2010年3月16日火曜日

竹の建築誌−1/屋根と床/©

この100年、私たちのライフスタイルは著しく変化した。
特に最近の30年は、一気に都市化から情報化社会へ。
かっての都市と田園の境界は消え、身近な生活環境は全て都市化され、フラットで商品化されたコモディティな空間へと、その様相をすっかり変えてしまった。



このドラスティックな生活環境の変化の中で、工芸品としてはともかく、建築材としての「竹」は、全くと言っていいほど姿を消している。
いや、「竹」がかって建築材として使われていたことすら忘れ去られているのです。
事実、私の仲間内でも、日常的な計画物件に「竹」を採用する人はほとんどいない。
昔は、民家や町屋という庶民の建築では、「竹」は驚くほど様々なところで、自由闊達に沢山使われていた。
川島宙次氏の「滅びゆく民家」を見ると、「竹」が床、壁、天井、屋根、それも仕上げ材であったり、下地材であったり、様々に形を変えて使われていて、とても、身近で有効な建築素材であったことがよくわかる。
さらに遡れば、中世の「洛中洛外屏風絵」には、板じき石置き屋根の竹の井桁組、竹の連子窓、竹の腰壁、竹の簾、街角には竹売りと、屏風絵の世界はまさに竹の風物誌となっている。

今回は、たまたま業務上の必要から「竹」を探す旅を試みた。
「竹」という素材が「建築」を通して語る、その内側の「世界」を読みとる必要が生じたからです。
調べてみて解ったことをそのまま書いてみたいが、その世界は「竹の素材論」でもなければ「建築史」でもない、「竹の建築誌」です。

屋根
日本の民家が造る「景観」は屋根の景観と言って良い。
民家のひとつひとつは、全て屋根のかたちによって「家」が造られている。
そして、その大きな傘のような屋根の下の幾つかの床が、ボクたちの生活空間と言って良いのではないか。
どこの地方の民家も、様々な屋根と床とのバランスに苦心した結果です。
多くの人たちは知力と技量を尽くし、のどかな田園に、瀬が走る川添いに、あるいは、山深い谷あいに沢山の民家をつくり、幾千の「日本の風景」を造くっていく。
しかし、その風景の主役となる「草屋根」の構造は、驚くほど共通した作られ方をしていた。

屋根構造の歴史的変遷を見ると、1000年も前の登呂の遺跡から、そのほとんどは大きな変化はない。
弥生時代に出来上がった「屋根の構成マニュアル」は後の世、どの時代にあっても、ほとんど変わることなく生き続けてきた。
そのマニュアルの鍵となっているのが「竹」でした。
竹は厚みのある「草屋根」の中で、径を変え、長さを変え、形状を変え、場所を変え、さらに「たるき竹」「屋中竹」「小舞竹」「鉾竹」「えつり竹」「簀竹」「棟竹」と様々に名前を変え、様々の役割を果たしてたのです。
マニュアル化された草屋根ですが、その形状は地域の持つ気候風土、時代の変化に対応する豊かなバリエーションを産み出してきた。
そのマニュアルが示す竹の持つ「秘密」、それは「竹篭の原理(篭構造)」にあるのです。

一本一本は細くて弱いが、重ね合わせた接点(篭目)の一つ一つをしっかりと結わえ、総体として支え合いバランスを取りながら、様々な寸法、形状に合わせた豊かなバリエーションを産み出し、しっかりとした強度を生み出していく。
これがマニュアル、日本の屋根の構造です。
まさに、楠正成の故事のような「秘密」が「竹」を媒体として「日本の風景」を造りだしていったと言って過言ではない。

さらに、竹は「いつでも、どこでも」調達でき、専門的、あるいは特種技術を要することなく、誰でも自由に使用することが出来た素材です。
省資源・リサイクルを指向する最先端「材料学」の現在の課題は「壊したい時、壊れ、壊したい場所が壊れ、難しい道具と技術を利用することなく、大人でも子供でも扱える材料」の開発にあると、参加した研究会で発表されていたことがある。
つまり、「TAKE」という新しい「素材」の開発が、今の「材料学」の課題となっている。
したがって、「竹篭の原理」の新たな応用こそが、新素材を使っての新たな現代建築テーマとなっている、と言っても過言ではない。





大きな屋根の下の「床」、日本の最初の床は「土間床」です。
地面より50センチほど掘り下げて生活空間としたもので、その建築を竪穴式住居と呼んでいる。
一方、弥生時代、稲作という新しい文化をもった人々の集落であった登呂では、その収穫物の倉として「高床」の建物が建設された。
高床の建物は古墳時代の家屋文鏡や銅鐸のデザインにも登場し、新技術を取り入れた、時の権力者たちの「象徴」となっていた建築であると考えて良い。
しかし、ここで重要なこと、日本の住まいの源流は、「竪穴式住居」と「高床式住居」、床位置の異なる二つのの流れがあったということを忘れてはならない。
その一つ、様々な「高床式住居」を持つのは東南アジア地域、そこは「竹建築」の世界と言って良いとおもう。
特にタイ北部山村のアカ族、ヤオ族の集落では、伊勢神宮と見間違えるようなの「竹の家々」で生活が営まれていた。

タイの建築家スメート・ジュムサイ氏は、その著書「水の神ナーガ」で、高床式住居は稲作、六ツ目編み、と共にアジアウォーターフロント地域の文化的共通項だと指摘されている。
「高床式住居」と「稲作」のセットは、日本でも一般的だが、「竹の網目」の三角形格子、六ツ目編みを含んだ3つをセットの共通項とし、アジアの建築・都市を探求した「水の神ナーガ」は大変ユニークで興味深い「本」です。
特に「竹」ではなく、竹の網目「篭目」にこだわったところがジュムサイ氏の大事な点。
何故ならば、日本の屋根の「篭構造」もまた、アジアの「水の文化」の産物であったと納得させてくれるからです。

東南アジアは竹の「住居」や「生活用品」の中心地です。
従って、その高床式住居の「床」の簀の子が竹で造られ、「六ツ目編み」の竹蓆が敷かれているのは当然のこと。
しかし、日本家屋の「床」がこの高床と同一であり、同じものの発展と決めてしまうのはちょっと早計です。
「床の文化」を持つ日本、ちょっと専門的説明ですが以下を読み取って下さい。

日本の床は、東南アジアの高床とは異なる、もう一つの「秘密」を持っていた考えられる。
東南アジアでの高床の構造は人間の背長けほどある高さの位置で柱の間に床梁を架け渡す。
それは高倉(伊勢神宮)の形式。
2階部分を作る一般的な方法と言って良い。
一方、注意して見る必要があるが、日本家屋の「床」は住居の主体構造とは切り離されたもの、ということが重要。
つまり、日本の「床」は、屋根を支える「柱」とは無関係な台のようなモノであることを忘れてはいけない。
柱と柱の間に、何本かの束(床だけを支える短い柱)を地表に建て、大引きで足固めし、床を貼る。
これが「日本の床」、高床とは異なる「束床」です。
東南アジアの「高床」とは全く異なるの構造と言えるようです。

東南アジアとは異なる「日本の床」は「土間」とは異なる「第二の床」として、古墳時代の竪穴式住居では、もうすでに採用されていた。
「土間」と共存するが、僅かな高さの違いで、主体構造とは別のテンポラリーの「第二の床」の発見。
この発見は平安時代には、その「床」の上に「畳」を敷くという、「第三の床」の発見を導いた。
「土間」「床」「畳」、この「三つの床」の発見が日本独特の「床の文化」「間の文化」を育んだでいったと考えられる。

「三つの床」の構成は住居空間の機能分化と深く関わり、接客空間の発展を促し、秩序あるコミュニケーションと社会的統合の「場」を提供した。
やがて、「三つの床」は「仕つらえ」「身振り」「仕草」という、きめ細かな日本の文化を展開する格好の「舞台」、「道具としての床」ではなく、「文化としての床」を提供することとなった。

「建物」とは異なる「床」の発見は、その後、日本の文化を展開する上で最も重要な基盤となる。
さらに、この日本の「床」の秘密はアジアの「水の文化」に通底する大事な視点をも提供している。
日本の建築の特徴は、「大屋根全体を支える構造」と、「生活を支える構造」とが分化しているところにあるのです。

今度は「床」ではなく「床」と「屋根」を支える「構造」に着目したい。
高床構造の柱は「屋根」と「床」を支えるが、「日本の床」は屋根を支える柱とは無関係、つまり、一つの建築が「二つの構造」を持っているところが重要です。
「二つの構造」を持つ日本の建築の意味は、別々の時系列に対応した、別々の建築が一つの建築的世界を作っているということを意味している。
つまり、「第一の建築」は地形や自然現象と一体となり100年、200年を越す時間を生きなければならないが、「第二の建築」はその時代のライフスタイルに合わせて、20年も持てばよい。
これが日本の住宅の「時の流れ」に対応したしたたかな方法だったと言ってよい。

西洋化した日本人は「新陳代謝」が日本の「建築の方法論」として極めて重要と、度々とりあげている。しかし、それが単なる「代替え」を意味するとしたら、それは大きな間違え。
「二つの構造」、「竹の床」と「束の床」の持つ本来の意味が読み取れていないとするならば、「水の文化」あるいは「時間の流れ」に対応した日本建築は全く理解されていない。
つまり、それは「作っては壊す」だけの浅薄な歴史認識にほかならず、したたかな、本来の日本建築の方法が読み取られていないことに他ならない。