(Orchestra of the 17th Centu from msholmes on YouTube)
1094年献堂のサン・マルコ寺院はヴェネツィアの都市と建築の中心であるばかりか、音楽文化の中心でもあります。巨大なウェディングケーキのような5つつのクーポラの内部は濁りのない反響音を響かせる素晴らしい音響空間であったからです。ギリシャ十字の平面形を持つサン・マルコは東方の影響をまともに受けたヴェネト・ビザンチン様式、その特殊の建築空間は祭壇に向かう両翼の袖廊の各々に、オルガンと聖歌隊を向かい合わせて置くことが可能でありました。このことから、この寺院では古くから、二つの合唱隊が相呼応したり、応答するという極めてドラマティックな音楽を響かせることができたのです。
サン・マルコはドゥーモではなくバシリカと呼ばれています。ローマ・カトリックの支配にある司教座聖堂ではなく、ヴェネツィア総督の個人的な礼拝堂であるからです。つまりここはローマの代理人である大司教の権限の及ばない、ヴェネツィア市民全員の教会であるのです。誇り高い海の男の都市、ヴェネツィア共和国は代々聖職者がいたずらに政治に介入することを拒んできた伝統を持ち続けました。従って、サン・マルコの音楽は聖と俗との境界線は比較的ゆるやかで、様々な音楽が容易に相互浸透しやすい環境を作ってきました。
16世紀イタリアは、絶対君主国化したフランスやスペイン・オーストリアそしてローマ教皇という、いくつかの勢力の覇権の調整地として翻弄されました。そのような背景から来る民族主義的な風潮でしょうか、フランドル人音楽家を押し退け、生粋のイタリア人ツァルリーノがサン・マルコ寺院の楽長として1565年に就任します。ツァルリーノはその後のバロック音楽の基礎を築いた音楽家です。彼は就任早々、サン・マルコの音楽的空間特性に合わせ、二人のオルガニストと二組30人に及ぶ聖歌隊を編成します。そして1568年には世俗音楽の勇であり、従来は教会に入ることの許されなかった、優れたコルネット奏者を含め、20人の常任の楽器奏者も雇い入れ、典礼音楽の演奏形態を全く新たなものとして確立していったのです。聖歌隊による合唱を器楽アンサンブルが支えていくという新しい演奏形態は、ここサン・マルコの空間特性無くして生まれ得ないものであり、当時ローマで流行していたア・カペラ(楽器の伴奏を伴わない合唱曲)とは異なる、壮大な音楽空間を生み出しましたのです。サン・マルコ寺院の内部のそこここに配置された金管楽器の響きは、やがて新しい器楽合奏の形態となって確立され、ついには寺院全体に響きわたる音楽は教会における典礼の役割から独立し、近代音楽の基礎となるバロックへの道を歩むことになるのです。
ジョン・エリオット.ガーディナーの聖母マリアの晩課(モンティベルディ)。このDVDはヴェネツィアの建築と音楽を教えてくれます。
(via YouTube by Vespro Della Beata Vergine - Claudio Monteverdi - ( 9 ))
(イタリア人の音楽家)
十六世紀イタリアは、絶対君主国化したフランスやスペイン・オーストリアそして教皇庁ローマという、いくつかの勢力の覇権の調整地として翻弄された。このような背景から来る民族主義的な風潮だろうか、サン・マルコ寺院は年、フランドル人音楽家を押し退け、生粋のイタリア人ツァルリーノを楽長の任につかせた。
ツァルリーノはその後のバロック音楽の基礎を築いた重要な音楽家。彼は就任早々、サン・マルコ寺院の音楽的空間特性に合わせ、二人のオルガニストと二組三十人に及ぶ聖歌隊を編成する。さらに、世俗音楽の勇であり、従来は教会に入ることの許されなかった、優れたコルネット奏者を含め、二十人の常任の楽器奏者も雇い入れ、典礼音楽の演奏形態を全く新たなものとして確立していく。
聖歌隊による合唱を器楽アンサンブルが支えていくという新しい演奏形態は、ここサン・マルコ寺院の空間特性無くして生まれ得ないもの。ミサ曲の中に器楽が参入するということは、当時ローマで流行していたア・カペラ楽器の伴奏を伴わない合唱曲とは異なり、壮大な音楽空間を生み出した。
それは教皇庁の権限が及ばないことから生まれる自由であり、生み出された音楽的経験なのだ。その音響空間は後のオペラの誕生を導くイタリア人好みのものでもあり、ヴェネツィアはヴェネツィアの音楽、いやその後のイタリア音楽そのものを発見する。
(ホモフォニーとダイナミックなソナタ)
フランドルやフランスの人たちが好む複雑なポリフォニーとは異なり、朗々とした和声の響きを持つホモフォニー。それはオペラを生み出す為には不可欠な音響空間。イタリア人音楽家ツェルリアーノを楽長に迎えた後、サン・マルコ寺院の音楽はその音楽的空間特性とイタリア人好みの音響特性を生かし大きく発展する。
楽長ツァルリーノを支えたのはアンドレア・ガブリエリとその甥のジョバンニ・ガブリエリ。この二人もまたイタリア人。各々第一、第二のオルガニストとして器楽楽長の役割を担当。
第一オルガニストであるアンドレアは、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目「オイディプス」の作曲者でもある。彼はサン・マルコ寺院での十六声部からなる壮大なミサ曲を天正の遣欧使節の訪問を祝う典礼のために作曲した。
さらに、ジョバンニにいたってはもっと重要な活躍、「強と弱のソナタ」という楽曲を作曲した。この作品は楽器による複合唱。現在にいたる、当時の最もダイナミックな音楽だ。
サン・マルコ寺院では古くから歌われていた人の声による複合唱、その方法を器楽に応用することで、新たに生み出された初めての壮大な器楽曲となった。題名が示す通り楽譜には強弱の指示が書き込まれ、従来の宗教音楽にはなかった音楽全体にダイナミックな動きがも持ち込まれる。
サン・マルコ寺院の内部のそこここに配置された金管楽器の響きは、やがて新しい器楽合奏の形態となって確立され、ついには寺院全体に響きわたる音楽は教会における典礼の役割から独立し、近代音楽の基礎となるバロックへの道を歩んで行く。