2010年3月17日水曜日

竹の建築誌−2/壁と垣根そして桂離宮/©


屋根の中に仕込まれていた竹の「篭構造」は壁の中にも隠されている。
ジュムサイ氏の言う「六ツ目」ではなく「四ツ目」ではあるが、「篭構造」というアジアウォターフロントの共通の産物は壁の中では、土と協力し強靭な耐力と防火性能、除湿効果を合わせ持つ、日本の気候風土にもっとも適合した複合材を産み出した。まさに南の「竹」と北の「土」の協力事業。
しかし面白いことに、お隣りの中国や韓国では「土壁」の下地に竹を用いる習慣がまったくない。
その影響だろうか、我が国でも法隆寺の時代から寺院建築では、桧という「木」の小舞が使われていて、竹が使われるようになるのは室町時代、全面的に使われるのは、なんと桃山時代に入ってからだなのだそうです。
では、それ以前の平安時代、京の町屋(庶民の家)や近郊の農家の土壁は、その下地は竹ではなく、木であったのか、当然「竹」であったと考えるべきでしょう。



日本の建築を造る集団には二つの流れがあった。
一つは格式的建築とでも言える、社寺や宮殿、貴族の邸宅建築の流れです。
ここでの建築は大棟梁のもと様々な職方が一体化し、専門家による組織的建築作業により造られていた、まさに、現在の大建築会社による施工組織と同等です。
そして、ここには当然、中国や韓国の新たな技術やノウハウが逐次移入されたでありましょう。
もう一つの流れは非格式的建築、いわゆる庶民の町屋や民家であり、若干の職人たちか、農民という非専門家たちが、祖先から継承した様々な技術を駆使しながら、協同作業によって建築を造っていた。

建築美の表現においても、前者は崇高さや荘重さを、後者は合理的で気持ちが良いを第一としたのであり、つくり手たちの各々は、別々の価値観と別々の美の世界を追い求めてきたと言えるようです。
一つの国に二つの建築の世界が互いに合い関知もせず別々に進行していたのであり、「竹」は前者の格式的建築では全く使われることはなかった。まるで無視といおうか、忌み嫌うかのように。
しかし、庶民の建築では全く逆、中世の京の街はまさに「竹の風物誌」と言ってよい。
従って「土壁」の発見はむしろ庶民であって、寺院建築の渡来とは異なる、庶民による「竹」と「土」の融合の技術によって、日本独特の「壁」が産み出されたと考えられる。(参考:左官は日本在来のもので、渡来技術に起源を持つものではない。鈴木忠五郎/建築ものはじめ考、新建築社)
そして平安時代の京のまちやや民家では当然、小舞竹と土による協同の産物が彼らの生活空間を形作っていたのです。

やがて近世を迎え、庶民の持つ田楽・猿楽や茶が「能」「茶道」として「格式化」「都市化」されたように、庶民の「竹」は、数奇屋造りの中に「建築化」されていった。
「建築化」されると言うことは「裏方」ばかりの利用であった竹は、社寺や城郭、貴族の邸宅という「表向き」の世界にも登場し、さらに「桂離宮」に見られるように床、壁、天井、窓、とあらゆる所に技術的洗練と美的配慮を尽くされ、利用されるようになったということです。
桂離宮が造られる桃山時代、農業技術の発達にともなう生産力の増加は庶民の経済力の向上を導いた。
加えて社寺、城郭の大規模な造営が各地で頻繁におこなわれ、建築ブームにのって、たくさんの職人たちが必要とされ生まれている。
今まで、町屋しか造らなかった職人が、社寺、城郭を造り、そしてまた戻り、町屋や民家を造るというように、二つの建築の世界は交流が激しくなり、庶民の持つ様々な技術も、数奇屋造りや桂離宮という新しい美の世界の担い手となっていったのです。

その大きな担い手が「竹」であり、「竹の技術」です。
まさに「竹」による下剋上と呼べるものです。
しかし、その「建築化」により表舞台に立った竹は、何故かパワーを失ってしまいる。
中世の京の町並みを彩り、竹による様々な意匠を凝らした町屋の数々は、「能」や「茶道」が過去の形式として私たちの日常生活から見離されたように、「竹」はその後どんどんと、私たちの生活環境から遠退いていった。

「竹」の衰退はこの100年ではなく、300年と言えるようだ。
300年という時代のスパンは、「美意識や生き方や価値観」という身近な観点ばかりでなく、「地球規模の社会、その社会構造全体」を見直す必要がある、と言うことを指し示しているのではないだろうか。



垣根
現在、私たちの日常環境で竹が圧倒的に利用されているのは、「垣根」です。
そのデザインの種類は、なんと150を超えるといわれている。
大都会ではともかく中小都市では今でも、まだ「竹垣」が健在であることは興味深い。
自動車に襲われれば簡単に壊れてしまう「軽便」な竹垣が、なぜまだ多用されているのだろうか。
そこには「竹としめ縄」による「ひもろぎ」や正月飾りの門松に示される、竹のもつ神聖さ、「地震が来たら竹薮に逃げよ」と子供のときに聞かされた、「竹林」のもつ安全さが、その物理的役割を超えて私たちの(精神)生活に深く記憶されているように思えてならない。



竹垣の発達も竹の「建築化」の時代同様、桃山時代です。
茶の湯の成立、茶庭の路地による庭園様式の出現と、里における竹林の一般化が竹垣の普及を促している。
工作しやすく良質な竹が手短な周辺から沢山産され、優れたデザインが茶の湯の文化の普及と共に一般化したが、ここでもまた「都市化」「建築化」に呼応する、自然の「庭園化」に深く関与したのが「竹」だった。
しかし、竹の「建築化」が何故か竹の衰退を導いているように、自然の「庭園化」は、その後の私たちの生活を大きく変えていったのではないだろうか。
私には、私たちの日常生活と自然とは一体的(共生)である、という本来の姿を見失わせる原因が、ここにあるように思えてならない。



桂離宮
月の名所、桂離宮は淀川への注ぎ口に位置する水難の地、そしてまた、古くからの竹の植生の地でもあった。
舟運、魚取り、舟遊び、瓜見、花見、月見等には絶好の地とは言え、一度大雨が続けばまたたく間に、あらゆるものが水流に巻き込まれる、このような場所にあえて建築を決意をさせたのは、当時の水害防備技術に対し、かなりの信頼が寄せられていたことがわかる。
果たせるかな桂離宮はいくたびかの洪水をのりこえ、今日を生きている。
桂離宮を守る水防技術の一端は「竹」にあったのです。

堤沿いの「桂垣」、御門の両脇の「穗垣」、共に訪れる人を心なごませる美しさだが、この「竹垣」が洪水の時、襲い来る水の速度を和らげ、土石の侵入を防ぎ、桂離宮を今に伝える重要な役割を果たしていた。
「桂垣」はその姿から笹垣と思われているが、実は耐水性のよい「淡竹」を生えたままに折曲げて編み付けられている。
垣根沿いには、ほぼ10メートル間隔に欅が植えられ、垣根の裏側は折曲げられた「淡竹」と共に、「真竹」が蜜植されていて、竹林と欅による協働で、襲いかかる水流を和らげ、石礫を濾過し、土砂の流失を防いでいたのです。

御門脇の「穂垣」は数十センチメートル間隔の太い半割りの竹を支柱に、竹の細い穂先が横に厚く束ねられている。
この「垣根」は明治になって「桂垣」にかわって設けられたものだそうで、水防備の機能の程度は明確ではない。
しかし、土塀や板塀では不可能であろう役割を果たすことは桂垣のまったく事実と言ってよい。
(桂垣、穂垣の説明では大熊孝著「洪水と治水の河川史」を参考とした)

桂離宮は17世紀中庸、約50年間に渡って段階的に造営されている。
その頃は、公家や僧侶が中心の王朝風文化と、武家や商人による能や茶の湯の文化が重なり合った時代。
建築様式も「書院」と「数寄屋」が交じり合い、戦争に明け暮れた時代を乗り越え、新しい文化を創りつつあった。
その桂離宮には「竹垣」ばかりでなく、屋根、天井、壁、窓、床と「竹」の持つ機能性、精神性、造形性、簡素な美しさが、巧みに折り込まれている。
とくに月波楼の天井や賞花亭の大窓、竹の雨どいには工芸化された竹には表現できない、自然性、直裁性、時間性を見つけることができ、「竹」に視点を置いて「桂」を見ると清楚、明澄、単純、簡浄、透明、永遠とは異なる、ハイブリッドでしたたかな、たくましい、庶民性を持った桂離宮が発見できるように思える。

竹は耐久性は短い、虫がつくと始末が悪い。
しかしそのような竹を、時には生きたまま、あるいは周到に伐期を読みながら、身の回りから手軽に調達し、壊れたら直し、絶えず修理し、メンテナンスすることで形を整え、継承していく。
これが桂離宮であり、西洋の永遠性や記念性とは異なる、日本あるいはアジア・ウォーターフロント共通の「時の継承」の技術、自然と対話した環境技術と言って良い。
ここに見いだされる「時の流れに対応する技術」、この技術を私たちは現在、「竹」と共に「桂離宮」に置き忘れてしまったかのようにおもえてならない。
今、「竹」も「建築」もあまりにも矮小化されてしまっている。
共に、再び「自然」の真只中にドーンと据え付けてみる必要がある。
そうすれば、開かれた自然との新たな関わりの中から、新しい、大らかな「竹」と「建築」を再び発見できるに違いありません。