2011年11月25日金曜日

メディチ家の祝祭、オペラの誕生

(メディチ家の復権と教皇レオ一世)

花の聖母大聖堂のドームの完成から六十年、フィレンツェ・ルネサンスの中心的役割を果たしたメディチ家は十五世紀末から波瀾万丈の時を迎える。共和国でありながらすでに君主のように振る舞っていたメディチ家だが、豪華王と呼ばれたロレンツォ・イル・マニフィーコが没すると、ドメニコ会修道士サヴォナローラの反メディチ運動により一挙に窮地に立たされた。

そして1494年のフランス王シャルル八世のナポリ遠征に伴うフィレンツェ入城により、フィレンツェは揺れに揺れ、遂に、ロレンツォの息子ピエロ・デ・メディチとその弟たちは、ほとんどの財産を没収されたまま、ヴェネツィアへと脱出しなければならなかった。

復帰を果たすのは1512年、今度はフランス軍をイタリアから追い出したスペインの後押しによってだ。メディチ家のフィレンツェ帰還にもっとも尽力したのは枢機卿のジョヴァンニ・デ・メディチ。フィレンツェを追われたまま、フランスとスペインの戦いに参加し、遂に戦死したピエロ・デ・メディチに代わり、弟のジョヴァンニは当主として画策する。

幼いころから聖職者の道を歩まされていた彼は、兄弟の中では最も非凡。父ロレンツォは後のメディチ家の苦難を予測していたからであろうか、財力と権力の限りを尽くし、わずか十六歳のジョヴァンニを枢機卿にすることに成功した。それは十五世紀末のこと。ロレンツォの画策でジョヴァンニの叙任を許した教皇インノケンティウスの死の僅か三ヶ月前。ロレンツォ自身の死の三週間前、そしてメディチ家の苦難の始まる三十ヶ月前のことだった。

1512年、共和派ソデリーニやマキャヴェリが退けられ、フィレンツェの市民総会はその権力を緊急評議会に委譲する。評議会のメンバーは四十人、そのほとんどをメディチ派が占めることとなり、枢機卿ジョヴァンニと新しいメディチ当主ジュリアーノは帰還することが許された。

千五百人の兵を率いて入場した枢機卿ジョヴァンニはあふれるばかりの民衆に迎えられ、まさに一国の君主の入市式の趣。サヴォナローラ時代の陰鬱な雰囲気が一遍に吹き飛び、フィレンツェはたちまちにして昔の賑わいを取り戻し、街中に音楽が鳴り響いた。

メディチ家が復権してまだ半年、ジョヴァンニは突然ローマに戻らなければならなかった。彼の後盾でもあった教皇ユリウス二世の死去の報が届いたからだ。名門の出身ではない教皇はフランス、スペインどちらに荷担することもなかった。それ故にメディチ家の復帰には幸いしたのだが、その教皇の死はフィレンツェにとっては再び後ろ盾を失う一大事。この時、ジョヴァンニ自身も体調を崩し、暗鬱な気分でローマに向かわなければならなかった。

ローマには到着したが、遅れて参加したコンクラーヴェ(教皇選出会議)。結果はなんと、ジョヴァンニが次期教皇として選出される。メディチ家出身の教皇レオ十世の誕生にフィレンツェは驚喜する。祝典では大聖堂の鐘が打ち鳴らされ、祝砲に、花火、クラッカー、酔いしれた群衆の叫びと、延々の燃えつづける火の中には家具や住家の厚板までが投げ込まれる狂乱状態が四日も続いたと言われている。


(トスカーナ公国の誕生)

メディチ家一色に塗られたかのようなフィレンツェだが、その政体はあくまでも共和制、相変わらずの内憂外圧、その後も揺れつづける日々が続く。復帰を支援したスペインが程なく外交上の失敗でミラノやナポリから追い出されると、今度は在位したばかりの若いフランス王フランソワ一世が、またまたイタリア半島に足を踏み入れる。

一方、スペイン王フェルナンド一世から王位を引き継いだのがハプスブルグ家カルロス一世、彼はほどなく神聖ローマ帝国皇帝(カール五世)をも叙任することとなり、ここにきて、ドイツとフランスはイタリアを挟んで大きく対峙することとなった。

こんな時代、揺れるのはフィレンツェだけでなく、イタリア全体。ヴェネツィア共和国はもちろん、ミラノ、フェラーラ、マントヴァ、ウルビーノと、どこの公国もその存亡に四苦八苦する。そんな中、1521年、フィレンツェは教皇レオ十世を失った。しかし、程なくフィレンツェはまた新たなメディチ家出身のローマ教皇を得ることとなる。優柔不断(サッコ・デ・ローマ)の教皇と言われるクレメンス七世。

こんな時代のフィレンツェが再びメディチ家出身の教皇を得ることは共和国にとって幸いであったかどうか。イタリアの一都市に過ぎないフィレンツェは、その生き残りの全てはクレメンス七世の存念に支配されることになった。

新教皇は自分自身の庶子であるアレサンドルをドイツ勢力下のフィレンツェ公として迎えることを画策した。当初、アレッサンドルは巧みに振る舞い、共和国としての対面を保ったが、カール五世の庶子であるマルガリータと結婚、ついにフィレンツェ共和国は実質的にはドイツ支配下の君主国に移行することとなった。


(メディチ家の祝祭)

君主となったメディチ家はフィレンツェの持つ共和制時代の伝統を巧みに隠蔽しつつ、専政的な支配体系(君主制)を確立することが必要となる。さらに新興貴族のメディチ家がハプスブルグ家やヴァロア家のような一大貴族の仲間入りを果たすためには、その一族の栄光と新たな権力の強調は不可決だった。

その権力の強調のため、数々の祝祭や宴会を開催し、かってのように一市民としてではなく、独裁者・君主として都市を華麗に飾らなければならない。都市を舞台としての祝祭は諸外国の君主との対面上の必要であるばかりでなく、フィレンツェ市民そのものに、その威光を印象づけるためにも欠かせぬもの。

メディチ家はこうした祝祭のたび毎に宮殿(パラッツォ)や別荘(ヴィッラ)を建て、その内部には数々のフレスコを描いた。あるいは都市のそこここには公共の記念建造物や彫像を置く。君主は君主である為には建築を作り、都市を飾らなければならなかったのだ。

祝祭のための飾り付けには様々なアレゴリー(寓意)を表現したアトリビュート(事物・持ち物・属性)の使用がもっとも効果的。威光や権力という目に見えないものを見えるようにするためには、古来より事物に意味を託すという手法が最も役に立った。

メディチ家は神話的体系の形成に関わる様々なアトリビュートを祝祭のたびに飾り付ける。それは一族の歴史そのものを、いにしえの王の継承者に匹敵しうるもの、と印象づける為に不可決なことだったのです。


( トスカーナ大公の結婚式)

メディチ家の大々的な祝祭の最初は1539年のトスカーナ大公・コジモ一世の結婚式。花嫁は神聖ローマ皇帝カール五世によって選ばれたナポリ総督の娘、エレオノーラ。彼女はスペイン人、トレドの生まれだった。

その祝祭のすべてはスペインのカルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)への賛辞とフィレンツェ市民への誇示で覆われ、記念門や騎馬像が建てられる。

婚礼の祝祭は当然、宮廷の中にも持ち込まれる、そこでの山場はインテルメディオ(幕間劇)、その経過はことごとく記録に残された。

ラテン喜劇にインテルメディオ(幕間劇)を挿入することで、宮廷人がラテン語文体を学ぶという文学的朗読会の場を、音楽的娯楽的色彩の強い観劇の世界に変えたのは前述した十六世紀の始めのフェラーラ・エステ家宮廷。そのインテルメディオはフィレンツェに持ち込まれ、新興のメディチ宮廷の神話作りに最も効果的な催し物として利用される。インテルメディオの上演は娯楽の対象であると同時に、政治的意図を伝える格好の機会。メディチ宮廷ではインテルメディオを手の込んだ視覚的スペクタクルに仕上げ、声楽と器楽曲を相あわせた一つの芸術形式のようなものにまで発展させている。

1539年の祝宴では七つのインテルメディオが上演された。この時の上演はアントニオ・ランディのラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディチ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、観客席と初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセニアム・アーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じている。


(建築家ヴァザーリのプロデュース)

1565年の祝祭はさらに大がかりなものだった。コジモの息子フランチェスコ・デ・メディチと神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の妹、ヨハンナとの結婚式。祝祭のプログラムの作成はドン・ヴィンチェンツォ・ボルギーニ、アートディレクターはジョルジョ・ヴァザーリと記録されている。

二人は十六世紀半ばのもっとも著名な学識経験者、多彩な活動で知られる修道院長と建築家。フィレンツェには婚礼のための都市への入場式門やメディチ一族を讃える野外劇場が建設され、さらにヴェッキオ広場には「宗教」と「市民の賢明さ」「公衆の平静」を主題とする三つの記念門が作られた。

この時の建築家ヴァザーリは多くの街路装飾の総合監督。多くの建築家、彫刻家、画家の一団をまとめあげ、フイレンツェ市民があたかも、いにしえのローマの中を歩き回っているような体験を演出したと言われている。

ヨアンナとフランチェスコの祝宴での演目はフィレンツェに題材を採った「ラ・コファナリア」。この時のインテルメディオは観劇していた花嫁と花婿に繋がるもの、すべてがアモールとプシケの物語。

会場はヴェッキオ宮殿、中世以来の共和国の城館がメディチ家の宮殿、その二階の「十六世紀の間」だった。内装は当然、ジョルジョ・ヴァザーリが担当。広間には観客の為の段席が設えられ、大公の席はその中央に設けられた。

舞台にはプロセニアム・アーチ、そのアーチには下に落とす形の幕まで用意されている。声楽には器楽の伴奏が付き、間奏曲はチェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団が演奏した。


(メディチ家の大狂宴)

もう一つ重要なインテルメディオもまた克明な記録に残されている。フェラーラのエステ家同様、メディチ家も記録を出版することで婚儀のもつ政治的意味を積極的にフィレンツェ内外に知らしめることができたからだ。

1589年、フェルディナンド大公とロレーヌ家のクリスティーヌとの結婚式。この時の劇場はフィレンツェのウフィッツ宮殿に設えられた。ウフィッツィ宮殿はコジモ一世の命によりジョルジョ・ヴァザーリが1560年に設計した建築。現在は絵画美術館として使われている。

1575年、メディチ宮廷は手狭になったヴェッキオ宮殿からこの新宮殿で公務を執ったが、ここの広間を改造した劇場がすでに触れたテアトロ・メディオ。この劇場は十七世紀初頭のカロの版画として残され、当時の様子を知る重要な資料となっている。そして、この劇場こそバロック劇場の原型、中庭や広間で仮設化された当時の舞台の集大成と目される。

フェルディナンドとクリスティーヌの結婚式は1589年5月2日。ジローラモ・バルガーリの五幕の喜劇「女巡礼」(ラ・ペレグリーナ)、その幕間とその前後、六つのインテルメディオが上演された。

この時のインテルメディオはイギリスのテレビ局によって再現されている。制作はちょうど、四百年後の1989年。「メディチ家の大狂宴」と題されたこの企画はその後イタリア賞も得ることになり、世界中で発売された。(東芝EMI・TOLW-3620)画面は全て明るい光に包まれたギリシャ神話の世界、神々が雲に乗り、高らかにマドリガーレを響かせる。

器楽奏者は二十人を優に越え、当時の世俗音楽としては驚くほどの大編成。ムーサイやシレーナやニンフたちのマドリガーレは六声から八声、歌合戦のシーンや最後の地上に降りた神々の贈り物では三十声部を二人づつ六十人で歌う一大アンサンブル。

当然、この上演は大評判、楽譜はもちろん台本や舞台デザイン、その全てがヴェネツィアやフィレンツェで出版された。音楽そして舞台構成、残された記録は上演内容とそれに関わった人々を含め、祝典の姿を余すところなく今日に伝えてくれる。

全体の構成はメディチ神話の視覚化作業を担当するアカデミア・フィオレンティーナ。台本はリヌッチーニ、作曲は当時大人気のマドリガーレの作曲でフィレンツェの音楽界を風靡していた面々、バルディ伯爵やルーカ・マレンツォ、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ、クリストファノ・マルヴェッツィ等が担当。

後の「エウリディーチェ」作曲者ヤーコポ・ペーリも何曲か担当しているが、まだ若い彼はこの時、アポロン役の歌手でもあった。さらに興味深いのは舞台担当の建築家ブオレンタレンティ、彼はジョルジョ・ヴァザーリを次いだメディチ家筆頭の建築家。

しかし、ここでの役割は、建築以上に重要だった祝祭・祝典の装飾係。この時、彼が書き残した舞台画は個人により生み出される幻想の数々、透視画法が持つルネサンスの理想とは程遠く、それは個人という作家による作品制作の時代の始まりであり、バロック時代の到来を確実に物語るものとなった。

作品の時代の到来を告げる真のオペラの誕生はモノディ様式による「エウリディーチェ」の完成を待たなくてはならないが、1589年の「メディチ家の大狂宴」はオペラ誕生以前に早くもバロック・オペラの全容を記録した画期的な出来事となっていたのです。


(バルディ伯のカメラータ)

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる、生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。十六世紀後半、フィレンツェには二つのアカデミア(メディチ家の周囲に集まった人文主義者のサークル)があった。

そのうちの一つ、アカデミア・フィオレンティーナは新興の君主であるメディチ家を神話化する為、その視覚化作業に中心的役割を果たした。1589年、フランチェスコ・デ・メディチとの結婚の際のジョヴバンナの入城門の設置やサロンでのインテルメディオはこのアカデミアが中心となって運営される。

もう一つのアカデミアは音楽に関わるサークル、正式にはアカデミアを名乗る資格は持ってはいないが、音楽家としても名高いジョバンニ・バルディ伯爵がサンタ・クローチェ教会の近くの館で個人的に開いていた。

そこに集まった人たちをカメラータと言い、バルディ伯のカメラータと呼ばれている。参加しているのは貴族ばかりではない、教養のある市民、音楽家、詩人、哲学者たち。彼らは天文学を研究し、詩や劇を書き、作曲もした。音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見すること、さらに詩と音楽をいかに結びつけるかなどを研究している。


(コルシ伯のカメラータ)

バルディ伯のカメラータの有力メンバーの一人はガリレォ・ガレリーの父。彼は「古代音楽と現代音楽に関する対話」を出版し、伴奏付きモノディ様式の理論的基礎を築いている。

自らも詩や劇を書き、作曲もするジョバンニ・バルディ伯爵は古典神話の研究に力を注ぐアカデミア・フィオレンティーナに協力し、その音楽的サポート、ギリシャ音楽の本質の発見と古代の習慣に合わせた当時の音楽の改革に力を注いだ。

トスカーナ大公が代替わり、フランチェスコから弟のフェルディナンドに代わると、先代の大公に近い立場にあったバルディ伯やガリレオは宮廷から疎んじらる。残されたカメラータたちをバルディ伯に代わって保護したのはフィレンツェ貴族ヤコポ・コルシ伯爵だった。

コルシ伯爵は富裕でもあり、新大公に取り入ろうとする政治的野心も持ってる。やがて、コルシ邸にも沢山の人々が集まるようになる。バルディ伯のカメラータたちを教師として育ってきた若い詩人のオッタヴィオ・リヌッチ-ニや作曲家ヤコポ・ペリという人たち。さらに、有名な独唱曲マドリガーレ「アマリッリ」の作曲家ジュリオ・カッチーニ。彼はバルディ伯の館でのカメラータでもあったが、この曲をコルシ邸の集まりの頃この曲を作曲し、彼自身の研究書「新音楽」の中に挿入している。

バルディ伯からコルシ伯と引き継がれたアカデミア、そこでのテーマは引き続きは古代ギリシャの音楽劇の様式についての研究が中心だった。


(ポリフォニーからモノディへ)

コルシ伯のカメラータの関心は牧歌劇やインテルメディオを、ただただ上演すれば良いというものではなかった。どちらかというと学究的な集まり、ギリシャにおける厳粛なドラマと音楽の結合に関心を集中させている。

そして、「ギリシャ劇では言葉と旋律が一致している、そこでは言葉が全体を支配し、音楽がそれに従う」と考えていたのだ。宮廷におけるマドリガーレやヴェネツィアにおける複合唱、それらはかなりイタリア的、ホモフォニックな趣を持っている。しかし、その音楽のみからではオペラは生まれ得ない。マドリガーレはヴェネツィアの複合唱ともども時代を謳歌していたポリフォニー音楽の一つに他ならないからだ。

コルシ邸のカメラータたちは、ポリフォニーは鼻持ちならないもの、抒情に走る音の綾織りとみなしている。ギリシャ悲劇の再生にはリズムと音、単純なメロディを重視した楽曲が必要と考えた。さらに彼らは、劇の上演にあたってはテキストがはっきりと理解できる状況こそが大事であって、その為には音楽は、簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。

ポリフォニー音楽を、知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎないとまで言う彼らは、ハープシコード、チェロ、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバの通奏低音の管弦楽の上に立つ単旋律のソロの歌にこだわり、それが「モノディ様式」として確立された。結果として、その試みから見いだされたもの、それはドラマのなかに音楽を挿入する方法ではなく、音楽とともに進行するドラマの形式。ここで見るオペラの誕生は、ゴシック様式がイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したのに似て、曖昧さのない知的構築物を求めた結果と言ってよいようだ。


(初めてのオペラ、ダフネ)

史上初めてのオペラ「ダフネ」は1598年の謝肉祭にコルシ邸で初演された。リヌッチーニの台本に最初はコルシ伯自身が、やがてペーリが作曲に加わり完成する。現在に残こされた楽譜はコルシ伯の作曲部分のみ、従って「ダフネ」はオペラの歴史からは消えていく。しかし、初演後の評判は高く、謝肉祭の明くる年、そのまた明くる年と大公の宮廷で再演されたと記録されている。

「ダフネ」は牧歌劇による音楽劇。その内容は比喩的にはトスカーナ大公の歴史を概観したもの。アモールの二本の矢から始まるアポロとダフネの物語。アモールの黄金の矢を受けダフネに心を奪われたアポロン。彼に追われダフネが変身する月桂樹はメディチ家の木を意味している。アポロンはその木を勝利と喝采に捧げ、自分自身の悲しみを昇華させる。

この物語はまた、混沌に対する秩序の勝利と回復が主題となっている。アポロンはもともとフィレンツェそのものを意味する。そのアポロンをコジモ一世の象徴とすることで、メディチ家そしてフィレンツェの復興を印象づけようとすることがそもそも牧歌劇「ダフネ」の筋書きなのです。


(ピッティ宮殿のエウリディーチェ)

「ダフネ」の上演で積極的に大公フェルナンドに取り入ったコルシ伯は次に「エウリディーチェ」を世に生み出すことになる。「エウリディーチェ」は1600年10月6日、トスカーナ大公の娘のマリアとフランス国王アンリ四世の婚儀の際、パラッツォ・ピッティで上演された。

現在のオペラのレスタティーボ(オペラにおける詠唱ではなく、語りの部分)とは異なり、多少メロディアスであったとは言え、通奏低音の上の単旋律のソロや合唱だけの音楽劇は宮廷の結婚の祝宴の催しものとしては華やかさに欠けている。

すべての「言葉」を音楽として歌う新しい形式は、スペクタクルな場面をマドリガーレで盛り上げるインテルメディオに比べ、祝宴に適するものであったかどうか気になるところだ。しかし、新しい音楽劇「エウリディーチェ」は多くの人々の関心を呼んだと記録されている。

「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果が必要であったのではない、詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠い、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なこと、それはカメラータのモノディ様式が音の綾織りの嫌悪し、ソロを確立したことだけにあったのではなく、「音楽によってドラマが進行する」という様式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎をデザインしたことにあったのだ。

「エウリディーチェ」のドラマの形は悲劇でも喜劇でもない、第三の劇、牧歌劇だ。音楽の寓意によるプロローグで始まる形式も当時人気の「アミンタ」や「忠実な羊飼い」となんら変わるところはない。牧歌劇の舞台はアルカディアであり、題材は恋愛、物語は諸々の事情により始めはうまくいかないが、最後は幸福な結末となるというのが一般的。

しかし、「エウリディーチェ」はオルフェオの物語、牧歌劇としてはいたって単純、オルフェオが黄泉の国からエウリディーチェを救い出す話。物語が単純であることから、「エウリディーチェ」は新しい音楽の様式にすっかり合い、音楽でしか果たせない情感表出の場面にも恵まれたのだ。

この単純ではあるが情感豊かな「エウリディーチェ」の上演はドラマでもなければ、インテルメディオでもない、初めての音楽劇(オペラ)として位置づけられることになった。

オペラはブルネレスキやアルベルティよる透視画法の発見からほぼ百五十年余り後、同じフィレンツェの地で誕生した。古代ギリシャ以来「神のいる世界」を眺めてきた人間は「オペラの誕生」によりこれから後、 「音楽と建築」をメディアとして、神に代わり人間が眺める「風景の世界」と関わって行くことになるのです。

2011年11月24日木曜日

フィレンツェのカメラータの音楽

オペラの誕生は瓢箪から駒と言われる。
生み出されたきっかけと生まれでた結果が著しく異なるからだ。16世紀後半、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の近くのジョバンニ・バルディ伯の館ではユマニストの集まりがあった。彼らの集まりをアカデミーと言うが、集まった仲間たちをカメラータという。テーマはギリシャ悲劇の上演、音楽を古代ギリシャの理想に則し再発見することにあった。

ギリシャの音楽は言葉と旋律が一致している。言葉が全体を支配し音楽がそれに従う、バルディのカメラータが考えたギリシャ悲劇。テキストがはっきりと理解できるように、音楽は簡単な伴奏の上に載ったソロの形が望ましい。当時流行のポリフォニー音楽は知性に対し訴えるものがなく、感覚的な耳の刺激にすぎない。当時流行のフランドルの多声は複雑な音の綾織りに過ぎないと嫌悪されている。
そして和声的感覚の上になり立つソロの歌にこだわった。
建築デザインにおいて、ゴシックがイタリア人に嫌われ、明快なルネッサンス建築を生み出したことに通じるものがある。彼らは曖昧さのない知的構築物を求めていたのだ。

カメラータは1594年田園劇「ダフネ」を完成させる。
さらに1600年10月6日、トスカーナ大公の娘の婚儀には「エウリディーチェ」をパラッツォ・ピッティで上演した。レスタティーボだけの音楽劇は今の私たちには、結婚式用の華やかなイメージとはほど遠いもののように思える。しかし、演奏された「エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、美しいメロディや華々しい音響効果とは異なるもの。詩の意味、言葉の中身をいかに的確に伝えるかが大事だったのだ。

誕生期のオペラは現在の娯楽とはほど遠く、恐ろしく教養主義的な趣を持っていたことがわかる。しかし、その後のオペラにとって重要なことは、ソロの確立や音の綾織りの嫌悪ではない。音楽によってドラマが進行するという(モノディ)形式、ドラマ的な音楽を生み出すための基礎がはじめて作られたことにあった。
この形式はブルネレスキやアルベルティの建築から遅れること100年あまり、しかし同じフィレンツェの地で誕生したことは重要だ。

2011年11月23日水曜日

インテルメディオ


古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない、しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、ソロや二重唱やコーラスも用いられていた。音楽が積極的に展開される場は、挿入部であるがゆえにインテルメディオと呼ばれていた。その題材はネウマのトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持っていた、しかし、あくまで劇本体とは別種なもの。それぞれ独立した物語であった。
教養主義的なラテン喜劇に音楽劇を導入する契機は、その上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。古典劇への関心の大小に関わらず、より多くの人々をそのドラマの世界に引き込んでいる。ここで重要なことは、インテルメディオへの関心が高まれば高まるほど、それが演じられる場は朗読会のような内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界を必要としたであろうということだ。

 インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは15世紀初めのメディチ宮廷です。共和制から君主制に移行したフィレンツェ、1539年コジモ一世とトレドのエレオノーラとの結婚式では7つの続きもののインテルメディオが上演され、精巧な透視画法を用いた舞台装置まで採用された。
インテルメディオはラテン喜劇「イル・コモード」に挿入されたもの。メディテ宮廷の中庭には建築家アリストーティレ・ダ・サンガロによって、ヴァレリウム(古代ローマ風のテント)の下の観客席、そして初期的ではあるが円柱と彫像を持ったプロセ二アムアーチまで設えられ、羊飼いやセイレン、シレヌスや妖精たちが古代劇場風な世界の中で牧歌的風景を演じられた。

1565年、オーストリアのジョバンナとフランチェスコ・デ・メディチの結婚式、演じられたのは「ラ・コファナリア」、会場はメディチ宮殿の16世紀の間。内装はジョルジョ・ヴァザーリ、観客の為の段席まで用意され、大公の席はその中央、プロセミアム・アーチには下に落とす形の幕が用意された。声楽に器楽の伴奏、間奏曲の演奏は、チェンバロ、ヴィオール、サックバット(トロンボーン)、リュート、フルート、コルネットの合奏団、そしてこの時のインテルメディオはすべてクピドとプシケの物語、当然この物語はそのまま観劇してしていた花嫁と花婿の結婚に繋がっている。

北イタリアのマドリガーレ



17世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地です。
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。
しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という3大勢力の政治的バランスの調整地でもあったのです。
衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたがミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントバ、パロマ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。
どこの都市も政略的な結婚とそれに伴う華麗な祝宴を演出することで外交上の生き残りの道を画策している。
加えて1630年以来の諸都市に日常化し、蔓延していたたペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教的混乱、イタリア半島の17世紀はイタリアは精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っているものと、言えるのではないだろうか。
オペラと劇場がもてはやされた時代はそんな時代。
その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈り。
とは言え、その時代が前時代の形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。
その時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが最も関心を持っていたこと、それは近代的な意味での際限のない人間追求であった。
 

2011年11月22日火曜日

オペラ劇場のもう一つの建築的役割


















演技者や音楽家にとって、劇場は必ずしも必要なものではない。
現代のピーター・ブルックに示されるように、都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇にとっては必要なのは舞台であって、劇場ではない。
劇場を必要としたのはむしろ建築家でした。
劇場をつくることで、建築家は建築家に与えられた社会的使命を果たさなければならなかった。

ペロポネソス半島のエピダウロス劇場は、アイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した100年も後の建設。
北イタリアのテアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す50年も前の建築です。
興味深い事に、ギリシャ劇場はむしろギリシャ悲劇の低迷期に作られている。
現代社会からはじめて言える事だが、たくさんの劇場が作られる時代、その時代は必ずしも演劇が盛んであったわけではない。
さらにまた、演劇が建築としての劇場の形式を決定したということはほとんどない。(ワーグナーだけは自分の音楽のために自分の劇場=バイロイト劇場を作った)。
演劇は劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えて行った。その最も具体的な例がオペラ。

フィレンツェの貴族館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開いた。つまり、オペラはバロック劇場を得る事で音楽の形式を完成させたのです。














建築は、人間の生活のための安全で便利・快適な箱を作ることがその役割だが、必ずしもそれだけが役割の全てではない。
建築は人間と人間、人間と世界との関係を調整するという役割を持っている。
エピダウロス劇場やテアトロ・オリンピコは演劇や音楽のための建築という以前に、人間と世界の関係を示した実物模型としての役割を持っていた。
劇場空間は「世界のかたち」、世界とはこのような形であるという実感させる似姿(モデル)であったからだ。
つまり、建築家は世界模型としての劇場を作ることで、世界の中での人間のあるべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにしようとしたのだ。「世界」そのものを知り、自分自身が「世界」のどこにいるかを実感させる建築空間、そんな空間の創出がギリシャあるいはルネサンスの都市の衰退期に建築家が社会から要請された使命だったのだ。




演劇の上演にあたって音楽が用いられることは、古代よりどこの文化シーンでも常識化している。その目的が宗教的経験であったり、世俗的娯楽であったりすることも共通。中世の受難劇がオペラと異なるのは、題材の違いは当然としても、前者が場面、衣装、舞台装置を用いないだけで、音楽とせりふの関係はほとんど変わらない。むしろオペラの特色は演じられる場、劇場にある。近代の祝祭空間であるオペラは宗教改革に揺れるヨーロッパ社会にあって、教会とは異なる<劇場>を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんだように思える。一方、ギリシャや中世の祝祭空間から見ると、劇場を必要としたのは音楽家や演奏者ではなく観客。見る・見られるという視線の分離が不必要な全員参加の古代の祝祭にあっては、まだ劇場空間が必要とされることは無かったのです。
オペラと近代劇場の誕生、各々は決して同時に同じ場所で生まれたものではない。発展の経緯は後述に譲り、その契機を見る限り、オペラはすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えて行ったように思える。つまり全員参加の祝祭空間に<劇場>の持つ<見る・見られる>という装置を巧みに取り込むことにって、オペラと言う形式を整えていった。 

一般に劇場をめぐって建築家と音楽家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のために作られていない」。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のためにあるのだから、建築家はこの批判に対処しなければならなのは当然、しかし、契機から見る限り、かっての建築家には弁護の余地はある。何故なら建築家は祝祭から誕生した劇場を観客のために作ったのであって、音楽家の為ではない。

図版はロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」が1816年2月20日初演されたローマ・アルジェンティーナ歌劇場」http://www.and.or.tv/operaoperetta/1.htm

2011年11月21日月曜日

告発サイトWikileaksを支援する世界的ネットワーク

「告発サイトWikileaksを支援する世界的ネットワーク」の記事を読み、考えてしまった。 
制限なしの情報公開は日常世界を混乱させるではあろうが、 
全ての情報とデータは公開されるというのが21世紀の方向だろう。 
ここから発生する諸問題に対し、個々人がいかに自主性を持って対処出来るか。 
時代はもはや、神以上の選択・決定を全て人間に託したということだろう。 
18世紀同じ問題に直面した西欧は道徳と教養による市民主義を敷衍させたが、 
21世紀の動物化した情報人間はいかなる道を見つけるのか。 
かんたんに言えば、空気を読まなければ生きては行けないが、 
読んだ空気にただただ振り回されるだけであるならば、 
最終的に苦しむの振り回された個々人ということだ。 
いつも自分自身は安全でいたいと思うなら、空気なんか読まない方がましかもしれない。
http://wiredvision.jp/news/201008/2010082623.html

古代劇場の固定背景とシェークスピア劇


現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータの劇場。
紀元二百年頃のこの建築、リビア出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられた。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。
その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打って作られている。
両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。
この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが可能となった。
舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有し壁龕を作っている。
この壁龕に挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所となっている。
この舞台背景(スカエナ・フロンス)は何を意味しているのか。

全体の印象は後のルネサンスに沢山登場する理想都市のイメージ。
アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景はテアトロ・オリンピコに共通している。
ヴィトルヴィウスの建築書から類推すれば悲劇用のスカエナと言えるが、興味はむしろ、背景が何故、劇の内容以前に設置され、固定化されているかにある。

舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇とは異なり、この固定化されたローマ劇場の背景はどんな意味を持っていたのだろうか。
「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマはもちろん西欧社会では十六世紀以前、舞台背景はいつも固定的なものであったのだ。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場つまり観念的な世界(コスモス)を示すもの、あるいは中世においては天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものであった。
そのような舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物に他ならない。

劇場は二つのコスモスが重なりあった空間であるという説明はすでにした。
そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として位置つけられていたのです。
つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場にほかならない。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピアです。
「十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ時代同様のコスモス(世界観)の象徴性で満たみたされていたのに対し、シェークスピアの登場人物が生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。
その理由は登場人物が世界観ではなく特定の場所に強く結びついているからです。

同時代の他の作家と異なり、シェークスピアは主役たちに特定の物理的背景を与える必要性を感じていた。
彼の場所に対する感受性は、時代を先取りしていた。
やがて、西洋社会では自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピアの見方が多くの人々に共有されるようになった、と言って良いだろう。

舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行していると考えられる。
舞台が一つのコスモスであった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、また万人でもあったのだ。
しかし、舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景(シェークスピア劇)が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。(個人空間の誕生:p147)

つまり、ローマの劇場は特定の場所ではなく世界劇場(コスモロジー)を意味しているのです。
世界劇場の祝祭舞台は普遍的な場に他ならない。
そこは神がつくる天国や地獄であり、人間が生み出す理想都市。
一方、シェークスピアは世界劇場を否定し、人間劇場を創世した。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上階下階に設えられた舞台となり、あらゆる所を所狭しと使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。
そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であったのです。

ここで重要なことは、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあったことにある。

後に見るように、この変局点こそギリシャ悲劇からオペラの誕生に移行する変局点に他ならない。
つまり、オペラとは古代と近代の微妙な重ね合わせにより誕生した。
オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を重ね合わせているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言えるのだ。

三つのオルフェオ

(オルフェオの物語)
高山と峡谷により隔絶されたニンフと牧人が住まうのどかな理想郷。オルフェオはテッサリアの谷間、アルカディアに住んでいます。
彼はアポロンと九人のミューズ(知的活動を司る女神)の中の一人、カリオペとの間に生まれた音楽の神でした。
オルフェオは毎日、金の竪琴を弾きます。
その音と彼の歌によって鳥や獣だけでなく、木々も頭をたれ耳をすましました。
空に漂う雲も、小川のせせらぎも、彼の歌に合わせ流れたといいます。
オルフェオの最愛の妻はエウリディーチェです。
ある日、彼女は川岸を散歩して、あやまって草の中の毒蛇を踏みつけてしまいます。
毒蛇は怒り、エウリディーチェに噛みつきました。
やがて、彼女はオルフェオとの別れをおしみつつ、草の上に顔をうずめ息たえました。

エウリディーチェを失ったオルフェオは、悲しみのあまり竪琴も手にせず、歌うことも止めてしまいます。
いつもの川岸に座り、ただただ涙を流すばかりの毎日。
ある日、彼はエウリディーチェを取り戻そうと心に決めます。
エウリディーチェを探しに出かけたオルフェオは、やがて大きな黒い門の前に出ました。
そこには頭が三つの化け物のような大きな犬が番をしています。
闇の中の六つの火のような眼と歯をむき出しにして、すさまじい声で吠える化け物を前にして、オルフェオは金の竪琴を肩から降ろし、静かに弾きはじめました。
すると犬はだんだんとおとなしくなり、足下で眠ってしまいます。
もう一度オルフェオが歌を歌いはじめると、門はひとりでに開きはじめました。
死の国に着いたオルフェオは宮殿の門に立ちました。
そこにはいかめしい番兵、しかし、彼もまた竪琴の音を聴くと、おとなしくオルフェオを見送ってくれました。

広間にはハデス王、冥界の王です。
生きたままこの国にやって来たオルフェオを烈火のごとく怒鳴りつけますが、オルフェオはだまって竪琴を取り、えもいえぬ音を響かせ静かな美しい歌を聞かせました。
王の怒りはおさまり「美しい音楽を聞き、こんなにいい気持ちになったのは生まれて初めてじゃ。死してもいないのに、こんな寂しく、悲しい国にやって来たのだから、そなたにはなにか願いがあるのであろう。どんな願いか申しなさい、一つだけは叶えよう。」
オルフェオはエウリディーチェを地上に戻してくれるようにお願いしました。
死したエウリディーチェを再びこの世に返す願いに、さすがに王は渋ります。
しかし、あんな美しい音楽を奏でるものの願い、聞き届けてあげようと、エウリディーチェを黄泉の国から地上に戻すことを許しました。
ただし、二人が地上に戻るまで、どんなことがあっても、後から付いてくるエウリディーチェを振り返ってはならぬぞと、王はオルフェオに約束させるのです。

何度もエウリデーチェを見たいと思ったオルフェオですが、必死に我慢して道を進みます。
しかし、地上に戻る寸前、ついに辛抱しきれずエウリディーチェをわずかひと目と、振り向いてしまいます。
そこにはただ、なつかしい妻の声が聞こえただけ。
すべては霧の中に消えて行ってしまいます。

以上が、山村静さんのギリシャ神話(文庫)から要約できるオルフェオとエウリディーチェの物語です。
ピッティ宮殿の「エウリディーチェ」を始めとしてモンテヴェルディの「オルフェオ」、グッルクの「エウリディーチェとオルフェオ」と、この物語こそ「音楽」の底流であり、二人の作曲家はオペラ史のターニングポイントとなっています。
さらに、そのテーマを「愛と救済の物語」と敷衍させますと、モーツアルトの「魔笛」、ベートゥヴェンの「フィデリオ」もまた同じ流れの中にあります。
詩と音楽による劇という世界では、このテーマは決して消えることなく、現代に引き継がれています。

「オルフェオ」は、なぜ、オペラの底流なのでしょうか、なぜ、オペラ作家を引きつけるのでしょうか。
そこには見て聴いて楽しむだけのオペラとは異なるもう一つの「オルフェオ」があります。
それは、フィレンツェ・オペラが、その始まりに提示していた大事なこと。
オルフェオの物語にはギリシャ以来、音楽でしか表現出来ない「人間への知的関心」という大事なテーマがあるのです。

(オルフェオ・人文主義者の理想像)
フィレンツェのオペラ「ダフネ」の制作コンビは詩人オッタビオ・リヌッチーニと作曲家ヤーコポ・ペーリです。
「エウリディーチェ」もまた同じ。
どちらもメディチ家の政治的装置には違いありません。
しかし、「エウリディーチェ」は「ダフネ」ほどメディチ家の求める神話と直接的関わりを持つものではありません。
共通するのは、一つは舞台はアルカディア、ドラマの形式は当時はやりの牧歌劇であったこと。
二つ目は失われた黄金時代の牧歌的な幸せを、アポロやオルフェオの持つ力により再生しようとする願いです。
当然、このテーマはメディチ家だけのものではありません。
「オルフェオの物語」はルネサンス期、キリストに変わる新しい神のイメージです。
十六世紀には、失なわれたアルカディア(イタリア)をいかに取り戻すかが、時代のあるいは社会のテーマであり、そのイメージが「オルフェオの物語」に架せられました。

オルフェオは音楽の神です。
物語はもともと牧歌ではなく神話です。
神話であるということは、人間の持つ普遍的な問題、に関わっているということです。
オルフェオは悲しみを乗り越え、音楽の力によって死者を救い出した神。
不可能を可能とする神の持つ力、それはまた音楽に与えられた役割をも意味しています。
音楽の持つ役割とは、混沌としたカオスである自然界、人間界に秩序(コスモス)を持ち込み、神の国の似姿に変えること。
オルフェオは抒情詩人でもあり、理想的な竪琴弾き、言葉と音楽の力により、人間の生活を秩序だった世界へ、と導く神とみなされていたのです。

一方、救い出した愛する妻エウリディーチェをひと目みたい。
ハデス王との固い約束にも関わらず、どうしても振り向かざるを得なかったオルフェオは、神というより人間の姿そのものでもあります。
ルネサンス期の人々にとって、オルフェオは徳に無関心な石のような人間、身体的快楽にのみ狂気した人間を、音楽によって文明生活へ導く人でもあったのです。
従って、人間性に溢れた市民へと教化するオルフェオは、まさに同時代の人文主義者(ユマニスト)の理想像でもありました。

音楽によって人々の獸的な状態から文明人へ変える教育者、神の言葉を伝える詩人、雄弁を備えるオルフェオはフィレンツェのカメラータたちにとって、その姿は自分たちの存在の証しでもありましょう。
十六世紀末のカメラータによるピッティ宮殿での上演は、その役割を失いつつあるアカデミヤの顕在化作業に他なりません。
オルフェオを最も必要としたのは、その制作を担当したカメラータ自身であったと言えるのではないでしょうか。

ピッティ宮殿でのオルフェオがどんなに多くの人を魅了したとは言え、そのままの音楽では現在のオペラのような発展はありません。
事実、その後のメディチ家での祝宴は相変わらず、オペラよりインテルメディオの方が盛んであったと言われています。
モノディ様式による話す代わりに歌うという音楽劇は言葉よりも音楽が重要です。
オペラは劇を動かすことが出来るドラマティックな音楽を得て、はじめてオペラの道を発見するのです。
その道はピッティ宮殿の「エウリディーチェ」の上演から7年後、マントヴァにおけるモンテヴェルディの「オルフェオ」が切り開いていきました。

マントヴァでは、タッソの牧歌劇「アミンタ」がフェラーラに登場する100年も前に、オルフェオが上演されていました。
1480年、アンジェロ・ポリッツィアーノ作の「オルフェオ寓話劇」です。
ウェルギリウスが生まれたマントヴァは、イタリアにおけるアルカディアであるといわれています。
つまり、ここはオルフェオの誕生の地としてはもっともふさわしい都市です。
牧歌劇の初期の例となった「オルフェオ寓話劇」の上演には、多少の独唱曲や合唱曲が使われていますが、歌が登場人物の台詞であることはなく、音楽は情景を表す道具の一つにすぎませんでした。
つまり、音楽によってドラマが動くということはまだまだ思いもつかぬこと。
しかし、この上演は大きな評判を得ることになりました。
ポリッツィアーノの「オルフェオ寓話劇」はマントヴァ以降、数々の都市で再演されておりますが、ミラノではレオナルド・ダ・ヴィンチがその舞台装置を作ったとも言われているます。

オルフェオがマントヴァ宮殿で、モンテヴェルディ以前に登場していたことはオペラ以前の「オルフェオ」を考える上でとても重要です。
世界の中央から片隅に追いやられつつあるイタリア半島、かっての理想郷を芸術の力によって再び取り戻そうという物語は本来、十五世紀にこそ必要とされたテーマなのです。
十六世紀後半のイタリアでは、もはや理想郷は彼岸のものとなってしまいました。
そこで必要とされたものはもはや、再生の為の理念ではなく、インテルメディオに見られるある種の享楽でしょう。
つまり、テアトロ・オリンピコの理想都市と同様に、フィレンツェのカメラータによる「エウリディチェ」(オルフェオの物語)の上演は、すでに時代遅れのテーマであったことは免れません。
しかし、すでにアナクロニックであった「オルフェオ」を同時代の音楽劇として再登場させ大評判となったのもまたマントヴァ、モンテヴェルディの力です。

彼はフィレンツェとは全く異なる「オペラ」を生み出したのです。
モンテヴェルディの「オルフェオ」は新様式のモノディであり、あるいは牧歌劇を越えたドラマであるということでしょうが、何よりも新しい音楽であったことが重要なのです。

モンテヴェルディの台本はアレッサンドロ・ストリッジョ、彼はマントヴァ宮殿の秘書官、人文主義者でもあった人です。
その台本をよく読みますと、その全体は音楽賛歌となっていることがよくわかります。
プロローグはインテルメディオ風であり舞台はアルカディアの情景です。
牧歌劇同様、寓喩としての「音楽」が登場し、そして歌います。

私は「音楽」、柔らかな調べで
どんな乱れた心も鎮めることができます。
そして、ときには高潔な怒りにより、またときには愛によって、
どんな冷たい心でも燃え上がらせることができます。

フィレンツェのオルフェオのプロローグは「悲劇」ですが、マントヴァのオルフェオは「音楽」によって語られ、ドラマが始まるのです。
そして、興味深いのは四幕のクライマックス。
黄泉の国からエウリディーチェを連れ帰ることを許されたオルフェオ、そこで歌われるのは愛する妻への愛情ではなく、竪琴への賛歌なのです。

どんな名誉がお前にふさわしいだろう、
私の全能のリラよ、
お前は黄泉の王国で
どんなかたくなな心をも靡かせたのだ。
お前は天上のもっとも美しいもののあいだに、座を占め、
お前の音に合わせて星くずが、
緩やかに、あるいは速く輪になって踊るだろう。
お前のお陰で私は幸せが一杯で、
愛する女の俤を見、妻の白く清らかな胸に
きょう抱かれるだろう。

フィレンツェのオルフェオはユマニスト(人文主義者)としての役割が託せられている、と書くのは「ドラマとしてのオペラ」のジョーゼス・カーマンです。
しかし、モンテヴェルディにとってのオルフェオはどこまでも音楽の神。
オルフェオを詩や劇の支配下に置くのではなく、どこまでも音楽として解放することがモンテヴェルディの試みです。
オルフェオは神であるからこそ、ドラマの中で語るよりも歌うことが許されています。
散文や詩よりも、音楽そのものが神の言葉としてもっとも正当であり納得のできるものであったからです。
モンテヴェルディはそのことに特に意を尽くし、後世の人もまねできない絶妙なレチタティーボをオルフェオに与えました。

一度失った愛する妻を音楽の力によって取り返すという、あり得ないことをあり得る現実として一挙に形式化してしまう劇の持つ力に慄然としたモンテヴェルディは、フィレンツェで始まった音楽形式の中に、今までの音楽では達成できない「音楽の力」を発見しています。
つまり「オルフェオ」は音楽であるとともに、音楽を救い、人々を救うものです。
モンテヴェルディにとって「オルフェオ」は作品であると同時に、自分自身の可能性そのものであったのかもしれません。

モンテヴェルディが示す新しい音楽の力はレチタティーボにあります。
後世に見られるアリアとアリアを繋ぐだけの叙唱ではなく、通奏低音に支えられ感情を持った生の朗唱。
あるいはアリオーソと呼ばれるアリアに近い独唱です。
マドリガーレに示されるように、音楽の役割が雰囲気や場のイメージを描くことであったこの時代、オルフェオは人間の声による感情表現をはじめて音楽によっておこなったのではないでしょうか。
「オルフェオ」ではまだ後世のオペラのようにドラマの中の登場人物が一人一人的確に描き出されてはいませんが、場面場面で示される感情の変化はコルネットやヴァイオリン、ハープによるリトルネッロで巧みに調整され叙情的な音楽となって表現されています。
牧歌劇が音楽劇として変容したのはこの時なのです。
悲劇、喜劇、そのどちらでもない第三の劇としての牧歌劇がここではじめて音楽の劇へと変容した、それが後世に引き継がれるオペラの誕生にほかなりません。

(啓蒙的人間としてのオルフェオ)
自らが持つ竪琴によって野獣をおとなしくさせ、岩や木を動かし、嵐を静めることが出来るギリシャ神話の中のオルフェオを、フィレンツェでは徳に無関心で現実的な凶器じみた快楽にのみ関心を抱く人々を、詩や音楽によって、文明生活へと導くこうとする、人文主義の理想像とみなしていました。
フィレンツェのオルフェオは人の生きる道を伝える人文主義者そのものの姿。オペラを生み出した人々にとっては、オルフェオは彼ら自身の鏡です。

マントヴァのオルフェオは、どこまでも音楽の神。語ることより歌うことが許されたオルフェオは、詩を吟じ竪琴を奏でることで、不可能を可能とした神 でた。
しかし、その神もまた最終的には、エウリディーチェを救い出すことには失敗します。
モンテヴェルディのオルフェオは主知主義的なフィレンツェとは異なり、生の情熱を持ち懇願し哀切に泣く人間の姿オルフェオでもあります。
そして音楽家オルフェオは芸術の上では成功しますが、エウリディーチェとの現世的な愛を取り戻すという人生の上では失敗したのです。
音楽家としては成功しますが、マントヴァ宮殿では妻子との生活もままならない、不遇なモンテヴェルディそのものです。

十八世紀ウィーンに再び画期的なオルフェオが誕生します。
詩人ラニエロ・カルッツァピージの台本とクリストフ・ウィリバルド・グルックの作曲による「オルフェオとエウリディーチェ」です。
1762年10月、オーストリア女帝マリア・テレージャの夫君はトスカーナ大公フランツ一世と命名されることになり、その祝賀の祝典オペラとしてウィーン宮廷劇場で初演されました。
マントヴァにオルフェオが登場してすでに155年、新古典主義の真っただなかの時代です。
新古典主義では、前代のバロックに代わり、自由で、素朴、自然で、わざとらしくない人間感情の表現が大事にされます。
その表現ための形式は規律と秩序を原理とするルネサンス同様、再び静でバランスの良い古典古代の規範が求められました。

新古典主義の「オルフェオ」を作ったグルック。
彼はオペラ改革の人とも言われます。
音楽劇であることより歌唱中心、あるいは歌手が重視される歌の饗宴のようであった、当時のバロック・オペラに対し、グルックは再び演劇性を取り戻し、詩と音楽の有機的な結びつきによる音楽劇の制作をめざしました。

生み出されたオペラはいたって簡潔です。
グルックはフィレンツェやマントヴァと同じ「オルフェオの物語」を枠組みとしていますが、全く新たな人間像の構築を試みました。

グルックのオペラ「オルフェオとエウリディチェ」はもはや牧歌劇ではありません。
寓意によるプロローグ、「音楽」も「悲劇」も登場することなく、音楽が始まるとすぐにドラマの核心に入ります。
幕が上がると、エウリディーチェの死を嘆く合唱が流れます。
そして悲痛なオルフェオのアリアが続きます。
愛神アモールはオルフェオに冥界に行き、愛する妻を取り戻すよう勧めます。
冥府への入口では、復讐の女神たちの拒否の合唱、オルフェオはその合唱に対し静かな竪琴の調べと愛の歌声で呼び掛けます。
やがて、入場が許されとそこは、一転して輝かしく平和、やさしさと静かさで幸福な気分に満たされたワルツが奏でられる淨福の世界。
まるで天国かアルカディアに昇り着いたかの趣きの世界です。
ここまでの全体はつつましく、端正で、静かで、緩やか、バロックの狂騒とは程遠い優雅な新古典的世界が展開されます。

しかし、ドラマの核心は第三幕にあります。
そこからは一転して人間的葛藤が始まるのです。
オルフェオとエウリディーチェのレチタティーボがオペラの核心です。
振り向いてもくれないオルフェオへのエウリディーチェの嘆きと懇願。
神との約束と愛する妻の苦しみの板挟みに耐えかねるオルフェオ。
それはモンテヴェルディが示す情熱とは全く異なる十八世紀の、いや現代の私たち誰もが経験する人間的葛藤です。

エウリディーチェが歌います。
私を抱いてくださらないの?話して下さらないの?
せめて私を見て下さい!
言って下さい、私は以前のように
まだ美しいですか? 
見てください、私の顔のバラ色はあせてしまったのじゃないかしら?
言って下さい、あなたが愛し、
そして優しく呼んだ
私のまなざしの輝きは
暗くなってしまったのじゃないかしら?

オルフェオが歌います。
行こう、私のいとしいエウリディーチェ!
今は愛撫をしている
時ではない、
遅れてしまうことはわれわれにとっては致命的なことだ!

(エウリディーチェ)
でも一目だけでも!
(オルフェオ)
君を見てしまうと運命の終わりなのだ。
(エウリディーチェ)
ああ、不実な方!
これがあなたの歓迎なのですね!
私を一目見ることも拒絶なさる、
いとしい恋人から
優しい花婿から
抱擁と接吻を
期待できるはずの時に。
(オルフェオ)
さあ、黙っておいで!
(エウリディーチェ)
黙っているんですって!もっと
苦しまなければならないのですか?
それではあなたは
思い出も、愛情も、
貞節も、忠誠もなくしてしまったのですか?
愛と神と結婚の神の
あのように優しい、つつましやかな灯りを
あなたは消してしまったからには、
なぜ私の快い眠りを覚ましたのですか!答えてください、裏切り者!
(グルック・リブレット対訳:名作オペラブックス:音楽之友社)

このエウリディーチェの懇願に抗せる人はどこにもいないでしょう。
「何という苦しさ!ああ、胸が引き裂かれるようだ!もはや耐えられない・・・・・・」と歌い激しい勢いで振り向き、ついにエウリディーチェを見てしまうオルフェオ。
そして終幕です。

愛神アモールの戒めを守れず、振り返ってしまったオルフェオはエウリディーチェを再び失い、自殺まで試みます。
しかし、愛神アモールは「愛は世界中を幸福にする」と歌い、エウリディーチェをオルフェオのもとに戻してオペラは終わります。

モンテヴェルディのオルフェオはエウリディーチェが本当に自分について来てくれるか不安になり、振り返ってしまいます。
つまり、芸術家としての理想像であったオルフェオですが、救い出した妻が黙って自分に付いてきてくれているかどうか、人間としての自分自身には自信がないオルフェオの姿です。
結果として、オルフェオはその自信のなさから妻を失ってしまいます。

グルックのオルフェオはもはや神話ではありません。
そこは日常の我々と同じ、人間の世界です。
グルックのオルフェオは「愛しているなら私を見て」という懇願に負け、振り向かざるを得なかったのです。
それは人間としての憐憫の情、徳を持つ人間なら、もはや振り向かざるを得ない、と思わせるのがグルックのオルフェオです。

ドラマの筋立てには無理はありません。
愛ある人間であるなら誰も同じです。
理知的、啓蒙的に成熟している人間であるなら当然の姿なのです。
つまり、グルックは感情を持った啓蒙的人間としてのオルフェオ、道徳的モデルとしてのオルフェオを表現したのです。
そういう人間であるオルフェオだからこそ、愛神アモールは彼の気高い愛を賛美し、「愛は世界中を幸せにする」と歌い、エウリディーチェを現世に戻す、というエンディングにも私たちな納得してしまうのです。
つまり、ドラマの結末もすこぶる合理的。
十八世紀のグルックは人間オルフェオに相応しい「愛の賛歌としてのオペラ」を完成させた、と言って良いのではないでしょうか。

十八世紀の新古典主義、それを支えたのは旧来の貴族ではなく、台頭しつつある市民たちです。
彼らのオルフェオは理知的で勇気と憐憫の情を持った道徳的人間に他なりません。
グルックの30年後、モーツアルトは「摩笛」に、50年後、ベートゥヴェンは「フィデリオ」に同じテーマ、愛と救出の物語をオペラ化し、音楽によって新しい市民像のモデルを示しています。
つまり近代市民社会を迎え、オルフェオは神話的アルカディアから人間的市民社会に降り立った、と言えるのではないでしょうか。

(「オルフェオの世界」の終焉)
「ドラマとしてのオペラ」の著者ジョーゼフ・カーマンは「バロック時代の本質をなす芸術形式、神々や英雄を題材にしたオペラは、モンテヴェルディがその形式の価値を突然示したときに始まった。この偉大な伝統は、グルックがそれを独自に変形したときに終わった。だからオルフェオは、いわば一つの時代を始め、また終えたのである。」(p71)と書いています。
「オルフェオの終焉」です。

当然のこと、オペラの世界が終わった訳ではありません。
人文主義者でもなければ、音楽家でもない、私たち自身が歌う妻への愛と哀れみ、そして悲しみ。
「悲劇」「音楽」という寓喩が歌う神話的世界のオペラは人間的世界のオペラへと変容しました。
そして、グルック以降のオペラは等身大の人間が折りなす音楽によるドラマとなります。

そこはもはや「オルフェオとエウリディーチェ」のような2人だけの世界ではなく、大勢の登場人物の情実や感情が折り重なって進行する世界です。
登場人物がたとえ神話や歴史物語から選びだされたとしても、彼らはここではもう普遍的な人間ではなく、個々の役割と感情を秘めた一人一人の人間たち。
音楽はその登場人物の持つ個々の役割と感情を的確に描き出し、重ね合わせドラマを動かす。
これがグリュック以降の近代市民社会のオペラなのです。

話をその後「オペラの世界」から「オルフェオの終焉」に戻しましょう。
オルフェオは貴族や上級階級の人々に育まれ、築き上げられたものと言えます。
市民革命を待つまでもなく、「オルフェオの終焉」は彼ら特権階級の解体を意味しています。
しかし、ここで重要なのは歴史ではなく文化の変容にあります。
集団に支えられていた「作品の世界」が個人による個性の表出の世界に変容した、という事実を確認することにあります。

精霊に導かれ神から授かった言葉や音楽が人間による作品に変わるのはルネサンス。
しかし、ここから始まる「作品の世界」はすべて社会あるいは時代の要請に結びついていました。
「オルフェオの終焉」とは、作品がその依頼者の装飾やプロパガンダであったとしても、その世界は集団的意味の顕現の場あって、個人的世界の表出ではなかった、という「作品の世界」の終焉です。

オルフェオの持つ神話性の解体とは、作品がライフスタイルのナビゲーターや社会秩序のシンボルであることより、個々人の人間性の高揚に、その役割が移ったことを意味しています。
つまり、十八世紀グルックは、「オペラ」を集団の為の構築物ではなく、個人的生き方、感情に関わる「構築物」に変容させたと言って良いでしょう。

「オルフェオの終焉」は「ヨーロッパの音楽と建築」の大きな変局点、その変容を理解する大事な糸口です。
そして、ボクたちは今、相も変わらず、「建築の変容」を追っています。
この変局点を「音楽」のように乗り越えられなかったのが「建築」です。
何故なら、「建築」は18世紀以降の個人的世界にあっても、集団的意味を持った「作品の世界」からは逃れられない人間が生み出す最大な「構築物」だからです。

同じテーマをイーフー・トゥアンは「個人主義空間の誕生」で追いかけています。
それは「劇場」をキーワードとした、ヨーロッパの空間の変容。
あるいは西洋における個人主義の発生と環境の分節化の重なり合い、を書いています。
アナクロニックにかっての共同体に依存することなく、何を創るのか?
そして、かれは最終頁で次のように書いています。
伝統的な共同体では、客観的な価値が昔のまま残っている。物事や人々の活動の意味は明白である。意味はひとつの観点でも、個人的な情熱を傾けた結果でもないのだ。人はある役割を受け持つ。なぜならそれはそこにあるかである。(個人空間の誕生/p279)



(Gluck - Orfeo ed Euridice - Dance of the Blessed Spirits from BachnerTrpt on YouTube)

2011年11月20日日曜日

オルフェオの世界

キリスト教が中心であった中世社会に代わり、神に依存しない「人間を中心」とした新しいライフスタイルを模索始めた時、 彼らは神によって作られた「自然的世界」と同時に、人間によって生み出される「作品的世界(オペラ)」に関心を示した。
  神の世界と人間の世界、それは自然的世界と作品的世界、人々は想像としての二つの世界に住んでいた。 その二つの世界を橋渡しをしたのは「オルフェオ」です。 

オルフェオは竪琴を弾き、言葉を音楽に載せることで無秩序な動物的世界を秩序だった人間的世界に変える音楽の「神」。 
あるいはまた、抒情詩人として言葉を歌によって話すことが許された唯一の「人間」でもあったのです。

 「ギリシャ神話」に始まり、ローマ時代の「変身物語」に引き継がれる「オルフェオの物語」はオペラの題材としてはしばしば登場する。 フィレンツェに生まれる最古のオペラを始めとして、その数は30を超え、やがてオルフェオはオペラのみならず、あらゆる「作品的世界」のテーマともなっていく。

 オペラ作品としての「オルフェオの物語」。 その中で最も良く知られているのがモンテヴェルディとグルック。 
前者は十七世紀の始め、オペラの誕生期の作品、後者はその転換期、十八世紀半ばに作られている。 
二つのオルフェオはオペラ作品として重要だが、オルフェオとオルフエオの間の150年間もまた極めて興味深い時代。
 モンテヴェルディのオルフェオの初演はローマ、サン・ピエトロ大聖堂の大ドームの完成の時期に一致する。 
それは美術史に言うバロック時代の始まり。 二つのオルフェオの間、バロック時代はオペラのみならず、建築、絵画、彫刻と人間による沢山の作品が作られた時代でもあったのです。 

 オペラの誕生を準備するルネサンス、そしてオルフェオとオルフェオの間のバロック。
 どちらの時代の作品も旺盛な想像力に満ち、知的好奇心を刺激する複雑多彩な虚構性を秘め、作り上げようとする人間の意志と想像力が満ちていた。 
現代にない豊穣な形態を持ち、多義的であり饒舌、豪華多彩、物語性に富み、祝祭的感覚で私たちを圧倒する、 この時代の建築は音のないオペラ(作品)といえる。
 一方、数多くの名歌手と演奏者、豪奢な衣装とスペクタクルな舞台構成、演じられるものは話す代わりに歌うという、 極めて非現実的なドラマであるオペラ。 
それは理性と享楽という、あい反する趣味を合わせ持った、人間が生み出す最大の「構築物」でもあったのです。 

「オルフェオの世界」の「音楽と建築」、それはともに装飾的、複合的、力動的、厚みのある「作品的世界」だ。 
「音楽と建築」の世界に同時に踏み込みたいとする試みは、人間の意識によって作られた世界、作品の持つ<虚構の世界>への関心にある。 
そこには「人間が人間として生きる」というヨーロッパ文化の持つ伝統が色濃く刻まれているからだ。


イマージナルとイリュージョナル

絵画は詩や音楽同様シンボルによる構築物です。

描かれている世界はいかに写実的であっても、それは実在の類似物、絵画空間はそこに指し示されたシンボルによって構築されている。

写実的にみえる絵の試みはおそらくギリシャ・ローマ時代の劇の書き割りから生まれたと考えられる。

このような例はポンペイのいくつかの家の壁画(図版)に残されているが、やがてこの手法はキリスト教社会の中では全く消えてしまう。14世紀のはじめジョット(図版)を代表とするイタリアの画家によって、同世紀末期にはヤン・ファン・アイク(図版)などオランダの画家によって、驚くような写実的な絵が生み出された。

しかし彼らは後の透視画法のような奥行きのある空間を描き出す技術的手法を持ち得ていたわけではない、むしろ当時の科学者に匹敵する詳細な自然観察から、これらの写実性を生み出していったと考えられる。

私たちの目で見る世界が、距離と共に物体の大きさもだんだん小さくなることを理論づけたのはブルネレスキやアルベルティだが、透視画法は古典古代の復興という観点からも注目された。

ルネサンスにおけるローマ時代の劇場の復興。15世紀、ローマのテレンティウスやプラトゥスの再評価が人文主義者の間で起こりラテン喜劇への関心が高まる。彼らは古代劇場こそ市民の教養(フマニスタ)の証し、劇場はフマニスタ表現のための格好な場であると考えた。

公演にあたってはウィトルーウイウスの研究が進められる。
ウィトルーウイウスとはローマ時代の建築家、彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。

人文主義者の関心はこの書の中の舞台背景画にあった。
ウィトルーウイウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の3つの背景画が存在する。

1508年、プロスペッティーヴァ(透視画法)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われている。
1518年、ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はウィトルーウイウスの記述の再現、有名な理想都市像(図版)が作られた。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適していた。
人間の五感は不完全なもの、従って世界に関する信頼に足る情報を伝えることが出来ないという、プラトン以来の哲学者の偏見から人間的視野を解放したのが透視画法と位置付ける(時間と空間誕生・青土社)ゲーザ・サモシに従えば、透視画法で描かれた理想都市こそ、ルネサンスの人間が神の支配とは乖離した、唯一生きうるに足る世界とみなしていたことが理解出来る。
透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルなモノではなく、現実以上に信頼できる確固とした空間であったのだ。

ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるこの理想都市像はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容し始める。

本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化するしていく。

ウィトルーウイウスは古代の円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

つまりルネサンス期の宮廷のための古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったのだが、と同時に絶対君主が操作するイリュージョナルな空間の誕生でもあったのだ。

オペラはこのイリュージョナルな空間を発見することから始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。オペラはそのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな音楽劇的な世界を生み出していく。

古代劇場の再生


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(ルネサンスの祝祭)

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。

しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかに自らのの権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。

前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。

周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。

宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。

祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。

彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。

スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。

十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。

古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。


(ラテン喜劇はルネサンス市民の教養)

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。

そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。

テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。

ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。


(古代劇場の再生)

ラテン喜劇の上演にはローマ時代の「ヴィトルヴィウスの建築書」が使われた。彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。小宇宙=大宇宙の原理に関わるダヴィンチの人体比例図やアルベルティの「建築論」、パラーディオの「建築十書」等に大きな影響を与えたこの書は、すでに触れたが、ルネサンスの人文主義者・建築家にとって欠くことができないもの。

同時代のヴィトルヴィウスの研究とラテン喜劇への関わり、その数は記録が残されているだけでも膨大な量にのぼっている。フラ・ジョコンド、チェザリァーノ、ブラマンテ、セルリオ、バルバロという人たちはヴィトルヴィウス研究で名をなした人文主義者・建築家たち、彼らは各々の研究書の中で古代劇場の再生を試みている。


人文主義者の関心はこの書の中では特に舞台背景画にあった。ヴィトルヴィウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の三つの背景画が存在する。「一つは悲劇の、他は喜劇の、第三は風刺劇のスカエナと呼ばれるもの。これらの装飾は手法において互に異なり別々である。悲劇のスカエナは円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸宅や露台の外観また一般建物の手法を模して配置された窓の情景を持ち、風刺劇のスカエナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の景色で装飾される。」(前掲ヴィトルヴィウス建築書)この記述から類推すれば先述したローマ時代のサブラータ劇場のスカエナ(舞台背景)は円柱や破風であるから悲劇用と言えるようだ。


(舞台の背景画と透視画法)

上演の舞台背景には発見されたばかりの透視画法の空間が不可欠。ブルネレスキが発見し、アルベルティが理論付けた、人間の想像による等質・等方の透視画法の空間こそ、神の支配を受けないルネサンス劇の舞台を支えるものと言える。

つまり、理想都市とアルカディアがその舞台背景を構成している。そして、ルネサンスの舞台と透視画法、それはどちらも人間の計画的意志を持ってその中にシンボル配置することから生み出される新しい世界。その新しい世界こそ、神なき世界の生き方をレヴューするルネサンス特有の思考の空間となっていたのです。

劇の上演だけであるなら貴族館の広間か中庭が用意され、そこに舞台背景画を掲げるだけで十分であったが、劇場全体の再構成を試みるとなると容易ではない。と同時に、最初の実践が具体的にどのようなものであったのか、実はまだ充分には解っていない。

アルベルティは1452年にニコラウス五世の為のテアトルムを建てている。このテアトルムは当然、ヴィトルヴィウス劇場の再現であり、最初の実践と目されているが、資料が少なく詳細が解らない。むしろ、残された透視画法との関連でのヴィトルヴィウスの舞台背景の再生の試みはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初と考えられている。

「アトランティコ手稿」の街路の情景のための素描がその舞台背景。その手稿の制作が1496年あるいは97年であるならば、現存する最古の再生スケッチとなる。


(舞台の背景のスケッチ、透視画法による理想都市図)

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一般的な研究ではウフィッツ美術館に保存されているブラマンテの版画が最初のスケッチ。十六世紀初頭の理想都市図だ。

線画描写の絵は左右に柱廊を持った街路が広場の入口を構成する古代風アーチの門を潜り、アルベルティ風のルネサンスの教会まで続いている。人文主義者あるいは建築家は舞台背景画は描くことで、彼らがイメージする理想都市を具現化していたことがよく解る。


プロスペッティーヴァ(透視図)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われる。ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はヴィトルヴィウスの記述の再現、理想都市図が作られたという記録がある。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適している。ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるウルビーノの理想都市図はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

興味深い透視画法の背景画がもう一つある。ラッファエロとともに沢山の舞台背景を設計したペルツィッヒの作品。中央に格子状に仕切られた床模様を持つ街路、その左はアーケード、右は列柱廊、ルネサンス風宮殿の上にはパンテオンのドームにサンタンジェロの円筒の城砦が描かれている。

ポポロ広場のオベリスクの左にはゴシック風尖塔アーチ窓、後ろには空高くコロッセオの最上階の列柱も望める。この背景画は古代ローマ建築のコラージュとなっている。この背景を使いどんなラテン喜劇が演じられたかは定かではないが、観客にとってその世界はもう、迷うことなくイメージとしての理想都市ローマそのものであったことは間違いない


(透視画法の役割と劇場の変容)

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容する。本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化する。

ヴィトルヴィウスはその円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、やがて、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

ルネサンス期の古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったが、劇場そして透視画法はバロックの絶対君主が操作するイリュージョナルな空間へと変容していく。

オペラはこのイリュージョナルな空間の誕生から始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。さらに、そのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな劇的な世界を生み出していくことが、その発展の大きな道であったこともまた確かなのだ。



貴族の責務とアルカディア



貴族の責務とアルカディア

古代ギリシャのプラトン・アカデミーに習ったフィレンツェでの人文主義者たちの会合が最初のアカデミア。十五世紀のイタリアの人々にとって、キリスト教と古代哲学をいかに融合するか、いわゆる新プラトン主義という思考がまずはテーマだった。
しかし、文芸復興は単に古代回帰をだけを目指していたわけではない。新しい時代の担い手である自由都市市民(ポポロ・グラッツ)は、中世キリスト教社会の聖職者に代わり、正しい人間の生き方を具体的に学び得る場を必要としていた。ルネサンス宮廷でのラテン喜劇の上演もその一環と考えて良い。
豪華絢爛、趣味と娯楽の集大成、その後のヨーロッパ社会には欠くことのできないオペラと劇場の展開はこのようなポポロ・グラッツと言われる人々の社会的貢献が基盤となっている。

ヴィチェンツァの劇場とフィレンツェのオペラ、どちらも当時のアカデミアが生みの親、新しい時代の「音楽と建築」は作家という個人ではなく、人文主義者(ヒューマニスト)たちという集団であったことを心にとめおこう。
やがて、アカデミアは学問の研究というより、様々な考え方を討論し実践する場、文化活動運営の為の集まりとなっていく。戯曲の上演、サロンの劇場化、舞台設定の為の舞台背景画の制作等は新しい生活スタイルの実践そのもの。アカデミアは学ぶ場というより実践を通しての社会的貢献が責務となったのだ。

音楽や建築、絵画や彫刻、様々な作品の制作、上演という文化活動アカデミアの役割。従って、オペラ誕生の契機となった「オルフェオの物語=エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、その上演はただ単に余興として美しいメロディや華々しい音響効果が求められたのではなく、詩の意味、言葉の中身を的確に伝えることで、文体と思想をいかに具体的に表現するかが重要だった。


フェラーラのラテン喜劇

十六世紀後半のイタリア半島は事実上はスペインの支配下、情勢は逼迫し、どの都市もその生き残りを掛け画策する。画策とは合従連衡、その為の政略結婚そして沢山の祝宴。祝宴にはラテン喜劇やインテルメディオの上演が不可欠。

北部イタリアをアルプスからアドリア海まで東西に流れるポー河流域、フィレンツェとヴェネツィアに挟まれた肥沃な平野に位置するフェラーラ、そこはいつも政治的には微妙な状況に立たされている。もともとは自治都市だが、十三世紀にはエステ家一族の支配下に置かれた。

エステ家は近親間の血なまぐさい惨劇を繰り返したこともあるが、学芸を愛好し、多くの芸術家を積極的に保護した家柄でもある。音楽への傾倒は特に強く十六世紀初めエルコーレ一世がフランドルの音楽家ジョスカン・デ・プレを宮廷礼拝堂楽長として招いたのは有名な出来事だ。

エンコーレ一世の長女は後のマントヴァ后妃イザベラ・デステ。デ・プレの役割はエンコーレ一世の為に宗教曲を書くことだったかもしれないが、イザベラと弟たちアルフォンソとイッポリットが求めていたのは世俗音楽だ。

やがてマントヴァに嫁つぐイザベラの求めに応じ、デ・プレはフェラーラ宮廷で沢山の世俗音楽を書いた。

しかし、エンコーレ一世が最も力を入れていたのはラテン喜劇の上演。ラテン喜劇とはプラトゥスやテレンティウスというローマ時代の詩人によって書かれたラテン語のドラマを言う。

十五世紀後半からのエステ家宮廷では沢山のラテン喜劇が上演され、その度毎に上演内容は克明に記録され出版されている。当時、記録を残すことは上演することと同様とても大事なことだった。上演とその記録の出版はともにエステ家の名声を高める役割を担っていたからだ。

上演が仮に他愛ないお遊びに終わったとしても、それはエステ家が提供しえる重要な文化活動の一つとなっていたのだ。

テアトロ・オリンピコを作ったヴィチェンツァのアカデミア同様、上演は同時代の貴族が社会に対し果たさなければならない重要な責務の一つであり、その責務の履行が小都市の生き残りの為の戦略の要。残されたいくつかの記録の中で特に有名なラテン喜劇が宮殿の中庭の一辺に舞台まで設けられ上演された。プラトゥスの「メナエクムス兄弟」。舞台奥の壁面には中世風の都市住宅や城壁、塔などが描かれていて、仮設とは言え、この中庭はおそらくイタリア最初の近代劇場と言って良い。

それは、ヴィチェンツァにテアトロ・オリンピコが誕生する100年も前の出来事。題材において中世的宗教劇とは異なるプラトゥスやテレンティウスの上演は古典文化と接触しうるまたとない機会。ラテン喜劇の上演は新しいライフスタイル、非キリスト教的生活の規範となる古典的会話文体や立ち居振る舞いを身近な形で学びうる格好の場。フェラーラ宮廷のラテン語の悲劇や喜劇の上演は当時の人々にとってのカルチャーセンターとなっていた。

その教養主義的な文学的関心から上演のために専用の劇場まで必要とされるようになったとことは、宮廷の人々の関心がもはや文学だけに留まるものではなく、演劇そのものへと移行しつつあったことをも示している。当初の少数で行われる朗読会は多くの人が集う公演へと転換し始めた。

少数の朗読会が多くの人のための公演と形を変えることで、演じられる場も一定ではなく、演じられる内容も変わって行く。「メナエクム兄弟」は中庭に舞台をしつらえての上演だが、その三年後の公演は宮殿内の大広間に移されている。そして、舞台の前面に舞踏のための広いスペースまで確保され、そのスペースを三方から囲うような階段状の観客席が設えられたという記録が残されている。


マントヴァのフロットラ

マントヴァはイタリア半島の付け根、豊かに広がる平野の中央に位置する小都市。北のガルダ湖からの流れがポー河へ合流するミンチョ川、その川が生み出す湖に囲まれた水の都でもあり、ウェリギリウスが生まれたところ、イタリア人にとっての古来からのアルカディアだ。

十五世紀末、この都市の侯爵フランチェスコ・ゴンザーガのもとへフェラーラのエンコーレ一世の長女、イザベラ・デステが嫁ぐ。時代はイタリア半島が最も混乱し波乱に富んでいた頃のこと。

マントヴァはフェラーラ同様、北イタリアの小都市、どちらもミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリという周辺大都市の覇権争いに翻弄されていた。波乱は小都市ばかりではない、その四大都市でさえ周辺のドイツ、フランス、スペインという列強の驚異のなかで浮沈を重ね、公国や共和国の持つ自立そのものが損なわれかねない状況が続いていた。

新興著しいトルコが東ローマ帝国を滅ぼしたのもこの時代。地中海、アドリア海に君臨していたヴェネツィア共和国の権益も狭められ、スペインやポルトガルによる地理上の発見、あるいはコロンブスによるアメリカ発見により、イタリア半島の諸都市は最早、中央ではなく、世界の片隅のひとつに過ぎないことを自覚せねばならない時代だ。

こんな時代であるからこそ、その精神風土の底流に、強い民族主義的傾向が現れてくるのは当然のこと。ヴェネツィアやフェラーラ、マントヴァという北イタリアの小都市ではフロットラという世俗の音楽が流行する。フロットラとはラテン語ではなくイタリア語による歌曲のこと。

追い詰められていたイタリアはイタリア人によるイタリアの音楽を必要としていたのだ。当時主流であった音楽はフランドル楽派による複雑な対位法の音楽だが、ホモフォニックなフロットラはフランドル楽派の楽曲に比べ親しみやすく気軽でもあった。

四声の中の下声部がすべて楽器で奏されることもあり、世俗的な詩や恋の喜びや悲しみをより気楽に官能的に歌うことができ、フロットラはイタリア人にとって初めての、自分たちの心情を最も有効に表現できる楽曲となっていた。

アンドレア・マンティーニャやレオルド・ダ・ヴィンチを招き、多くの作品を描かせたイザベラ・デステだが、彼女は画家だけでなく、たくさんのイタリア人の音楽家と詩人を宮廷に招いている

彼女がまだフェラーラの宮廷で生活していたころ、そこにはフランス王ルイ十二世のもとで、数多くの世俗多声シャンソンの名曲を書いたフランドルのジョスカン・デ・プレが宮廷礼拝堂聖歌楽長として滞在していたことはすでに触れたが、彼女はフェラーラの宮廷で庶民の生活が生き生きと表現されたデ・プレの歌曲を沢山聞いている。

そんなイザベラだからこそ、マントヴァでフロットラに夢中になるのは容易に理解できる。現在の管楽器のひとつトロンボンに名を残すバルトロメオ・トロンボンチーノという音楽家がイザベラのもとにいた。彼はマントヴァで沢山のフロットラを書いた。トロンボンチーノは当時もっとも重要な作曲家、サン・マルコ寺院のガブリエリに匹敵するイタリア人の音楽家として今日に名を残し、管楽器トロンボーンの発明者としても有名だ。

少女時代から歌と鍵盤楽器を勉強し続けたイザベラはフェラーラ宮廷からマントヴァ・ゴンザーガ家に嫁いでますます詩や音楽に熱中する。しかし、ダ・ヴィンチを含め多くの人文主義者・芸術家と交流し庇護はするが、君主でもない女性の身であったイザベラは、さすがに自分自身の聖歌隊を持つことまでははばかれた。

従って、彼女は教会音楽ではなく、世俗の楽曲に力を注ぐのは当然のなりゆき。イザベラはイタリア語の世俗音楽フロットラに熱中し、詩や曲まで制作し演奏する。弱小国マントヴァにとって音楽家を雇い、自分自身だけでなく家臣にも楽器を与え、作品を筆写させることは宮廷の権威を高めると同時に、公国の持つ文化的力を誇示することでもある。世俗音楽とはいえ、マントヴァのフロットラは当時の危うい宮廷の政治的存在感のためには不可欠な戦略の一つでもあった。

マドリガーレ

イザベラはほどなくフロットラの詩の持つ平凡さに不満を抱く。その不満は彼女ばかりではない。フロットラが親しみやすく気楽でもある分、いささか浅薄でもあり、やがて人気は薄れていった

そして、イタリア人の文学的趣味の向上にあわせ、フロットラに代わりにペトラルカのソネット、というような文学的価値のある品格を持った詩を歌詞とした多声の声楽曲が作られるようになる。これがマドリガーレ。イザベラ・デステはトロンボンチーノにペトラルカの詩への作曲を要請する。つまり、イザベルのいるマントヴァはマドリガーレの養育の場所でもあった。

ホモフォニックでリズミカルで庶民的なフロットラはやがて高尚で貴族趣味的な多声歌曲、複雑な対位法を駆使したマドリガーレへと変貌していった。その過程では、ローマをはじめ北イタリア各地の宮廷での音楽活動の中心となっていたフランドル人音楽家の功績は大きい。マドリガーレは歌詞と音楽との間にきわめて緊密な関係を生み出して行き、歌詞の情感を繊細に表現する楽曲となる。やがて、北イタリア発のマドリガーレはイタリアばかりでなく、ヨーロッパ中に知られ、歌われる楽曲となって花開いて行く。

マドリガーレはイタリア語。一般的にはマドリガルと呼ばれ、古くは詩の形態を意味する。十四世紀にあったマドリガルはマドリガルという詩に音楽をつけた楽曲のこと、十六世紀のマドリガーレはマドリガルの発展型ではなく、十五世紀末のフロットラがマドリガーレを生み出した。そして、この大流行の世俗の多声歌曲である十六世紀のマドリガーレがオペラへの道を切り開らく。

対位法的な多声というマドリガーレでは果せない「劇の進行、真に劇を生み出す音楽」のための基礎はフィレンツェで作られたが、その後のオペラを育てたのもまたマントヴァだった。

民族主義的な風潮を底流としてマントヴァは十五世紀末のフロットラからマドリガーレを生み出すが、十六世紀末のフィレンツェのモノディ様式はマントヴァ宮廷にいた一人の天才によって言葉そのものが音楽となる画期的な芸術形式としてて確立された。その音楽家こそ、マントヴァ宮廷楽長モンテヴェルディ、まだサン・マルコ寺院の聖歌隊楽長になる前のこと。

マドリガーレの名手であった彼はフィレンツェのモノディ様式の理念とマドリガーレのスタイルを結びつけ、理論にこだわることなく、自由に力強く豊かな表現力を「オルフェオ」に注いだ。知的で理論的なフィレンツェの様式はこのマントヴァの音楽家の持つ自由な表現力により、今日にいたるオペラへの道が開く。マントヴァのマドリガーレはオペラを生み出すことはできなかったが、生まれたばかりのオペラの道を確実に切り開らいていく役割りを果たしていく。

マドリガル・コメディ

オペラ誕生以前、十六世紀にすでにマドリガーレで劇を構成しようという動きは始まっていた。今日マドリガル・コメディと呼ばれるもので、十六世紀末に出版された「ラムフィ・パルナッソ」は特に有名。「音楽のなかのアルカディア」はマンティーニャの絵画と同じように、ここマントヴァから広がっていく。

パルナッソスはギリシャ神話のアルカディアの霊山、アポロンやミューズが住むところであり、古代の詩人たちが神聖視した。ラムフィ・パルナッソはパルナス山の麓の周辺という程度の意味で、気楽な外界、世俗世界を題材にした音楽劇。当時流行のコメディ・デラルテの形式に基づいて五声、四声、三声のアンサンブルとコーラスによって構成されているが、全体はあくまで一連の曲集であって、演技するようには作られてはいない。

モノローグでは五声部全部が同時に歌い、ダイアローグでは上の三声と下の三声が対比を生みだし、人物の違いを表現するというような構成となっている。そして、上演にあたっては歌手と演奏者は演技者ではなく舞台の背後にいるだけ。舞台上で俳優が歌うまねをし演技をする。マドリガル・コメディは音楽劇というより、あまり生気なく人気薄の牧歌劇をより生き生きとさせるための音楽にすぎなかった。つまり、滑稽劇と音楽を結びつけたもの、この音楽には劇を生み出す要素はなく、オペラの誕生にはフィレンツェでのギリシャ劇への拘りを待たなければならない。

インテルメディオ

古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない。しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、独唱や二重唱、コーラスまでも演奏された。音楽が積極的に展開される場は、ドラマ全体の中では挿入部であるがゆえにインテルメディオ幕間劇と呼ばれている。

インテルメディオの題材はネウマやトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持ったもの。しかし、あくまでも本体とは別種なもの、本体とは全く異なる独立した物語が挿入されていた。

教養主義的なラテン喜劇の上演に際し音楽劇を導入することは、上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。ここで重要なことは、古典劇への関心の大小に関わらず、インテルメディオという音楽の導入により、多くの観客がますますドラマの世界に引き込まれて行くようになったことだ。

演じられる場はもはや朗読会という内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界が必要とされた。インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは十五世紀初めのメディチ宮廷だった。その上演はオペラの誕生をも促すもの。ではどのような演目がどのように演じられたか、その詳細は「フィレンツェの祝祭」に譲ることにする。

劇を進行させる音楽

オペラ誕生の為の音楽上の準備は十六世紀半ばすでに完了していたと言って良い。舞踏曲、アリア、マドリガル、コーラス、シャンソン、カンツォネッタ、そしてインテルメディオ幕間劇。しかし、インテルメディオにおける音楽の役割は劇的進行ではなく雰囲気づくり。演じられてはいるが情景が静止した絵画のようなものだ。その世界は詩と音楽によるスケッチ画にすぎない。

ドラマを動かし、そこに感情を吹き込むのは詩やセリフの役割だ。インテルメディオの音楽はドラマを動かすものではなく、ドラマ全体を包み込む空間、あるいは雰囲気を作り出す役割に過ぎなかった。

オペラの誕生には、音楽そのものがドラマにならなければならない。ドラマに挿入される音楽ではなく、音楽によってドラマが進行する。そこには一貫して流れる音楽にふさわしい劇が必要となる。読んで面白いドラマティックな詩の流れ、舞台で見て楽しい変幻自在な情景、そのような劇の登場が待たれていた。

マドリガーレは歌詞の情感を繊細に表現することは出来たが多声であるがために、あくまでイメージや全体の雰囲気を表現するもの。つまり、マドリガーレは情感あふれる音楽だが、劇を生み出し進行する手法は持ってはいない音楽。

従って、ここでもまた「音楽により劇が進行する」というオペラの誕生は後のフィレンツェまで待たなければならない。

「リュートやヴィオールを伴奏にして小曲を歌うのがなぜ快いかという最大の理由は、それが言葉に驚くべき優美さを与えるからである」と「宮廷人」にカスティリオーネは書いている。「宮廷人」の出版は年、楽器伴奏をともなったソロの歌はフィレンツェのカメラータがモノディ様式を生み出す前からすでに人気となり流行していたのだ。

フロットラや対位法的に書かれたマドリガーレにも下の四声部を全部楽器にゆだね、一番上のパートのみを人が歌うという楽曲はすでに存在していた。しかし、「劇を進行させる音楽」にとって大事なことは、旋律が絵画のような情景を描くことではなく、人が話をするのと同じ様に自然の抑揚を持って歌われるものでなくてはならない。

その為には舞踏風の規則正しい拍子やテキストを繰り返しを助成したり、対位法的な音の進行に縛られることのない、一音節に一音譜が載るホモフォニックな和声を音楽として認める必要がある。

ソロの歌の流行は音の綾織りのような対位法的楽曲より主要な旋律が際立って聞こえるホモフォニックな和声への好みが増していることを示すもの。民族主義的底流の中、イタリア人は対位法好みのフランスとは全く異なる音楽を求めていた。

イタリアでは元来、複雑で曖昧であることより論理的、明解であることが大事にされている。歌曲においても、一つの旋律に対する優れた感覚と言葉の抑揚にみあった、的確なりズムに対する関心が強かった。そして、このような好みと関心がフィレンツェのカメラータたちのギリシャ劇へのこだわりと結びつき、その後のオペラ誕生のきっかけとなる「劇を進行させることの出来る音楽」の形式を生み出した。

つまり、テキストはできるだけはっきりと理解できるように、言葉は人が話す時と同じように自然の抑揚を持って歌われること、旋律は人が語る高められた感動に備わった抑揚やアクセントを模倣し強調するものであること、という原則が理論化されフィレンツェのモノディ様式、オペラが誕生する。

牧歌劇アミンタ

年フェラーラ宮廷におけるタッソの牧歌劇「アミンタ」 愛神の戯れ岩波文庫 の上演は大好評を博した。インテルメディオの題材に過ぎなかった牧歌を悲劇でも喜劇でもない第三の劇として登場させたのが「アミンタ」の上演。

ここでは第三の劇であることが極めて重要で、「アミンタ」の上演はイタリア中に大評判となる。「アミンタ」はギリシャ悲劇やラテン喜劇でもない、古典を超え新時代を表現する、全く新しい確かな劇形式であるとイタリア中の貴族、人文主義者から賞賛されたのだ。

牧歌はルネサンスの人々にとってはなじみ深いもの。ギリシャの詩人テオクリトスは紀元前三世紀、抒情的な田園の牧人の詩を歌い、紀元前七十年にはヴェルギリウスが豊かな自然に育まれた愛詩 と のアルカディア理想郷を表した。

ローマ時代のヴェルギリウスの牧歌「アエネーイス」はギリシャの英雄叙事詩をラテン語に移植したものだが、しかし、それはその後のヨーロッパ文学の出発点として位置づけられている。ダンテ、ペトラルカという大詩人たちは「アエネーイス」を大自然という背景に立ち、地上の愛を唱い、個としての人間の価値とキリストという神とを相対化したルネサンス精神そのものとして再評価している。

この評価と憧憬は、前述の「絵画や建築のなかのアルカディア」と全く同相にある。その始まりはダンテ、ペトラルカの文学にあったと言って良い。 しかし、古来より悲劇と喜劇こそが古典文学の中心であり、牧歌はその傍らに置かれるものにすぎなかった。

田園の牧人の愛をテーマとした登場人物の少ない簡単な対話劇は格好の幕間劇インテルメディオの題材ではあったが、都市化した宮廷の人々にとっては文学ではあるが、ある種の娯楽、気楽な慰みものに過ぎなかったのだ。

その古典的牧歌を悲劇・喜劇に変わる第三の劇として再登場させたのが「アミンタ」の上演。ルネサンス精神が形骸化し、硬直化しつつあった十六世紀半ばではあったが、牧歌の持つ精神に豊かな想像力を吹き込み、悲劇と喜劇を同時に取り込んだ牧歌劇の登場は文学上の大革新となった。

黄昏期であるが故に主知のみではない、理性と享楽を相合わせ持った第三の劇の誕生、それが「アミンタ」。牧歌劇「アミンタ」では悲劇的様相と喜劇的雰囲気が交錯し、人間の感情が生に歌われている。そして、牧歌劇は単なる娯楽ではなく、古典文学に列するものと認められたのだ。

悲劇・ 喜劇 ・牧歌劇

音節の韻律は時には明るく、時には暗く、時には荘重、時には軽い、ドラマはある種の音調と陰影を持って進行する。牧歌劇「アミンタ」の物語は宮廷人と牧人、ともに平等に高貴な愛神の僕しもべであると歌っている。

悲劇は貴人のもの、喜劇は野人とみなす階級的差異による硬直化が一般化していた宮廷社会に対し、タッソは「アミンタ」によって、詩人が本来持っている精神の自由を主張する。そのことが、牧歌劇が古典に列する新たな文学として認められた所以となる。

タッソによる第三の劇、牧歌劇の登場は同時代のパラーディオの建築同様、ある種の前衛的実験かもしれない。と同時にタッソとパラーディオは間違いなくオペラへの道を開いた人。

彼ら二人に見る限り、ルネサンスの黄昏期、それは一般的にはマニエリス期と呼ばれるが、その時代は形式の衰退化、退廃化の時代では決してなく、近代的な意味での際限のない人間追求の時代、その為の自由闊達な作品制作の時代であったと考えなければならない。

諸外国そして近隣からの絶え間ない侵略と神の支配からの離脱、このような精神風土のなか、逼迫した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、その風景がテアトロ・オリンピコでありアミンタだ。オペラとはそのような「風景を眺めるための装置」として、登場する。

アミンタからオルフェオへ

牧歌劇は物語の進行ばかりではなく、情景や気分にもポイントがあり、音楽によるドラマの進行には適していた。十一音節と七音節のリズムと音調による全編の流れは、すでに音楽の楽曲そのものと言える。劇の中の美しい情景、穏やかな愛と冒険は音楽むきであるばかりか、絵画的でもあった。

アミンタの中にはルネサンスの絵画に描かれた光景が数多く登場する。野原や森、美しい田園的な情景を背景として「ダフニスとクロエ」のような男女の羊飼いに森の神々などの物語。それらは単純な愛の冒険や田園を背景としたいくつかの事件に彩られ、そして大半はめでたしめでたしで終わるものばかりだ。

現存する最古のオペラ、千六百年、フィレンツェ、ピッティ宮殿での「エウリディーチェ」はカメラータの一人リヌッチーニの牧歌劇に曲をつけたもの。七年後のモンテヴェルディの「オルフェオ」はマントヴァの宮廷書記ストリッジョが書いた牧歌劇の台本がもとになっている。

どちらも同じオルフェオ神話であることは前述した。十六世紀末、牧歌劇アミンタとオルフェオ神話との間にはどのような意味の変容があったのか、この変容とは牧歌劇から音楽劇へ、それはオペラ誕生の鍵と呼べるものに他ならない。