野や原に吹く風は植物の種子や花粉、小動物の乗り物となって様々な生き物たちのドラマを演出する。
天にある風は雲を動かし、地にある風は大地をほり、水のある風は波を作り船を動かす。
目に見えぬ風は、古来よりどこの国でも神の御手と考えられ、恐れ、親しまれ、愛されていた。
その風は大地の精霊たちと手を結んだ「建築」と、どのような物語を作り出してきたのか、その物語を訪ねて、風まかせの旅に出よう。
風の物語
ヨ−ロッパの田舎町。
どこを訪れても必ず目につくのが、教会の塔と市庁舎の時計塔です。
その「トンガリ帽子」のてっぺんには「風見鶏」が載っています。
この屋根の上の飾り物の歴史はかなり古い。
日本の東大寺の大屋根に金色の鴟尾が載り、仏教による新しい国づくりが始まったのは8世紀ですが、この風見鶏は9世紀、時のロ−マ教皇ニコラウス一世は緩みがちなキリスト教精神の復活をめざし、キリストとペテロの最後の晩餐の故事にちなみ、聖ペテロの苦しみを忘れないようにと、修道院や教会に「鷄」を設置するようにと宣令を下したのが始まりです。
そのペテロの鶏はやがて風見の役割を担い、風見は、船、畑、病、馬、鯨、・・・・と様々なバリエ−ションを持つこととなったのです。
多くのヨーロッパの街の建設の時代はキリスト教が社会を支配した中世です。
「風見鶏」が彩る景観はヨ−ロッパの町並みの大事なモチ−フとなり、現在までの長い間、そこに住まう人々はもちろん、訪れる私達をも楽しませてくれます。
誰もが持つ腕時計なんてない時代、時計はとても貴重です。
町の周囲どこからでも良く見える教会や市庁舎の高い部分の時計塔は、多くの人々に時を知らせる重要な役割を担っていましたが、当時の人々が時刻だけでなく、風の方向を知ることにも、とても熱心であったことについては、現在の私たちは意外に気がつきません。
アテネにあるロ−マの広場に「風の塔」と呼ばれる大理石の八角形の建物が建っています。
水時計と風見が組み合わされた、紀元前1世紀の建築です。
塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向がわかるようになっていました。
つまりロ−マ時代の風見鶏は海神トリトンであったのです。
ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせ、その風を擬人化したギリシャ神話の風の神々が飾られています。
北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンと浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に方向づけられて建築されています。
花の女神フロ−ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をします、その恋に嫉妬したフロ−ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、風の恐ろしさ、優し さ、豊穰さ、気まぐれさ、に満ちあふれています。
そのような神々に囲まれた 「風の塔」はアテネの人々の風に対する深い関心と、その都市における生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示しているのです。
さらにまた、「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかった彼らにとって、風の神々の物語がデザインされた「風の塔」は「一冊の書物」であり大事な「愛読書」となっていたのです。
「愛読書」であったこの建築の本当の役割は「風向計」「風見」であったことは「海神トリトンの杖」が示しています。
ギリシャそして日本でも、古来より風の方向を知ることは、季節を知ることであり、それは「時」を知ること以上にとても大切なことでありました。
やがてくる季節の前触れとなって風向きが変わる、その風を一早く知ることによって人々は、農作業、漁撈作業の開始のきっかけを知り、航海の方向や日程の決定を行なったのです。
つまり人々は目に見えない 「風を見る」ことで、生きていく上での不可欠な「糧」と「リズム」を生みだしてきたのです。
したがって「風の塔」はロ−マ時代のライフスタイルのメトロノ−ムであったといえるようです。
日本に比べ、季節ごとの風の方向が比較的一定であったヨ−ロッパでは、「風の塔」や「風見鶏」の果たした役割は、私たちの予想を超えてはるかに大きいと言えます。
石の塊であるヨ−ロッパの町にとって、湿った夏の熱気と、いてつく冬に吹きすさぶ風をいかにコントロ−ルし、和ませるかは最大の関心事であり死活問題であったのです。
つまり「風見鶏」はヨ−ロッパのどこの町でも、のどかな屋根飾りというより、町づくり、都市計画のための大事な指針ともなっていました。
アテネの「風の塔」がつくられた時代、ロ−マ皇帝アウグスティヌスに使えた建築家ヴィトルヴィウスは、その業績を「全十書の建築術」としてまとめていますが、その書の中に「風の計画」に失敗した都市の例として、レジボス島の都市ミュティレ−ネの話が登場します。
「ミュティレ−ネは壮大華麗な建物で出来てはいますが、位置が予め考慮されていません。この都市では、南風の吹くころには健康を取り戻すが、寒さが厳しいので大路小路には立ち止ることが出来ない。」(ヴィトルヴィウス建築書/森田慶一訳註)
「建築十書」は建築のための技術だけでなく、土木や機械さらに日時計や兵器をつくる話などが網羅されていて、当時の高度で広範、壮大な技術全書であり、現存する世界最古の建築書でありました。
「風の塔」の話も第一書第六章に登場します。
第四章では都市づくりの第一原則は「最も健康的な場所の選択」であると書き、第五章で場所選択の後の都市の塔と城壁の配置と構築の話がつづきます。
そして第六章、「城壁」が巡らされた後の「大路小路の計画」の話となるのです。
ミュティレ−ネの失敗例はここに登場いたします。
大路小路の計画では風向きとその調整の話に終止するのですが、簡単に言えば、まず第一に日時計とコンパスで正確な方位を決定し、アテネのような八角形の「風の塔」を設置しなさい、そして道をつくるときは、その八角形の面ではなく角の方向に合わせなさい、と言うものです。
つまり街路の方向は風の方向と一致させてはいけない、そうすれば北風は挫かれ、押し返され、散らされるであろうということなのです。
ロ−マ時代の都市計画はほとんど「風の計画」であったと言って過言ではないと思いますが、都市計画イコ−ル「風の計画」は紀元前3000年シュメ−ル人の都市に於ても同様であったようです。
というのは、いくつかの都市遺跡の図面を見ますと、不正形に囲まれた城壁の中で、宮殿と砦の位置は決まって全体の北西部分に置かれています。
メソポタミア平原は北東と南西に高い山を持ち、冬の寒さはそこそこと言うことですが、夏の暑さは相当であったようです。
その平原のなかのレンガ壁で囲われた細長いウナギの寝床のような居室部分は決して快適なものではなかったでありましょう。
そのような居住環境にとって最も必要なもの。
それは心地良い北西の風であったに違いありません。