2010年2月24日水曜日

時間の記述と多声音楽

(時間を記述すること、計量的時間)

西ヨーロッパの主流となる科学的思考の始まりは中世になりギリシャの哲学や科学を知るようになってからのこと。ギリシャの思考が広まったのは西暦八百年から千二百頃に栄えたイスラム文明によるところが大きいと言われている。アラブ人やペルシャ人がギリシャ人の哲学、数学、科学を見いだし、その価値を認め、写本を保存し、翻訳し、注釈を加え、さらに自分たちの重要な発見を加えていった。

アリストテレスやユークリッドやアルキメデスを知ったのはザンクト・ガレンにおけるイスラム文明の接触を通じてのこと。十二世紀、ザンクト・ガレンに始まった研究活動は三・四世紀後にはギリシャの学問を完全消化吸収し、新たな科学的合理思考を形成する。その典型がコペルニクスやケプラーの開いた世界。しかし、彼らの考え方とてギリシャ流の思考の枠内、つまり依然として、静止した絵のような空間にかかわる概念に支配されていて、時間的変化、空間上の位置変化、天体の運動に関する記述という問題には全く踏み込んではいない。

運動を数学的に記述する方法をつかんだのはガリレオ・ガリレイ。彼は時間を記述し計量化することで物体の自由落下の法則を発見した。

運動を記述するには移動距離、速度、速度の変化が必要だが、彼は速度や速度の変化は経過した時間との関係で表されるということに気がついた。さらに時間の経過は環境にあるナニモノにも左右されない独立したもの(計量的時間)と考えた。時間は運動によって記述されるのではなく、その流れを一様とし、数学的に独立した変数としたことで計量化が出来、運動を記述することが可能となったのだ。

(多声音楽と計量的時間)

自分自身の主観的時間「経験」「自分が感じる時間」は計量的時間とは食い違うが、この「計量的時間」という抽象的な構造物は、実は十三世紀の初め パリ・のノートル・ダム大聖堂の多声音楽と記譜法の理論において最初に現れている。

多声という楽曲は二つ以上の旋律を持っている。音の高低が異なる男女が一オクターブあるいは五度ずれて歌うのは良くあることだ。しかし異なる旋律を意識的に構造化し同時に歌ったり演奏したりという音楽を作ったのはヨーロッパの十一世紀以降が初めてだ。多声の変遷は平行多声、自由多声という展開にはじまる。十二世紀リモージュにある修道院サン・マルシアルでは旋律が全く別であっても、同時に発声される音の長さは両方の声部とも同じという規則がなくなって行く。

このことから定旋律に対して付け加えられる第二の旋律はより自由に歌うことが可能となった。そのかわり、定旋律を歌う人は第二旋律を歌う人が独立したパートを歌い終わるまで自分の音を引き伸ばし、待たなければならないのだが。

パリのノートル・ダム大聖堂では、それはちょうどこの大聖堂が建築中でもあったのだが、同時に進行する三つから四つの声部を持つ多声曲が作曲された。

何故、そんな複雑な時間の構造体の記譜が可能となったのか。それは各旋律の時間的あり方が同じ時間の単位で調整されていたからだ。ガリレイの言う「計量的時間」についての概念なくしても、各声部は声部ごとのまとまりが与えられ、全体としては一つの記号体系を創りだすことが可能となった。

このノートル・ダムの体系をリズミック・モードという。時間の持続の標準を短い音に決め、その二倍長い音、三倍長い音を表す型をあらかじめ決めておき、その型をギリシャの韻にちなみ、「長短格」「長短短格」というようにモード設定し、その繰り返しを表記、調整し作曲していった。

この時間の構造体は科学でも哲学でもない。当時まだ大聖堂を創る建築家の名前は記録されなかった時代、この表記法を編み出したノートル・ダム大聖堂のレオナンとペロタンは歴史上最初の作曲家として賞賛されている。

2010年2月23日火曜日

ノートル=ダム・ド・パリの音楽

ヴィクトル・ユーゴの「ノートル=ダム・ド・パリ」。
司教補佐はしばらく黙ってその巨大な建物をながめていましたが、
やがて溜息をひとつつくと、右手を、
テーブルにひろげてあった印刷書のほうへ伸ばし、左手を、
ノートル= ダム大聖堂のほうへ差し出して、
悲しげな目を書物から建物へ移しながら言います。
「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」。

これとは印刷されたばかりの聖書であり、
あれとはノートル= ダム大聖堂です。
ユーゴは建築は書物と同様、
知識や文化を伝えるメディアであると言っているのです。
印刷術の普及により、情報媒体としての建築術の時代はまもなく終焉する、
と語りました。

中世の大聖堂の役割を印刷された聖書が担う、
事実15世紀以降、建築は情報媒体である役割を終焉させ、
社会の要請に従った機能的な空間構成への道を歩みます。

ノートルダム大聖堂は
パリ司教モーリス・ド・シェリーが1163年に旧来の諸堂を廃し着工し、1182年内陣が完成、
1196年モーリスの死後ユード・ド・シェリーが引継ぎ、
西正面は1200年頃、薔薇窓が1225年に完成します。
建築がメディアであった時代、
この大聖堂はどのようなメッセージを発信していたのでしょうか。
人生における誕生から臨終まで、
この建築は「人はいかに生きるか」を教えてくれるものであったと考えられます。
(19世紀末ユイスマンスは「大伽藍」を著し、シャルトル大聖堂の解読を小説化する)。

建築およびそこに施された一つ一つのアレゴリー化された装飾は、
この時代の集団として生きる人々の
現実的世界と個々人が生きる内面的・観念的世界を繋ぐものでもありました。
現実と観念という二つの世界を橋渡しする役割は音楽が最も得意としていた分野です。
この大聖堂の持つ巨大なプログラム、
それはゴシックという時代の精神世界ということでありましょうが、
そのプログラムは大聖堂と共に生まれたポリフォニー音楽によって支えられます。

天にも届くかと思われる塔と、
外から差し込むステンドグラスの光とによって華麗に装われたゴシック建築は、
その空間に見合う華麗な音楽空間を要求しました。
次第に雄大な姿を現してくる大聖堂の工事と並行するように、
様々なロマネスクの修道院の中で展開されてきたオルガヌムは、
2声楽曲から3声、4声楽曲へと広がってゆき、
やがて壮大なポリフォニーはこの新しい大空間いっぱいに鳴り響いていきました。 



(Perotinus/Sederunt principes + Notre Dame de Paris from vinteui1 on YouTube)

2010年2月22日月曜日

サン・マルタンのオケゲム

花の聖堂の音楽を作ったギョウム・デュファイと並ぶもう一人のルネサンスの音楽家、ヨハンネス・オケゲムは現在でもその音楽に直接触れることができる重要な作曲家です。
彼もまたデュファイ同様、フランドルの音楽家。しかし彼は教皇ではなく、三代のフランス王に仕え、宮廷音楽家として活躍します。
晩年はトールのサン・マルタン修道院の財務官。ロワール河流域の主要都市トールの修道院は10世紀以来、歴代のフランス王が修道院長を勤めてきたところ、オケゲムは大変な厚遇を受けた音楽家であることがわかります。

15世紀後半とは言えフランスはまだ中世的性格が強く漂っています。
オケゲムはそのような宮廷に沢山のフランス語の多声シャンソンを書きました。
しかしオケゲムをルネサンスの音楽家とし有名にしているのは楽譜が残っている10曲のミサ曲です。
その音楽には様々な工夫があり、当時としては最高度の技法が駆使されてます。
死者のためのミサ曲をレクイエムといいますが、オケゲムは現存する最古のポリフォニー・レクイエム「死の淵を見つめて」を書きました。

ルネサンスの音楽の特徴はバロック以降の音楽と異なります。
そこでは様々な声部の重なり合いが重要であって、必要以上の感情表現や描写性はじっと押さえられています。
従って、このレクィエムは嘆くものでもなく、叫ぶものでもなく、ただただ死の淵にたたずみ、黙考することを私たちに要求します。

最も有名なミサ曲は「プロラツィオーヌム」です。
その音楽は数学的あるいは建築的と呼べるもの。四つの声部の重なり合いで展開されますが、各々の声部の音符の長さは全部ことなります、しかし各声部は一定の比率を持たされていて、その比率に合わせ定旋律に絡まり調和を作り出して行くのです。
複雑な数あわせのようですが聞く耳には水のように音が流れて行きます。

オケゲムにはもう一つ、大変な「数あわせ」のミサ曲があります、「天使ガブリエルはつかわされぬ」。
定旋律は九つの部分から構成されていますが、前半の六つの部分は全曲中6回、後半の三つの部分は3回使われます。
さらにこの定旋律の音の数を調べると、最初の三部分と最後の三部分はともに34音、第四の部分は14音、第五・第六部分が28音、つまり1対1、1対2です。
そして驚くことに全曲中の定旋律部分の休符と音符の長さの比は662対993、この比は天使ガブリエルがマリアに告げる言葉のアルファベット番号の比66対99に対応した2対3となっていました。




(Ockeghem Requiem from Orontea on YouTube)

2010年2月21日日曜日

アルスとウースス、詩学としての作曲

(アルスとウースス)
初期の教会の音楽には全音階を用いなければならいという不文律がある。半音階は悪魔の音階と考えられ教会の中では許されていないからだ。
十三世紀になるとこの音楽上の制約から、いかに表現の可能性を汲み尽くすかがポイントとなり技法の開発がなされた。
その技法をアルスという。

アルスの対語がウースス、一般的慣習を意味する。
ウーススが支配する民族音楽、世俗音楽には半音階が多用されていたが、これらの音楽とは別個に、楽譜の上でアルスの開発を進めたことが、その後のヨーロッパ音楽を大きな発展に導いた。

ヨーロッパの音楽はウーススから離れアルスの開発に向かうことにより、教会の音楽のみならず世俗の音楽もまた、単なる感情の表現媒体として捉えたのではなく、人間による思考や学問の一形態として位置づけられるようになった。
音楽は多くの知識人や貴族たちにより、人間の思考の結果としての産物、作品として認められたことが重要だ。

ギリシャ・ローマの世界では作品を生み出すことが可能なのは詩神(ムーサ)、あるいは詩学を学んだ詩人のみ。
十三世紀、アルスの開発により、音楽は詩学とみなされ、音楽家は詩学を学んだ詩人と同列に位置づけられた。
つまり、人間による作品の誕生は、同時に音楽家あるいは作曲家の誕生を意味していた。
十四世紀になり音楽の状況は大きく変わった。
教会に仕える聖職者であり「捧げものの職人」たちは、世俗にあっては娯楽を提供する役割をも担うようになっていく。
司教座聖堂参事会員という肩書きを持つギョーム・ド・マショーは様々な世俗音楽を生みだすと同時に、アルス(技法)にのった自由な音楽作品を作曲する。

「楽譜」の上での作曲はヨーロッパ音楽を途方もない大きな世界に導くことになる。
もともと音楽は絵画や建築とは異なり、全体が見渡すことが不可能な分野。
常に演奏している一部分だけが存在し、作品の全体は終わった後の余韻としてしか残らないもの。
しかし、楽譜に書き留めることで、全体を見渡し思考することが可能となった。
つまり、建築と同じように音楽に空間性を与えることが出来たのです。
空間性を与えられた音楽は始まりから終わりまでという時間の中に、あるくぎりを獲得することが可能となる。
ひと区切りの全体を一つの「作品」として捉えることで、音楽は職人による演奏ではなく、全く新たな道を歩き始める。

古代ギリシャ以来、人間が生きる「自然の世界」以上に、人間が住まう「観念の世界」に対し揺るぎない信頼を与えてきたヨーロッパの人々は、神様が絶対の中世から、人間が中心となるルネッサンスの時代をむかえると、音楽を作ることは神の世界と同じように、信頼に足る確かな世界を生み出すことみなされている。そして、その創作にあたっては人間の持つ主知・主情のみがなせることであると強く意識していたのだ。
ヨーロッパ音楽はここにきてはじめて、経験と感情による音楽(世俗・民族音楽)を観念・想像による音楽(作品としての音楽)と同一視する事が可能。
この強い意識が複雑・多岐な想像的人工物の総体である音楽を、オペラ(=作品)として積極的に生み出していくことに繋がっていく。

(詩学としての作曲)
ネウマ符による記譜が楽譜を誕生させ作曲への道を開いたことはすでに触れた。しかし、ヨーロッパの音楽をさらに大きな世界へ導いたものはアルスによる自由な作曲にある。

人間による作曲という観点で重要な事なので、再度、音楽の持つ「空間性」について触れておきたい。音楽という世界は絵画や建築とは異なり、全体が見渡すことが不可能、カタチを保って留まることがない。

楽譜に書き留めることで、はじめて「空間性」をもち、全体を見渡し、思考することが可能となる。空間性を与えられた音楽は始まりから終わりまでという時間の中に、ある区切りを獲得する。ひと区切りの全体を一つの「作品」として捉えることで、音楽は職人による演奏ではなく、理性的表現の為の思考の空間、つまり「作品」を生み出すことが可能となった。

音楽が多くの知識人や貴族たちに「作品」として認められたということはきわめて重要。ギリシャ・ローマの世界では作品を生み出すことが可能なのは詩神(ムーサ)だけ。あるいは詩学を学んだ詩人のみだった。

音楽はもはや神の啓示ではなく、アルスの開発により詩学とみなされる。音楽家は詩学を学んだ詩人と同列に位置づけられた。思考の空間を得た音楽家は詩学としての作品を生み出し自らは作曲家となった。

現代の私たちは当たり前のようにヨーロッパのたくさんの音楽作品を楽しんでいる。しかし、自国の音楽以上に何故、ヨーロッパの音楽を楽しむことが出来るのだろうか。それはヨーロッパの人々が作品に対し、より自覚的であるからだ。どんな物事に対しても自覚的に関わろうとする彼らは理性的に客観的に、誰にでもわかるようなやり方で作品を生み出している。

古代ギリシャ以来、人間が生きる「自然の世界」以上に、人間が住まう「観念の世界」に対し揺るぎない信頼を与えてきた彼らは、神が絶対の中世から、人間が中心となるルネッサンスの時代をむかえても、決して個人的、現実的感情に走ることはない。アルスによる「作品」を作ることは神の啓示と同じように「信頼に足る確かな世界」を人間自らが生み出していること意味しているからだ。そして、その創作にあたっては人間の持つ主知・主情のみがなせることと強く意識している。この強い意識が次の時代、複雑・多岐な想像的人工物の総体である音楽を作品(=オペラ)として積極的に生み出していく。

ネウマとトロープス、作曲の始まり

(グレゴリウスと聖霊の鳩)
ルネサンスは個人による、想像力に満ちた「作品」が高く評価され、創作者への賞賛は「神」に例えられた時代。優れた「作品」を創造する人が尊ばれることは当たり前のこと、しかし、中世ヨーロッパ社会には「作品」もなければ、「創作者」も存在しない。

五世紀、西方教会(カトリック)の確立に貢献したアウグスティヌスによれば、無から有を創造するのは神のみぞなせる技、「作品」を創造することが可能であったのは「神」だけであって人間ではなかった。
神のみが唯一の創造者であった中世社会、音のシークエンスとしての音楽はとても総合的、かつ大変複雑なもの。そのようなものはとても人間が創りえるものではなく、神のみが生み出しえること。
神の創作物が啓示を受けた人間に与えられ、与えられた人間がただひたすら演奏した結果が音楽。つまり音楽は、人間の「作品」というより、神が創造した自然物の一つと考えられていた。
ドイツの図書館に残された十二世紀の写本の口絵の一枚。精霊の象徴である鳩が聖グレゴリウスの肩の上に止まり、聖歌を啓示している場面が音楽を意味している。中世音楽の世界では音楽を奏でる職人のような演奏者がいても、創作者としての音楽家は存在しなかった。

この考え方は、建築もまた同じ。神が支配する中世社会、そこで大事であったことは、誰が作るどんな「作品」にあるかではなく、社会あるいは集団の為の、ひたすらの演奏あるいは建設にあった。
聖歌は典礼に参加する人々の祈りの声、教会堂建築はそのための舞台。そして、その各々に関わる人々はともに神に仕える聖職者たち。彼らにとって、音楽そして建築は「作品」ではなく、集団としての神への祈り、神への捧げものに他ならない。

(典礼と聖歌の統一)
聖グレゴリウスが受けた啓示はグレゴリウス聖歌としてまとめられた。しかし、これは一つの説にすぎない。聖グレゴリウスが即位した六世紀のローマは都市としてはまだ貧弱。疫病、飢饉、テヴェレ川の洪水にさらされていた。グレゴリウス一世は少しでもこの混乱に秩序をもたらすべく、教会と典礼の整備を積極的に行った。しかし、実際に聖歌がまとまりつつあったのは八世紀になってからのこと。それも地域ごとに異なった別々の典礼の中での出来事に過ぎない。
現在の統一されたグレゴリウス聖歌の誕生はさらに五百年もあと。各地の修道院に散在していた何百という聖歌の写本は、グレゴリウスが定めた典礼との関わりから一つ聖歌としてのまとまりを示していく。

(ネウマ符)
音として奏でられれば、すぐに消えてしまう音楽だが、音のシークエンスを歴史に残すためには記譜することが必要となる。ヨーロッパ音楽の記譜もまたザンクト・ガレン修道院が始まり。 修道院の理想平面図が作られたと同じ頃、それはちょうどカロリング朝フランク王カール大帝の時代(八世紀)。大帝のヨーロッパ進出に合わせ、グレゴリア聖歌は様々の地域に拡がって行く。そして、その拡がりの為のメディアとして、聖歌の中の歌詞だけを記した沢山の写本が作られた。

やがて十世紀、今度は歌詞だけの写本ではなく、楽譜付きの聖歌集が登場する。それはちょうど、聖歌の多声化(ポリフォニー)への試みが始まるのと同時期のこと。多声化への試みと楽譜付きの聖歌集もまたザンクト・ガレンが始まり。最初の理想的平面図が描かれた修道院は西ヨーロッパ最古の楽譜に関わった場所でもあったのだ。

修道士たちは毎日、夜明けから深夜に至るまで1日に8回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行う。その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌の朗唱。歌を伴わない祈りはない。福音書朗読もまた、ある特定の音の高さを持って歌われるのが一般的。従って、教会堂はいつも音楽に満たされ、聖歌集は写本の中に継続的に記録されて行く。

典礼のための福音書や聖歌集は教会では最も重要なものの一つとなるのは当然のこと。それは聖具であり神への捧げものであったからだ。しかし、その大事な聖具である写本の中に、九世紀になると、朗読する為の記号が書きこまれるようになる。ネウマという折れ釘のような記号、これが音符の始まり。ネウマ符の登場は各地でバラバラであった典礼を統一したい、という動きがその根拠となっている。

しかし、もっとも重要なことは符の登場によって、口で伝え、耳のみで受け継がれてきた聖歌の旋律は、楽譜として記載され伝承されることが可能となったことだ。当初は伝承の方法を統一し簡略化することだけが役割であったネウマ符は、やがて音楽そのものを大きく変えていく。

(トロープス)

音符の登場は楽譜の誕生を意味する。それは音楽にとって全く新たな道を開いた。ヨーロッパ音楽の展開に不可決な大きな二つの道、人間による作曲と秩序ある多声音楽の誕生だ。

聖歌集は写本であっても聖具。聖職者といえども勝手に手を入れることは許されない。しかし、ネウマ符が書き込まれた写本には、新たな歌詞や旋律を挿入することが許された。

挿入部分はトロープスと呼ばれる装飾部分。このトロープスが神からの授かりものであった音楽を人間的思考の結果としての音楽に導く、つまり作曲の始まりとなる。

当初トロープスは神の栄光を人為的に隠喩したもの。したがって、それはまだ作曲とは言えず、礼拝における歌唱の道具にすぎない。道具であるが故にトロープスは当初、記譜することや音楽的に意味があることではなく、ネウマ符により美しく飾られた図版、神への捧げ物の一つとみなされていた。

捧げ物、美術品であったとしても、ザンクト・ガレンの写本の中のトロープスは確実に音楽を変えて行く。ネウマ符で旋律が記号化され、装飾部分が加味されたことにより、単旋律の音の流れは幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変わって行った。トロープスは神の啓示であった音楽を、人間が創作可能な音楽への道、作曲の道を確実に示していた。

(作曲という思考の空間)
鳴り響いた音が次々に消えていく音楽の世界では、建築とは異なり、全体を一瞬に見渡すことはできない。常に演奏している一部分だけが存在し、音楽の全体は終わった後の余音に過ぎないのだから。しかし、楽譜に書き留めることで音楽は始まりから終わりまでという時間の中に、ある区切りを獲得し、全体を見渡すことが可能となった。つまり、楽譜の誕生により音楽は建築と同じように「空間性」を獲得し、「思考の空間」となったのだ。

水のように切れ間なく流れる音楽の世界は、ネウマ符という記号に書き記るされれば、全体は形を持った一個の独立した作品となる。楽譜の誕生は作品の始まり。作品の始まりは生み出す作家の誕生をも意味する。ここに来て初めて音楽は、神の創造から人間による創作物として道を歩むことになる。

音を記録するだけの方法なら、世界中どこにも存在する、しかし、ネウマが開いたもう一つの大きな道はポリフォニックな音の広がりを生み出し、音楽の形そのものを変えたことにある。

ポリフォニックな音の広がりを生み出す多声への道は体験や偶然から生まれたものではなく、楽譜の上の思考の結果と言える。教会堂での音の重なりや広がりの体験は多声へのきっかけではあるが、単旋律歌声であった音楽がネウマ符によって記録され初めて多声への道が開かれたのだ。

多声もまた経験ではなく、思考空間での創作にほかならない。そこから生まれ出た音の広がりは、現在に至るヨーロッパ独自のオーケストラ音楽の原点。ネウマによる記譜から始まる楽譜の誕生はヨーロッパ音楽を思考の空間へと導き、多声への道、そして作曲の道を開いた。
楽譜の成立は、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化した。ザンクト・ガレン修道院はこの転化を促す最初の場所であり、人間による作品の誕生の地と位置づけて良い。

2010年2月19日金曜日

「可能世界空間論 」展


気になっていたが、行きそびれていた展覧会。
短時間だが覗いてきた。 
ICCは便利な場所、もっと気軽にと思うが、結構、脚が遠い。
何故だろう。 
初台はいつもオペラやコンサートという先入観がどうもボクには強い。
それも夕方から。 
結果、行きなれてる反面、昼間の時間帯、いつも行けるという思いから、 かえって、見るべき展覧会をパスしてしまう結果に終わる。
 病み上がりの今日、たまった仕事は切った貼った、 要は何を取り、何を任せるかだ。
決めれば簡単、初台には3時に到着。 
やはり来て良かった、平日は空いている。 
インスタレーションは、眺めるだけではダメ。 体験しなければ。
いやぁ、面白い、何が、どれもが。 
ここの展示は解説は難しいが、体験すれば5歳でも楽しめる。 
プログラムに関心があればICCのホームページを覗いてください。 http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Exploration_in_Possible_Spaces/about_j.html  
ブログでは今日の収穫を一つだけ、感想を書こう。 
やはり、面白かったのはメインの「中心が移動し続ける都市」。 
当然、この話は5歳には無理。 
そもそも、「空間の表象」とはフランスのアンリ・ルフェーブル。 ギリシャの「ユークリッド空間」やルネサンスの「透視画法の空間」、はたまた近代の「均質空間」等すべての思考する空間を否定する概念。 
視覚でも、読解でもない、空間の立ち表れ方を言葉で表している。 
そんな空間を展覧会では「柄沢祐輔+松山剛士」の二人が懸命に捉えようとしている。 
一つの方法として。 それが「中心が移動し続ける都市」。  
ひどい、こんな説明では5歳以上でも何も解らない。 
でも、面白い、28日までやっている、覗いてみて下さい。 ごめんなさい、何も説明出来ていないブログです。 
5歳に戻って楽しませていただきました。

2010年2月8日月曜日

ヴェネツィアのモンテヴェルディ

1637年、ヴェネツィア貴族の一人、トローン家と計算高い市民は共同して既存のテアトロ・サン・カッシアーノを改造し、オペラ劇場として再建しました。

その最初の出し物はオペラ「アンドロメダ」。

海の神ポセイドンの怒りを鎮めるため、岩に鎖で繋がれ、海の怪物のなすがままになっていたアンドロメダをペルセウスが助け出すというギリシャ神話が題材です。

ローマの作曲家フランチェスコ・マネッリの作曲。

音楽の内容についての記録は少ないが、機械仕掛けの舞台装置による一大スペクタクルは大きな評判となったのです。

この作品は舞台描写の入った台本が宣伝用に印刷され、数年続けて上演されました。

ヴェネツィアはまた印刷事業も巧みな都市です。

公演は新しいメディアに乗ってヨーロッパ中に広まって行きます。

さらに、この数年はヴェネツィアのオペラ劇場の建設期。

オペラ公演は画期的な新事業となり、1642年には四つの劇場が建設され7つの異なったオペラが上演されるという盛況ぶりです。

初期のヴェネツィア・オペラを支えたのはサン・マルコ寺院の歌手たちです。

後には、逆にオペラ公演のためヴェネツィアを訪れた歌手たちががサン・マルコで歌うこともあったようですが、どちらにしろ、寺院とオペラの協力関係は深く緊密、ヴェネツィア・オペラはサン・マルコ寺院に支えられていたと考えても良いようです。

モンテヴェルディもそうでしたが、後々の重要なオペラの作曲家たちも皆、サン・マルコ寺院聖歌隊に所属していました。

ヴェネツィアの貴族は他の都市では宮廷内での娯楽であったものを、入場料を支払って見物する大衆のためのオペラにと変貌させたことにより、グランドツアーでヴェネツィアを訪れた観客は、大喝采で新しいオペラを受け入れました。

ビジネスとしてのオペラにとって重要なことは、ギリシャ神話などに関心のない庶民でも楽しめるものでなければならなりません。

庶民のそしてヨーロッパ中からやって来る観光客の関心は、君主好みの神話より、歴史を生きた生の人間の物語と機械仕掛けの一大スペクタクルだったのです。

モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」と「ポッペアーの戴冠」はそんなビジネスとしての要求から生まれています。

これらのオペラはオルフェオとは異なり、エピソードが錯綜し、官能的場面も数多く登場しています。

ウリッセでは船の難破場面がよりリアルにスペクタクルに展開され、多くの観客を沸かせてくれるのです。

ヴェネツィア・オペラはスケールが大きく単純で、激しい情念、そしてポッペアーに示されるような、個々人の持つ心の動きに反応する音楽による多様な情感表現が必要であったのです。

この時代はまだモーツァルトのように、ドラマに絡まる一連の人々を細かく書き分けることはないにしろ、モンテヴェルディは多感な人間感情をアリオーソを用い巧みに表現していきました。

1640年、ウリッセの初演の劇場は、後のオペラ劇場の原点、グリマーニ家がカルロ・フォンターナに作らせたテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロです。

ホメロスが書く叙事詩「オデュッセウス」を題材としたこの物語。

人間の儚さや、時の流れ、人間の運命、そして愛、オペラはますます現代のものに近づいて行くようです。

全体は旋律的であり、有節形式のアリアも続く、登場人物各々の性格も音楽によって確実に書き分けられているのがこのオペラです。

1651年にはナポリでも上演され大評判となったのは「ポッペーアの載冠」です。

このオペラもまたはテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロが初演でしたのですが、1642年から3年の間の謝肉祭シーズン、いつも大人気となって上演されたと記録されています。

その光景はヒットを続ける現代のミュージカルと全く同じ状況であったようです。

それは世界中の人が押し寄せる350年前のブロードウェーの姿なのです。

ポッペアーの題材は古代の歴史家タキトゥスの年代記です。

フランチェスコ・ブゼネルロのリブレットはローマ皇帝ネロが自分の部将であるオットーネから彼の妻ポッペーアを奪い、正妻オッタヴィアの代わりに王女に据えるという物語です。

このオペラに表現されているもの、それは、哲学者セネカの厳粛な戒めと怒り、部将オットネーの悲痛だが気高い諦め、オッターヴィアの行き所のない嘆きと悲しみ。

ネロとポッペアーの情熱的かつ肉体的な二重唱は特に有名です。

晩年のモンテヴェルディは、ますます個々人が持つ人間的な性格と感情を全て音楽的に表現することに成功していきます。

そこに果たされたものはドラマと音楽のバランスの取れた統一にあるといえるようです。

この統一はやがて、音楽的な面だけを強調するオペラの流れの中では失われて行くのですが、エウリディーチェから始まり、わずか40年。ローマの「アレッシオ聖人伝」に引き続き、人間的な性格と感情を巧みに表現する近代オペラの原理が、ここヴェネツィアで生み出されていきました。

ヴェネツィアのモンテヴェルディのオペラを引き継いだのは彼の弟子、サン・マルコの第二オルガニスト・カヴァルリです。

カヴァリルのオペラはますますスペクタクル的要素が強くなります。

そして、ヴェネツィア・オペラは商業色を強め、「音楽の神」オルフェオによる文明生活の教化というその理想は「豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組」へと転化していくのです。

しかし、ヴェネツィアで確立されたのこの音楽劇の原理は、その後グランドツァーによってアルプスの北へ持ち込まれ、オペラのヴェネツィア様式はヨーロッパ中に広まっていきました。

ヴェネツィアのオペラ劇場

ゴンドラ競争や数々の祝典が展開される大運河、ここはいつの時代も大舞台のような様相を示している。運河沿いの豪華な館はまさに着飾った人々が陣取って演技を見る桟敷席だ。
ヴェネツィアはオペラが誕生する以前から、すでに都市そのものが壮大なオペラ劇場であったと言えるようだ。

イタリア半島の都市がスペイン・フランス・神聖ローマ帝国の圧力で次々と君主国家化していく中、ヴェネツィアだけは中世以来の自治を守り、共和国として存続していた。
共和国ヴェネツィアでの祝祭は君主のためのものではなく、どこまでも市民のもの。季候の良い5〜6月に行われるキリスト昇天祭はヴェネツィア最大の祝祭でもあった。
その日、海の共和国であるヴェネツィアは海との結婚の日と見立てられ、その婚儀を祝し、全員参加のフェスティバルとなる。そして、ヴェネツィア中の人々は思い思いの服装と仮面をかぶり、身分や貧富の区別なくサン・マルコの広場に集まり都市と海との結婚を祝し合った。

古代ギリシャの劇場は全員参加の祝祭から演技者と観客に分離した時が劇場の誕生です。
近代劇場もまた同じ。教会や都市の祝祭から市民という自覚をもった観客が誕生し、はじめてその存在理由を明確にしていきた。
マントヴァの宮廷楽長だったモンテヴェルディがサン・マルコの聖歌隊長に再就職したのはそんな時代。彼がヴェネツィア共和国に移ってから次々とオペラを作曲するようになるのは、この都市には宮廷劇場に変わる公共劇場、商業劇場という受け皿が存在したからです。
16世紀末、フィレンツェで誕生したオペラは17世紀になりヴェネツィアの公共劇場へと開催の場を広げ、市民オペラへと変貌していった。
宮廷での祝宴・祝祭に端を発したオペラは、ヴェネツィアでは市民のための祝祭の出し物。宮廷の貴族に変わり、共和国の市民たちが観客が入場料を払い観劇する、商業劇場での演じものとなったのです。

ヴェネツィアはまたグランドツァーの目的地でもあった。
ヨーロッパ各地からやってくる、新しく台頭してきた市民たち、彼らは貴族や僧侶ばかりでなく事業に成功したブルジョワジーの息子たちです。
ヴェネツィアの公共劇場はアルプスの北の国からの人々にとって、ギリシャ・ローマに繋がるアルカディアであり、レモンの花咲く祝祭空間となっていた。
1645年、ロンドンのジョン・イーヴリンは人気になりはじめたヴェネツィアのオペラ劇場に出掛け、その印象を記録に残している。

同時代の日記作家、仕立て屋の息子ピープス氏(ピープス氏の秘められた日記:臼田昭 岩波新書)には不可能であったであろうヨーロッパ大陸のあちこちの漫遊、名家の次男坊であるジョン・イーヴリンはケンブリッジを卒業後、グランドツァーでヴェネツィアを訪れた。
「今夜は座席を予約して置いたので、ブルース卿といっしょにオペラ劇場へ行ったが、そこでは喜劇やその他の芝居が、非常に優れた声楽家や器楽者たちの、歌い、奏する朗誦風の音楽を伴奏として上演された。舞台装置も透視画法技術で描かれた、やはり精巧なものだったし、さらには、空中を飛ぶ機械仕掛けとか、その他いろいろなすばらしい工夫が凝らされていて、要するに今夜観たものは、人間の知恵がこしらえ上げた非常に豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組の一つだった。」(世界オペラ史p38)
イーヴリンの書くヴェネツィアのオペラと劇場は、まだ、始まったばかりの頃、しかし、その後の状況と大きな変わりはない。つまり、市民という新しい観客を得たオペラと劇場はここヴェネツィアを端緒とし、この頃よりヨーロッパ中の都市と生活の中に深く浸透していく。

グランド・ツァーの旅行者たちはヴェネツィアで知った豊かさとプロ精神に育まれたオペラと劇場をヨーロッパ全体の都市と宮廷に持ち帰って行くのだが、彼らが持ち帰った重要な側面は二つある。
それは音楽的側面ではなくむしろ劇場的側面といえるが、一つは透視画法を利用した高度な変換可能な機構を持った舞台背景。二つ目は高価なスペクタクルを維持運営する劇場システムです。
君主となるような突出した貴族が存在しないが故に、共和国を維持し続けることが出来たヴェネツィアでは、有力な貴族と商人が株主となり公共商業劇場を経営した。建設の動機は利益を上げること。
所有者はボックス席を賃貸し、平土間や桟敷席からの収益により俳優や歌手への支払いを賄う、という劇場の維持運営を行った。
このような劇場システムがやがて国家あるいは上層階級全体の助成の上に立った高価でスペクタクルなオペラの上演、そしてヨーロッパ各国の豪華な劇場の維持運営という概念を生み出していくことになるのだ。

ヴェネツィアの公共劇場の最初は、ヴェネツィア領内、ユーゴスラヴィアのレジナ島にあった小さな劇場(現在名ファブール劇場/劇場P95)、1612年に完成している。
本土では1639年ベネット・フェルラーリ設計によりテアトロ・サン・カッシーノが完成が最初となっている。その後1699年までにはヴェネツィアには16もの劇場が建設され、そのほとんどが劇場の建つ教区の名前で呼ばれていて、オペラと劇場の都市内での人気と繁栄ぶりがよくわかる。
これらの劇場は貴族や有力商人が出資者、動機は利益を上げること、劇場では出来うる限り多くの観客席を確保することが最優先となっていた。

貴重な資料がある(図版:音楽の為の建築p61)。ヴェネツィアの名門グリマーニ家が1638年、演劇用に建設した劇場をオペラ用に改造した、テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ劇場。
ちょうど、イーヴリンがヴェネツィアを訪れた年、1645年に完成した。この劇場はパラーディオのテアトロ・オリンピコ、アレオッティのファルネーゼ劇場をモデルとしてデザインされている。
しかし、古代劇場が原型のオリンピコやファルネーゼでは観客席は傾斜のついた座席であったのだが、フォンターナは観客席を5段に積層するばかりか、平土間(アレーナ)部分も座席で埋めた。
公共劇場はいかに多くの観客を劇場に取り込むかが重要だったのですから当然です。
所有者は積層した部分に桟敷席を押し込め、その一部をボックス席として賃貸する。ここは貴族や富裕の商人がシーズンを通して使用、その為には権利金も必要が、席の背後には客間も設置し、商取引や政治的話し合いが可能な場ともなっていたのです。
平土間部分は当初は立ち見、やがてはベンチそして座席が設けられた。つまり、劇場全体はオペラ好きの庶民の格好の娯楽の場であり社交の場となったのです。

近代劇場の形式はこのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロによってほぼ完成されたと言える。1678年にはヴェネツィア最大の劇場、サン・ジョヴァンニ・グリソストーモ劇場が建設された。テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロに引き続きグリマーニ家が、今度はオペラ専用の新設の劇場としての建設。
各フロアを小さな桟敷席で構成する観客席はヴェネツィアの劇場の特徴だが、ここでは合計175の桟敷席は1年契約で売りに出され、買い取った上級市民たちはその場所を自由に使うことが許された。
一方、1階平戸間席は各上演ごとに売りに出され、誰でもがチケットを手にし、観劇することができたのです。
グランドツァーのイーヴリンも多分この席からオペラを楽しんだのだと思う。外国からの公使や外交官、はては兵士や将校たち、あらゆる人々がこの劇場でヴェネツィア旅行の思い出としてのオペラを楽しんだ。



(Monteverdi: L'incoronazione di Poppea - Poppea and Arnalta from CzarDodon on YouTube)

2010年2月6日土曜日

世紀末パリの女性を描く「つばめ 」


昨晩のBShiのメト・ライブビューイング・オペラはプッチーニの「つばめ」昨年の今頃、銀座東劇で上演されたもの。 

はじめての「つばめ」、それもTVでは、やはり魅力は半減、主人公マグダとルッジェーロを歌うアラーニャ夫妻にも不満足だった。 
しかし、これは二人の責任ではない、TVだけ見て、ごたごた言う資格はない。  

「つばめ」のマグダはマノンとトラビアータのヴィオレッタの間にある女性と、マグダ役のゲオルギューが放送の中インタビューで答えていたが、なるほどと思った。 

オペラは一般的には真実みある女性像より、描かれるのは類型的な女性像。
この「つばめ」はヴェリズモのプッチーニの面目躍如のオペラ。

 世紀末パリのリアルな女性の一人、その人物描写は克明に描かれている。 
金持ちに囲われ愛人生活中の彼女、田舎からの純朴なルッジェーロ(トラヴィアータのアルフレードと全く同じ)に恋をする。
 
二幕で繰り出したカフェ(ラ・ボエームと同様)のシーンでは過去のお針子時代の人となりをも細かく表現するリアリティ。 決して単純に愛に生きる可哀想な女性ではないことが真実みを持って描かれている。 そして、最終幕、彼女は(ヴィオレッタやマノン)のように決して死ぬことはない。 「あなたのやさしいお母さんが気に入ッて下さるような女性ではない」と泣き泣きではあるがルッジェーロに告げ、再び愛人生活に舞い戻る。

 昨日のオペラのなかでの収穫はマグダとルジェーロに重なるもう一つのカップル、プルニエとリゼットだ。 
ストーリのなかでのこの二人の存在は主役二人の表に対しての裏、あるいは、同時代の愛のかたちの対位法、 ドラマと音楽と言うオペラの魅力をより輻輳させ生み出している。 

対位法を歌ったプルニエ役のブレンチューとリゼット役のオロペーサ、その歌声は主役二人より、少なくとも今日のTVの中でも冴えていた。
 終わりに一言だけ、好きなバス、サミュエル・レーミーがランバルト役で歌う、風格ある演技と声、いつも魅せられます。

2010年2月5日金曜日

ヴェネツィア・オペラ

衰退したとはいえ地中海の交易権を保持していたヴェネツィアはイタリア半島で唯一、中世以来の共和国としての体面を保っていた都市。そのヴェネツィアが王侯貴族ではなし得ない新しいオペラの道を開いていくのは歴史的必然であった。
フィレンツェで生まれたばかりの「登場人物が歌いつつ演技する」という形式は、宴会に明け暮れたパルマやマントヴァという宮廷でこそ意味を持っていた。それはオペラは宮廷が生き残るための戦略装置でもあったからです。
しかし、君主を必要としない誇り高いヴェネツィア貴族にとっては「宴会のためのオペラ」は必要とされない。当然ながら、ヴェネツィアでのオペラは、フィレンツェやその他の宮廷でのオペラとはその性格を大きく換えなければならなかった。
オペラが宮廷の中の数ある余興の一つとしての役割しか持たなかったのなら、やがては消えてしまったかもしれない新しい音楽の形式が、決定的に変化するのは1630年代後半のこと。オペラはここヴェネツィアにおいて初めてビジネスとしての道を歩み始めることになるからです。

オペラの新しい道はヴェネツィアの公共商業劇場の開設によって始まる。
ヴェネツィアの貴族にとって、君主の館で演じられるようなオペラは必要なかったが、新しい音楽形式であるオペラそのものに対する関心は決して低いものではない。なぜなら、ヴェネツィアという都市そのものがすでにオペラ劇場であったからです。
カナル・グランデを行き来する大小の船やゴンドラは間違いなくオペラ劇場でアリアを歌う歌姫たちの舞台であり、その水の流れに軒を連ねるパラッツォのロジアの一つ一つは間違いなく後の時代の桟敷席そのものです。
マントヴァ時代の大きな話題であったオペラ「オルフェオ」の作曲家モンティヴェルディがサン・マルコの聖歌隊長となったこともヴェネツィアのオペラにとっては決定的なことと言って良い。マントヴァ宮廷を逃れ、念願の教会の聖職を得た彼は、その後はマントヴァ宮廷だけでなく、他の宮廷からの依頼に応じたくさんのオペラを書いている。




(Vivaldi - Gloria - 1 - Gloria in excelsis Deo - King's College Choir from margotlorena
on YouTube)

16世紀ヴェネツィア

 
 ヴェネツィアは誇り高い海の男の都市です。
中世以来、聖職者の政治的介入を拒んできた土地柄、この都市の建築・美術・音楽は他のイタリアの諸都市と較べ独特のもの。ヴェネツィアでは聖と俗との境界線はゆるやか、東方の表玄関であったことから異色の世界とも容易に相互浸透し、芸術のみならず、風習、人間観、振る舞い等は比較的自由であり、物事全て活発に発展・展開してきた。
そして、その地形と環境は海上都市、絶えずたゆたう水とともにある教会や家々はいつも通奏低音の流れの上に載る音楽のようなところ。そんなヴェネツィアだからこそ、建築・美術・音楽の宝庫、世界中の人々が今でもここを訪れるのは当然のこととなっていく。

長い歴史を持つヴェネツィアだが、その音楽と建築へと関心を集めれば、最も面白いのは16世紀後半から17世紀と言って良い。
黄昏のヴェネツィと言われる時代だがパッラーディオの建築ばかりではなく、ヴェロネーゼの絵画、そしてモンティヴェルディのオペラやヴィバルディのバロック音楽等たくさんの作品が作られた。

ヴェネツィアを含め北イタリアの諸都市で活躍した画家・建築家とはどんな人々だっただろうか。ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、現在、ヴェネツィア派と言われる人々。建築家も沢山いる。パッラーディオだけではない、サンソビーノ、サンミッケーリやローマ育ちのジュリオ・ロマーノなど、彼らもまた16世紀、ヴィチェンツァやヴェネツィア、ヴェローナ、マントヴァに、数多くの建築を残している。

16世紀、画家や建築家が北イタリアで活躍するのが目立つのは、一つは、サッコ・ディ・ローマと呼ばれる大事件がきっかけであると言われる。
1527年5月、神聖ローマ皇帝軍の10日間に及ぶ略奪、破壊、暴行、殺人により教皇の都市ローマは、教会やパラッツォのルネサンス美術は壊滅的な打撃を受けてしまった。
結果、ローマの貴族たちというパトロンを失った多くの画家・建築家はヴェネツィアや北イタリアで新しい仕事をすることになる。

フィレンツェのメディチ家の台頭は15世紀前半。そこには名立たる画家があつまりルネサンス美術の花を開いたが、やがてこの都市も共和国からトスカナ大公国へと変わっていくように、ローマ周辺のみならずイタリア半島全体は中央集権的な君主国家へと変貌していった。
しかし、ヴェネツィアは断固、共和国としての対面を19世紀まで保ち続ける。対面保つ為には実力者による共存共栄、多民族主義的な風潮を強めざるを得ないのが政治であり都市経営。
黄昏であるとはいえ十六世紀後半、ヴェネツィア共和国は共和国存続の為には、体質境遇の異なる様々な画家、建築家、音楽家を必要とし、多くの作品を生み出しましたばかりでなく、現代に通低する芸術全体の孵化装置の役割を果たしつづけていた。




(Venezia from lemigrante160851 on YouTube)

ヴェネツィア、都市と音楽

(音楽のような都市)

ヴェネツィアは長期に渡って共和国であり続けた誇り高き海の貴族の都市。そこはまた中世以来、聖職者の政治的介入を拒んできた土地柄でもある。従って、この都市の建築・美術・音楽は他のイタリアの諸都市と較べ独特なものとなっている。ヴェネツィアでは聖と俗との境界線がゆるやかなのだ。東方の表玄関であったことから異色の世界とも容易に相互交流し、芸術のみならず、風習、人間観、振る舞い等は比較的自由。市民はカトリック・ローマの支配する中世的教会を恐れることなく、何事も活発に発展、展開させてきた。

ヴェネツィアの地形環境は水の上、ラグーンにある。絶えずたゆたう水とともにある教会や家々はいつも通奏低音の流れの上に載る音楽のような都市。そんなヴェネツィアだからであろう、多くの感情を音と言葉に変え、様々な芸術を生み出してきた。従って、いまでも世界中の人々がここを訪れるのは当然のことだ。長い歴史を持つヴェネツィア、その水の流れが音楽に例える通奏低音だとするならば、この都市の建築と美術は豊かな対位法を奏でる様々なメロディーとなっている。

 (fig60)

(サッコ・ディ・ローマ )

この都市が特に面白いのは十六世紀後半から十七世紀。ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等美術分野では多くの逸材が登場し、様々な建築家が活躍する。パラーディオ、サンソビーノ、サンミッケーリ、さらにローマ育ちのジュリオ・ロマーノなど、彼らはみな十六世紀イタリアを代表する建築家たちだ。

この時代、彼らの活躍がヴェネツィアばかりでなく、北イタリアで目立つのは、ローマ劫略サッコ・ディ・ローマと呼ばれる大事件がきっかけとなっている。年月、神聖ローマ皇帝軍の十日間に及ぶ教皇庁のあるローマに対する略奪、破壊、暴行、殺人。都市ローマの教会やパラッツォのみならず、ルネサンス美術は壊滅的な打撃を受けている。結果、ローマの貴族及び聖職者というパトロンを失った多くの画家・建築家はローマを離れ、ヴェネツィアや北イタリアの諸都市で新しい仕事を見つけていくことになる。

(ヴェネツィアの文化戦略)

フィレンツェのメディチ家の台頭は十五世紀前半。そこには名立たる画家が集まりルネサンス美術の花を咲かせたが、やがてこの都市も共和国からトスカーナ大公国へと変わって行く。イタリア半島全体は従来の中世的自治都市から新しい中央集権的な君主国家へと変貌して行く中、ヴェネツィアだけは君主国にかわることなく、中世以来の共和制を保持しつづける。

資本主義がフランドルに育つばかりか、東方との交易もトルコの台頭で難しくなり、経済的には黄昏期にあるヴェネツィア共和国が共和国としての対面を保つ為には実力者による共存共栄と多民族主義的な風潮を強めざるを得なかった。それがこの時代の政治であり都市経営。そのためには、人と人がより理解し話し合うためのコミュニケーションが最も重要。様々の立場の人々の最も有効なコミュニケーションの為には芸術の持つ力が不可欠、ヴェネツィアではその力が強く求められていたのだ。

ヴェネツィアの都市経営、それは花のフィレンツェが多くの美術と建築を生みだし、ヴィチェンツァがテアトロ・オリンピコを必要とした状況とよく似ている。求められるものは争いではなく、芸術による文化戦略だ。

黄昏のルネサンス期、ヴェネツィア共和国は画家、建築家、音楽家たちの活躍にその存続を賭けていた。文化戦略としてのヴェネツィアの特徴は体質境遇の異なる数多くの画家、建築家、音楽家により様々な作品を生み出し続けたことにある。ヴェネツィアは共和国を存続させるという目的を貫くため、現代に通低する様々な芸術の孵化装置の役割を果たしていたのだ。


2010年2月3日水曜日

舞台上のロココの空間「ばらの騎士 」


これから、オベラ・ばらの騎士、東劇のメト映画、フレミング。 昨晩のサロメも同じだが、シュトラウスの旋律変化に富むソプラノは容易ではない。
 from Echofon

どうしても、喉を、感じてしまう。
しかし、スーザングラハムは素晴らしい。フレミングは前回のタイスと比べるとチョット苦しい。
 from Echofon

とは言っても、やはりばらの騎士は面白い。 
オックス男爵、独壇場の第二幕。
ウインナワルツの役割が少しわかったかもしれない。劇中劇的な扱いなのだ。
 from Echofon

三幕はいよいよウイン特有のどたばたと元帥夫人の威厳、これから始まるたのしみだ。
 from Echofon

二重唱からはじまったばらの騎士は終幕の三重唱、二重唱で一つの「すり替え劇」の幕がおりる。
 from Echofon

今晩、敢えてこのオペラを幕間ごとにツィートしたかったのはこのオペラ全体がフィガロの結婚のすり替え劇であることを確認する為。
 from Echofon

オペラの面白さはこの大きな知的韜晦にもあるようだ。
 from Echofon 

 元帥夫人の毅然たる退場に今日も感動。 大画面で「バラの騎士」を観た。 
すでにTVでも放送されたフレミング・グラハム・シェーハー・ジグムンドソンのメト版。 映像であることからの今日の発見。 
一幕の寝室、二幕のサロン、三幕の白鳥亭、 どの舞台背景も床の広がりと天井の高さに偽りがない。
画面は 全て2階席正面からの見通しで当時の空間が完璧に表現されている。
 今の建築にここまでの周到さが見られるだろうか、 改めてメトのオペラ作りに感心した。

サンジョルジョ・マジョーレの音楽と建築


(パラーディオとモンテヴェルディ)

ヴェネツィアの経験で多くの人が語る思い出はサン・マルコから見た夕景にある。グランド・カナルを赤く染め、対岸に建つ美しい教会のシルエットとともに消えて行く一日、それはイタリアの旅の忘れえぬ光景の一つ。ヴェネツィアの印象、サン・マルコの対岸に建つサン・ジョルジョ・マジョーレの音楽と建築に触れてみたい。



 (fig62)

建築家パラーディオと音楽家モンテヴェルディ、時代は些か異なるが二人は面白い、いや後世の音楽と建築にとって貴重な照応を示している。その照応はこのサン・ジョルジョ・マジョーレにおける「音楽と建築」の有り様を二つの面から説明しているのだ。

モンテヴェルディは十六世紀後半、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオール奏者になった。ヴィチェンツァのパラーディオが没して十年あとのこと。近代劇場の原点となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である各々は共に生まれながらの道とは全く異なる世界でその才能を開花させていく。

二十三才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子はマントヴァの宮廷で沢山のマドリガーレ多声の世俗歌曲を作曲する。パドヴァの粉屋の息子も二十三才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者のもとで建築家として成長し、ヴィッラとパラッツォを数多く作っていく。

後のヨーロッパ社会に貢献することとなる「音楽と建築」はともに世俗に生まれた庶民の息子たちによる世俗の作品であったことがまず第一の照応と言っておこう。

 (fig63)


(世俗に生きる音楽家と建築家)

オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディだが、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォはモンテヴェルディの業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。ヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァで宮廷の為の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。

そんな彼が年に「聖母マリアの晩課」を作曲する。複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされている。しかし、この曲は浪費家ヴィンチェンツォの宮廷を離れ、サン・ピエトロ大聖堂あるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだモンテヴェルディの就職活動の為のものだった。音楽家モンテヴェルディが安心して家族と共に生きる為にはパレストリーナ同様、聖職を得なければならなかったのだ。

「聖母マリアの晩課」の作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会。この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。しかし、パレストリーナ亡き後の教皇庁は音楽的関心が乏しく、モンテヴェルディは演奏どころか面会すら許されず追い返された。それから三年後、ようやっとヴェネツィアで念願適い、聖職の座を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々とサン・マルコ寺院の大空間に響かせた。


(サン・ジョルジョ・マッジョーレと聖母マリアの晩課)

そしてここからが音楽家と建築家の二つ目の照応。モンテヴェルディがミサ曲「聖母マリアの晩課」を作曲した年はパラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しつつある頃だった。サン・マルコの対岸に建つこの修道院とパラーディオとの関わりはモンテヴェルディがサン・マルコ寺院聖歌隊楽長に就任する五十年も前だ。

パラーディオは五十一歳になって初めてこの修道院の食堂を設計する。建築家になってもほとんど教会建築に関わることのなかったパラーディオ、彼は食堂の設計の成果からようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することが許される。自立した生活を維持する為には建築家もまた同じ、 教会堂の建築家にならなければならない。余談だが、モーツアルトのお祖父さんもまた教会堂の建築家となり、一家を支えることができた。

今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは年からパラーディオ制作の模型に基づき工事が始められたもの。すでにパラーディオは亡くなっていたが、モンテヴェルディの就任と時同じくして完成しつつあったのだ。そして面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとってのもっとも記念すべき教会堂は、教会音楽を作ることがほとんどなかったモンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。


 (fig64)

白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの教会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンテヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和。それはパラーディオには思い及ばぬことであると同時に、現在の私たちでさえ今や体験することは難しい。ただただ想像するばかりの世界だ。


(異教の二つの神殿を重ね合わせた教会建築)

この教会堂が世俗の建築家の作品であり、その教会堂での音楽が世俗の音楽家の作品ということだけが二つ目の照応ではない。その「音楽と建築」はどちらの構成にもよく似た、際だった特徴を持っている。その構成とは「重ね合わせ」と言う手法、二人の「音楽と建築」はどちらも「重ね合わせ」によって生み出された作品と言える。

言葉だけではうまく説明出来ないが、まずは、サン・ジュルジョ・マジョーレのファサードは二つの古代神殿を一つに「重ね合わせ」た構成となっているということを確認していただきたい。それも、キリスト教にとっては異教であるはずの古代神殿のファサードが二つ重なりあい、教会堂の正面が形づくられている。


 (fig65)

背の高い身廊とそれを支える低い側廊を持つ教会建築では、その高さの異なる形態を一つの建築としてどう纏めるかが建築家の手腕の発揮どころ。パラーディオはその正面を二つの神殿の「重ね合わせ」で解決している。さらに重要なことは教会の内部空間もまた「重ね合わせ」となっていること。

ファサードだけではなく、「重ね合わせ」が内部空間にも及び、身廊と側廊という二つの部分を意識的に区分けしてデザインされた教会の例はこの教会以外ほとんどない。パラーディオ独自の方法と言っても良いだろう。ここもまた写真を見るしか方法はないのだが、サン・ジュルジョ・マジョーレの身廊の柱脚はファサードの注脚がそのまま内部空間でも使われ、身廊では背の高い柱脚が目立つばかりのデザインだ。

内部空間では身廊・側廊全ての柱は同じ高さの脚台の上に載るのが一般的。しかし、ここでは身廊と側廊の注脚がその高さを変えることで、外観のファサード同様、内部空間もまた、二つの建築の「重ね合わせ」、つまり、空間と空間が「重ね合わせ」られ作られている。パラーディオは神殿の円柱を教会の正面を飾る単なる記号として用いたのではなく、古代神殿という建築空間そのものを二つ嵌め込むように「重ね合わせ」ることで、内部空間もまた二つの神殿であることを明確に意識づけ、デザインしている。


(聖なる世界と世俗の官能的ラブソングを重ね合わたミサ曲)

モンテヴェルディもまた、「聖母マリアの晩課」を「重ね合わせ」の手法で作っている。現代のイギリスの音楽家エリオット・ガーディナーが指揮したこの曲のDVDの解説には以下のようなことが書かれていた。

「聖母マリアの晩課は最初の五曲と最後の二曲は聖母に捧げられた聖歌であり、その他はソロの歌曲を含んだ小曲によって構成されている。その全体は荘重な宗教的大曲。しかし魅惑的官能的なラブソング集でもある。特に独唱モテット「私は色が黒くても」は旧約の中の雅歌を典拠としてはいるが、それは世俗の官能的快楽がテーマとなり奏でられている。」ガーディナーはこのことを指し、「聖母マリアの晩課」は世俗の世界と宗教的聖なる世界とが巧みに重層化された音楽と呼んでいる。


(世俗的観劇空間となった修道院教会)

サン・ジョルジョ・マジョーレは古代の異教の二つの神殿を重層化することで、十六世紀のキリスト教教会をデザインしたが、この教会はさらにまた世俗世界と宗教的聖なる世界を巧みに重層化している。前掲書、福田晴虔氏の「パッラーディオ」を読むと、サン・ジョルジョ・マジョーレは修道士のための教会ではあるが、その空間構成からは会堂は修道士達のためというよりもむしろ、一般会衆という世俗世界の人々のための建築と言える。

 (fig66)


その解説を以下に簡約する。「この教会の内部空間は互いに独立した三つの部分の集合。バシリカ風の会堂と四柱の間のような完結性を持った祭壇内陣と劇場風の聖歌隊席という三つの部分。修道院教会は本来、修道士達の日々の勤行や修道会の催すミサのための施設。従って、そこは一般会衆のためと言うより修道士達が特権的に占有する場という性格を持っているはず。修道僧達の修行の場である聖歌隊席は大祭壇に最も近くそれがよく見える場が与えられ、一般会衆はその背後の、大祭壇からははるか遠くに追いやられるのが通例となる。しかし、この教会の空間構成では修道士達の場所である聖歌隊席は背後に押し留まり、中央に配された四柱の間である祭壇内陣が一般会衆のために開かれている。つまり、サン・ジョルジョ・マジョーレの教会は修道士が集まる聖歌隊席が舞台であり、それに対峙する会堂はまるで劇場の観客席のような構成となっている。」(パッラーディオ 鹿島出版会)


サン・ジョルジョ・マジョーレは聖なる世界と世俗の世界の音楽と建築が「重ね合わせ」により協和され、照応した世界なのだ。聖職者の一般信者に対する優越的な扱いが反省され、大祭壇が一般信者に開かれるようになるのは、実際は二十世紀の第二ヴァチカン公会議以降のことらしい。

パラーディオは四百年も前に現代の教会建築の在り方を先取っていた。そしてモンテヴェルディもまた楽想を「重ね合わせ」ることで、新しい教会音楽の形式を切り開いていた。さらに付け加えるならば、この二人に見られる「聖と世俗」の「重ね合わせ」をテーマとした「音楽と建築」の展開は、後のオペラとオペラ劇場そのものの経験を先取っている。むしろ、この建築家と音楽家によって、かっての宗教的祝祭空間の中の「音楽と建築」は世俗的観劇空間としてのオペラの世界を開いて行く。





(San Giorgio Maggiore Church from RockhavenW on YouTube)

2010年2月2日火曜日

聖母マリアの晩歌

 

17世紀の音楽家モンテヴェルディは1560年、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオ−ル奏者になる。
建築家パッラーディオが没して10年後のこと。一世代異なる二人でーだが、興味深い照応を示している。

近代劇場の源流となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である彼ら二人はルネサンスの黄昏期からバロックにかけ、生まれながらの道とは全く異なる世界で、その才能を開花させた。
23才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子は、その後の20年間に、沢山のマドリガーレ(多声の世俗歌曲)とオペラを作曲する。
パドヴァの粉屋の息子も23才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者トリッシノのもとで建築家として成長し貴重な建築数多く作った。
後の西洋社会に貢献する音楽と建築は、ともに当時では考えられないことだが、庶民の息子によって生み出された。

オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディ、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォは、業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。
世俗のヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァ宮廷で世俗の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。そんな彼が1610年に聖母マリアの晩課を作曲する。
複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされているが、じつは、この曲、宮廷を離れ、バチカンあるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだ就職活動の為のものだったと知られている。
作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会、この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。
1613年念願適い、サン・マルコ寺院聖歌隊楽長の職を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々と寺院の大空間に響かせた。

そして、ここからが建築家パッラーディオとの照応の話。
まず、ミサ曲を作曲した1610年はパッラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しかかった年のことだ。
ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の対岸に建つこの修道院とパッラーディオとの関わりは1560年、彼が51才の時のレッフエトリオ(食堂)の設計から始まっている。
建築家になってから、ほとんど教会建築に関わることのなかったパッラーディオだが、彼は食堂の設計の成果から、ようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することができた。
そして今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは1567年からパッラーディオ制作の模型に基づき工事が始められ、1610年ようやっと完成しつつあった。
面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとって、もっとも記念すべき教会堂は、なんと教会音楽を作ることがほとんどなかった、モンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。
白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンティヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和、その世界に参加したいと思うのはパッラーディオはもちろん、現在の私たちも全く同様です。
残念ながら晩課のサン・ジョルジョ・マジョーレでのCD・LDの制作は一切ない。
しかし、「サン・マルコ寺院の音楽」がイギリスのエリオット・ガーディナーにより1989年制作され、DVDの名作として、現在の私たちに提供されている。



( Venezia - Guidecca & San Giorgio Maggiore on YouTube)



( Vespro Della Beata Vergine - Claudio Monteverdi - ( 1 ) on YouTube)

2010年2月1日月曜日

サン・マルコ寺院の復合唱

(サン・マルコ寺院の音響と音環境)


十一世紀末献堂のサン・マルコ寺院はヴェネツィアの都市の中心であるばかりか、音楽文化の中心でもあった。巨大なウェディングケーキのような五つのクーポラの内部は濁りのない反響音を響かせる素晴らしい音響空間でもあったからだ。アルプスの北ではあまり見ることのないギリシャ十字の平面形を持つサン・マルコ寺院は東方の影響をまともに受けたビザンチン様式の建築だ。


 (fig61)


その特異な建築空間は祭壇に向かう両翼の袖廊の各々に、オルガンと聖歌隊を向かい合わせて置くことを可能にした。このことから、この寺院では二つの合唱隊が相呼応したり交唱、応答する応答唱極めてドラマティックな音楽複合唱を古くから響かせていた。


ヴェネツィア音楽にとって、この複合唱は最も重要、そして、もう一つ重要だった事柄がある。それはサン・マルコはドゥーモ大聖堂ではなくバシリカ寺院であるということ。


ヴェネツィアはローマの代理人である大司教の権限が及ばない都市なのだ。従って、サン・マルコは共和国市民全員のための教会であって、カトリック・ローマの支配にある司教座聖堂ではない。ヴェネツィア総督の個人的な礼拝堂であり市民のための教会であることから大聖堂ではなく寺院と呼ばれている。


ヴェネツィア共和国は代々聖職者がいたずらに政治に介入することを拒んできた伝統を持っている。結果、サン・マルコ寺院の音楽は聖と俗との境界線はゆるやかで、様々な音楽が容易に相互浸透しやすい環境を作ってきた。


聖と俗との境界線のゆるい音楽環境、それは当時のフィレンツェやローマでは決して生み出せるものではなかった。サン・マルコ寺院の持つ特殊な音環境と音楽環境、この二つが相合わさり、ヴェネツィアは時代を超える新しい音楽を生み出して行く。


(イタリア人の音楽家)


十六世紀イタリアは、絶対君主国化したフランスやスペイン・オーストリアそして教皇庁ローマという、いくつかの勢力の覇権の調整地として翻弄された。このような背景から来る民族主義的な風潮だろうか、サン・マルコ寺院は年、フランドル人音楽家を押し退け、生粋のイタリア人ツァルリーノを楽長の任につかせた。


ツァルリーノはその後のバロック音楽の基礎を築いた重要な音楽家。彼は就任早々、サン・マルコ寺院の音楽的空間特性に合わせ、二人のオルガニストと二組三十人に及ぶ聖歌隊を編成する。さらに、世俗音楽の勇であり、従来は教会に入ることの許されなかった、優れたコルネット奏者を含め、二十人の常任の楽器奏者も雇い入れ、典礼音楽の演奏形態を全く新たなものとして確立していく。


聖歌隊による合唱を器楽アンサンブルが支えていくという新しい演奏形態は、ここサン・マルコ寺院の空間特性無くして生まれ得ないもの。ミサ曲の中に器楽が参入するということは、当時ローマで流行していたア・カペラ楽器の伴奏を伴わない合唱曲とは異なり、壮大な音楽空間を生み出した。


それは教皇庁の権限が及ばないことから生まれる自由であり、生み出された音楽的経験なのだ。その音響空間は後のオペラの誕生を導くイタリア人好みのものでもあり、ヴェネツィアはヴェネツィアの音楽、いやその後のイタリア音楽そのものを発見する。


(ホモフォニーとダイナミックなソナタ)


フランドルやフランスの人たちが好む複雑なポリフォニーとは異なり、朗々とした和声の響きを持つホモフォニー。それはオペラを生み出す為には不可欠な音響空間。イタリア人音楽家ツェルリアーノを楽長に迎えた後、サン・マルコ寺院の音楽はその音楽的空間特性とイタリア人好みの音響特性を生かし大きく発展する。


楽長ツァルリーノを支えたのはアンドレア・ガブリエリとその甥のジョバンニ・ガブリエリ。この二人もまたイタリア人。各々第一、第二のオルガニストとして器楽楽長の役割を担当。


第一オルガニストであるアンドレアは、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目「オイディプス」の作曲者でもある。彼はサン・マルコ寺院での十六声部からなる壮大なミサ曲を天正の遣欧使節の訪問を祝う典礼のために作曲した。


さらに、ジョバンニにいたってはもっと重要な活躍、「強と弱のソナタ」という楽曲を作曲した。この作品は楽器による複合唱。現在にいたる、当時の最もダイナミックな音楽だ。


サン・マルコ寺院では古くから歌われていた人の声による複合唱、その方法を器楽に応用することで、新たに生み出された初めての壮大な器楽曲となった。題名が示す通り楽譜には強弱の指示が書き込まれ、従来の宗教音楽にはなかった音楽全体にダイナミックな動きがも持ち込まれる。


サン・マルコ寺院の内部のそこここに配置された金管楽器の響きは、やがて新しい器楽合奏の形態となって確立され、ついには寺院全体に響きわたる音楽は教会における典礼の役割から独立し、近代音楽の基礎となるバロックへの道を歩んで行く。