2010年6月3日木曜日
エステルハージ家のハイドン
イギリスでは1649年の王制の廃止が公共コンサートの始まりのきっかけとなったが、ヨーロッパ大陸では18世紀に入ってもまだ公のコンサートに出掛けるという習慣はなかった。上流階級の私邸か宮廷でのサロンが音楽の集いです。
ヨゼフ・ハイドンは1761年、エステルハーザ家の副楽長任命され、以降2代のエステルハージ候のおかかえ音楽家となります。
彼はオーストリアのアイゼンシュタットのエステルハージー居城(中世の砦を17世紀に宮殿に改修したもの)とハンガリーのエステルハーザー城に25年間もとどまり音楽活動を続けた。
アイゼンシュタットは現在ハイドン・ザールと呼ばれ、400人も収容できる大きなホールを持っている。
間口15m、奥行き40mという細長い形を持ち、天井高も12m余りもありもある。
彩色が施され折上げ天井、側壁にそっては深いニッチがならび長方形の両端には円柱に支えられたバルコニーが設置されている。
ハイドンはこのホール用に34曲もの交響曲を書いているが、比較的中低音域の残響が教会なみに長いことと、狭い側壁からの反射音が強いことを意識的に取り入れ、合奏部分の強音と独奏部分の弱音を対照化して表現する手法で作曲した。(交響曲6番や8番など)
エステルハージ侯ニコラウス1世はロココ式宮殿エステルハーザ城をハンガリーに作る。
そこにはミュージックルーム(1766年完成)だけではなく、オペラハウス(1768年完成)や人形劇の劇場(1773年完成)、さらに音楽家のための宿舎(1768年完成)まで作られた。
ここのミュージックホールは16m×10m×9mとハイドン・ザールに比べかなり小さい。
当然残響は短く、澄んで乾いた音色を持って聞こえる。
ここでのオーケストラはアイゼンシュタットと同規模であったようだが、その曲全体は室内楽のように響いたと想像される。
ハイドンはここで作曲した交響曲57番や67番などを2つの版で出版した。
ここでの二つの版ということが重要なことで、ハイドンは同じ曲を野外を含め他の会場用にトランペットやティンパニーを使ったものと、このミュージックルーム用に親近感のある響きを持ったものとの2版を使い分けて演奏したのです。
もう一つ大事な事がある。
アイゼンシュタットのハイドン・ザールの教会並みの残響の長さにはハイドンは相当苦しんでいる。
そしてここの演奏会では必ず木の床を張り開いているのだ。
彼は長い残響をも考慮して交響曲を作り続けたが、やはり、新しいシンフォニーの時代、音の大きい楽器演奏は教会のような空間ではとても難しかったのです。