フィレンツェで生まれたばかりの「登場人物が歌いつつ演技する」という形式は、宴会に明け暮れたパルマやマントヴァという宮廷でこそ意味を持っていた。それはオペラは宮廷が生き残るための戦略装置でもあったからです。
しかし、君主を必要としない誇り高いヴェネツィア貴族にとっては「宴会のためのオペラ」は必要とされない。当然ながら、ヴェネツィアでのオペラは、フィレンツェやその他の宮廷でのオペラとはその性格を大きく換えなければならなかった。
オペラが宮廷の中の数ある余興の一つとしての役割しか持たなかったのなら、やがては消えてしまったかもしれない新しい音楽の形式が、決定的に変化するのは1630年代後半のこと。オペラはここヴェネツィアにおいて初めてビジネスとしての道を歩み始めることになるからです。
オペラの新しい道はヴェネツィアの公共商業劇場の開設によって始まる。
ヴェネツィアの貴族にとって、君主の館で演じられるようなオペラは必要なかったが、新しい音楽形式であるオペラそのものに対する関心は決して低いものではない。なぜなら、ヴェネツィアという都市そのものがすでにオペラ劇場であったからです。
カナル・グランデを行き来する大小の船やゴンドラは間違いなくオペラ劇場でアリアを歌う歌姫たちの舞台であり、その水の流れに軒を連ねるパラッツォのロジアの一つ一つは間違いなく後の時代の桟敷席そのものです。
(Vivaldi - Gloria - 1 - Gloria in excelsis Deo - King's College Choir from margotlorena
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1637年、ヴェネツィア貴族の一人、トローン家と計算高い市民は共同して既存のテアトロ・サン・カッシアーノを改造し、オペラ劇場として再建した。
その最初の出し物はオペラ「アンドロメダ」。
海の神ポセイドンの怒りを鎮めるため、岩に鎖で繋がれ、海の怪物のなすがままになっていたアンドロメダをペルセウスが助け出すというギリシャ神話が題材です。
ローマの作曲家フランチェスコ・マネッリの作曲。
音楽の内容についての記録は少ないが、機械仕掛けの舞台装置による一大スペクタクルは大きな評判となっている。
この作品は舞台描写の入った台本が宣伝用に印刷され、数年続けて上演された。
ヴェネツィアはまた印刷事業も巧みな都市。
公演は新しいメディアに乗ってヨーロッパ中に広まって行く。
さらに、この数年はヴェネツィアのオペラ劇場の建設期。
オペラ公演は画期的な新事業となり、1642年には四つの劇場が建設され7つの異なったオペラが上演されるという盛況ぶりです。
初期のヴェネツィア・オペラを支えたのはサン・マルコ寺院の歌手たち。
後には、逆にオペラ公演のためヴェネツィアを訪れた歌手たちががサン・マルコで歌うこともあったようだが、どちらにしろ、寺院とオペラの協力関係は深く緊密、ヴェネツィア・オペラはサン・マルコ寺院に支えられていたと考えても良いようだ。
モンテヴェルディもそうだが、後々の重要なオペラの作曲家たちも皆、サン・マルコ寺院聖歌隊に所属していた。
ヴェネツィアの貴族は他の都市では宮廷内での娯楽であったものを、入場料を支払って見物する大衆のためのオペラにと変貌させたことにより、グランドツアーでヴェネツィアを訪れた観客は、大喝采で新しいオペラを受け入れた。
ビジネスとしてのオペラにとって重要なことは、ギリシャ神話などに関心のない庶民でも楽しめるものでなければならない。
庶民のそしてヨーロッパ中からやって来る観光客の関心は、君主好みの神話より、歴史を生きた生の人間の物語と機械仕掛けの一大スペクタクルだった。
モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」と「ポッペアーの戴冠」はそんなビジネスとしての要求から生まれている。
これらのオペラはオルフェオとは異なり、エピソードが錯綜し、官能的場面も数多く登場する。
ウリッセでは船の難破場面がよりリアルにスペクタクルに展開され、多くの観客を沸かせてくれる。
ヴェネツィア・オペラはスケールが大きく単純で、激しい情念、そしてポッペアーに示されるような、個々人の持つ心の動きに反応する音楽による多様な情感表現が必要だった。
この時代はまだモーツァルトのように、ドラマに絡まる一連の人々を細かく書き分けることはないにしろ、モンテヴェルディは多感な人間感情をアリオーソを用い巧みに表現した。
1640年、ウリッセの初演の劇場は、後のオペラ劇場の原点、グリマーニ家がカルロ・フォンターナに作らせたテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロです。
ホメロスが書く叙事詩「オデュッセウス」を題材としたこの物語。
人間の儚さや、時の流れ、人間の運命、そして愛、オペラはますます現代のものに近づいて行く。
全体は旋律的であり、有節形式のアリアも続く、登場人物各々の性格も音楽によって確実に書き分けられているのがこのオペラです。
1651年にはナポリでも上演され大評判となったのは「ポッペーアの載冠」。
このオペラもまたはテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロが初演だが、1642年から3年の間の謝肉祭シーズン、いつも大人気となって上演されたと記録されている。
その光景はヒットを続ける現代のミュージカルと全く同じ状況であったようだ。
それは世界中の人が押し寄せる350年前のブロードウェーの姿なのです。
ポッペアーの題材は古代の歴史家タキトゥスの年代記。
フランチェスコ・ブゼネルロのリブレットはローマ皇帝ネロが自分の部将であるオットーネから彼の妻ポッペーアを奪い、正妻オッタヴィアの代わりに王女に据えるという物語です。
このオペラに表現されているもの、それは、哲学者セネカの厳粛な戒めと怒り、部将オットネーの悲痛だが気高い諦め、オッターヴィアの行き所のない嘆きと悲しみ。
ネロとポッペアーの情熱的かつ肉体的な二重唱は特に有名です。
晩年のモンテヴェルディは、ますます個々人が持つ人間的な性格と感情を全て音楽的に表現することに成功していく。
そこに果たされたものはドラマと音楽のバランスの取れた統一にあるといえる。
この統一はやがて、音楽的な面だけを強調するオペラの流れの中では失われて行くが、エウリディーチェから始まり、わずか40年。ローマの「アレッシオ聖人伝」に引き続き、人間的な性格と感情を巧みに表現する近代オペラの原理が、ここヴェネツィアで生み出されていった。
ヴェネツィアのモンテヴェルディのオペラを引き継いだのは彼の弟子、サン・マルコの第二オルガニスト・カヴァルリル。
カヴァリルのオペラはますますスペクタクル的要素が強くなる。
そして、ヴェネツィア・オペラは商業色を強め、「音楽の神」オルフェオによる文明生活の教化というその理想は「豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組」へと転化していく。
そして、ヴェネツィアで確立されたのこの音楽劇の原理は、その後グランドツァーによってアルプスの北へ持ち込まれ、オペラのヴェネツィア様式はヨーロッパ中に広まって行った。