2011年11月28日月曜日

インテルメディオ


古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない、しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、ソロや二重唱やコーラスも用いられていた。音楽が積極的に展開される場は、挿入部であるがゆえにインテルメディオと呼ばれていた。その題材はネウマのトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持っていた、しかし、あくまで劇本体とは別種なもの。それぞれ独立した物語であった。
教養主義的なラテン喜劇に音楽劇を導入する契機は、その上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。古典劇への関心の大小に関わらず、より多くの人々をそのドラマの世界に引き込んでいる。ここで重要なことは、インテルメディオへの関心が高まれば高まるほど、それが演じられる場は朗読会のような内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界を必要としたであろうということだ。

 インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは15世紀初めのメディチ宮廷です。共和制から君主制に移行したフィレンツェ、1539年コジモ一世とトレドのエレオノーラとの結婚式では7つの続きもののインテルメディオが上演され、精巧な透視画法を用いた舞台装置まで採用された。
インテルメディオはラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディテ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、ヴァレリウム(古代ローマ風のテント)の下の観客席、そして初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセ二アムアーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じられた。

1565年、オーストリアのジョバンナとフランチェスコ・デ・メディチの結婚式、演じられたのは「ラ・コファナリア」、会場はメディチ宮殿の16世紀の間。内装はジョルジョ・ヴァザーリ、観客の為の段席まで用意され、大公の席はその中央、プロセミアム・アーチには下に落とす形の幕が用意された。声楽に器楽の伴奏、間奏曲の演奏は、チェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団、そしてこの時のインテルメディオはすべてクピドとプシケの物語、当然この物語はそのまま観劇してしていた花嫁と花婿の結婚に繋がっている。

2011年11月21日月曜日

君主の祝祭と宮廷劇場

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築によって支えられました。

祝祭を必要としたのは君主です。

君主の正当性を人々にしらしめるため、そのイメージの正当化と強調は絶えずなされなければならなかったのは中世と同じです。

しかし、絶対化された宗教的権威とはいささかの距離を保ちながらの正当性の強調、これがルネサンスの特徴です。

特に、16世紀イタリア半島は共和制から君主制への移行期、貴族諸侯の間から抜きん出たメディチ家のような新興君主にとって、新たな手法によるイメージの強調がその存続のための条件でもあったのです。

教会的権威と距離をおいたままの新たな君主を強調する手法とは、それは失われた歴史あるいは隠された知恵の復興、つまり古代社会の寓意(アレゴリー)による劇的情景の創出です。

祝祭を象徴的なアレゴリーによる視覚像の集合とする、その視覚像によって君主の権威を意識づけました。

そしてここでもまた、¥uf801祝祭を支えたのは音楽と建築です。音楽と建築は一体となって劇的情景を生み出してゆきました。

さらにまた君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮殿における祝宴も不可決です。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴のほう有利です。

アレゴリー化された情景は広間において凝縮され、洗練を繰り返してゆきました。

ルネサンスの後期、イタリアの諸都市はスペイン、フランス、神聖ローマ帝国という3大勢力の覇権争いに翻弄されます。

君主たちは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要がありました。

都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置されることになりました。

17世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する格好の舞台となります、そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられてゆきました。

劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディアです、時には君主や貴族たちもニンフやパンとともい踊ります。

祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではありますが、イタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た政治的装置でもあったのです。

 

 

2ー劇場空間の意味と役割

音楽そしてドラマ、どちらもオペラにとって不可欠です。

しかし、演劇の上演にあたって音楽が必要とされたのはオペラだけではありません、受難劇やオラトリオも同様です。

オペラそのものの特質は演じられる場、劇場にあります。宗教改革に揺れる16世紀、教会と劇場は反目します。

オペラは教会とは異なる<劇場>を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんだのです。

舞台の中に作られた幻想の世界、その世界で進行する歌に託されたドラマ。

オペラは最高の娯楽であると同時に極めて意識的な作りものです。

オペラではそこがどんなにリアリティある叙事的な世界であっても、現実とは異なる虚構の世界であるという意識を決して奪い取ることはありません。

オペラは豊かなメロディによって人の魂を遊ばせる一方、それは極めて意識的な産物であるということを忘れさせません。

この酔わせながらもすべてを奪い取らない、オペラと言う作品の持つ自意識性、都会性は理性を尊ぶルネサンスならではの主意的成果なのでしょうか。

劇場を必要としなかった中世に変わって、ルネサンス以降の祝祭空間は作家と作品によって支えられた時代です。

都市広場から離れた祝祭空間、それはまさしくオペラと劇場となって花開くのですが、そのことは同時に、本来一体であった祝祭が音楽と建築に分離した事を意味します。

市民階級の台頭という共通の社会的基盤にたち、新たな祝祭空間と意味づけらたオペラと劇場は、一体であることよりもむしろ、各々に課せられた問題意識を設定し、独自の展開を図ることが義務づけられていたと考えられます。音楽と建築は生まれつつある世俗文化の担い手として、各々別々の社会的使命を持ち、役割を果たさなければならなかったからです。

ルネッサンス後期、ギリシャ悲劇の再生としてオペラはフィレンツェに生まれ、同じ時代、古代ローマ劇場にならったテアトロ・オリンピコ(現存する最古の近代劇場)がヴィチェンツァに誕生します。

演劇を上演する事だけが目的ならば宮廷の庭園か広間があれば十分、劇場など必要ではありません、つまり演劇家や音楽家は劇場など不要なのです。

ではヴィチェンツァの劇場は何故生まれたのでしょうか、劇場を必要としたのは建築家です。音楽と建築に分離してしまった祝祭空間、建築家は建築により祝祭空間は生み出さなければならなかったからです。

ギリシャからローマ、そしてルネサンスから近代とヨーロッパではたくさんの劇場が作られます。

しかし、ギリシャのエピダウロス劇場、北イタリアのテアトロ・オリンピコ、これらの劇場はともに演劇低迷期に建設されています。

エピダウロスはアイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した100年も後の建設です、テアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す50年も前に建てられています。

この事実は劇場はオペラや演劇のために必要とされたのではないということを示しています。

つまり建築家は上演のためだけに劇場を作ったのではなく、外の役割も劇場にかせられていたのです。

いつの時代も建築の役割は、人間の生活のための安全で便利・快適な空間を作ることにあるのですが、必ずしもそれだけが全てではありません¥uf801。建築は人と人、人と世界の関係を調整するという役割を持っていました。

エピダウロス劇場やテアトロ・オリンピコ、そこではまずドラマが始まる以前に、建築自身によってドラマが演じられるのです。

劇場建築はその物理的構成によって、世界そのものを示しておりました。

つまり劇場建築は人と世界の関係を示した実物模型、物理的配置がすでに世界を表現しています。

建築家は劇場空間全体を「世界のかたち」、「世界模型」として作ることで、世界の中での人間のあるべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにしました。劇場を訪れる観衆一人一人が劇場を体験することで「世界のかたち」そのものを知り、自分自身がいま「世界」のどこにいるかを実感出来るようにする。建築家はそのための装置として劇場を作る必要があったのです。

 

 近代劇場と社交

古代ギリシャ同様、近代劇場も市民という観客が誕生してはじめてその存在理由を明確にしました。

????マントバの宮廷楽長だったたからです。

17世紀、フィレンツェの宮廷から誕生したオペラはヴェネツィアの公共劇場へと開催の場を広げて行きました。

ヴェネツィアはグランドツァーの目的地、ヨーロッパ各地からやってくる台頭してきた市民たち、ヴェネツィアの公共劇場は彼らにとって必要不可欠な祝祭空間となるのです。

劇場をめぐって音楽家と建築家はいつも言い争います、「この劇場は使いにくい、音楽のためにならない」と音楽家が言えば建築家は「劇場は音楽のためにあるのではない、観客のためにあるのだ」。

現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のために建設されるのですから、建築家はこの批判には十分に対処しなければなりません。

しかしオペラ劇場の定型である¥uf801多層の馬蹄形桟敷席、その平面形は音楽を聞き舞台を眺める為に生まれたのではなく、むしろ観客の社交のためのものであったのです。

祭りから発生した都市と劇場、ヨーロッパの都市の存在基盤は社交にあります。

日常的集落では生まれ得ない、人と人とのコミュニケーション。

つまり社交は祝祭空間の目的、そして都市を存続させる基盤でもあるのです。

従って建築家たちが意図していた劇場それは都市と同様、いかに人間と人間の関係(社交)を生み出すかがテーマであったのです。

しかし、19世期、¥uf801建築家は偉大な音楽家(ワーグナー)に屈服します、劇場は社交のためではなく、音楽のためにのみ作られるのです(バイロイト祝祭劇場)。

音楽のための、音楽を聴くためのだけの装置となった劇場はやがて、その存在基盤であった社会的集団的意味を失い、個人の趣味に支えられた音響のための箱に転化するのことにつながります。

祝祭から誕生した音楽と建築が、その本来が合わせもつ社会的役割「人と人をつなぐもの」、その役割がオペラ劇場から喪失される時、音楽と建築、あるいは都市と劇場は「生活の装飾品、贅沢品、人生の飾りもの、お茶の間の楽しみ」という個人の趣味的生活を飾る付属物へと向かってしまうのでしょうか。

 

 

シェークスピア劇と固定背景


現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータの劇場。
紀元二百年頃のこの建築、リビア出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられた。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。
その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打って作られている。
両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。
この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが可能となった。
舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有し壁龕を作っている。
この壁龕に挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所となっている。
この舞台背景(スカエナ・フロンス)は何を意味しているのか。

全体の印象は後のルネサンスに沢山登場する理想都市のイメージ。
アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景はテアトロ・オリンピコに共通している。
ヴィトルヴィウスの建築書から類推すれば悲劇用のスカエナと言えるが、興味はむしろ、背景が何故、劇の内容以前に設置され、固定化されているかにある。

舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇とは異なり、この固定化されたローマ劇場の背景はどんな意味を持っていたのだろうか。
「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマはもちろん西欧社会では十六世紀以前、舞台背景はいつも固定的なものであったのだ。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場つまり観念的な世界(コスモス)を示すもの、あるいは中世においては天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものであった。
そのような舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物に他ならない。

劇場は二つのコスモスが重なりあった空間であるという説明はすでにした。
そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として位置つけられていたのです。
つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場にほかならない。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピアです。
「十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ時代同様のコスモス(世界観)の象徴性で満たみたされていたのに対し、シェークスピアの登場人物が生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。
その理由は登場人物が世界観ではなく特定の場所に強く結びついているからです。

同時代の他の作家と異なり、シェークスピアは主役たちに特定の物理的背景を与える必要性を感じていた。
彼の場所に対する感受性は、時代を先取りしていた。
やがて、西洋社会では自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピアの見方が多くの人々に共有されるようになった、と言って良いだろう。

舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行していると考えられる。
舞台が一つのコスモスであった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、また万人でもあったのだ。
しかし、舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景(シェークスピア劇)が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。(個人空間の誕生:p147)

つまり、ローマの劇場は特定の場所ではなく世界劇場(コスモロジー)を意味しているのです。
世界劇場の祝祭舞台は普遍的な場に他ならない。
そこは神がつくる天国や地獄であり、人間が生み出す理想都市。
一方、シェークスピアは世界劇場を否定し、人間劇場を創世した。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上階下階に設えられた舞台となり、あらゆる所を所狭しと使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。
そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であったのです。

ここで重要なことは、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあったことにある。

後に見るように、この変局点こそギリシャ悲劇からオペラの誕生に移行する変局点に他ならない。
つまり、オペラとは古代と近代の微妙な重ね合わせにより誕生した。
オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を重ね合わせているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言えるのだ。

2011年11月20日日曜日

近代のオペラ劇場


テアトロ・トル・ディ・ノーナ)

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは30年代のバルベリーニ家のオペラとは時代が異なってしまった。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場。しかし、クリスティーナの時代はすでにヴェネツィアではオペラは商業的事業となっている時代。
巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある60年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きなの関心の的となっている。世俗のオペラとその為の公共劇場は、教皇庁のお膝元においても、すでに、充分に採算の取れる事業となっていた。

1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設する。クレメンス九世についてすでに触れている。しかし、この教皇こそオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージだったというところが面白い。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者はあの恐惶の迫害から逃れ、やがて、自身が教皇になった。
ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペイン生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれる。
ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出したことになる。聖なる世界の中心に立つローマ教皇庁が世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外には考えられない。事実、後の教皇の中にも寛容な人がいないわけではないが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。
それは当然のこと、宮廷に生まれた世俗オペラは聖なる教会とは相反する音楽。カソリック・ローマにとってオペラは当初は全くふさわしくない音楽だったのだ。
しかし、クリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人であったからこそ、ローマに公共劇場の建設が実現されるという歴史的なことが起こる。

テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになった。残された図面によると、この劇場は当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。
実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行くのです。
やがて、楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展、その原型がこのテアトロ・トル・ディ・ノーナ。後の歴史的なローマのオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設されたと言って過言ではない。


(十八世紀の劇場の音響理論)

テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちがこのプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。

楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断だ。

しかし、現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していたのだ。

現在とは異なるが、当時最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャー。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は楕円の一方の焦点に集まった反射音がもう一つの焦点にも音を集中させて音の<柱>を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えていたからだ。

凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上大きな問題とはならなかった。それは何故だろうか。十八世紀のオペラ劇場は隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席、それも必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれていた。僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音され微細に多方向に反響する。つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたのだ。


(社交空間としてのオペラ劇場)

フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由だった。ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチで舞台の両袖を区切るのは常識化している。テアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する観客たちには不興ではあったが、舞台上のスペクタクルを演出する舞台装置家にとってはアーチはもはや、不可決な装置なのだ。くわえて演技はプロセニアム・アーチの後ろと限定され、奥行きの深い客席からは眺める舞台上の虚構の世界は透視画法により強調され、ますますリアリティあるドラマチックな世界となっていく。

しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。劇場は見るばかりか、見られる空間でなければならない。つまり社交の空間。舞台を眺めると同時に、他の観客から注目される場所でなければならなかった。

U字形の形態を楕円形にすることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能となる。フォンターナは劇場空間のすべての視覚を有効に統一するため楕円形プランを採用したのです。

劇場は古来より観劇だけが目的ではない。舞台を眺めるだけが目的なら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。しかし、フォンターナは観客席を楕円形にすることで、舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。

祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態はその後十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していった。



都市とオペラ劇場

(バロック社会の底流、作品を必要とする時代)

十七世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地。ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という三大勢力の政治的バランスの調整地。

衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたが、ミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントゥバ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。どの公爵家も政略的な結婚とそれに伴う華麗な「宴会」を演出することで外交上の生き残りの道を画策してきた。

加えて前世紀以来日常化し蔓延したペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教改革派との抗争、イタリア半島はどこもかしこも、精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っていたと考えられる。その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈りかもしれない。

オペラがもてはやされたのはそんな時代を引き継いでいる。神の支配から離脱した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、オペラはその風景を眺めるための装置に他ならない。そのような時代を生きなければならない人々であったからこそ必要とされたもの、それは古典古代への窓口としての教養ではなく、真に新しい意味での際限のない人間追求のドラマ、新しい形での娯楽だった。

時代はもはやルネサンスの絵画、彫刻で見るような、端性・典雅であることより、風変わり・不規則なものを求めていた。とは言え、その時代がただ闇雲に、ルネサンスの秩序ある静かな佇まい、その形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。同時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが関心を持っていたことは、近代的な意味での際限のない人間追求と自然肯定であったことは理解すべきだ。

そこに流れているものは形式的あるいは構成的であることより、流動的・絵画的。人間は変転生成する世界の中での一片の葦に過ぎないが、その存在は神にも伍するものと考えている。バロックとはそんな時代ではなかったのか。

(劇場のデザイン)

演技者や音楽家にとって劇場は必ずしも必要ない。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇や音楽にとって必要なのは舞台であって劇場ではない。身振りと言葉だけで俳優はそこにはない空間や時間を現出すると語る現代の演劇のピーター・ブルックにとって、劇場はおろか舞台すら必要ない。劇場を必要としたのは観客だ。全員参加の古代における祝祭空間が「見る人・見られる人」に分化した時、観客が生まれ、劇場が誕生した。

ギリシャからローマ、ルネサンスから近代とヨーロッパではたくさんの劇場が作られた。しかし、ギリシャのエピダウロス劇場、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ、これらの劇場はともに演劇低迷期に建設されている。エピダウロスはアイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した百年も後の建設。テアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す五十年も前に建てられた。この事実は劇場は必ずしもオペラや演劇の上演ために作られたのではないことを示している。

劇場を必要としたのは観客。観客にとって劇場は世界を知るメディアであり、社交を生み出す装置なのだ。建築デザインの現在は、安全・便利・快適という個々人の生き方に資するもの。しかし、建築は「人と人、人と世界の関係を調整する」という集団的意味を持つメディア。劇場は演劇以前に人間と世界の関係、コスモスを示す役割を担っていた。建築家は劇場を「世界模型」として作ることで、世界の中での人間の在るべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにした。観客は劇場を体験することで世界に立ち、自分自身がいまどこにいるかを実感したのだ。

イタリアに近代劇場が誕生した十六世紀後半、日本でも同時期、能のための常設舞台が西本願寺に完成した。劇場建築をめぐる洋の東西の同時現象は興味深い。絶対的な宗教権力の失墜と下克上が劇場を生み出すきっかけであろうか。劇場を新たに必要とする人々、それはまごうことなく、時代の節目に現れた人間たち。清貧禁欲な宗教的価値観ではなく、現実的、合理的、あるいは多少の快楽が赦される社会に生きる新しい人々だ。

テアトロ・オリンピコという近代劇場の誕生は時代の変局点を示している。この劇場に示されたもう一つの役割。それはコミュニケーションや交歓、「人間と人間の関係を調整する」という社交空間。テアトロ・オリンピコは古代劇場、中世キリスト教会を引き継ぐ「世界劇場」であると同時に、西本願寺の「能舞台」と同様、争いを回避し、文化的資質を生み出す社交空間としてデザインされていた。

(建築術と印刷術)

建築は「世界を知る」最も有効なメディア。建築が「世界模型」であった時代を「建築術」の時代と呼ぶことがある。一方、ルネサンス以降を「印刷術」の時代と呼ぶ。グーテンベルグ発明の印刷術が新しい「世界を知る」メディアとなったからだ。十五世紀以降、印刷術の発明により、沢山の聖書が印刷された。中世以来、教会の奥深く厳重に管理されていた写本に変り、人々は印刷された聖書を誰もが自由に手にするようになる。

ヴィクトル・ユーゴの「ノートルダム・ド・パリ」のなかで主席助祭が印刷されたばかりの真新しい聖書を手にし「この本があの建物を滅ぼしてしまうだろう」と呟く。ユーゴは十五世紀のグーテンベルグの発明によって、建築はその役割を閉じると、主席助祭に語らせたの。聖書が教会を滅ぼす、ユーゴは何を意味したのか。土地と一体である建築は移動させることは不可能、一方、印刷術から生まれた書物は持ち運びが自由(ポータブル)。グーテンベルグの発明は知識や情報を建築から剥ぎ取り、印刷された書物に綴じ込め、何処でも自由に持ち運ぶことを可能にした。

人々は最早、建築としての教会は必要なくなり、教会は個々人の枕元の聖書に、あるいは日々持ち歩く鞄の中の書物に代わって行く。人々は世界を建築体験ではなく、印刷された書物を読むことで知る。つまり、ユーゴが語らせた主席助祭の呟きはコスモスとしての建築の解体を意味していた。

印刷術が建築術を解体し、枕もとの聖書が教会に変わることで、キリスト教社会は大きく揺らぐ。十五世紀ルネサンスの人々はキリストに変わる新しい神、教会に代わる新しい世界、新しいコスモスを模索している。そして生まれたのが絵画や庭園のなかの理想郷(アルカディア)、あるいは透視画法の中の理想都市。十七世紀、人々はアルカディアや理想都市を背景としたオペラの世界を生み出す。その世界は建築術が解体された後のコスモスであり、人間が神ではなく自分自身の目で眺め、耳で聞く世界だ。

絵画や庭園やオペラの中のアルカディアは実在的ではあるが観念の世界、描かれた画面や印刷されたタブローの中の作品的世界、虚構の世界に他ならない。作品的世界とは神と共存する世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。神々が神殿あるいは教会に実在する世界ではなく、人間自身が想像的に眺める世界、風景の世界なのだ。

風景の世界とは、神が支配するコスモス(秩序世界)ではなく、人間の視覚によって作られたランドスケープ(眺望世界)を意味する。建築術が解体し印刷術に代わることで世界はコスモスからランドスケープへ変容したのだ。

オペラの世界とは、神と共存するコスモスではなく、透視画法に縁取られたプロセニアム・アーチを持つ額縁舞台の中の世界、動く絵画の世界、ランドスケープに他ならない。そしてこの世界を最初に準備したのがテアトロ・オリンピコ。テアトロ・オリンピコは世界がコスモスからランドスケープへ変わる変局点に立っている。それが近代劇場の誕生の真なる所以だ。

(社交空間としての近代祝祭劇場)

古代劇場、ヴィトルヴィウス劇場をモデルとし、透視画法による理想都市でもあったテアトロ・オリンピコはコスモスとランドスケープを相い合わせ持つ劇場。十七世紀に入り劇場はランドスケープとしての劇場へと変容していく。サッビオネータ、ファルネーゼはテアトロ・オリンピコをモデルとしたバロック宮廷劇場。ランドスケープの劇場はヴェネツィア、ローマの公共劇場へ引き継がれ、近代ヨーロッパ文化を象徴する新しい市民のためのオペラ劇場へと変容して行く。コスモスからランドスケープへの変容によりオペラ劇場は観客の為の社交空間としてデザインされていく。

劇場をめぐって音楽家と建築家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のためにならない」と音楽家が言えば、建築家は「劇場は音楽のためにあるのではない、観客のためにあるのだ」と。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のために建設される。従って建築家は音楽家の批判には十分に対処しなければならない。しかし、現在のミラノのスカラ座やパリのオペラ座に見るように、オペラ劇場の大半は多層の楕円形桟敷席で構成されている。その平面型からくる音響特性は音楽にとって不利であるばかりか、観客は斜めから舞台を見なければならず、決して観劇に向いた作り方とは言えない。

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オペラ劇場はオペラの上演の為に作られたのではない。楕円形の客席は音楽を聞き、舞台を眺める為に生まれたのでもない。劇場は観客が観客を眺めるための形式、社交のための装置としてデザインされている。劇場は貴族の館のサロン同様、十八世紀以降の近代市民にとっても必要不可欠、人間と人間の関係の構築の為の空間としての役割りを頓に強めて行く。

古代劇場は祝祭から生まれたもの。祝祭とは神との交歓の場であるばかりか人間と人間が相和し、共存する場でもある。祝祭から誕生した劇場は演技を見物し、ドラマを楽しむ以上に、人と人とのコミュニケーション、社交の場であることが重要であった。従って、ランドスケープへ変容したオペラ劇場は、観客が舞台を眺めるだけではなく、観客を眺める場でもあった。つまり古代の祝祭から引き継がれたオペラ劇場は、<人間と世界>との関係だけではなく、<人間と人間>との関係の場、ギリシャ・ローマ以来の「祝祭劇場」であったことを忘れるわけにはいかない。

( オペラと劇場 )

音楽とドラマ、どちらもオペラにとって不可欠だ。しかし、演劇の上演にあたって音楽が必要とされたのはオペラだけではない。中世の受難劇も十七世紀のオラトリオも同様。オペラの特質は劇場にある。宗教改革に揺れるイタリア、教会と劇場は反目する。オペラは「教会」とは異なる「劇場」を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんでいる。

さらにまた、演劇の形式が劇場の形式を決定したことはほとんどない、むしろ演劇が劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられている。その具体例がオペラだ。十七世紀初頭、ルネッサンスの黄昏期、ギリシャ悲劇の再興もくろんだカメラータの試みが透視画法に彩られたルネッサンス劇場を得ることによって、視覚による知的興味と音楽による感覚的喜びをあい和した画期的な芸術形式として花開いた。

見る・見られると分節された二つの空間、オペラほど舞台と観客の分離が完全な演劇形式は他にはない。にもかかわらず観客と舞台がこれほど同じ感情に満たされる演劇形式は他にはない。オペラは舞台上だけでなく、劇場全体の雰囲気もオペラを体験する上で必要不可欠。誕生当初のバロック宮廷劇場の持つ娯楽性は市民文化の中でも消え去るどころか、ますます盛んになり、豪奢と洗練を深めてゆく。

オペラ劇場はいざ作られてみると、これほど融通の利かない建築は他にはない。舞台と客席、全く形を異にする二つの巨大スペースを必要とし、かつそのどちらにも巨額な設備と装飾が必要とされる。建築としてようやっと完成しても、オペラや演劇の上演以外の使い道は他になく、古くなった後の劇場は転用もままならないばかりか、使われなくなれば壊す以外に方法が無い。

舞台上では様々な機械を駆使したスペクタクルが演じられると同時に、桟敷席でも華々しい社交と宴会、時には賭事や睦みごと、舞台以上のドラマに興じる紳士淑女も現れる。このように多くの人に愛され利用されている最中にあればあるほど、オペラ劇場はちょっとした油断ですぐ火事になる。

合い矛盾するいくつかの課題を抱えたオペラ劇場だが、歴史経過から見る限り、その後、天才建築家を必要としなかった。見る・見られる関係の深化と巨大化以外、その形式に新しいものを要請するものは何も無かったからだ。事実、ヴィチェンツァにテアト・オリンピコが誕生して以来、様々な洗練とバリエーションは繰り返されたが、新たな空間的独創性はどこにも発揮されていない。

深化と巨大化という観点で見るならば十八世紀のオペラ劇場に触れる必要がある。オペラの変質が劇場に大きな変容を与えている。客席と舞台の分節がますます要請されるグルック以後のオペラによって、結果として二つの空間はその親しみやすさを失っていく。

オペラが神話から離れ、人間のドラマへと変質していく時、劇場への要請は祝祭ではなく、機能的・合理的な箱、大小様々な音響がきめ細かく響きわたる場となることが要請された。加えてよりドラマティックなロマン派的音響の増大につれ、装飾は華麗に、階段やロビーは豪華に、宮廷から始まった空間は劇場全体が宮殿のような趣となる必要となった。

(バイロイト祝祭劇場)

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オペラ劇場は近代ヨーロッパの都市に君臨する。しかし、劇場がオペラの為に作られたのは、唯一、十九世紀後半のワーグナーのバイロイト祝祭劇場だけだった。舞台と客席に分節された二つの空間。前者は方形、後者は楕円形、各々は合い異なる形態とボリュウームを持ってはいるが、一つの劇場建築という視覚上の要請から、その調整のため客席の天井高は恐ろしく高く作られた。

ワーグナーはこのアンバランスを次のように指摘している。「伝統的劇場は舞台の高さに客席の天上高を合わせようするあまりプロセニアムの頂部よりも高いところにまで天上桟敷を作ることになり、より貧しい人々はオペラを鳥敢的にしか楽しむことが出来なかった。」(劇場 建築・文化史:早稲田大学出版部 )

結果、 ワーグナー は彼の持つ音楽的情熱が画期的なオペラ劇場、バイロイト祝祭劇場を完成させることになる。バイロイト祝祭劇場は唯一、オペラの為の劇場ではあるが、同時に劇場空間の持つ本来の意味を喪失した劇場でもあるのだ。客席の誰にとっても等しく舞台が見やすい劇場とするため、楕円形の客席を取り止め、舞台を直視できる方形とした。桟敷席が廃止され、社交のためのロビーやホワイエも取り除かれた。さらに、オーケストラピットを沈め、客席を暗くすることにより、観客は舞台に集中し、リアルな視覚世界のみに関わることになった。

ここにいたり劇場はコスモスでもランドスケープでもなく、観る・聴くためだけの箱に変容。グルック以来の市民オペラはこの劇場の誕生をもって全てが完成したのだ。しかし、同時にオペラ劇場はもはや劇場自身が言葉を発することのないニュートラルな建築。

バイロイト祝祭劇場は集団的意味としての作品的世界、オルフェオの持つデザイン・コンセプトを尽く喪失した劇場になってしまった。真っ暗な客席は、隣席に人がいてもいなくとも変わらない、全くの個人的な世界。オペラ劇場は集団ではなく、個人が「見る・聴く」ためだけの装置。個人がイヤホーンで聴くウォークマンやガジェットのようなオペラ劇場。もはや集団を支える社交空間でもなければ祝祭の場ではない。バイロイト祝祭劇場はオルフェオの終焉の象徴、唯一、名前だけの「祝祭劇場」なのです。

 (fig109)

(貴族の都市そして作品的世界)

作品的世界を開いたもの、それは印刷術に支えられた楽譜であり透視画法の中の理想都市やアルカディア。音楽における作品の誕生はその創り手である作曲家の誕生でもあった。記譜することで明確になった作品はその創り手自身の存在を意識づけたのだから。さらにまた、作品の誕生はその鑑賞者の姿も明確にした。作品を必要としたのは絶対君主の宮廷や貴族的市民の社交界。力を持ちだした王侯貴族が音楽作品を楽譜という形で盛んにコレクションし、作曲家を保護するようになる。

それは社会における文化受容の変化を意味する。教会の中で神の顕現、神の国の創出に関わってきた音楽・絵画・彫刻、それらを近世の王侯貴族たちは権威の象徴として、自らの都市あるいは自らの生活を彩る文化装置としてコレクションした。

印刷術に支えられ、多くの作品と作家を生み出したルネサンスは諸芸術の誕生の時代。ヴィクトル・ユーゴが指摘した印刷術による建築術の解体は芸術家の時代の到来を意味し、その鑑賞者あるいは利用者、パトロンの誕生の時代でもあったのだ。

歴史的に芸術のパトロンであった貴族たちの最大の関心は都市にある。都市は作品でもあるが、都市はまた作品を必要としている。フィレンツェ、ヴェネツィア、マントヴァ、フェラーラ、そしてローマにナポリ。どの都市も華麗な音楽と建築を生み出している。そこに生きる君主や貴族たちがその地位と威光を誇るため競って音楽と建築を必要としたからに他ならない。

外見のはでな装飾や見栄えの良さをすべて虚栄の範疇でとらえるのは容易だ。しかし、そこには貴顕の身たるものの生活様式の一つとして、あるいは当然の責務としても、作品が位置づけられていたことも見逃してはならない。

バルダッサーレ・カスティリオ-ネが優雅なルネサンスの宮廷ウルビーノで「宮廷人」を書いている。この書は宮廷での礼儀や美徳についての入門書ではあるが、人間として生きることを自覚した人間の生き方の指南書でもある。そこでは貴顕の人間としての持つべき気品、あるいは作法として位置づけられる、作品の果たす意味と役割も論じられている。貴族並びに上層市民として生きる人間にとって、戦争時においてこそ、戦うばかりではなく、詩を吟じ、楽器を演奏し、社交の場では優雅に舞踊を舞うのは必要不可欠な作法であったのだ。

(コレクションとしての作品的世界)

印刷術の時代を迎え、かっては神殿や教会のなかで一体となり神の国を現出させ、神の言葉を伝えていた音楽・絵画・彫刻は各々別々の芸術作品として自立する。さらに、作品の一つ一つはその所属ジャンルまで明確にし、区分けされる。区分けされた作品は印刷物と同じ様にバラバラとなり教会を離れる。教会をはなれた芸術作品の各々はやがて新たな場所にコレクションされる。自立した芸術作品は「コスモスとしての建築」を解体し、「風景の世界」の作品的世界を開いていく。

自立し、バラバラとなった作品は君主や貴族たちによって、祝典や外交上の貢ぎ物として利用される。さらに、作品の一つ一つは都市や庭園、宮廷や館という世俗の空間の隅々に散りばめられていくのだ。

「音楽と建築」はコスモスとしてのメディアであることからランドスケープとしての作品に変容する。作品の各々は社会的意味、集団的役割を変え、貴族の権威の象徴、彼らの館の個人的コレクションに転化して行く。貴族館の祝典の催しものの一つであったオペラもまた権威の象徴、外交上の貢ぎ物の一つに他ならない。

バロック時代、コスモスがランドウスケープに変容し、作品が教会から離れていきつつある中、「都市」はまだ「音楽と建築」を一体し、そのパトロンであった君主や教皇あるいは有力な貴族たちに保護されている。しかし、十八世紀以降の近代市民社会に入りパトロンたちは力を失う。崩壊する貴族に代わり、わずかに貴顕の身たる責務を持った実業家たちがその役割を引き受ける。

しかし十九世紀、都市もまた芸術の場としての役割を終焉していく。ロマン主義により人間の趣味・趣向・生き方が集団を離れ個人の趣向品に姿を変える。芸術がその本来の社会的、集団的意味を失って行く時、都市自体もまた芸術である必要がなくなり、そこは「小さな物語」、趣味や娯楽の集積場に転化して行くのだ。

(ミュージアムとコンサートホール)

十八世紀、オペラが専用のオペラ劇場で市民に公開されたように、貴族のコレクションであった作品も、やがて、編集・整理され市民に展示公開されるようになる。市民社会のコンサートホールやミュージアム(美術館・博物館)の誕生だ。都市が芸術の場として役割を失いつつある中、オペラ劇場とコンサートホールそしてミュージアムは啓蒙社会、近代自由市民社会のライフスタイルと都市を象徴する建物となって多くの人々に歓迎される。

オペラ劇場やコンサートホールで音楽を聴き、美術館や博物館で美術品や古代的遺物を鑑賞することは、自立した市民にとって不可決なスタイル。個々人が持つ趣味と見識によって作品を楽しむという新しいライフスタイルの誕生だ。しかし、「建築」はますます重大な局面を迎えてしまう。コスモスのみならずランドスケープとしての「建築」の解体でもあったからだ。

個々に様々なコンテクストを持つ作品たちではあるが、コンサートホールや美術館・博物館に展示される作品の各々は、その作品の持つ意味を的確に鑑賞者に把握してもらわければならない。しかも、作品各々が持つコンテクストどうしが、お互いぶつかったり干渉したり、邪魔することのない状況を作らなければならない。作品たち一つ一つはあたかも、百科辞典の中に配列された事柄のように、各々が行儀よく整理され、展示される必要があるからだ。

その為に準備される建築空間は建築自体がメッセージを発することのない、ニュートラル(ノンコンテクスト)な場となければならない。建築は饒舌であってはならず、無言、無音であることが求められる。無言の建築の中であるからこそ、饒舌な作品はその一つ一つが個々の意味を明解にメッセージすることが可能となるのだ。その饒舌もお互いが孤立した額縁(プロセニアム・アーチ)の中だけの物語。やがて、作品を取り巻く建築空間、都市もオペラ劇場もコンサートホールも美術館も博物館も、すべては祝祭性を消去した機能的な箱であることが要請された。

かっての教会は構築物と光と音によって構成された物語的世界、その「建築」の意味を増幅することが絵画や音楽、芸術の持つ役割だった。教会から飛び立ち、都市や貴族館の祝祭に関わって誕生したオペラの世界もまた、見て聴いて楽しむだけの孤立した世界へと変容する。たとえそこがどんなに華美な装飾で装わられたとしても、意味を持たないニュートラルで機能的な箱に転化するのだ。集団に支えられ、社会的意味を伝達するメディアとしての「音楽と建築」はその役割を終え、個々人の持つ感情への関わりを重視した嗜好品、装飾品への道を歩むことになる。

 (fig110)

(都市の変容)

十九世紀に入って、唯一、オペラ劇場だけがかろうじて集団的意味を保ち続けていた。オペラ劇場はニュートラルな箱以前に、社交空間、古代からの祝祭の場を敷衍した空間で在り続けていたからだ。ベルリン、ウィ-ン、パリ、ヨーロッパはどの都市もその近代化にあたってはオペラ劇場がもっとも重要な役割を果たした。中世に発達したヨーロッパの都市、その建設の時代は教会あるいは大聖堂が中心であった。十九世紀という新都市改革の時代はオペラ劇場が都市の核なのだ。都市とオペラ劇場は「風景の世界」にあっても古代からの「祝祭空間」を継続している。ヨーロッパの「都市」と「劇場」はもともと祝祭がその起源。「都市」は「劇場」であり「劇場」は「都市」なのだ。

すでに触れたことだが、都市を必要としたのは人間。人間生活を集団化し、より効率化することだけが目的なら、集落がありさえすれば良い。人間は人間として生きる為に都市を必要とした。人間が生きる残る上での利便や必要の為に集まるのであるならば、集落は拡大されるが都市は必要ない。集落とは異なる都市を必要とした本来の理由。それは、「人間が人間として生きる」ためには、人間どうしのコミュニケションや交歓拡大への要求に応える場が不可欠だったからだ。「人間が人間として生きる」ために最も必要とするもの、それは生きていくための食べ物ではなく、共に生きていく人間。この考え方が西洋の「都市」を支えてきた基盤となっていた。

現在、「都市」は終焉しつつある。それはワーグナーの祝祭劇場が示していることでもあるのだが、オペラと劇場は音楽のため、眺めて聴くためだけの世界に変容しつつあるからだ。祝祭性を失ったオペラと劇場は「都市」から離れ、集団的意味と役割を放棄する。同時に、「都市」もまた集団的、社交的使命を終え、個々人が求める利便にのみ供され集落化する。集団的意味を失った都市とオペラは「風景の世界」「作品的世界」からも乖離する。

文化的資質を失いつつある近代都市に対しトマス・マンは次のような警告をした。 それは彼自身の誕生の地リュウベック市の都市創立記念祭の式場でのこと。「都市は言葉と共に、今でも最も偉大な芸術作品である。都市が美術と秩序の象徴であることをやめたとき、都市は否定的な仕方で行動し、いわば解体の事実の蔓延を表現し、さらにそれを助長する。都市の密集地区では、邪悪が急速にひろがり、都市の石だたみには、そうした反社会的事実が深く刻みつけられるようになる。」(都市の文化:鹿島出版会)この警告は「オルフェオの終焉」から二百年、二十世紀の二度の大戦直後だった。