実なる空間と呼応し、また新たなる虚構の空間をも生み出している。

その手法は様々に展開され、応用される。一般にはだまし絵と言われるが、そこに展開される絵画空間と実なる空間の交歓は、私たちの日常をもう一つの世界へと導いていく。その空間は人間により生み出されたもう一つの虚構の世界。その世界を通しての、出たり入ったりという想像上の自由は、自身の持つ現実世界やイメージを舞台上の世界のように客観視し、距離をおいて眺めることを可能としている。つまり、虚実相交わった建築空間は、日常世界の持つ演劇的側面を強調し、その後のオペラの舞台のように、その幻想的世界をより自由に構成することが可能となった。

(マントヴァのマンティーニャ)

パドヴァ、ヴェローナで活躍していたアンドレア・マンティーニャは1459年、ルドヴィーコ・ゴンザーガから生活費だけでなく住まいと食事も用意され、宮廷画家として招かれた。

その年はマントヴァ公会議の開催の年。前節で触れたコルシニャーノの丘の上で教皇ピウス二世に理想都市の建設を決意させたのは、このマントヴァ公会議出席の為の旅。あるいは、ローマ、ウルビーノと忙しいアルベルティがサン・タンドレア聖堂の建設を急いでいたのもこの公会議の為だった。

この年、招かれた宮廷画家マンティーニャには小国マントヴァの文化政策、その威信の全てが懸けられていた。マンティーニャの作品の題材にはパドヴァ時代の学者たちとの親交の成果、宗教画以上に古典古代の理想郷が数多く取り上げられていた。つまり、この画家は画家であるばかりか古典学者でもあったのだ。

彼は早速、夫婦の間の壁画・天井画の制作に取りかかった。そして、ゴンザーガ家の別荘や宮殿、教会の壁画、さらに額縁画、祭壇画等、次から次へと宮廷からの注文に明け暮れこなしていく。イザベラの肖像画を残したことでも有名なレオナルドがこの宮廷に招かれたのもこの頃のこと。マンティーニャは小都市マントヴァを支えるのみならず、この都市の美術の最盛期を支えた最も重要な画家なのだ。

(ルネサンスのアルカディア)

西のアルプスから東のアドリア海まで、北イタリアを滔々と横断するポー河、その流域は全て肥沃な平野。豊かな農産物に恵まれ、音楽と建築に満たされた都市が連なる。マントヴァはその中央に位置する、古代ローマの最大の詩人ウェルギリウスが生まれたところとしても有名。

ルネサンスの人々をアルカディアに誘った長閑で甘美な牧歌や農耕詩は間違いなく、このマントヴァの風景が生み出したものだ。しかし、もともとの、あるいは現実のギリシャのアルカディアは急峻なパルナッソス山域に囲まれた荒涼地、長閑な田園とはほど遠い所。

アルカディアは古代ローマあるいはルネサンスの人々が生み出した想像上の理想郷。ギリシャの人々にとっての、「人間の生きるための規範のための舞台」としてのアルカディアは、苦難の続くルネサンス・イタリアの人々にとっては長閑な田園地帯、理想郷に変容した。

アルカディアはローマ時代の詩人テオクリストやウェルギリウスによる農耕詩や牧歌の中の世界として描かれる。ホイジンガの「中世の秋」によれば、あまりにも厳しすぎた中世末期の現実が、より美しい生活にあこがれ、理想の愛を追い求めるルネサンスを開いたとある。

凶作がつづき、二度に渡る壊滅的なペストの流行、加えて教会勢力の分裂という多難を体験したイタリアでは、十四世紀に入り、ウェルギリウスが描いたアルカディアはペトラルカ等により良い世界の象徴、理想世界、黄金郷として登場した。

列強との狭間で苦難に揺れる十五世紀末イタリア、フェラーラからマントヴァに嫁いだイザベラ・デステの同時代。アルカディアはナポリの詩人ヤコーポ・サンナローザの田園詩「アルカディア」によって、あるいはフィレンツェの詩人アンジェロ・ポリッツィアーノの牧歌劇「オルフェオ」によって再登場する。

やがて「アルカディア」は誕生期のオペラにも引き継がれる。そして十八世紀、その世界は台頭した市民社会の器楽演奏、交響曲や室内楽に取り込まれ、ヨーロッパ音楽の主要テーマとして展開されていく。

(マンティーニャのパルナッソス)

マンティーニャはこのアルカディアのようなマントヴァで十五世紀末、興味深い絵画を完成させた。「パルナッソス」、現在ルーブル美術館に展示されている。マンティーニャの「パルナッソス」は古代ギリシャのアルカディアの聖山、詩と音楽の神アポロンと九人のミューズの住むところとして描かれる。

この絵は后妃イザベラの注文により制作され、長らく彼女の書斎を飾っていた。ルドビーコ公亡き後、マントヴァ国家元首となった彼女は自分自身のための瞑想の場を必要とした。この絵はその為の主要な装置。イザベラの死後、五枚のカンバス画が書斎に残されたが、「パルナッソス」はその中の一つ。しかし、十七世紀にはルイ十四世の所有となり、以降、ルーブル美術館に保管される。

 (fig48)

この頃すでにフィレンツェでは新プラトン主義者たちの思想を反映したボッティチェリの「プリマベーラ」や「ヴィーナスの誕生」が完成していた。人文主義的教養も深いイザベラ、フィレンツェへの対抗心を充分に秘め、この部屋の構想を練ったに違いない。

ルネサンスの作品は、どの分野でも、個性の表出が目的となることはない。作品が作家の個性に結びつけられ解釈されたのは十九世紀以降のことだ。この時代の作品は全て、使用目的に合わせ、あるいは集団的要請に従い制作された。題材は画家が自由に選ぶのではなく注文主が決める。画家は題材に従い作品の持つ意味を的確に表現することが求められた。

イザベラはマンティーニャの「パルナッソス」に何を要求していたのだろうか。美術史家によれば、この絵は様々な解釈があるようだ。以下は長いが、当時の人々の「アルカディア」が垣間見えとても面白いので引用する。

「踊っている女性たちがミューズの神々であることは、その数が九人であることや、画面左上に崩れ落ちる山が描かれていることから、確かである。というのは伝承によれば、芸術の創造における霊感の女神たちの歌は火山の噴火や天変地異を引き起こし、ペガサスがひづめで大地をふみならしてこれらの天災を終わらせるからである。実際画面右手には宝石で飾られた有翼の馬がいて、神意によってしきりに地面をひずめで何度も掻いている。そのそばにメリクリウスがいるのは、彼がウェヌスス(ヴィーナス)とマルスの愛人関係に介入し、画面左端のアポロとともに不義のウェヌススをかばうことになっているからである。二人の愛人はベッドに置かれたパルナッソスの山頂から見下ろすように立っている。左に裏切られた夫、ウェウカヌスが仕事場である鍛冶場の洞穴から出て、不貞を働いた二人(ヴィーナスとマルス)に向かって怒鳴っている。彼の背後にかかっているブドウはたぶん力と不節制の象徴であろう。アポロはその下の方に座り、手にリラ(竪琴)を持っている。1542年に作成されたマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレの財産目録では、このアポロがオルフェウスと記されており、またアポロは普通ミューズたちの間に交じっているものなのだが、これをオルフェウスと見なしたところで、その絵の内容をいたずらに混乱させてしまうだけだろう。・・・連作全体が教訓を目的としたものであったことは疑いないことである。それゆえ、パルナッソスにはマルスとウェヌススの不貞な結びつきに対するミューズたちの強い非難をはっきりと読みとることができるのである。とはいうもののマントヴァ宮廷の知識人たちがその裏切りを非難したとは思われない。」(マンティーニャ:東京書籍)


2010年6月3日木曜日

エステルハージ家のハイドン


イギリスでは1649年の王制の廃止が公共コンサートの始まりのきっかけとなったが、ヨーロッパ大陸では18世紀に入ってもまだ公のコンサートに出掛けるという習慣はなかった。上流階級の私邸か宮廷でのサロンが音楽の集いです。
ヨゼフ・ハイドンは1761年、エステルハーザ家の副楽長任命され、以降2代のエステルハージ候のおかかえ音楽家となります。
彼はオーストリアのアイゼンシュタットのエステルハージー居城(中世の砦を17世紀に宮殿に改修したもの)とハンガリーのエステルハーザー城に25年間もとどまり音楽活動を続けた。

アイゼンシュタットは現在ハイドン・ザールと呼ばれ、400人も収容できる大きなホールを持っている。
間口15m、奥行き40mという細長い形を持ち、天井高も12m余りもありもある。
彩色が施され折上げ天井、側壁にそっては深いニッチがならび長方形の両端には円柱に支えられたバルコニーが設置されている。
ハイドンはこのホール用に34曲もの交響曲を書いているが、比較的中低音域の残響が教会なみに長いことと、狭い側壁からの反射音が強いことを意識的に取り入れ、合奏部分の強音と独奏部分の弱音を対照化して表現する手法で作曲した。(交響曲6番や8番など)


エステルハージ侯ニコラウス1世はロココ式宮殿エステルハーザ城をハンガリーに作る。
そこにはミュージックルーム(1766年完成)だけではなく、オペラハウス(1768年完成)や人形劇の劇場(1773年完成)、さらに音楽家のための宿舎(1768年完成)まで作られた。
ここのミュージックホールは16m×10m×9mとハイドン・ザールに比べかなり小さい。
当然残響は短く、澄んで乾いた音色を持って聞こえる。
ここでのオーケストラはアイゼンシュタットと同規模であったようだが、その曲全体は室内楽のように響いたと想像される。
ハイドンはここで作曲した交響曲57番や67番などを2つの版で出版した。
ここでの二つの版ということが重要なことで、ハイドンは同じ曲を野外を含め他の会場用にトランペットやティンパニーを使ったものと、このミュージックルーム用に親近感のある響きを持ったものとの2版を使い分けて演奏したのです。
もう一つ大事な事がある。
アイゼンシュタットのハイドン・ザールの教会並みの残響の長さにはハイドンは相当苦しんでいる。
そしてここの演奏会では必ず木の床を張り開いているのだ。
彼は長い残響をも考慮して交響曲を作り続けたが、やはり、新しいシンフォニーの時代、音の大きい楽器演奏は教会のような空間ではとても難しかったのです。

2010年6月2日水曜日

ラニラ・ガーデンのロトンダ


モーツアルトの父親レオポルトは1764年、ロンドンからザルツブルクの友人に次のような手紙を書いている。
「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)

テームズ河畔チェルシーは土地が肥沃であり眺望も良く、16世紀トマス・モアが屋敷を構えるころから上流の人々の人気となる。
そしていくつかのマナーハウス、果樹園、庭園が作られてきた。
ロンドンからは陸路の馬車より、船によるテムズ河の往き来の方がはるかに安全で快適な小旅行。
そんな場所に18世紀には飲食と娯楽の為の遊園(プレジャー・ガーデン)がこの地域に沢山作られた。




1741年、建築家ウィリアム・ジョーンズの設計によるロトンダ(円形劇場)が建つ。
このラニラ遊園は、朝食と朝のコンサートが毎朝行われ、ロールパンと紅茶がロンドンの最高の演奏家のコンサート共に楽しめる、ということでこの地域でも最も人気となっている。
現在ではナショナル・ギャラリーが所有しているカナレットの絵画を見ると、レオポルトが手紙に書いたラニラ庭園のロトンダの内部の状況と雰囲気がとても良くわかる。
ホールの中央はファイアープレス。
当初はここが舞台でオーケストラの演奏はこの中央部分で行われ、観客は周辺をそぞろ歩きしながら楽しんだ。しかし、やがてオルガンの設置とともに右手の階段状の演奏台にうつされ、観客は中央のファイアープレスからの暖をとりながらの散歩となった。
周辺は劇場の桟敷席のような観客席。

ロンドンからの市民たちは庭園を散歩するばかりでなく、ここで音楽をききながら朝食をとり談笑を楽しんだ。
レオポルトはさらにこんなことも書き送っている。
「常に100人、200人、そして4〜500人の人々が周囲をそぞろあるきしており、お互いに挨拶をしている。床には全面麦藁を細かに編んだ敷物とか絨毯が敷かれていて、気持ちよく歩き回れて、かつ歩くことで雑音がでないようになっている。庭園とホールには、少なくとも6000人の人の座る席があった。ホールだけでも3000人の人たちがゆったりすわることができた。」
予約会員制によらない自由な公開コンサートで音楽を商業化することに成功したプレジャーガーデンだが、19世紀に入り閉鎖されて行った。
それは、「音楽は音楽を聞くためだけの空間」を必要とし始めたからです。

2010年5月28日金曜日

コンサートホール事始め


ヨーロッパ社会で音楽が広く演奏されていたのは宮殿や宮廷でした。
舞踏室、客間、サロン、広間、適当な広ささえあれば、音楽はどこでも演奏されている。
演奏は演奏される部屋の大きさに合わせ、演奏スタイルと曲目を選定し、時には演奏場所の反響に応じ、伴奏楽器の数やテンポまでも調整することで、宮殿や宮廷、さまざまな場所が演奏会場となっていた。

17世紀イギリスは共和制の時代。
革命により貴族的な劇場が閉鎖され、国王の音楽も王制とともに廃止されていた。
音楽家たちは生活するための庇護を中産階級の人々に求めなければなりらない。
そして生まれたのが公共コンサートです。
その最初の場所はロンドン近郊の居酒屋であったと記録されている。

ロジャー・ノースの「音楽の覚え書き」(1728年)によれば「セント・ポール大聖堂路地裏で、小型のオルガンが置いてあるのをフィリップなにがしが演奏し、店の主や職人頭が毎週より合ってはいっしょに歌ったり聞いたり、ビールやタバコを楽しんだりして楽しみました。やがて居酒屋の聴衆の数が次第に多くなっていきました」。
別のある居酒屋では、音楽のために部屋を一つ別にし、ミュージック・ハウスと呼ばれるようになり、大繁盛している。
やがて、居酒屋貸席の演奏会がずいぶん儲かるものだと知られると、こんどは音楽家自身が事業家になることもあり、次々と連続演奏会が開かれ、専用のミュージック・ルームも建てられるようになり、コンサートは益々隆盛して行った。(コンサートの隆盛のために音楽家自身が演奏会のプロモーターだった、ということはとても興味深い)


ロンドン大火の傷もいえ、レン(イギリスの有名な建築家)による新しいセント・ポール大聖堂の建設が始まった年、1675年、ストランドの西端、テムズ川のほとりのヨーク主教の旧邸跡に最初の公共コンサートホール、ヨーク・ビルディングスが誕生する。
「音楽会が開かれたのは大きな部屋で・・・音楽会場にふさわしい飾り付けがほどこされ・・・大勢の人がやってきて、混雑していた」。
ヨーク・ビルディングスのミュージック・ルームは大好評、やがてコヴェント・ガーデンにも同じようなミュージック・ルームが建てられることになる。
コヴェント・ガーデンのミュージックホールは絵の競売場にも使われたことから競売すなわちヴェンデと呼ばれ人気を博した。
そのヴェンデよりもさらに人気になったのがヒックフォーズ・ルーム。
ジョン・ヒックフォードは1697年、ダンス学校兼用のコンサート・ルームを開いた。
このビックフォーズこそ今あるコンサートホール原点かもしれない。

1738年には、手狭になったヒックフォーズ・ルームがジョンの息子によって引っ越し移転される。
そこはピカデリーにほど近いブルワー・ストリート。
このコンサートホールはヒックフォーズ・グレートと名を変え、当時のロンドンの流行の最先端の場となった。
奥行き15.2m、間口9.1m、高さ6.7m、天井は折りあげ、部屋の一端はステージ、それと向かい合ったドアーの上には桟敷席も設けられていた。
ヒックフォーズ・グレート名は音楽史の別の視点からも有名。
1764年、ロンドン滞在中の9歳のモーツアルトが姉のナンネルと一緒に演奏会を開いたのはここ、ヒックフォーズ・グレートだった。

2010年5月15日土曜日

ルネサンス、建築家の誕生





絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。かって建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。それは絵画の自立を意味する。絵画のみで世界をあるいは空間を表現することが可能となったのだ。

透視画法による人間が眺める世界、風景の発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになった。空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な現実世界へ、つまり、近代建築の始まり。

建築は虚構的表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなっていく。しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者の道を歩めば良い、という訳ではない。

空間を生み出しそのコンセプトを表現するのは透視画法だが、建築はさらに新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。神に変わり人間自らが問題を発見し答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法が開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割だ。




透視画法が建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割もまた明確となった。透視画法は彫刻によらなくとも三次元の立体を作り出すことが可能だ。従って、彫刻家の仕事は現実の立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすことがその役割となる。

画家は人物像の周りに、建築を描き空間を生み出す。さらに、画家は空間を生み出すばかりか、部屋を取り囲む建築の壁体をも解体する。そしてついには、平な建築の天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなく、天上の世界の表現が可能となった。つまり、画家は実際の建築を超え、建築家が実際の建築を作る以前に、自由に建築空間を生み出すことが出来たのです。


2010年5月6日木曜日

アルス・ノヴァが開いたルネサンス


(アルス・ノヴァ)

オペラを生み出す十六世紀ではなく、十四世紀に戻ると、かって、ノートル・ダム大聖堂のリズミック・モードがガリレオの計量的時間を先取りし、多声音楽の道を開いたように、アルス(技法)に基づく音楽の時間構造の変化が観念や理念先行の音楽を実在の道に導いた。

それはアルス・ノヴァという音楽運動。リズムや拍子に関する考え方を神学者や哲学者がそれまで持っていた考え方から、新しい時間尺度に変えていこうとする運動だ。アルス・ノヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。

アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化する。そして十四世紀始めに音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)が登場した。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと言える人だ。

この理論書が重要なところは「音符の持つ時間の長さを多様化した」ところにある。多様化とは、本来は1対3という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、1対2という不完全分割をも認めるようにしたこと。三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。

三拍子は舞曲、それは詩的。二拍子は行進、自然の人間の歩行、行動を促す。従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念からは許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァにより論理的に可能となった。結果、詩は全て韻文ではなく散文でも許されるように、音楽は理論上の作品も実践上の立場から書かれ、やがて現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことになる。

(音楽家ギョーム・マショー)

十四世紀始めは絶対的権力であった教皇権が没落し始める時代。新しいローマ教皇の選出にあたりフランス王が干渉し、選ばれた教皇がローマに行くことを妨げられる、歴史にいう「アヴィニョン捕囚」の時代だ。ギョーム・ド・マショーの音楽はこのような時代に作られた。それは教会の中の音楽より、宮廷における世俗音楽のほうが主流となる時代の始まりでもある。

教会の中で発展した多声音楽はバラードあるいはシャンソンと言った世俗のポリフォニーとして展開され、技巧に満ちた美しい歌が沢山生み出される。マショーの時代、それはアルス・ノヴァの結果と言えるものだろうが、音楽は教会の道具であることから独立し、自由な形式を持ち、人間性を自由に表現するものとみなされた。結果、教会では聞くことのできない、多彩なメロディーによるメランコリーな音楽が時代の主流となるのだ。

この時代の世俗音楽は、もはや、現代の私たちが聞く音楽の印象と大きな違いはない。十四世紀音楽の世界に起こったアルス・ノヴァは様々な音楽上の着想が取り込まれる新しい道を切り開いていた。面白いことに、アルス・ノヴァ、そしてギョーム・ド・マショーの音楽に示される音楽上のルネサンスは建築や絵画より百年も先行していたのだ。

2010年5月4日火曜日

ルネサンスの透視画法

(透視画法の発見)

透視画法を発見したのはブルネレスキです。 フィレンツェの花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の献堂式の記録を残したマネッティによれば、幕開けはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂を描いたパネル画にあった。洗礼堂が克明に描かれたパネルの空の部分には銀箔が張られている。そのパネル画の中央には小さな穴が開けられていた。パネルはそのまま手に取って眺めるのではなく、片手に鏡を持ち、もう一方の手にこのパネルを持つ。眺めるときはこのパネルの穴からパネルに描かれた洗礼堂を鏡に写しこんで眺める。

この動作を実際の洗礼堂の前、定められた広場の一点から、鏡の中の鏡像と実際の洗礼堂を同時に合わせて見る。鏡の中に再現されたものは現実の洗礼堂とは区別がつかない、現実性を持ったパネル画と実際の洗礼堂の姿が重なって眺められる。ブルネレスキは何故、このようなことを試みたのか。彼の関心は絵の描きかたではなく都市にあった。都市における建物のをいかに配置するか、その方法への関心が透視画法を発見させている。

中世以来のシニョリーナ広場には、様々な記念建造物が巧みに配置されている。ブルネレスキの時代、この広場の構成はまさしく共和国の中での市民と聖職者、その秩序だった関係の象徴と見なされていた。この秩序を生み出すもの、それは当然、当時の考え方では、神の力によるものであったのだが、ブルネレスキはそのような構成を神の力に寄らずして人間の力で、客観的で科学的な根拠のある方法で生み出し得ると考えた。そして単一の視点より見ることから生まれる幾何学に基づいた一点透視画法を発見したのだ。

神の力に頼らずに秩序を生み出す方法の発見のためのヒントは古代ローマの宇宙論にある。かってのローマ全盛の時代には、宇宙も人体もともに秩序立った世界、コスモスだ。前者はマクロコスモス(大宇宙)、後者をミクロコスモス(小宇宙)。 図で描けば大円である宇宙と人体は一致する。(アントロポモルフィズム=レオナルド・ダ・ヴィンチ図) さらに各々はともに深い関係にあり、二つのコスモスは正確な比例関係を持つものとみなされていた。

この考え方は十五世紀になると復活し、大宇宙=小宇宙の原理に基づく空間概念が後に、新しい建築の原理となり、比例を通じて表現された諸部分の調和ということに関心が持たれるようになる。

ルネサンス建築の特徴とされるのは、アプリオリの全体ではなく部分を重視する視点。全体はその部分の集積として改めて規定されるものという考え方。あるいは部分と全体は決してバラバラにあるのではなく空間的には一体化、統一化されている。この考え方はローマ以来の大宇宙=小宇宙の原理に基づくもの。ブルネレスキは同じ原理に励まされ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のパネル画の実験を試みるのだ。


(透視画法の原理はヒューマニズム)

ブルネレスキの一点透視画法の発見が当時の知識人たち、人文学者や建築家たちの最大の関心事となったのは、大宇宙=小宇宙の原理の強調や部分・全体の考え方を透視画法が理論づけていたからだ。空間が中心から発する光線によって理論的にも実際的にも把握されることに気が付いたブルネレスキは、目とモノとの間に置かれた画面は視覚錘体の断面を構成していることを示した。つまり、どんな部分も全体とは比例関係にあり、その部分と全体の関係は大宇宙=小宇宙を示している。

それはまた秩序ある都市の配列を導くもの。実際はともかくブルネレスキはシニョリーナ広場における様々な記念建造物の巧みな配置はこのような原理に基づくことを証明しようと考えた。

さらにもうひとつ、一点透視画法の発見がもたらした大事な考え方がある。それは世界を支配し、自然を変革するのは神のみではなく、人間もまた自然と法則を知ることで、世界を有効に支配できるという考え方。

世界は神ではなく、人間が人間のために計画的に支配出来るという確信が、人間が中心となった世界観を生み出す。つまり、人間中心主義というルネサンスのヒューマニズムは透視画法の原理そのものでもあったのです。


(透視画法が開いた世界)

ルネサンス建築の考え方を支配したのは透視画法。透視画法とは自分の目の前に一枚の透明なガラス板を置き、そのガラス板越しに見える世界をガラスの面に正確になぞって書くことだ。結果、目の前の世界は一つの秩序、まとまりを持った表現が可能となる。

そのまとまりは、人の目に「見えるまま」に表現された世界。つまり、ガラスという画面は「あるがままの世界」を写し取る装置。ここで重要なことは、画面に描かれた世界、あるいは空間の中にあるものは、宗教的観点から眺めたものではなく、人間の目が眺めた世界、人間の見た目が意義を持つ。

中世的絵画において、空間にあるものを画面の中に描こうとする時、描かれたものの大きさは宗教上序列、あるいは世俗の世界における階層を表すものに他ならない。つまり、空間は「あるがままの世界」ではなく、神によって秩序付けられ、序列化された世界、「あるはずの世界」なのだ。

ガラス越しに見るという透視画法の中にあっては大きさの違いは距離を示すに過ぎない。中世的絵画にあっては、神は大きく中央に描かれ、序列の下位のものは外側あるいは小さく描かれている。いうならば描かれる前に、描かれる方法は決められていて、描かれる世界は序列化されたシンボルによる寓意の空間、それが中世の絵画空間だ。

透視画法では神ではなく人間の見ための現実が全てに優先される。そこでもっとも重要なこと、透視画法の中の消失点(焦点)や水平線が示していることは、モノや空間が無いのではなく、あるのに見えないだけと認識させたことにある。視覚によって見ることできる現実世界の限界はあっても、その限界は人間の住む世界の限界ではないことを透視画法は明らかにした。このことから、空間は誰の支配も受けない自由な広がりと見なされる。空間は特定な性格や好みも持たない等質で等方なもの、平準で均質なものと考えられた。

もはや空間は神が支配するものではなく、あるいはある種の質感をもった物体が外側にひろがって行くものではなく、その中にモノがあろうが空っぽであろうが、いつでも人間の力で計測・計画出来るもの。空間がこのように認識されることで、建築を支える考え方も大きく変わった。建築は自然を越えるという想像上のものではなく、あるいは目に見えない世界構造を示すというものでもなく、視覚で測定でき、規則的に表現できる、ある法則に基づいた機械のようなものとなったのだ。

さらに、あらたな建築が生み出す空間のイメージとは、それは神が支配するものとしてアプリオリに限定されているのではなく、人がモノや記号を人為的に配列にすることによって生み出されるもの。詩人が言葉の配列によって生み出す空間と同様、シンボルの空間とみなされようになる。つまり、空間はあるいは世界は、神により生み出されるものではなく、詩人による制作、画家や建築家による「作品」となった。


(シンボル配置の方法)

描かれている世界はいかに写実的であっても、絵画空間を構成するのはシンボル。シンボルはいかにありのままの表現であったとしても、それは音楽と同じように、実在物の似姿に過ぎない。絵画は平な画面のなかに様々なシンボルを配置し、意味ある世界を表現したもの。そのシンボルを徹底した写実で表すか、あるいは別の意図を持って象徴的に表すかは、その絵画が描かれた時代の考え方の反映と言って良い。

写実性を生み出すことに熱心であったルネサンス、そこにはギリシャ・ローマと同じ様な自然を客観的に眺める時代精神が色濃く反映されている。反リアリズムであった古代エジプトや中世キリスト教社会、そこでは客観的に眺める以上に、「目に見えない世界」をいかに具体的に表現するかに関心が持たれた。中世社会では「あるはずの世界」が象徴的、超越的に表現されていたのだ。

ローマ時代のポンペイの家のいくつかには写実的な壁画が残されている。しかし、このような描きかたはキリスト教社会の中ではまったく消えている。十四世紀、音楽においてギョーム・ド・マショーがアルスを駆使し世俗音楽を作曲する頃、同じフランドルの画家ファン・アイクやイタリアのジョットが驚くほど写実的な絵画を描くようになった。しかし、彼らは後の透視画法のような奥行きを持った空間を描く技法を持ちえていたわけではない。ただひたすらだった自然観察がこれらの写実性を導き出していたのだ。

音楽におけるアルスへの関わりが「作品」と「作曲」、そしてその研究が音楽の革新となるアルス・ノーヴァを生み出したように、十五世紀の透視画法の研究が画家と建築家を誕生させ、新しい人間と世界の関係を生み出す方法を開いていった。

2010年5月1日土曜日

大クーポラの建設と献堂式の音楽、ブルネレスキとデュファイ

 
 
(建築家ブルネレスキ)
フィレンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市です。
その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっている。
ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄がはじまる。
アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させた。
十三世紀にはフィレンツェから、毛織物、絹織物業による生産品がヨーロッパ全土に輸出される。
さらにこの都市の銀行家たち、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍により、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれた。
ルネサンスは、この歴史と繁栄が基盤。都市を反映させた自分自身が、神や君主に頼ることのなく、あらゆるものに対する創造精神によって生み出す新しい世界。その世界の創造が大きな文化活動となって花開いていく。

花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)はフィレンツェのほぼ中央に位置し、都市の象徴であると同時に、焦点となっている。
赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲きほこるこの大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)。その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンス都市のシンボルと言える。
花の聖母大聖堂は1296年に建設が開始された。
大聖堂はその後の都市の発展に併せ、徐々に工事が進められ、十五世紀のはじめ、いよいよ大クーポラの建設に取りかかることになった。
古代ローマを凌駕しようという巨大屋根の建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事。その為、工事をまかなう大聖堂造営局と工事の取りまとめを担う、羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていた。

十六世紀半ば、ジョルジョ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、この大クーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキの章の冒頭、次のように書いている。
「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。
1418年、公証人の息子、金銀細工師のブルネレスキに、大聖堂造営局は大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになった。
列伝は続く。
「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

たびたびローマを訪れ、パンテオンを研究したブルネレスキは、直径40mに及ぶ大屋根には足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを掛け渡すことを提案している。

この方法は古代ローマのパンテオンに学んだもの。
40mを掛け渡しても決して崩れることのない強度を持った屋根と天井、その各々を一枚の板で構成することはとても重さが耐えきれず不可能なこと。そこには厚みを確保し重さを減らす為のアイディアが必要、ブルネレスキは屋根と天井の間にリブを入れた二重構造のパネルを組み合わせることを提案した。
何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキだが、もう一つの難題が待ち受けていた。ブルネレスキは新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たち。彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得なかった。
ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったと言えるようだ。親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々もあったと記録されている。しかし、1436年8月、大クーポラの着工からちょうど20年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、ついにその偉業を達成した。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのもの。ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせることによって、誰疑うこともない都市と時代のシンボルを完成させた。
この大輪の開花は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を示すものであったといえる。何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視されるようになったからだ。
建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することであり、旧来の経験の寄せ集め、という生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示したからにほかならない。
このことは職人とは異なる一人の「建築家」の誕生を意味する。
ヴァザーリーの列伝に名を連ねるまでもなく、彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家。ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人でもあったのだ。そして新しい建築の時代はこの日、この「建築家」を起点として新たな道を歩み始めまることになった。

(ギョーム・デュファイの音楽)
大クーポラの完成の五カ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月25日に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行う。その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力との確執によってローマを離れていた教皇は、丁度この時、フィレンツェを訪れていた。
エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っている。
フランドルの音楽家ギョーム・デュファイはその時の筆頭歌手。後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイだが、まだ30代半ばの彼はこの献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花は=Nuperーrosarumーflores」を作曲した。
式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残している。
「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺したので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(西洋音楽史/上・音楽之友社)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていた。
その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていた。
どこの聖堂もそうだが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っている。一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは良く知られている。
四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏される。
ここからが数合わせの方法、下の二声は同じ旋律が4回繰り返され、その4回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合している。その正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を現しているのだ。
つまりデュファイは、大聖堂という建築と、その為の音楽を比例関係で調和させることで、文字どおりマネッティ−のいう、天上の世界を音楽と建築を一体化させることで、現出させようとしていたのです。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに違いない。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあることだった。もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟のようなもの。ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニー。建築の美しさの現実は、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに多分に左右されるが、根本的には構成要素の各部分部分と全体との比例関係によって規定される。つまり、建築は一種の抽象的な均衡に基づくものと考えられていた。
柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、建築は冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在であった。そして、建築は古来から、調和を生み出す数比によって構成された音楽のようなものと考えられていた。

ヨーロッパでは、音楽は単なる感覚的な楽しみ、と考えられたことは一度もない。音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象であったのだ。そして、宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされていた。つまり音楽は数学のようなもの。
それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)であったのです。音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科の一つ、それが、古代そして中世の考え方。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。従ってすべての音が、数学的関係によって表されるということは容易に理解できる。しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとはなかなか理解出来ることではない。
現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないと考えるが、作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことは大変興味深い事柄だ。事実、「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた方法だった。「数あわせ」の音楽はバッハも作曲しているのだ。
人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト以降、そのような音楽は消えて行ってしまったが、バッハそしてモーツアルトの時代の音楽、そこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もっと大きな音楽の問題、音楽の意味と役割、そして、その変容の問題があったと理解すべきだ。つまり、音楽家の時代と言われる近代を理解するもっとも重要な課題、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容する時代、集団の為の音楽が個人の為の音楽に変わりつつある時代でもあったからです。



(Dufay : Missa l'homme armé from lelutindecouves on yoitube)
http://www.youtube.com/watch?v=2DBtiTVaJZ0