2010年2月1日月曜日

ヴィラ・ロトンダとアテネの学堂

「パラーディオはラファエロが古代ギリシャを描いた絵に表明した理想に相通じるものを現実に作り出そうとした」(都市と建築:ラスムッセン:東京大学出版p68)と北欧の現代建築家ラスムッセンは書いています。ラ・ロトンダとラファエロの描く「アテネの学堂」はその空間構成において全く同相であると指摘しているのです。彼は、「アテネの学堂」と「ヴィラ・ロトンダ」の違いは、絵画にあっては全体が一目で見渡せるが、建築においてはその歩みによってしか体験できないことの違いだけであると言っています。大変面白い指摘です。

ブルネレスキのサン・ロレンツォ聖堂は建築体験が絵画を眺めることと同質であること示していた貴重な建築ですが、ラスムッセンは逆に絵画を眺めることは建築体験と同相であると言っているのです。「アテネの学堂」の絵をじっくりご覧下さい。確かに、この絵画の中には「ヴィラ・ロトンダ」の建築体験が描かれています。ロレンツォ聖堂そしてこのラ・ロトンダからルネサンス期における、絵画と建築の違いはをどう理解すればよいのでしょうか。絵画の中の空間と建築体験する空間は全く同質のものです。そして絵画と建築の違い、それは種類の違いではなく手段の違いであると考えれば良いようです。一見、当たり前の話のようですが、ラスムッセンの指摘は大変重要です。つまり、ルネサンスの透視画法は等方等質空間の中にシンボルを配置することによって生まれる、全く新たなイマージナルな空間(虚構の空間)なのだ、ということを改めて指摘しているからにほかなりません。

ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神(キリスト教)の絶対支配を逃れた人間中心の空間です。その空間の発見によって、絵画と彫刻の役割が分離し、絵画はシンボルを配置することで、実際の建築以前に空間を体験させることが可能となりました。つまり、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作ったのであり、ラスムッセンは絵画空間から建築空間が読み取れると書いたのです。理解を複雑にしているのは、私たちはルネサンスの透視画法の空間を理解せず、ルネサンス以降の舞台背景を含め、絵画的なイリュージュナル(幻想的)な空間を透視画法の空間あるいは絵画空間とみなしているからです。イマージナルな空間とイリュージュナルな空間、どちらも虚構の空間であることは変わりません。しかし、前者は想像的自由な空間ですが、後者は人為的に生み出された幻想的な空間です。後者だけを絵画空間とする現代人はルネサンスの絵画と建築は表現手段だけが異なるもの、本来は全く同質であるということを理解することなく、イリュージュナルな絵画のみを虚構な空間と見なしてしまっているのです。

九月の晴れ渡った日の午後、ヴィラ・ロトンダを訪れた時、ミニョンがそこここに佇み、追い掛けてくるような世界を体験しました。その世界はゲーテとパラーディオの描く二つの虚構が相和し、鳴動した<作品的的世界>です。建築が<作品的><観念的>世界にも実在しうることを実感したのは、この時初めてですが、ゲーテはこの旅行の後、つぎのような建築論を書いています。手近な目的、より高い目的、最高の目的と建築の目的は三段階あるというのがゲーテの認識です。「最高の目的は、あえていうなら感覚を溢れんばかりに満たすことを企て、教養ある精神を驚嘆と恍惚にまで高める。・・・これは建築術の詩的部分であり、本来ここに働くものは虚構である。・・・しかし、近代人は肝心かなめの点で最も立ち後れている。彼らは、それが最も必要なものであるのに、虚構の本来の姿、模倣の適切性をほとんど理解しなかった。彼らはこれまで寺院や公共の建物にのみ属していたものを個人の住居に持ち込み、そこに荘麗な外観を与えたのである。こうして近代では二重の虚構と二重の模倣が生まれ、そのため適用に際しても評価に際しても精神と感覚が要求されているということができる。この点においてパラーディオを凌駕した者はいない。彼はこの軌道において最も自由な活動を示した。そして彼がその限界を踏み越えた場合でも、人々は彼に非難すべき点に関してつねに寛大である。虚構とその精神的法則に関するこの理論は、建築術においていっさいを散文化したがる一種の国語浄化主義者たちに対抗するために必要である。」(ゲーテ全集第13巻:潮出版:p127)このゲーテの建築術に触発され、実用実利中心の散文化した建築界ではほとんど見つけることが出来なくなった「虚構としての建築」をもう一つ、ゲーテに従い見学してみる必要があるとボクは考えています。

アテネの学堂 from kthyk on Vimeo.



(via Vimeo by kthyk)