2010年2月2日火曜日

聖母マリアの晩歌

17世紀の音楽家モンテヴェルディは1560年、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオ−ル奏者になる。
建築家パッラーディオが没して10年後のこと。一世代異なる二人でーだが、興味深い照応を示している。

近代劇場の源流となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である彼ら二人はルネサンスの黄昏期からバロックにかけ、生まれながらの道とは全く異なる世界で、その才能を開花させた。
23才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子は、その後の20年間に、沢山のマドリガーレ(多声の世俗歌曲)とオペラを作曲する。
パドヴァの粉屋の息子も23才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者トリッシノのもとで建築家として成長し貴重な建築数多く作った。
後の西洋社会に貢献する音楽と建築は、ともに当時では考えられないことだが、庶民の息子によって生み出された。

オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディ、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォは、業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。
世俗のヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァ宮廷で世俗の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。そんな彼が1610年に聖母マリアの晩課を作曲する。
複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされているが、じつは、この曲、宮廷を離れ、バチカンあるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだ就職活動の為のものだったと知られている。
作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会、この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。
1613年念願適い、サン・マルコ寺院聖歌隊楽長の職を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々と寺院の大空間に響かせた。

そして、ここからが建築家パッラーディオとの照応の話。
まず、ミサ曲を作曲した1610年はパッラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しかかった年のことだ。
ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の対岸に建つこの修道院とパッラーディオとの関わりは1560年、彼が51才の時のレッフエトリオ(食堂)の設計から始まっている。
建築家になってから、ほとんど教会建築に関わることのなかったパッラーディオだが、彼は食堂の設計の成果から、ようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することができた。
そして今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは1567年からパッラーディオ制作の模型に基づき工事が始められ、1610年ようやっと完成しつつあった。
面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとって、もっとも記念すべき教会堂は、なんと教会音楽を作ることがほとんどなかった、モンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。
白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンティヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和、その世界に参加したいと思うのはパッラーディオはもちろん、現在の私たちも全く同様です。
残念ながら晩課のサン・ジョルジョ・マジョーレでのCD・LDの制作は一切ない。
しかし、「サン・マルコ寺院の音楽」がイギリスのエリオット・ガーディナーにより1989年制作され、DVDの名作として、現在の私たちに提供されている。



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