2010年2月5日金曜日

音楽のような都市、ヴェネツィア

ヴェネツィアは長期に渡って共和国であり続けた誇り高き海の貴族の都市。そこはまた中世以来、聖職者の政治的介入を拒んできた土地柄でもある。従って、この都市の建築・美術・音楽は他のイタリアの諸都市と較べ独特なものとなっている。ヴェネツィアでは聖と俗との境界線がゆるやかなのだ。東方の表玄関であったことから異色の世界とも容易に相互交流し、芸術のみならず、風習、人間観、振る舞い等は比較的自由。市民はカトリック・ローマの支配する中世的教会を恐れることなく、何事も活発に発展、展開させてきた。

ヴェネツィアの地形環境は水の上、ラグーンにある。絶えずたゆたう水とともにある教会や家々はいつも通奏低音の流れの上に載る音楽のような都市。そんなヴェネツィアだからであろう、多くの感情を音と言葉に変え、様々な芸術を生み出してきた。従って、いまでも世界中の人々がここを訪れるのは当然のことだ。長い歴史を持つヴェネツィア、その水の流れが音楽に例える通奏低音だとするならば、この都市の建築と美術は豊かな対位法を奏でる様々なメロディーとなっている。

 

この都市が特に面白いのは十六世紀後半から十七世紀。ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等美術分野では多くの逸材が登場し、様々な建築家が活躍する。パラーディオ、サンソビーノ、サンミッケーリ、さらにローマ育ちのジュリオ・ロマーノなど、彼らはみな十六世紀イタリアを代表する建築家たちだ。

この時代、彼らの活躍がヴェネツィアばかりでなく、北イタリアで目立つのは、ローマ劫略サッコ・ディ・ローマと呼ばれる大事件がきっかけとなっている。1527年5月、神聖ローマ皇帝軍の10日間に及ぶ教皇庁のあるローマに対する略奪、破壊、暴行、殺人。都市ローマの教会やパラッツォのみならず、ルネサンス美術は壊滅的な打撃を受けている。結果、ローマの貴族及び聖職者というパトロンを失った多くの画家・建築家はローマを離れ、ヴェネツィアや北イタリアの諸都市で新しい仕事を見つけていくことになる。

フィレンツェのメディチ家の台頭は十五世紀前半。そこには名立たる画家が集まりルネサンス美術の花を咲かせたが、やがてこの都市も共和国からトスカーナ大公国へと変わって行く。イタリア半島全体は従来の中世的自治都市から新しい中央集権的な君主国家へと変貌して行く中、ヴェネツィアだけは君主国にかわることなく、中世以来の共和制を保持しつづける。

資本主義がフランドルに育つばかりか、東方との交易もトルコの台頭で難しくなり、経済的には黄昏期にあるヴェネツィア共和国が共和国としての対面を保つ為には実力者による共存共栄と多民族主義的な風潮を強めざるを得なかった。それがこの時代の政治であり都市経営。そのためには、人と人がより理解し話し合うためのコミュニケーションが最も重要。様々の立場の人々の最も有効なコミュニケーションの為には芸術の持つ力が不可欠、ヴェネツィアではその力が強く求められていたのだ。

ヴェネツィアの都市経営、それは花のフィレンツェが多くの美術と建築を生みだし、ヴィチェンツァがテアトロ・オリンピコを必要とした状況とよく似ている。求められるものは争いではなく、芸術による文化戦略だ。

黄昏のルネサンス期、ヴェネツィア共和国は画家、建築家、音楽家たちの活躍にその存続を賭けていた。文化戦略としてのヴェネツィアの特徴は体質境遇の異なる数多くの画家、建築家、音楽家により様々な作品を生み出し続けたことにある。ヴェネツィアは共和国を存続させるという目的を貫くため、現代に通低する様々な芸術の孵化装置の役割を果たしていたのだ。