(パラーディオとモンテヴェルディ)
ヴェネツィアの経験で多くの人が語る思い出はサン・マルコから見た夕景にある。グランド・カナルを赤く染め、対岸に建つ美しい教会のシルエットとともに消えて行く一日、それはイタリアの旅の忘れえぬ光景の一つ。ヴェネツィアの印象、サン・マルコの対岸に建つサン・ジョルジョ・マジョーレの音楽と建築に触れてみたい。
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建築家パラーディオと音楽家モンテヴェルディ、時代は些か異なるが二人は面白い、いや後世の音楽と建築にとって貴重な照応を示している。その照応はこのサン・ジョルジョ・マジョーレにおける「音楽と建築」の有り様を二つの面から説明しているのだ。
モンテヴェルディは十六世紀後半、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオール奏者になった。ヴィチェンツァのパラーディオが没して十年あとのこと。近代劇場の原点となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である各々は共に生まれながらの道とは全く異なる世界でその才能を開花させていく。
二十三才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子はマントヴァの宮廷で沢山のマドリガーレ多声の世俗歌曲を作曲する。パドヴァの粉屋の息子も二十三才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者のもとで建築家として成長し、ヴィッラとパラッツォを数多く作っていく。
後のヨーロッパ社会に貢献することとなる「音楽と建築」はともに世俗に生まれた庶民の息子たちによる世俗の作品であったことがまず第一の照応と言っておこう。
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(世俗に生きる音楽家と建築家)
オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディだが、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォはモンテヴェルディの業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。ヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァで宮廷の為の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。
そんな彼が年に「聖母マリアの晩課」を作曲する。複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされている。しかし、この曲は浪費家ヴィンチェンツォの宮廷を離れ、サン・ピエトロ大聖堂あるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだモンテヴェルディの就職活動の為のものだった。音楽家モンテヴェルディが安心して家族と共に生きる為にはパレストリーナ同様、聖職を得なければならなかったのだ。
「聖母マリアの晩課」の作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会。この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。しかし、パレストリーナ亡き後の教皇庁は音楽的関心が乏しく、モンテヴェルディは演奏どころか面会すら許されず追い返された。それから三年後、ようやっとヴェネツィアで念願適い、聖職の座を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々とサン・マルコ寺院の大空間に響かせた。
(サン・ジョルジョ・マッジョーレと聖母マリアの晩課)
そしてここからが音楽家と建築家の二つ目の照応。モンテヴェルディがミサ曲「聖母マリアの晩課」を作曲した年はパラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しつつある頃だった。サン・マルコの対岸に建つこの修道院とパラーディオとの関わりはモンテヴェルディがサン・マルコ寺院聖歌隊楽長に就任する五十年も前だ。
パラーディオは五十一歳になって初めてこの修道院の食堂を設計する。建築家になってもほとんど教会建築に関わることのなかったパラーディオ、彼は食堂の設計の成果からようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することが許される。自立した生活を維持する為には建築家もまた同じ、 教会堂の建築家にならなければならない。余談だが、モーツアルトのお祖父さんもまた教会堂の建築家となり、一家を支えることができた。
今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは年からパラーディオ制作の模型に基づき工事が始められたもの。すでにパラーディオは亡くなっていたが、モンテヴェルディの就任と時同じくして完成しつつあったのだ。そして面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとってのもっとも記念すべき教会堂は、教会音楽を作ることがほとんどなかったモンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。
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白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの教会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンテヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和。それはパラーディオには思い及ばぬことであると同時に、現在の私たちでさえ今や体験することは難しい。ただただ想像するばかりの世界だ。
(異教の二つの神殿を重ね合わせた教会建築)
この教会堂が世俗の建築家の作品であり、その教会堂での音楽が世俗の音楽家の作品ということだけが二つ目の照応ではない。その「音楽と建築」はどちらの構成にもよく似た、際だった特徴を持っている。その構成とは「重ね合わせ」と言う手法、二人の「音楽と建築」はどちらも「重ね合わせ」によって生み出された作品と言える。
言葉だけではうまく説明出来ないが、まずは、サン・ジュルジョ・マジョーレのファサードは二つの古代神殿を一つに「重ね合わせ」た構成となっているということを確認していただきたい。それも、キリスト教にとっては異教であるはずの古代神殿のファサードが二つ重なりあい、教会堂の正面が形づくられている。
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背の高い身廊とそれを支える低い側廊を持つ教会建築では、その高さの異なる形態を一つの建築としてどう纏めるかが建築家の手腕の発揮どころ。パラーディオはその正面を二つの神殿の「重ね合わせ」で解決している。さらに重要なことは教会の内部空間もまた「重ね合わせ」となっていること。
ファサードだけではなく、「重ね合わせ」が内部空間にも及び、身廊と側廊という二つの部分を意識的に区分けしてデザインされた教会の例はこの教会以外ほとんどない。パラーディオ独自の方法と言っても良いだろう。ここもまた写真を見るしか方法はないのだが、サン・ジュルジョ・マジョーレの身廊の柱脚はファサードの注脚がそのまま内部空間でも使われ、身廊では背の高い柱脚が目立つばかりのデザインだ。
内部空間では身廊・側廊全ての柱は同じ高さの脚台の上に載るのが一般的。しかし、ここでは身廊と側廊の注脚がその高さを変えることで、外観のファサード同様、内部空間もまた、二つの建築の「重ね合わせ」、つまり、空間と空間が「重ね合わせ」られ作られている。パラーディオは神殿の円柱を教会の正面を飾る単なる記号として用いたのではなく、古代神殿という建築空間そのものを二つ嵌め込むように「重ね合わせ」ることで、内部空間もまた二つの神殿であることを明確に意識づけ、デザインしている。
(聖なる世界と世俗の官能的ラブソングを重ね合わたミサ曲)
モンテヴェルディもまた、「聖母マリアの晩課」を「重ね合わせ」の手法で作っている。現代のイギリスの音楽家エリオット・ガーディナーが指揮したこの曲のDVDの解説には以下のようなことが書かれていた。
「聖母マリアの晩課は最初の五曲と最後の二曲は聖母に捧げられた聖歌であり、その他はソロの歌曲を含んだ小曲によって構成されている。その全体は荘重な宗教的大曲。しかし魅惑的官能的なラブソング集でもある。特に独唱モテット「私は色が黒くても」は旧約の中の雅歌を典拠としてはいるが、それは世俗の官能的快楽がテーマとなり奏でられている。」ガーディナーはこのことを指し、「聖母マリアの晩課」は世俗の世界と宗教的聖なる世界とが巧みに重層化された音楽と呼んでいる。
(世俗的観劇空間となった修道院教会)
サン・ジョルジョ・マジョーレは古代の異教の二つの神殿を重層化することで、十六世紀のキリスト教教会をデザインしたが、この教会はさらにまた世俗世界と宗教的聖なる世界を巧みに重層化している。前掲書、福田晴虔氏の「パッラーディオ」を読むと、サン・ジョルジョ・マジョーレは修道士のための教会ではあるが、その空間構成からは会堂は修道士達のためというよりもむしろ、一般会衆という世俗世界の人々のための建築と言える。
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その解説を以下に簡約する。「この教会の内部空間は互いに独立した三つの部分の集合。バシリカ風の会堂と四柱の間のような完結性を持った祭壇内陣と劇場風の聖歌隊席という三つの部分。修道院教会は本来、修道士達の日々の勤行や修道会の催すミサのための施設。従って、そこは一般会衆のためと言うより修道士達が特権的に占有する場という性格を持っているはず。修道僧達の修行の場である聖歌隊席は大祭壇に最も近くそれがよく見える場が与えられ、一般会衆はその背後の、大祭壇からははるか遠くに追いやられるのが通例となる。しかし、この教会の空間構成では修道士達の場所である聖歌隊席は背後に押し留まり、中央に配された四柱の間である祭壇内陣が一般会衆のために開かれている。つまり、サン・ジョルジョ・マジョーレの教会は修道士が集まる聖歌隊席が舞台であり、それに対峙する会堂はまるで劇場の観客席のような構成となっている。」(パッラーディオ 鹿島出版会)
サン・ジョルジョ・マジョーレは聖なる世界と世俗の世界の音楽と建築が「重ね合わせ」により協和され、照応した世界なのだ。聖職者の一般信者に対する優越的な扱いが反省され、大祭壇が一般信者に開かれるようになるのは、実際は二十世紀の第二ヴァチカン公会議以降のことらしい。
パラーディオは四百年も前に現代の教会建築の在り方を先取っていた。そしてモンテヴェルディもまた楽想を「重ね合わせ」ることで、新しい教会音楽の形式を切り開いていた。さらに付け加えるならば、この二人に見られる「聖と世俗」の「重ね合わせ」をテーマとした「音楽と建築」の展開は、後のオペラとオペラ劇場そのものの経験を先取っている。むしろ、この建築家と音楽家によって、かっての宗教的祝祭空間の中の「音楽と建築」は世俗的観劇空間としてのオペラの世界を開いて行く。(San Giorgio Maggiore Church from RockhavenW on YouTube)