2012年1月15日日曜日
アルプスの北と南の音楽と建築
2012年1月8日日曜日
エギナ島のアパイヤー神殿
ギリシャの3つの神殿と言えば、アテネのパルテノンとスニオンのポセイドン、
そして、エギナ島のアパイヤー神殿。
クレタの乙女アパイヤー(プリトマルティス)はミノス王の執拗な恋に追い回される。
もうまさに、追いつめられ捕らわれそうになったその時、
彼女はとうとう断崖から海に身を投じてしまい、ミノスから逃れた。
しかし幸いにも、漁師の網にかかって助けられ、
このエギナにやって来たと伝えられ、やがてクレタではなくギリシャの神となった。
ギリシャ神話の女神はアテネ同様、みなたくましい女性ばかり。
アパイヤーも弓矢に長け、鹿を倒すのが得意だったと言われている。
サロニコス湾の中央にあるエギナ島、
その東端に建つこの神殿はちょうどパルテノン神殿と向かい合う形に建築されている。
この湾は逞しい女神二人によって守られているということになるようだ。
エギナを訪れたこの日は天気が良く、
エーゲ海は11月ですが穏やかな陽光に包まれ波は静かだ。
ピレウスからフェリーで1時間半、
この島は一人旅でも気安くエーゲ海を楽しめる格好な位置にあった。
この神殿は当初、パルテノン同様女神アテネに捧げられた神殿と考えられていたが、
音楽指揮者フルトヴェングラーの父、古典考古学者アドルフ・フルトヴェングラーによって発見された銘文から、アパイヤーに捧げられたものであることがわかる。
(パウサニウスの紀元2世紀のギリシャ案内記にも叙述されている)
アパイヤー神殿はアテネのパルテノンよりも古く、紀元前6世紀から5世紀にかけての建設。
一部分だが神殿の内側の二重列柱も保存され、外側のドーリア式列柱もほとんど原型を留めている。
使用された凝灰岩あるいは貝殻入り石灰岩にはスッタコ仕上げが施されていて、
赤く塗られた柱頭、トリグラフやメトープには青赤交互に塗られた形跡までが残されていた。
アテネを訪れたのであれば、パルテノン、ポセイドンとともに決して見逃してはならない建築、エーゲ海の船旅と共に欠かせることはできない。
見学の後、フェリー待ちでエギナ・タウン、文字通りこの島の小さな港町を散歩した。
波止場の先端の街はずれ、小さな土産物屋で銀の鎖に連ねられたひときわ大きな首飾りを見つけた。
首飾りといっても、豊満なアパイヤーな胸にこそふさわしいもので、
とても土産になるものではない。
鎖はともかく、石は当然宝石とはいえず、どこにでもある奇石ばかり。
しかし、衝動買いの癖からか、一度手にしたその瞬間、もう手離すことができなかった。
ブルーや赤、緑の小石の組み合わせは、まるでエーゲ海の難破船に隠されていた宝物のように思えたからだ。
英語も話せない店の老婆とのやり取り、なんとかこの宝物を手に入れ、持ち帰ることができた。
どこのどんな石であるかは、まったくどうでも良いこと。
幸い、エギナのアパイヤーで手に入れたこの宝物、この神殿の記憶と共に我が家の何処かに転がっているはずです。
2012年1月7日土曜日
古代ギリシャの音楽世界
世界の美しい秩序の根本にあるのは「数」、和音はそこから得られるものとし、天体は音階(調和)であり「数」であると考えたのはピタゴラス。ギリシャ人にとって科学は実利的なものではなく、審美的あるいは形而上学的営みだ。
ギリシャ科学では宇宙の生成は美しく秩序だったもの、ヘシオドスの宇宙の誕生は詩であるとともに科学でもあった。
その根本となる「数と比例」、紀元前六世紀ピタゴラスは協和音程と数の比例との間に密接な関係があることを発見し合理化した。ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーが奏でる様々な音の良く響き合う瞬間があることに気付き、世界の美しい秩序の元にあるものは「数」であり、和音はそこから得られると確信したのだ。
音程とは二つの音の高さの隔たりを言う。一度はユニゾンつまり隔たりがない。ドレミファ・・・ではドとレの隔たりは二度、四度はドとミ、五度はドとファの隔たりを言う。伝説ではピタゴラスはキターラの開放弦を使って、ということになっているが、二点間に単弦を張り、開放弦の音と単弦の中央を押さえた時の音、つまり弦の長さの比が2対1の時、2つの音は互いに良く響きあうことを確かめた。
次に弦の長さを2対3、3対4に分割し弦を弾き、同じく開放弦と良く響き合うことを確認する。弦の長さを2対3に分割して弾くと開放弦とは五度の隔たり音、3対4の分割では四度の隔たり音、どちらもお互い良く響きあう。このことから1対2はオクターブ、2対3は完全五度、3対4は完全四度の音程を持ち、協和音程は「数の比例」と密接な関係にあることを発見している。
その後アリストテレスはピタゴラスの考えを強調し「数」をすべての存在の構成要素であるとした。天体は数であり音楽であると紀元前四世紀、彼の「形而上学」で定義づけている。一方、アリストテレスより早くプラトンは「国家」の中で算術と幾何、つまり数と形に関する学問こそ、現実を理性的に認識するための根拠なのだと言っている。
彼らの仕事はヨーロッパにおける合理主義、視覚や経験では捉えられない現実を、理性(ロゴス)と思考によって捉えるものとしたことにあり、その原理は「数」の「美しき秩序=ハーモニー」そして「天体の音楽」にあったと考えられている。
さらに古代ギリシャおいて音楽は現実の響きではなく、世界全体が照らし出される場となるもの、それは官能をくすぐるものではなく、理念に導かれる人工的世界とみなしている。笑いにさんざめく父神ゼウスの館、雷 轟かす雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館、神々が住まう天上の館もまた「数と比例」による人工的世界なのだ。
構成された建築や音楽の中に数比関係が見いだされたからといって、それが感覚的な美しさを証拠だてる根拠はどこにもないが、感覚ではなく合理への信頼、理性的認識としての「音楽と建築」は全く同相にある。ともに「数」から生まれた兄弟。天(コスモス)に鳴り響く天体の音楽と天上の館はギリシャ神殿が石造建築として誕生するまぎわの時代、すでに確固たるイメージを持って地中海世界に広まっていた。
2012年1月5日木曜日
古代ギリシャの合理主義
盲目の吟遊詩人ホメーロスがキターラ(竪琴)を奏でながらトロイヤ戦争の叙事詩を歌ったのは紀元前八世紀。アテネのペリクレスとフェイディアスによってパルテノン神殿が作られる300年も前のことだ。ギリシャの陶器を飾る壷絵が人物像ではなく、幾何学紋様に終始している頃、ホメーロスは吟唱によって英雄たちの世界を詩った。
人々は詩を聴くことで世界を知ろうとした。
世界は絵や文字が「見る」ことによってではなく、言葉あるいは音を「聴く」ことによって理解されたのだ。それは聴覚から生まれる想像世界。世界は音楽から始まったと言って良い。
古代ギリシャの人々にとって耳で聴く想像世界のほうが、目でみる現実世界よりリアリティを持っていた。何故なら、いつも神々と共にある彼らの生活において、山々や木々や川や水や雲の流れ、天変地異、季節の到来、天体の運行など、すべては神々のなせる技。人々はその技を目で見ることより、想像することによって理解したのだ。
ギリシャの人々は何故、想像世界に強いリアリティを感じていたのか、そこには古来からの彼ら特有の考え方がある。天体はいつも規則正しく秩序立っている。生きるべき世界もまた同じ、世界は決して混沌としたものではなく、規則正しいある法則が支配している。
人が五感で知る世界はいつも不完全、捕らえどころなくバラバラ。現実の世界は不完全だが、その表面にではな く、背後にある世界には天体と同じ美しい秩序(ハーモニー)があり、そのハーモニーが完全なる世界を支えている。
人間が生きるべき本来の世界とは、自然や動物と共にある目の前の現実ではなく、その背後にある想像世界と考えていた、と考えて良い。
「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」(シンボリック・イメージ・日本語版への序:平凡社)と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。
ヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない言葉だ。古代ギリシャにおいては、人間が五感で把握する世界は不完全だが、イディアが人間が生きるべき本来の世界を支えている。
中世においては、唯一の創造主がいて、世界は神により支えられ、理性で理解できる教義により成り立っている。
目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術を支える土台と言って良い。その土台は古来からの合理主義。
「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念が生きるべき世界を支えている。
ゴンブリッジが東洋にその例を見ないということもよく理解できる。私たちは合理主義より経験主義「事柄の理解はすべて経験の結果」と考えている。
従って、「理性によって組み立てられた世界」より「経験的現実の世界」が生きるべく総てであって、 感覚界の背後の世界には関心が無い。 仮に「もうひとつの世界」はと問えば、それは夢か彼岸、死後の世界となってしまう。
ゴンブリッジは同じ日本語版への序で次のようなことも付け加えている。
「プラトンの学園、つまりアカデミアの入口の上には、幾何学に通ぜざる者ここを潜ることなかれ、という銘文が記されてあったという。それは何故か。奇妙に響くかもしれないが、幾何学上の真理は我々の転変常なき感覚界には適用されないのである。」
幾何学という数と形の学問は建築を支える基盤。
しかし、その基盤もまた現実ではなく、現実を理性的に認識するための根拠にすぎないと言っている。つまり、確かなことはどこまでも目に見える現実ではなく、観念あるいは理性的認識だけなのだ。
人間が描く三角形はいかなる三角形も真実ではないし、また真実である必要もない。現実の紙の上に書かれた直線は、真なる直線であることは決してない。真なる直線とは理性的なあるいは観念的な認識の世界に存在するもの、という認識。
プラトン主義は感覚で知る現実の背後に、本来の世界が存在すると考え、真の理性的客観的知識とは、その世界にあるものと考えている。現実的感覚界にあるのは主観的意見に過ぎない、従って、誰もが共有する「合理」は現実の背後の想像世界のみの存在となる。
2012年1月4日水曜日
天体の音楽と天上の館

「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。(シンボリック・イメージ/日本語版へのまえがき)
この言葉はルネサンス以前のヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない。
五感による世界は不完全だが、完全なるイデアが世界を支えている。
宇宙は決して混沌としたものではなく、ある法則が支配している。
ヨーロッパ中世においては、世界は唯一の創造主がいて、
理性で理解できる教義により成り立っている。
目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術をを支える土台です。
その土台を合理主義と呼んで良いと思います。
「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念。
一方、「事柄の理解はすべて経験の結果」という考え方があります。
当然、経験主義はヨーロッパにおいても登場します。
しかし、いつも合理主義が先行し、経験主義はそのアンチテーゼあるいは非合理主義、神秘主義として登場するのがヨーロッパでの特徴です。
プラトンに対するアリストテレス、デカルトに対するパスカルがその例とされます。
ゴンブリッジが東洋にその例を見ないというのも良く理解できます。
ヨーロッパ的神秘主義とは異なりますが、ボクたちの事柄の理解の大半は経験の結果に他なりません。
そしてルネサンス以降のヨーロッパもまた「あるはずの世界」ではなく「あるがままの世界」。
音楽は聴くべき世界であり、絵画は眺める世界となっています。
現代建築では特に実利と経験がすべてです。
建築は説明されるべきではなく、経験されねばならないからです。
ヨーロッパの音楽と建築はギリシャ・ローマさらに中世キリスト教社会において、経験より合理への強い信頼によって支えられていたと考えて良いでしょう。
古代ギリシャから近代の始まりまで、ヨーロッパの人々は天体は音楽で満たされている、という楽しい確固とした観念を持っていました。
ギリシャ人の合理を支えるもの、現実の背後にある確かなるもの、それは秩序つまりコスモス(天体)です。(ギリシャ語のkosmosの意味は秩序)。
人間に知覚されるか否かは重要ではなく、目には見えないが、しかし見いだすことのできる秩序。
ギリシャ人にとって科学は実利的なものではなく、審美的あるいは形而上的営みです。
ギリシャ科学では宇宙の生成は美しく秩序だったものと考えられていました。
そんな宇宙の誕生をヘシオドスは紀元前7世紀の神統記の中で、
宇宙はムネモシュネの娘である9人の「ムーサ=ミューズ」の音楽に満ちたものと見なしています。
麗しい歌声が疲れも知らず
ムーサたちの口から流れ
彼女たちの百合にも似た歌声が
広がりゆくとき
雷 轟かす父神ゼウスの館は笑いにさんざめき
雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館は木霊を返す
(廣川洋一訳)
紀元前6世紀ピタゴラスは、協和音程と数の比例との間密接な関係があることを発見しました。
この発見により彼は世界の美しい秩序の根本にあるのは「数」と考え、その後アリストテレスはその考え方を強調し「数」をすべての存在の構成要素、天体は数であり音楽であると定義づけます。(形而上学/BC335)
一方、アリストテレスより早くプラトンは「国家」(BC380)の中で算術と幾何、つまり数と形に関する学問こそ、現実を理性的に認識するための根拠と言っています。
ヨーロッパにおける合理主義を視覚や経験では捉えられない現実を理性(ロゴス)と思考によって捉えるものとしたのであり、その原理は「数」の「美しき秩序=ハーモニー」そして「天体の音楽」であったのです。
さらに古代ギリシャおいて音楽は現実の響きではなく、世界全体が照らし出される場となるもの、それは官能をくすぐるものではなく、理念に導かれる人工的世界と考えられました。
ここにきて建築と音楽は全く同相なものであることが理解できます。
ともに「数」から生まれた兄弟であり、天上の館に鳴り響く天体の音楽はギリシャ神殿が建築として誕生するまぎわの時代(紀元前7世紀)、すでに確固たるイメージとして地中海世界に広まっておりました。


2012年1月1日日曜日
スニオン岬のポセイドン神殿

ここに海の神を祭る建築、ポセイドン神殿が建つ。
岬の先端に建つこの神殿は神そのもののようにみえる。
沖を行き来する船から岬を眺めると、
海の神ポセイドンがむんずと起きあがるかのようだ。
船上のギリシャの人々にとって、
建築を特に朝日夕陽の斜めの光りで眺めることは、
まさに神の降臨に立ち会うような経験を実感していたに違いない。
この神殿はボクたちに建築の有様を教えてくれる。
小さな写真ではむずかしいが、ポセイドン神殿をじっと眺めていると、
なにか新しい空間が立ち上がってくるように感じられないだろうか。
音楽を聴いたとき、
体の中に日常とは別の新しい空間がわき上がってくるように、
建築を体験することから、全く新たな空間が想像される。
この神殿が建っていないスニオン岬の風景を想像して見ると良い。
そこは世界中のどこにでもある、
美しい岬の一つにすぎない。
しかし、神殿が建つこの岬は、
もはや「人間のための特別な場所」だ。
建築は「人間の空間」を作ろうとする行為。
スニオン岬のポセイドン神殿は
建築の持つ意味と役割をボクたちに教えてくれる。
2011年12月27日火曜日
パルマのテアトロ・ファルネーゼ
十六世紀後半のイタリアにはもう一つの重要な演劇形式が存在した。
中世の馬上武術試合は新しい時代になっても決して無くなったわけではなく、新たに勃興したイタリアの君主にとって、最も有効な政治権力のプロパガンダとして発展している。
騎士による馬上の戦いが確実に君主を勝利者とする演出が尽くされることにより、馬上武術試合は祝祭の中に取り込まれ、政治色濃い演劇形式として発展する。
その形式を最も有効に利用したのもコジモ大公以降のフィレンツェ・メディチ家だが、インテルメディオ同様、その形式を洗練させることに力を注いだのはフェラーラ・エステ家だった。
この宮廷は早くからフランドルの音楽家を重用するなど北の文化情勢には敏感で、
ギリシャ・ラテン的諸要素とアルプスの北の中世の騎士道神話を結合させ、1560年代、アルフォンソニ世のもとで幾つかの「主題付き馬上武術試合」が演じられた。
一流の詩人たちによる筋立てにともない生み出された詩句や対話、そして歌と伴奏、複雑な仕掛けのついた舞台、馬上武術試合もまた後のオペラを予感させる重要な演劇形式であったと言える。
アルフォンソニ世の一連の馬上武術試合で最も有名なものは1565年の「アモルの神殿」。
彼とオーストリアのバルバラとの結婚を祝う祝宴の際、宮殿の中庭で演じられている。
この時の劇場には段席が設けられ、幾段にも重なって観客は見物するが、その中央は半円形で構成され、まるでアリーナ(競技場)のような形態を持った平戸間となっていた。
「アモルの神殿」はもちろん愛の神殿、「名誉」や「美徳」を経て神殿に到達しようとする騎士たちの館。
近づこうとする神殿の近くには六人の年老いた魔女、彼女たちは「高慢」「肉欲」となって「栄光の騎士」を奴隷にし岩に変えてしまう。
「凱旋」の姿で現れた騎士たちの長大な騎馬行列が進む中、囚われの騎士たちはこの行列を魔女から守ろうと放免され戦いに挑む。
魔女たちはつねに勝ち、騎士たちは迷路や森の中に追いやられる。
しかし、最後には「名誉」や「美徳」の騎士たちが優れた力を持って魔女の力に打ち勝つという物語。
「アモルの神殿」は試合の開始とともに舞台上に現れるが、試合中はずっと隠されていて、目にすることが出来ない。
可動式の舞台背景ときらびやかに仮装した騎士たちの行列、やがて再びいっそう壮麗な姿となって神殿が現れ、試合はエステ家を讃えるものとなって終わる。
プロセニアム・アーチはこのような馬上武術試合には不可欠な装置。
自由な場面転換も当然だが、壮麗な神殿を登場させたり隠したり、その為の雲をアーチの両側から押し出したりするのには便利。
しかし、最も重要な役割はドラマの中での凱旋門。
アリーナ(競技場)となる土間部分はアーチ(凱旋門)より登場した凱旋の騎士たちの騎馬行列の舞台となっている。
アルフォンソ二世の中庭にしつらえられた劇場は凱旋門と競技場そして最前面に手すりが付設された段席がU字型で囲む形態で構成されていた。
つまり、後のオペラ劇場に不可決なプロセニアム・アーチとU字型の客席は馬上武術試合の劇場をその範型としていたのだ。
アルフォンソ二世の劇場とパラーディオの劇場を足して二で割ったような劇場がパルマに作られ、現在に残されている。
プロセニアム・アーチを持ち、古代の円形劇場をそのまま引き延ばし、アレーナを取り込んだ形態の劇場、テアトロ・ファルネーゼ。
1617年パルマ公ラヌッチオ一世は広大なピロッタ宮殿の二階ホールに劇場の建設を開始した。設計はすでに七十歳を超えていたジャン・バティスタ・アレオッティ。彼はフェラーラ・エステ家に仕え多くの仕事をし劇場を建てていた建築家。
この劇場はパルマよりフェラーラこそ相応しかったのかもしれない、しかし、17世紀を迎えることなく、もっとも劇場を必要としていたフェラーラ・エステ家は没落してしまった。
テアトロ・ファルネーゼの完成・柿落としは1628年。劇場の建設は思わしくなく、着工から10年後、パルマの依頼者ラヌッチオ一世が逝去した翌年、嫡子オドアルドがメディチ家のマルゲリータとの結婚式の時、ようやっと完成した。
テアトロ・ファルネーゼはパラーディオのテアトロ・オリンピコを下敷きにしたと考えられている。
しかし、アレーナを持ったアレオッティの劇場は古代劇場風ではあるが宮殿の広間(テアトロ・ダ・サラ)を改装したもの、その観点ではブオンタレンティのテアトロ・メディオにも似ている。
つまり、テアトロ・オリンピコ以後、それは丁度オペラの誕生期のことですが、各都市の貴族の祝宴の場となる劇場は様々な形式を模索していたのだ。
3000人も収容できるというテアトロ・ファルネーゼは奥行きが間口の約2倍半もある。
観客席はU字型、舞台と観客席の間にはサッビオネータ劇場と同様の空間があり、その両脇にはファルネ−ゼ家の初期の公爵オッタヴィオとアレッサンドロの騎馬像が載せられたアーチ形状の出入口が付けられていた。
U字型の観客席は後ろに行くほど高くなる傾斜を持っているが平戸間とも2m程の段差があり、最前列には手すりが付いている。
最後部には二層のアーケード、その形態はパラーディオがデザインしたヴィチェンツァのバジリカ(市公会堂)のファサードに酷似している。
舞台周辺には台座の付いた巨大コリント式の列柱が並び、中央のエンタブラチャ(軒蛇腹)の上には二人の幼児がファルネーゼ家の紋章の付いた旗を持って載っている。
この劇場の柿落としは1628年、その祝宴を飾る豪華オペラはモンテヴェルディもその制作に関わったとされている「水星神と火星神」。
フルスケールの馬上武術試合や場内に仕立てたプールを使っての嵐や難破、はては海獣同士の戦いのシーンとその上演は大変衝撃的であったという。
しかし、この時の祝祭の舞台はすこぶる不興。
理由の一つはフィレンツェの生まれのオペラの形式にあった。この時代の劇場は貴族の饗宴の場に他ならない。
そこで歌われ演じられるインテルメディオの持つ祝祭性とスペクタクルは、出来立ての音楽劇(フィレンツェ・オペラ)には追いつくことが出来ない大きな魅力を持っていた。
そしてもう一つはプロセニアム・アーチ付きの舞台にある。
知的なオペラの形式より娯楽的なインテルメディオのほうが祝宴向きであったことは容易に理解できるが、ではプロセニアム・アーチのどこに問題があったのだろうか。
祝宴に参加した諸侯や貴族たち、彼らにとって最大の不満は、プロセニアム・アーチがステージの演技と聴衆との間に障壁を作ってしまうことにあった。
当時の宮廷人にとって、牧歌劇や寓意物語に始まる祝宴の魅力は、ドラマの終幕部において、彼ら自身もまた演技者となりドラマに参加し、踊り歌い、様々な聴衆と無礼講的な交流を繰り広げることが最大の魅力だったのだから。
演技に参加した宮廷人は聴衆と踊った後で、劇のファンタジーの世界に入り込み、劇の登場人物である神や女神、ニンフや森の精と踊り、現実=幻影的世界を楽しむ。
つまり17世紀始めとは言え、テアトロ・ファルネーゼは、オペラ劇場とは異なり、舞台と客席が未分化で全員参加の祝祭空間である必要があったのです。
2011年12月25日日曜日
マントヴァのサッビオネータ劇場
パラーディオの弟子ヴィンチェンツォ・スカモッティはマントヴァの郊外に興味深い劇場を作った。
1580年8月に他界したパラーディオに変わりテアトロ・オリンピコを完成させた彼は1588年、ヴェスパシアーノ・ゴンザーガから新都市サッビオネータに劇場を作ることを依頼される。
この劇場は近年再建され、同じマントヴァを題材とした「リゴレット」の映画版オペラの舞台とし利用されている。https://youtu.be/RybU-no7VEM?list=PL1DAF33ED1F12A1BB
サッビオネータ劇場は舞台上に固定背景を持ち、客席の外周に円形のコロネードを配し、全体はテアトロ・オリンピコに良く似ている。しかし、舞台の間口が狭く中央に広間を持ち、奥行きが深い平面構成を持つこの劇場は、インテルメディオ等の上演に向くテアトロ・ダ・サラ型の劇場の一つと言える。
パラーディオは舞台の間口を広く取ることで、古代の円形劇場と同様の、均質な観客席からの視線の確保につとめているが、スカモッティは広間または観客席の中央という特別な場所からの視線のみを重視している。このU字形の観客席は意味深いものがある。後世の観客席はすべてこの形態、スカモッテイはテアトロ・オリンピコを踏襲しながら古代劇場の持つ世界劇場としての建築的意味を解体したことになる。
パラーディオのテアトロ・オリンピコとの違いは舞台上の固定背景の作り方にもある。サービオネーターは大きなア−チの奥に透視画法の立体模型による宮殿や豪邸が建ち並んでいてパラーディオと同じ都史風景だが、ここでは古代ローマの劇場のようなの三つの出入口ではなく、たった一つのアーチ、その形状はテアトロ・ファルネージャのプロセニアム・アーチに近い。
しかし、ここでは演技者はアーチの内側で演技することは出来ない。このアーチはパラーディオ同様 、透視画法による視線の強調に過ぎない。
スカモッティはなんとも奇妙な劇場を作ったと言える。アーチの中の幻想世界で演技するためには、折角の立体模型を全て取り壊さなければならない。パラーディオを真似た立体都市、しかし、スカモッティは劇場全体で都市あるいは世界をイメージさせようとしたのではなく、単なる視線の強調の為のアーチを作ったに過ぎない。さらにまた、このアーチは後世のプロセニアム・アーチのように、舞台上の幻想世界を演出する装置にもなっていないのだ。
プロセニアム・アーチの役割は客席という現実世界と舞台上の幻想世界とを明確に分離することにある。インテルメディオの上演には度々このアーチが重要な手がかりとされて、後のテアトロ・メディオのブオンタレンティにとっては欠くことのできないもので、<美徳>や<悪徳>が出たり入ったりする自由な場面転換のための装置となっていた。
2011年12月22日木曜日
祝祭から社交、16世紀のテアトロ・ダ・サラ
人文主義者を中心とした古代の劇や劇場の再興の試みはルネサンスという時代が必要とした新しい生き方、ライフスタイルを探しだすための知的活動の一環と意味づけられる。
その活動の成果が先に触れた、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコであり、やがて、オペラ・オルフェオの誕生へと繋がってく。
しかし、貴族の宴会の催し物が切っ掛けのオペラの誕生にとって、その上演の場は当初から独立した劇場というわけではなく、貴族館の広間であったということは当然のこと。ルネサンス劇の上演は宴会を飾るものでり、その為に必要なのは、演じられる場、舞台であって、劇場という建築ではなかった。
祝宴における楽しみはラテン喜劇そのものより、劇と劇の間の幕間劇、あるいはインテルメディオ。上演が終われば祝宴の参加者たち、劇で歌うサチュロスや美しいニンフ、女神と共にダンスを楽しんだ。そのための舞台構成はヴィトルヴィウスの円形劇場ではなく、テアトロ・メディオが示す広間型の劇場(テアトロ・ダ・サラ)であった。
劇場空間としての広間、つまりテアトロ・ダ・サラがどのような形態を持っていたか。ウフィッツ宮殿のテアトロ・メディオがその典型と言える。この劇場はジョルジョ・ヴァザーリによって建設されたばかりの新宮殿の広間の一つを、1585年、彼の弟子である建築家ブオンタレンティが改装した。
その形式はかってのメディチ宮殿であったヴェッキオ宮殿の「十六世紀の間」の考え方を踏襲したものと考えられる。
広間の中央が演技の場、広間の三方には階段上の客席を設けられ、残りの矩形平面の一端が舞台、そこは役者の出入口であり演劇の効果を高める背景が透視画法で描かれていた。ブオンタレンティの仕事は建築あるいは劇場を作るというより、この舞台背景のみを作ることにあったようだ。
「ある劇の開幕の場面では、巨大な都市が見え、その上を覆っていた雲が<美徳>の一行を乗せて降りて来る。やがて雲は流れさって<悪徳>と入れ替わり、次に冥府が<炎と煙に包まれて>出現する。」(劇場p65)
つまり真実味を帯びた幻想的場面をいかに生み出すかが彼の仕事であり、パラーディオのように劇場の空間構成そのものに関心を示すということはほとんどなかった。
テアトロ・ダ・サラの形式を持ち、独立した建築物として有名なのは1598年のジュルジョ・ヴァザーリの甥にあたる建築家ヴァザーリ二世の設計のもの。パラーディオのテアトロ・オリンピコの評判はすでに伝わっていた頃のこと、ヴァザーリ二世はメディチ家の依頼により理想都市の一部となるような劇場を設計した。
深い壁龕を持った外周壁で覆われ、出入口には階段を持ち、その反対側には奥行きの浅い舞台、中央の広間もまた三面を奥行きのない階段状の観客席で囲まれている。(図版劇場p66)
大事なことは、壁龕を持った外周壁で示されるように、ヴァザーリはこの劇場を独立した記念的建築物と捉えていること。さらに、重要なことは、劇場の出入口は、演技する場、舞台とは全く切り放され、その反対側に設置された階段を通して客席に着くということにある。
このことにより、全員参加の祝祭としての劇場という概念は、全く意味を失ってしまった。ギリシャ以来劇場では、演技者と観客の違いはあっても、その入口は全て同一、ともに演技が始まる前に舞台上にしつらえられた出入口より劇場に入る、というのが常識。劇場は祝祭空間であり、全員参加の場であったから。しかし、この劇場で初めて、伝統的意味は消え、観客と演技者は明確に分離され、別々の入り口から劇場世界に入場することになった。

