2013年5月11日土曜日

摠見寺の塔


今日は東京に戻らなければならない、と言っても、7時からの芸大の演奏会に間に合えばよいのだが。
京都駅からは新幹線には乗らずJR快速で近江八幡へ、そして乗り換え隣の安土で下りた。
初めての安土だが、信長に関心があったわけではない、信長が奪ったものを見たかったからだ。
旅行に出て解ったことだが、あの石部の長寿寺の三重塔はなんと信長によってこの安土に移築されていた(1576年)。
駅から安土山、捜見寺までは歩いてもそう遠くなさそうだが、タクシーに乗った。
町を抜けるとすぐに城址公園、安土城への大手道を右に見ると百々橋の袂、クルマを下りると小さな摠見寺の石碑、ここが摠見寺と安土城下を繋ぐ参道口。
見上げると今日もまた急な階段が深い山林を駆け上がっている。
段を登ると鉄線の柵に遮られた。
柵は右手の大手道からの山道に平行して設置されているようで、左手の急な石段にあわせ登っている。
目の前の錆びた鉄網部分には 汚れたベニア板の看板が吊るされていて、そこには「ここからではなく、大手道にお回り下さい」と書かれていた。
「いえ、安土城址ではなく摠見寺の塔を見たいのです。」
左手の石段に沿い見上げると鉄線柵の脇に小さな空き地が見える、どうやらそこは隣の神社に繋がっているようだ。
道路に戻り、左手の神社の境内へ、さらに人影もないので社殿脇の枝折り戸を開け入り込むと、10メートルほど先にさっき見た鉄線柵が続いていた。
しかし幸い、ここの鉄線柵の一部分は人が入れるように曲げられていて、どうやらここから三重塔への参道を登れそうだ。
急いで戻り、タクシー君には30分で戻ると言い置き、デジカメだけを手にし、再び神社の境内に駆け上がった。

10段も登ればもう深い山の中。
今日もまた一段と急な石段、その石段の所々は崩れていて人の気配は疎か、長い間、人が登ったという形跡さえ感じられない。
そして、町並みや田園ではどこも雲一つない晴天だったはずだが、この山道では轟々と風が鳴っている。
いささか心細いし、心苦しいが引き返す訳には行かない。
よしと奮起し、またまた大変な山登りに挑戦した。
風が泣こうが、鳥が鳴こうが、キツかろうが、長閑であろうが、壊されなかった塔を見たいなら、ただ黙々と登るしかないではないか。
先日の長命寺は800段あまり、とすると此処は500段ぐらいだっただろうか。
ようやっと仁王門が見えてきた、しかしまだ、門までは100段はある。
一休みし周りを見渡すが深い木々の中、相変わらず風だけが轟々と鳴っている。
仁王門もまた長寿寺のものらしい、三井寺にあった常楽寺の仁王門同様、ここも二層部分に高欄が廻る楼門の形式。
この山道には相応しくない 入母屋・本瓦葺の門の両脇にはなんと大きな金剛二力士が左右に安置されていた。(その像には応仁元年(1467年)の墨書があると説明されている。)
さて、仁王門を潜ってもまだ三重塔は遙か上の樹林の中のよう、姿も見えず、もう一頑張りの100段あまりを必死に駈け登るしかない。

樹林を抜けると嘘のように風音が消えた。
右手に塔をやり過ごし、一気に石段を登りきると、左手に琵琶湖の広がりも見える小さな広場に出た。
ここからの眺めは流石に快適だ。
手前は西の湖、そして家並みの向こうに広い湖が続いている。
そう、ここでもまた塔を振り返ることもなく、ただ強い風に体を預け、汗を拭きしばらく眺望を楽しんだ。

しかし、此処は頂上ではない。
湖と反対側、右手の山側に目を向けると、日に照らされた尾根道がさらに高みへと登っている。
そして尾根の先の頂上がどうやら安土城天守閣の跡地のようだ。
なるほど、すごいところにすごい城を造った。
いつか読んだ「火天の城」を思い出し、あの書では吹き抜けを持った円形に近い多角形の楼閣造りの困難さばかりが気になり読んでいたが、そもそもあんな城をこんな場所に造ろうとすることこそ狂っている、と思わずにはいられなかった。

そして、いま立っているところが摠見寺本堂跡。
安土城は焼かれたが、本堂もまた今は跡かたもない。
ここかしこに基礎石だけが残されている広場を見て、 「それはないよ信長君、こんな吹き晒しの狭い場所、落ち着いて経を読むところではないだろうが」。
ここもまた戦いの為の櫓か望楼こそ望ましい。
信長は高いところの建設が好みのようだ、現代のドバイの超高層好みの社長のように。
摠見寺本堂がどんな形であったかは案内書に書かれていないが、「摠見寺は嘉永7年(1854年)火災のため、本堂を含む大半の伽藍を焼失。その後、仮本堂が大手道横の 徳川家康邸跡に移され現在に至っている。」と説明されている。
どうやら、焼かれたのは天守閣とは同時期ではなかったようだが、この本堂もまた城が焼かれるように消えている。
しかし、この火災で三重塔と仁王門が残されたのは幸いだった。
焼けた本堂の下の樹林の中、三重塔も仁王門も木々に守られ類焼を免れたに違いない。

本堂跡地から観る三重塔は何とも小さい。
高さは19.7m、本瓦葺、1454年に長寿寺に建立され、1576年信長によってこの地に移築された。
仁王門の金剛二力士が1467年の隅書き、門も塔も室町中期、信長好みはどの辺りにあるのだろうか。
本堂のある場所からは見下ろすことになるこの塔は小さいがこの場所には相応しい。
軒の出も小振りで逓減も少ないが、初層の中備えに蛙股を設置するなど優雅な造りで、樹林の中にすっぽり納まる姿からなんとなく室生寺の五重塔を思い出させる。

しかし、大手道から天守に行く観光客は沢山いても、わざわざこの塔を見に来る客はいまはほとんどいない。
だからとは言いたくないがその優雅さは、すでにこの塔のここ彼処での傷みとともにあり、どうにも寂しげに感じられてならない。
まぁ、余分な感傷はここまでとして、タクシーは待たせたまま、急いで参道を駆け下りた。

追。
帰宅し「火天の城」のページを繰ってみた。
「天正10年(1582年)の元旦、安土城は人であふれかえっていた。ようやく城のすべてができあがったので、信長は一族連枝衆、大名、旗本ばかりでなく、侍以外の人間にも城内の見物を許したのである。正月の賀に浮かれた人々が諸国から押し寄せ、列をなして城内に吸い込まれた。人の波は、西南の百々橋から摠見寺へと急な石段を登った。仁王門をくぐり、三重塔を眺めれば、そこは城というより、寺院そのものだ」(火天の城・山本兼一、文春文庫p377)
この日の参道とは全く異なる印象だ。
当然ながら天正10年の人並みは平成25年ではほど遠いが、あの山道の急峻さは天正も今も変わらない。 

西明寺、金剛輪寺、三井寺


西明寺の塔
長命寺で苦戦した昨日は結局、京都には戻らず宿にバッグだけ残してキャンセル、近江八幡から彦根に向かった。 そして、朝一番、河瀬に戻り、タクシーで西明寺に到着。 参道は山の下の平地からだが、迂回路ではそこからの石段は登り切りタクシーを降りればもう二天門の上、塔と本堂のある山中の境内だ。 なんとも贅沢な寺参り、早朝の鈴鹿の山裾というが西明寺は嘘のように近かかった。 しかし、境内に入り気になったのはコンプレッサーを使っての機械掃除、その騒がしさと激しい土埃、昨日とは打って変わってのすべての印象、深山の古刹を訪れたという趣はどこにもない。 新緑や秋の紅葉の人気が高い山の中の寺院はどこも同じだろう、かってのような庭箒を持って境内を掃き清めるという姿はなくなったのかもしれない。 枝折り戸のような板戸を開けると 木々で囲まれた小さな平地、 左手山側には大きな本堂、 目の前は三重塔、 右手は二天門でその外は急な石段が駆け下りているようだ。
西明寺もまた天台宗、延暦寺に関わる寺。 834年仁明天皇の勅願により創建されたが平安時代から天台密教の修験道場として栄えたとある。 その全盛期には300を数える僧坊を持ち、山上から平地まで17もの堂塔を持った一大寺院であったようだ。 しかし、1571年信長に抵抗したため、丹羽長秀によって悉くを焼かれた。 兵火を免れたのは今目の前にしている本堂と三重塔と二天門のみ。 幸い、家光から朱印状を与えられたことから復興が進められ、今日の秋春多くの参拝客を集める寺院として今日に残された。 二天門は墨書きにより1407年とされているが、本堂・三重塔はその建設年は明確ではない。 案内書には本堂は長寿寺と同じ鎌倉前期、三重塔は奈良の百済寺と同じ鎌倉後期とある。 確かに、かって訪れた百済寺の三重塔は本瓦葺、ここ西明寺の三重塔は檜皮葺、その違いはあるが大きさも同じぐらいとてもよく似ている。 室町と言われるが宝厳寺(八坂の塔)もまた同じ、相輪が高く、塔身が細く、逓減にリズムがありバランスもよい。 鎌倉時代の塔は室町に比べ軒の出が広いわりに塔身が狭いのだが、この塔は小さな平地に見合うよう二重、三重の高さも抑えられていて、檜皮の屋根が大きく羽を広げているように感じられる。
ひとしきり塔を眺めた後、本堂に目を移すと、塔とは不釣り合いなほど大きな建築であることに気がつく。 長寿寺と同時代ということだが、西明寺は梁間七間、桁行き七間。 小さな敷地に小振りな塔、しかし、本堂は大きい、なるほど平安以来修行の道場としては栄えに栄えたのだろう。 入母屋檜皮葺、向拝をもつこの本堂はむしろ、その印象は常楽寺に近いが、同時代の五間で寄せ棟の長寿寺と同様、この本堂は泰然とした和様式(古来からの神社に似ている)の建築であることには変わらない。 堂内に入るとご本尊の薬師如来ということだがそれは秘仏。 外陣そして内陣、長寿寺では叶わなかった天台密教特有の正方形平面の中の二つの世界を体験する。 しかし、驚いたのは空間体験よりあまりにもたくさんの仏像群。 薄暗い七間四方の堂内だが、そこはまるで博物館の趣、説明を読めば 国宝ばかりだ。 人もいない堂内に、踏み込むごとに明かりが自動的に着き、菩薩や神将如来の数々を次々に照らしていく。 そして、その数の多さに驚き、何故、という疑問が浮かぶと、幸い住職のような方が近寄ってきてくれた。 聞いてみると、理由は明解。 この沢山の国宝、それはみな、もともと信長に焼かれた西明寺の子院や寺域の堂の仏様たちだといことだ。 焼き討ちの際、300もの僧坊に住まう僧たちが仏や宝珠を隠し、自らが寺を焼き、もうすでに全域に火が回ったと偽り、この沢山の国宝と山上の本堂、三重塔を守ったのだ。 そんな、話のあと彼は、三重塔の初層の中も今日は見学可能、素晴らしい極彩色の世界を是非見ていくようにと誘ってくれた。
入って見るとなるほどびっくり。 観光客では塔の中に入れることは滅多にない。 今回、醍醐寺は叶わなかったし、一昨年の奈良高取の壷坂寺以来の体験だ。 もともと塔は仏舎利を祀るお墓。(卒塔婆あるいはストゥーパ)。 塔そのものが参拝の対象であって、塔の中に仏像を据え、そこを荘厳の場に変えたのは後世の姿と言われる。 扉があり連子窓も付き、高欄も設置され、塔は当然、塔内の階段を登り、遠くを眺めるものと思われるが、日本の塔は眺められる対象であって、眺めるための高楼ではない。 しかし、中国や韓国では塔内の各層にも、仏像や教典が収められていたし、望楼の役割も果たしていた。 どうやら、木造の塔に拘った日本だけが特殊であったようだ。 ちょっと調べてみると、日本の塔の起源はどこまでもストゥーパ(墓)。 心柱に支えられた相輪がその姿であって、層の重なりは墓の為の基壇にほかならない。 墓であるかぎり、石組みや甎で固められた基壇の上に相輪が立つ中国や韓国の塔が本来の姿だが、木造が得意の日本では、石の基壇は一段だけで、その上に木造が五段、三段とのるというユニークな建築となっている。 つまり、五重や三重は基壇であって空間ではないのだ。 だからこそ拝むものであって、登り入り込むものではない。 さらにまた塔は現在の超高層とは異なり、基壇である木造の層による構成。 木造塔では長い四本柱は不可能かつ不必要であって、運動会の組体操や積み木のように、初重の天井上に二層の土台を水平に載せ、その上にまた柱を立て二重、そして三重と段々に重ねていくとい方法がとられている。 塔の中央に立つ長い心柱は基段の中にあって地下の舎利と相輪を繋ぐもの、塔の重量を支えるものではない。 だからこそ、構造的には地震時の倒壊を防ぐ振り子として機能するものとみなされた。 心柱は相輪を支える心棒であり振り子、であるなら地上から立ち上がる必要もやがてなくなり、初重の天井に立てられたり、上層から吊り下げられのは当然で、平安時代にはすでに 始まっていた。 初重に心柱が無くなれば、塔内中央に仏像を祀り荘厳するのは当然だろう。 窓もない塔内だが入り口に踏み込みの為の広縁が回れば、そこはもう立派な礼拝堂。 一人静かにこの世とは異なる別世界を体験する格好な空間に変容する。 説明をお聞きすると塔内は法華経曼荼羅の世界ということだ。 中央には大日如来座像、四天柱には脇侍となる三十二尊像(1本の柱に八体の像)。 天蓋をなす折り上げ天井は極楽世界を象徴する極彩色の菊模様。 三間四方を組む十二本の構造柱には竜が絡まり、その間の壁は東西の扉を除き法華経の教典が絵として描かれている。 醍醐寺も同じだが塔の初重を荘厳する極彩色の世界は密教では特別な意味があるという。 曼荼羅のなかに放たれる色彩は目で見るだけでなく、芳香をかぎ音楽を聴くことで心身清浄となると考えられている。 寺を早朝に訪れるということはとても良いことかもしれない。 他に参拝者もいないことが幸いし、事前に申し込むこともなく、堂内を自由に明解な説明でゆっくり拝観させていただいた。
金剛輪寺の塔
一人旅ではいつも、タクシーを使うことを極力避けているので、西明寺からは歩きと決めていた。 見学後、二天門をくぐるとさすがに山寺、その石段は昨日ほどではないが結構きつい、とは言え今は下りのみ、気軽にタクシーで乗り付けてしまい何となく申し訳なかったという想いがよぎる。 一人歩くこの参道は平安以来の多くの僧たちが毎日毎日、上り下りした日常の路。 木々に囲まれ、鳥の声を聴き、風を感じると、大いなる歴史の中に佇んだ気分、とても気持ちが良い。 空には雲一つなく、鳥を真似て口笛ふき、のんびりと山をおりた。 やがて山門というところだが、まだ参道、しかし、なんと無粋なこと。 目の前はコンクリートの固まり、 異次元を感じさせる名神高速道の柱脚が塔のようにそそり立っている。 中世の歴史を壊したのは、決して信長ではない、現代の我々だ。 歴史には目もくれず、実際の景観を見ることも無く、白地図の上に直線を引くだけの都市計画家。 彼らの行為は造っているのだろうか、壊しているのだろうか、なんとも悔しいし、恥ずかしい。 国道に出ると右手に大きな駐車場を抱えた観光バスの休憩所、そば道場という看板。 駐車場には大型バスと数台の乗用車、店内はまだ午前中だが結構な人。 狂騒を避け、隅にある大きなテーブルの端に座を占め、天ぷらそばをすすった。
金剛輪寺まではそう遠くない、日本中どこでもある国道だが、そんなにクルマが多いわけではない。 春いっぱい、のどかな田園の風景だ。 高速道路と平行する国道を10分も歩くと浄心寺という看板。 国道と名神高速ともここで別れ、柱脚をくぐれば人さまが住まう小さな集落。 クルマだけの国道を歩き、ちょっと後悔もした。 ここは現代都市だ一人とはいえ歩くなんてとんでもない、そば道場でタクシーを呼ぶべきだったのだと。 しかし、人里にはいるとてきめんに気分が変わる、あぁ、良かったと。 うれしくもあり、旅気分も絶好調、人もなく車もない田園の山道を飽きることなく歩き続けた。 そば道場からは30,40分も歩いたのだろうか、一本道だから迷うことはないが、やがて、地図通り県道に下り金剛輪寺(松尾寺)惣門についた。 門をくぐり石段を登ると左手に愛荘町立歴史文化博物館。 寺をイメージした建物ということのようだが、よくわからないデザインだ。 急ぐことももないので休憩がてら博物館を見学した。 博物館を出て緩やかな参道を登ると左手に本坊明寿院の門、中にはいると例によって石の多い庭園だ。 桃山から江戸にかけての庭園だそうだが、明寿院を取り囲む形で細々と作られている。 庭園の東側、一段高くなったところに護摩堂と水雲閣が建つ、江戸時代の建築で檜皮で葺かれた宝形の屋根を持つ建築。 此処には平安時代の大黒様、それは今風の大黒とは異なり、打ち出の小槌ではなく宝棒、袋ではなく鎧を着た憤怒相の怖い大黒様が控えていた。
さらにだらだらと参道を行く。 左右はかって100を越す僧坊があったところ、その石垣が本来の寺の趣を感じさせ、またまた中世に入り込んだ気分。 すでに書いたことだが、西明寺の二天門下の寺域もまた同じ、やはり、寺参りはタクシーではなく、テクシーがピッタリ。 僧坊が建ち多くの僧たちが生活した賑わいを木々にまとう鳥たちの鳴き声に見立て楽しんでみた。 ここを抜ければ目的の金剛輪寺の塔も、もうわずか、山寺らしい急な石段をのぼり切ると二天門に立つ。 室町後期造営、左右に増長天と持国天が安置されている入母屋檜皮葺の立派な門だ。 さらに、金剛輪寺と書かれた堂々たる提灯と大きな草鞋、そして門の中には本堂らしきものが目の前に建つ。 その全体の風格と優美さは小癪な桃山ではとても足元にも及ばない。 視覚的には、木組みもまた一段としっかりし、室町独自の優雅さと重々しさが感じられる。 案内書には勅願は奈良時代の聖武天皇、湖東と呼ばれるこの地域全体に勢力を持っていた依智秦氏の創建とある。 つまり別名松尾寺、金剛輪寺はこの地の主のような寺域で、その後は近江源氏佐々木氏の厚い崇敬から沢山の僧坊を持ったようだ。 そういえば、よく見なかったがさっきの博物館、やたらに 依智秦氏の文字が踊っていた。 この周辺、平地は広く水も豊か、その主たちに多くの実りをもたらし続けたのだろう。
金剛輪寺もまた西明寺と同じく延暦寺に関わる天台密教の修業の地、近江の天台宗の寺はどこもだが、応仁の乱や信長の侵攻で大半の僧坊を失い、寺僧の計らいで二天門と塔と本堂を守っている。 おかげで、昭和や平成では決して生み出せない、あるいは守ることすら出来ない室町時代の風格と勢力を今に残してくれているのだ。 二天門をくぐるともう目の前は桁行き七間という大きな本堂、ここもまた小さな敷地に大きな本堂だ。 三重塔もまたかなり大きい。 本堂も室町前期の建立とあるが、金剛輪寺の塔はすでに立ち寄った常楽寺、長寿寺、長命寺、西明寺をも凌駕し、そそり立っている。 この塔は長らく荒廃し、無惨な姿であったとある、しかし、1978年に解体・復元が完了した。 その際、残されていたのは初重のみであったので、その他の部分の復元は近隣諸塔を参考にし、かつ本堂の規模に合わせ再建された。 西明寺でも感じたが、今回の近江の塔巡りは全く時期を得た旅と言って良い。 どこの寺々も周到に整備修復され、屋根を葺き替えも完了、古い建築物ではあるがみな健全に保守されている。 そして、その工事直後にボクは出向いたようだ。 そんな思いを持ちながら、出かける前に読んだ「五重の塔のはなし」という本を思い出した。 そこには驚くことに、平成は前代未聞の五重塔建設のブームであると書かれていた。 著者自身も、なぜ建設ブームかは解らないようだが、平成に入り全国に32基もの木造の五重塔が新設されたと書かれていた。 近江の塔のありがたい保全も、理由はともかく、その流れの一貫だろうか。 いづれにしろ、価値あるものが保存され、多くの人々の賞賛されつつ、時代を超えてゆこうとするのは素晴らしいことだ。
金剛輪寺の三重塔を再建するにあたって近隣の諸塔を調査し、それを参考とし建設したと案内書にあったので、東京に帰り、早速、建築学会に出かけた。 すぐに「 昭和58年刊金剛輪寺三重塔修理工事報告書」なるものが見つかった。 そこには近江の諸塔だけでなく、寺々の本堂もまた調査し、その採寸データも克明に記録されていた。 そして、もっとも貴重なコメント「 鎌倉時代は五間堂が標準、南北朝に入り七間堂へ移行する際、西明寺は旧堂を利用、金剛輪寺は新しく建て替えた。境内の広さからすると五間堂が好ましい」を読み、なるほどと思う同時にびっくりした。 西明寺で特に感じたことだが、金剛輪寺もまた、小さな敷地に小さな三重の塔と大きな本堂。 この不釣り合いの理由が、この書の濱田正士氏の報告で明確過ぎるほど明確だ。 近江の寺の大半はみな比叡山延暦寺に関わる天台密教の修行の場ということは何回も触れたが、その寺々はどこもみな大変な数の僧坊を持ち沢山の修行僧を抱えていた。 その僧坊の跡を歩いてみて気がつくことだが、その勢力の増長により五間堂の本堂はどこの寺も七間堂に増築せざるを得なかっことがよく解る。 だからこそ、信長はその一大勢力を削ぐべく、近江の寺を徹底的に焼き尽くさざるを得なかったのだろう。 しかし、さらに500年を経過した今、本堂と塔のみ残された近江の寺々を見学し、歴史は決して言葉でのみ残されるのではなく、建築の姿によっても語りうるということを改めて知った。 そして大事なことは、その規模、プロポーションのチグハグさは間違ってもデザインの不備にあったのではなく、歴史の言葉だったということだ。 今も昔も、秩序のない、不釣り合いな建築を最初からデザインすることなどあるはずは無い。 もっとも、デザイン力の無い人がデザインすれば、あるいは、敷地も見ずに白紙の画面に絵を書き始めるなら話は別だが。 そうなると、デザインは歴史の言葉どころか、喜劇いや悲劇だが。 どちらにしろ、建築は人に理解され無かろうが、気づか無かろうが、いつも何らかな言葉を語っている。 そして、ボクの塔を巡る旅いつも、その塔が語る言葉を聞き、鳥や風とともにある塔の音楽を聴く旅であると思っている。
三井寺の塔
前回の大津の園城寺はたしか建築仲間との光浄院・勧学院の客殿見学だった。 ともに園城寺の子院、17世紀はじめに再建された、典型的な桃山時代の書院造りの建築だ。 客殿の南に広がる伸びやかな庭園、敷き詰められた畳座敷の広がり、狩野派の障壁画、そして贅を尽くした床・棚・付書院の連続に目を奪われたのを覚えている。 しかし、今日は塔の見学。 三条京阪から浜大津で乗り換え石坂線で三井寺駅へ。 朝早く京の街を散歩してからだが、電車に乗ってからは30分ぐらいだろうか。 小さな駅を降り、琵琶湖疎水沿いを歩いた。 明治時代の京都の近代文明の証もいまはもう忘れられた小さな流れ。 趣もない家々に囲まれてはいるが、その一徹な護岸に導かれる澄んだ水の流れはどこか毅然としている。
橋を二つばかりやり過ごすと疎水の右手の山が園城寺の寺域、三井寺だ。 門を入ると案内人に呼び止められ、小さな紙の案内図に赤の色鉛筆で見学ルートを示された。 そう、逆コースからの入山者、広い境内をつつがなく回るにはこの色鉛筆説明は有効だった。 まずは見学者のいない参道を観音堂へ、大きな立木に覆われた緩い登りの道。 広い階段を登ると観音堂、振り返ると大きな立木越しに広い琵琶湖とその沿岸の大津の町が広がっている。 一頻り琵琶湖にへばりつく大津の町を眺めると参道に戻り、 お目当ての塔を目指した。 毘沙門堂から勧学院脇の階段を登り唐院の境内に立つと目の前は三重塔。
園城寺は天台寺門宗の総本山。 三井寺という別称は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があり「御井の寺」と呼ばれたことにあるようだ。 壬申の乱(672年)に破れた大友皇子の子が父の霊をともらい寺を創建、天武天皇から「園城」とい勅額を贈られたことがはじまる。 衰退していた大友氏の氏寺を再興したのは延暦寺の円珍、彼は859年、園城寺初代長吏となりこの寺を天台別院とした。 しかし、その後延暦寺は円任派と円珍派の対立が始まる。 やがて円珍派は993年叡山をおりて園城寺に入ることになる。 その後も二派の対立は終わることなく、延暦寺は山門派、園城寺は寺門派とよばれ抗争を継続する。 対立の中、園城寺は延暦寺山門派の焼き討ちに会う、さらに源平の争乱にも巻き込まれ衰退する。 しかし、園城寺は多くの高僧を輩出し、力は東大寺・興福寺・延暦寺に劣らず日本四箇大寺の一つと目され続けた。 建築的な意味では園城寺に大打撃を与えたのは秀吉だ。 理由不明だが秀吉は1595年けっしょ令なる意味不明の命令書でこの寺の堂宇は強制的に取り払った。 その時の園城寺金堂は、今に残り延暦寺西塔の釈迦堂となっている。 そして現在の金堂はなんと1599年北政所の建立、桃山時代の名建築として今日に残されている。 信長や秀吉が壊すと家康が再建、これは近江の寺のパターンかもしれないが、前回見学した二つの客殿ともども、現在の諸堂は秀吉のけっしょ令の後、北の政所、秀頼、家康によって再建または移築されたものといえるようだ。
そんなテーマパークのようなこの寺にとって特に面白いのは三重塔と仁王門だろう。 三重塔はもともと大和吉野の比蘇寺もので1392年の建立、その塔をなんと秀吉によって伏見城に移築された。 そして後、伏見城の塔は家康によってこの園城寺に1601年に移築されたのだ。 塔にとってはなんとも迷惑千万、秀吉君忘れ物だよとばかりに、家康はここ園城寺のもっとも重要な境内、円珍の霊廟である唐院の北に伏見城に運ばれた比蘇寺の三重塔を再建した。 家康君のおかげで、近江の塔を巡っているボクにとって、今回は吉野のまで足を延ばすことなく、もう一つの室町の塔を見学することができたということになる。 今ある園城寺のこの塔は広々とした唐院境内にある。 狭い山寺の境内に建つ塔ばかり見てきたのでなんとも大らかだ。 本瓦葺で高さ24.7mの塔は今回の一連の三重塔の中では最高の高さを持つ。 しかし、さすが広い境内に置かれた塔をみていると決して大きくは感じない。 印象としては常楽寺の塔と全く変わらない。
本瓦葺きであり、高さも同程度、時代的にもほとんど同じ、わずかに違うところはと考えると、ボクにはやはり常楽寺の塔の方が一枚上かなと思えてくる。 違いはどこにあるか、大きく異なるのは中備えとしての間斗束の扱いにある。 常楽寺は二層は三間すべてに、三層にもは中央には間斗束がある。 しかし、二層は同じだが園城寺の三層には間斗束がない。 多分、塔身幅の逓減がきつく、三層には中央とはいえ束を置く余裕はなかったのだろう。 本瓦葺きでも軒を深く見せ塔身を狭くするのは全体の姿として重要だが、細部デザインである斗供の大きさまでかっての比蘇寺では、その比率に従い小さくする事はできなかったのではなかろうか。 すでに触れたが、常楽寺は枝割の完成期、それは垂木の位置の問題だけではない、部材の大きさにも関わることであるはず。 あてずっぽうの推測だが、三層部分の斗供の部材寸法を常楽寺のように調整できなければ、比蘇寺においてはその塔身幅から間斗束を置くことは難しい。
歴史上の武将たちに楯突くつもりは毛頭ないのだが、もう一つ面白いのが、園城寺の表門である仁王門の移築。 この門は立派だ、今の園城寺いや三井寺にこそ相応しい。 しかし、この門はかって常楽寺にあった仁王門、1452年に建立された門だが、秀吉亡き後園城寺の再建を図る家康が1601年にここに移築している。 すでに書いたが常楽寺は甲良郡石部にあるいまや慎ましい、しかし、観光地ではないがすばらしい寺だ。 だからこそ、今回の近江の塔巡りでは最初に訪ねようとマークしていたのだが、この二層の二天門、その大らかさとバランスの良さ、あの塔を持つ常楽寺こそ相応しいと改めて感じた。 ボクの好む日本建築の大らかさは、斑鳩以降は鎌倉末期から室町初期がもっとも表現しえていると思っている。 古代とは異なり、自由に大材を使う事は出来なくなった反面、道具の進化で様々な工夫が可能になった。 その証拠となるものが枝割の工夫とバランスの完成。 それへの切磋琢磨が同時代の建築家たち、匠たちの生き様だ。 と、同時にボクにとってもう一つ、この園城寺の塔と門を見て気が付いたことがある。 それは信長、秀吉、家康がどんな関心を建築に対し持っていたかを考えてみること。 どうせ当てずっぽうだ、考えてみるだけでも面白い。 次回は思いつきだけでもまとめてみたい。

2013年5月10日金曜日

常楽寺、長寿寺、長命寺


常楽寺の塔
京都から連絡よく草津で乗り換えれば40分足らずで石部。 駅前からタクシーで10分(コミュニティバスは1時間に1本)も走れば常楽寺に着く。 観光コースにない塔のある街は人も車もなく、桜と新緑だけ。 携帯電話で連絡すると、住職が降りてきて門を開けてくれた。
管理人でもある彼はたった一人で塔を守っている。おかげで余分な草木は伐採され、遊歩道も整備されているので山中だが存分に散策見学が楽しめた。 常楽寺も歴史は古い、東大寺を建立した良弁が菩薩として祀られていて、和銅年間(708年から715年)に創建されたようだ。 しかし、1360年に落雷で堂塔を失う。幸い、天台宗延暦寺にも関わるこの寺はすぐにも本堂は再建され(勧進状)、1400年(瓦銘)には本瓦葺の三重塔も再建された。 この塔は見逃せない、今回、最初に訪れようと決めていたのはこの寺だ。
その理由は枝割にある。 枝割とはルネサンス建築にある、比例によるデザイン手法と考えて良い。 日本建築でも同様で、建築の細部を設計する際、全体と関連を明確にし、バランスをとり部材の大きさや間隔を決めている。 いつの場合でも建築のプロポーションは柱間と呼ぶ柱と柱の間隔、その本数による全体の大きさ、そして建築の高さ、柱の太さ等で建築の美しさは決まる。 それは音楽と同様、建築はまさに数学の子どもだからだ。 木造の堂塔の建築となれば、美しく見せるためには、斗キョウの幅や垂木の成に本数や間隔という、細部まで入念にバランスをとるのは当然だ。 しかし、その手法化の読みとりとなると容易ではない。 枝割法は簡単に言えば、垂木間の距離と垂木幅と成の関係を同一比で連続させるものと言って良い。 上層に行けば柱間も本数も変わるが、枝割だけは完全に守られる。
1400年の常楽寺の三重塔はこの枝割が完全に整った最古の例と考えられている。 今回、事前に連絡もせず訪れたにも関わらず、携帯電話だけで開門していただき、さらに、高低の変化の激しい境内を十分に管理され、存分に塔の細部を見学できるよう図られた、和尚さんにはただただ感謝感謝だった。 なるほど、決して大きくはないが堂々とした美しい塔だ。 それを的確に写し撮るにはもう一つ能力が必要だが、新緑の中、下から上から、真正面から、近づき、遠のき振りかえる。 マークしていた帰りのバス時刻を大幅にやり過ごし、ひとり、歩き続けた。
長寿寺
石部の常楽寺の東、田園の間道1キロ余り歩くと長寿寺に着く。 間道から山側へ右へ入ると程なく山門。 山門の両側はモミジの新緑、木の間越しの右手は学校のグランドのようだ。 新緑の中の一直線の参道を進むと、決して大きくないが泰然とした本堂が見えてくる。 この寺にも三重塔はあったはずだが、いまはない。
残されているの本堂と入り口の山門だけ。 どうやら塔を奪ったのは戦争でも雷でもなく信長のようだ。 比叡山延暦寺を焼いた織田信長、近江には延暦寺に関わる寺が多いだけに、その堂塔は悉く彼に焼かれている。 しかし、どう言うわけか、この寺の三重塔だけは安土城の築城にあわせ、その城内に移築されたとある。 本堂の左側の1mほどの高台には小さな神社の社が建つが、その更に左奥が長寿寺の塔の跡地のようだ。 礎石は残されたと案内書には書かれているが、目に見えたのは、およそ10m四方の水たまりだけのうら寂しい情景。
鎌倉初期の建造と言われる本堂は寄棟檜皮葺の屋根を正面に向け、単純だが古色蒼然とした風格ある建築だった。 深い向拝の奥の左右の連子窓がとても端正にリズムを刻み、完成された和様式の美しさを放っている。 持参した案内書にはこんな解説が書かれている。 「方五間の穏やかな外観は中世の古刹の威風。外陣と内陣の天井がそれぞれ独立し、古代密教系仏堂が持つ礼堂と正堂の仏堂構成。それは二つの建築の併置だが、ここでは計画的に一つの空間を、単に区切ることではなく、天井や床の構成によって互いに異質な独立した世界を作り上げている。つまり、一つの建築の中を立体的な結界により二つの世界に分離し、その二つの世界を一つの建築として連結している。」 先の常楽寺同様この寺も事前に連絡して訪れた訳ではない。 当然、本堂の入り口の桟唐戸は固く閉じられている。 携帯電話で呼び出してみたが、どこからも、どなたさまも現れる気配はない。 四周をめぐり、5間四方の正方形平面の外周を巡り、その内部の二つの世界は想像の目のみの確認で立ち去ることとなった。
長命寺の塔
ヴォーリーズの建築見学で近江八幡は何回か訪れたが、琵琶湖際に建つこの寺を見学するのは初めてだ。 近江の塔を見て回る、というのが今回の目論見だが、この寺を何時にするか決めかねていた。 石部の常楽寺・長寿寺が思いの外、効率よく見学できたので同じ日の午後、草津から近江八幡まで足を延ばすことにした。 天気も良いし、バス待ちの時間での遅めの腹ごしらえも無事完了。 長命寺港行きのバスはたった一人の乗客を乗せ快調に出発した。 終点は小さなバスターミナル、目の前は雲一つない静かな湖辺。 さて参道は、と探し回ると売店のおじさんが教えてくれた。 「この階段の上だよ!」
えっ、この階段! いや、見上げても、見上げても石段ばかり。 石段と言うより、自然石の山道だ、歩きにくいし、歩幅もきつそう。 左脇にある神社前の車道を横睨みしつつ、言われるまま、山道の石段を登り始めた。 いやぁ、きついの何の、5分も登れば汗びっしょり。 樹林の中、日差しはないが風もない、ひとしきり登れば息が切れ、膝ががくがく。 そして、思わず立ち止まり、上方に目を向ける。 荒れた自然石の石段はまだまだ彼方上方へ、見下ろせば、登ってきたはずの山道は、はるか下方へと続いている。 そう、5回いや10回ほど足が止まっただろうか、息切れも当然だが、足元のふらつきが恐ろしい。 こんなはずではない、そんなにひ弱なはずはない、と言い聞かせながら必死に登る。 30分か1時間か、時間間隔は定かではない。 半日がかりの地獄のような気がしたが、もうだめと思った頃、樹林の中、山門らしきものが見えてきた。 山門をくぐってもまだ堂宇は見えてこない、そしてまたまた延々と感じる自然石の山道が続く。 登り切ると正面は舞台の上の本堂らしき建築。 そして、右手に三重塔、やっとの思いの到着だ。 眺める力もなく、左手の最後の数段を上り、ただただ目の前の石のベンチに腰を下ろした。 呆然と前方を眺めると木の間から白い湖。 風らしきものも感じるがたどり着いた伽藍配置や本堂、塔には目もくれずペットボトルにかじりついた。 ふっと思い出した、駅前のほんのひとときのバス待ちの時。 あの時は、こんな突然の山登りの意識も気配もなく、何気なく自動販売機にコインを落とし、小さなボトルをバックに入れていた。 いまや、このボトルこそ命づな、長命寺なんて名ばかりで、この山のどこにそんな、命を長らえる仕掛けを持っているというのか。 命綱を一気に飲み干し、ようやっと、白い湖から目を離し、左脇の堂宇を眺める。
近江の寺は天台宗が多い。 みな、叡山の延暦寺に関わるそうだ。 しかし、いわれは様々で、この寺は武内宿禰がこの地のヤナギの巨木に寿命長遠の願いを彫ったことに始まる。 これを知った聖徳太子がその木をで仏像を彫り、それを安置し長命寺を創建したという。 なるほど、やはりここは長命を願うところ、確かに、山門を潜るまで何回も殺されたような気がする。 願うも願わざるも、ここにいて湖を眺めていられるのは長命だからこその結果ではないか。 冗談はさておき、ひとごこちして周辺の堂宇を見学する。 目的は塔だ、三重、三間、柿葺きの小さな塔が左手の目の前にある。 漆ではないだろうが、くすんだ赤に塗られたずんぐりむっくりした室町の塔、擬宝珠の銘からは1597年 、秀吉の時代の建設。 そうか、なるほど、信長に従い秀吉も近江の寺はたくさん焼いただろうが、天下一になり、今度は長命を願いこの塔を再建したということか。 そんなことはどこにも書いていない、まぁ、ゲスの勘ぐりだが、塔はその後のメンテナンスも行き届いていて、傷みはどこにもみあたらない。 石段の上に建つから初重には広縁がない古代の造りかと思ったが、そんなことはない、奈良・平安とはことなり後世の塔、基段に載る形式ではなく品のいい高欄付きの広縁に腹石が隠されていた。 見上げると垂木等の部材は小さめだが、枝割のバランスも過不足ない。 全体は厳めしさもなく柔らかで、しかも泰然としている。 長命を願う塔には相応しい、清々しい美しさが感じられた。
蛇足だが、書き足しておこう。 茶店のおやじに言われまま、必死の思いで部活の体力作りのような階段を登ってきたが、なんのことはない、観光バスやタクシーなら、山門脇まで登れるようだ。 そこには大きくはないが立派な駐車場がある。 登り口にあった神社脇の車道はやっぱり、観光客用の参道、大型バスのための道路だった。 そうだろう、秋の紅葉を愛でる人々、そして長寿を願う現代の老若男女、この迂回路が無ければそう簡単には御利益に到達できない。

2013年5月8日水曜日

石山寺

三井寺の仁王門(常楽寺の楼門)を出てまっすぐ、石坂線の踏切を越え疎水を渡れば右手が三井寺駅、石山寺駅へはここから15分程度。 石山寺へはこの駅からは瀬田川沿いの散歩道を行く。 人もなく、船もない、水の流れは風だけを友としてゆっくり流れる、ここまた静かでのどかな風景だ。 石山寺には三重塔や五重塔はなく、多宝塔がある。 河原を15分も歩くとなにやら人だかり、広い駐車場、どうやら 石山寺の門前のようだ。 広場にはたくさんの白いテントの店、まるで朝市のような雰囲気だ。 表門(東大門)を潜るとまっすぐな参道、左右は禅宗ではないから塔頭とは呼べないが、鎌倉の円覚寺、建長寺に似た子院の門がちょうど咲き終わった桜並木と土塀を抉り 続いている。
見学門に近づくともう大変な人だ、いや、かわいいピンクやグリーンの帽子を被り手に手を繋ぐ子供たちの集団。 そうか、この寺の樹木に囲まれた見学道は山あり谷あり石段あり、幼稚園児から小学生、格好な遠足コースに違いない。 入場券を買い中に入り、この人混みさぁ、どうしよう、目的は塔だ。 周りを見回すと人の流れは広い参道を本堂へと続いている。 右手は急階段だが、その脇のくぼみからは真正面に大きな石組みと多宝塔。 一頻り、子供たちをやり過ごし、脇のベンチでカメラを出しシャッターを切る。
聖武天皇の命で良弁が開創した(749年)というから東大寺と同じ時代だ。 平城京建設の時、この地に琵琶湖周辺の材を集め瀬田川の水運で奈良に運んだ。 その時の石山院と称する役所が今の石山寺の起源とされている。 当初は華厳宗、10世紀に東寺真言宗の大本山となり、朝廷、皇族、貴族の信仰が篤かったそうで、紫式部や頼朝、淀殿、芭蕉、さらに島崎藤村ともゆかりがあると書かれている。 子供たちをやり過ごすと早速、意を決して勢いよく一直線に石段を登り始める。 本堂の建つ境内を踊り場としてさらに右手の階段を登る。 鐘楼に突き当たり左によればそこはもう多宝塔の真下。 大きく軒を広げる上層の屋根だが、その支えとなる円形の塔身は細く、亀腹が小さいこの多宝塔はさすがに美しい。
塔に美しいはないかもしれないが、多宝塔は最初から仏像あるいは教典を安置する建物、三重塔のようなお墓(ストゥーパ=卒塔婆=塔)ではない。 その構成は正方形の堂の上に半球の亀腹、その上は円形に配置された十二本の円柱。 円形に配置された円柱には十六の四手先に支えられた方形の屋根が載る。 なんともドラマチック、さらにこの多宝塔は亀腹は小さく、円柱による塔身全体も細く短い。 そのバランスはどのように導かれたものなのか絶妙だ。 正方形と球あるいは円筒という構成は世界中にある建築構成の基本だが、誰が作ったのかこの塔は世界に名だたる名建築の一つと言って間違いない。 詳しく見ると、一般的に多宝塔では蛙股が使われているが、石山寺では初層三間の中備えはすべて間斗束。
1194年鎌倉前期、頼朝により建立されたと言われるこの建築が今は最古の多宝塔と言われるが 、この多宝塔はその始まりからなんと簡素に合理的に組み上げたものよと驚いてしまう。 この塔の魅力は斑鳩の塔に似ている。 それは足したり引いたりのない、率直な部材構成のみで複雑な建築を構成するという面白さ、まさに音楽そのものだ。

2013年4月25日木曜日

醍醐寺


山科盆地、伏見の醍醐寺の塔は京都で現存する最古の塔。 936年に着手され、951年に完成している。 総高38mのうち相輪が13mと塔身の約半分も占めているのが特徴。 逓減率は小さいが組み物は上層ほど部材を小さくするなど、安定したプロポーションを生み出すため細かい配慮がなされている。 三手先は平等院鳳凰堂に見られる完成形の模索、屋根は当初は流板葺きという木瓦葺、現在は本瓦葺だ。
初重内壁には両回界曼荼羅空海像が描かれていて、仏舎利の塔ではなく密教の塔としてつくられたものだそうで、見てみたいと思ったが、今日は残念、無理のようだ。 この寺の始まりは874年理源大師が笠取山に草庵を設けたことにあるというから歴史は古い。 その地は上醍醐と言われ、現在の醍醐寺の後ろの山の上に開山堂、如意輪堂が残されている。 案内所のおばさんに、山道を一時間も登ればよいと言われたが、下から見るかぎり、眼前の山の更に奥の山だそうで、さぞかし眺めも良いのだろうとは思ったが今回はパスすることにした。 そう、旅は始まったばかりだ。 初日に頑張ってしまっては後が続かない。 下醍醐、つまり現在の醍醐寺は907年、平安時代の醍醐天皇の勅願寺。 醍醐寺は室町時代が全盛期でその堂塔を納める境内は山上と山下、広大な領域に及んだようだ。 しかし、15世紀半ばの応仁・文明の乱により五重塔を残し、悉くを焼失。 その後は醍醐の花見で有名、 秀吉によって再建される。 従って、塔をのぞく大半の建築は16世紀の桃山時代と言って良い。 1時間あまりの奥の院巡りは諦めたが、秀吉再建の三宝院とその庭は見学した。 建築と庭は京都では見飽きるほどある桃山建築と石の多い庭だが、表書院や勅使の間、秋草の間には目を見張った。 縁を挟んで庭とは直結、等伯一派や狩野山楽の障壁画を遠目で全体を近くに躙り、他に人がいないことを良いことに自由自在に動き回り眺めてきた。 しかし、ここでもまた一つの残念。 主室には醍醐棚があるはずだが、今日は入室禁止、次回までのお預けとなってしまった。

2013年4月22日月曜日

八坂の塔


京都の最大の盛り場は産寧坂だろう、今日も中国語・韓国語・日本語の若い嬌声でいっぱいだった。 しかし、路地を東大路まで降りれば観光客はまばらだ。 此処からは割安のおでん屋、呑み屋という店はそう遠くない。 振り返れば法観寺八坂の塔。
室町中期の五重塔のわりには塔身が細い。 何故かと本を見ると最初の建設は平安末期とある。 その後12世紀に焼失、頼朝が再建している。 さらに13世紀末再度焼失し、北条貞時に再建され足利尊氏により補修落慶供養が行われた。 そしてまたまた焼失、現在の塔は1440年に足利義教が再建している。 つまり、建設は室町だがデザインは鎌倉時代と言って良い。
一般に室町に比べ鎌倉の塔のほうが塔身が細い、どうやら、この辺りが八坂の塔の塔身の細さの原因だろう。 そして、気がつくことはさすが京の街中の塔だ。 壊されても壊されても再建されるこのしたたかさ。 塔を見て歩くと、戦で堂宇が焼かれても比較的、塔だけが残された寺が多いことに気がつくが、八坂の塔のように焼かれても焼かれても、こんなにも何回も再建され続けられた塔はほとんどない。
近江の寺々は悉く信長に焼かれている。 しかし、 山の下の子院の堂宇は焼かれても、 山の上の本堂と塔だけは焼失を免れている。 そこでは僧自らが自分たちの寺域を焼き、山上の塔と本堂もすでに焼失したと偽り、寺宝と塔を守ったのだ 僧たちの古い建築を守るしたたかさ、さらに京の街という、ここだけが唯一の都市人間の持つしたたかさ、今後も長く長く続いてほしいと、いまは考えている。

2013年3月29日金曜日

ルネサンス劇場のデザイン

演技者や音楽家にとって劇場は必ずしも必要ない。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇や音楽にとって必要なのは舞台であって劇場ではない。身振りと言葉だけで俳優はそこにはない空間や時間を現出すると語る現代の演劇のピーター・ブルックにとって、劇場はおろか舞台すら必要ない。劇場を必要としたのは観客だ。全員参加の古代における祝祭空間が「見る人・見られる人」に分化した時、観客が生まれ、劇場が誕生した。 ギリシャからローマ、ルネサンスから近代とヨーロッパではたくさんの劇場が作られた。しかし、ギリシャのエピダウロス劇場、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ、これらの劇場はともに演劇低迷期に建設されている。エピダウロスはアイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した百年も後の建設。テアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す五十年も前に建てられた。この事実は劇場は必ずしもオペラや演劇の上演ために作られたのではないことを示している。 劇場は世界を知るメディアであり、社交を生み出す装置なのだ。建築デザインの現在は、安全・便利・快適という個々人の生き方に資するもの。しかし、建築は「人と人、人と世界の関係を調整する」という集団的意味を持つメディア。劇場は演劇以前に人間と世界の関係、コスモスを示す役割を担っていた。建築家は劇場を「世界模型」として作ることで、世界の中での人間の在るべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにした。観客は劇場を体験することで世界に立ち、自分自身がいまどこにいるかを実感したのだ。 イタリアに近代劇場が誕生した十六世紀後半、日本でも同時期、能のための常設舞台が西本願寺に完成した。劇場建築をめぐる洋の東西の同時現象は興味深い。絶対的な宗教権力の失墜と下克上が劇場を生み出すきっかけであろうか。劇場を新たに必要とする人々、それはまごうことなく、時代の節目に現れた人間たち。清貧禁欲な宗教的価値観ではなく、現実的、合理的、あるいは多少の快楽が赦される社会に生きる新しい人々だ。 テアトロ・オリンピコという近代劇場の誕生は時代の変局点を示している。この劇場に示されたもう一つの役割。それはコミュニケーションや交歓、「人間と人間の関係を調整する」という社交空間。テアトロ・オリンピコは古代劇場、中世キリスト教会を引き継ぐ「世界劇場」であると同時に、西本願寺の「能舞台」と同様、争いを回避し、文化的資質を生み出す社交空間としてデザインされていた。 劇場を必要としたのは音楽家ではない。演劇関係者でもなく建築家だった。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇に必要なのは舞台であって、劇場ではない。仮設的に作られた野外の演劇の為の空間を劇場という建築の形式に変えたのは建築家であり、建築家に架せられた社会的使命です。建築家は演技によって世界が演じられる以前に、劇場という物理的架構によって世界を表現しなければならなかった。 オペラの誕生の経緯や見ると、むしろオペラの方がすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えていったことが解る。さらにまた、19世紀のワーグナーを除いて、オペラの形式が劇場の形式を決定したということはほとんどなく、むしろオペラが劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられる。17世紀初頭、フィレンツェのメディチ館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開くこととなった。

2013年3月21日木曜日

ルネサンスのメッセージ©

(理想都市とアルカディア)

十五世紀以降のイタリアにあって、建築・絵画・庭園・音楽等が透視画法に描いた世界は理想都市(ユートピア)と アルカディア( 理想郷)。この二つの世界は同時代の人文主義に支えられた人間が想像的に生きる理想世界を意味する。そこはまた神の国とは異なり現実世界でもあるのだ。「理想都市」とは社会的秩序、規範を体現する装置とみなされている。つまり、集団として生きる人間にとっての規範を表現するのが「理想都市」の役割。

「アルカディア」は生活の規範だ。ひと一人がこの世界をいかに生きるか。生きて行くための方法、約束ごとを表現するのが「アルカディア」の役割。

イタリア・ルネサンスにおける「作品的世界」の誕生は絶対的な神の力から離れ、人間自身の力によって、あるいは個々人の自由と自立によって生きることを義務づけている。それは近代社会の始まり。さらにまた、作品の誕生は作家の登場、諸芸術の「自立」をも意味し、各々は神の力無くして、各々の役割を果たさなければならない。

やがて、教会という建築の中で一体化されていた絵画・彫刻と音楽は、同時代に発明されたタブロー化した印刷物同様、教会を離れ自由に飛び立って行く。そして音楽や絵画・建築は集団としての人間が生きる 作品的世界、風景の世界、オペラの世界を生み出していくのだ。


(ラファエロのアテネの学堂)

ローマのバチカン宮殿の署名の間に「アテネの学堂」と呼ばれる壁画がある。盛期ルネサンスの名作、透視画法の意味を伝える貴重な絵画。後の時代のオペラの舞台の先駆けとなる絵画だ。ラファエロ・サンティは十六世紀の初めユリウス二世の命によりこの絵を完成させた。

大きな半円形の画面のなかに、古代的建物を背景とした哲学者、科学者というギリシャの賢人たち。古代の賢人たちを演じているのは現実のルネサンスの芸術家たち。古代の哲人の衣をまとい光の中を悠然と歩く画面の中の姿から、ルネサンスの人々の持つ理想的人間像が劇場的感覚をもって迫ってくる。

舞台背景となるの建築空間は厳正な左右対称の堂々たる壁面、壁龕には神話的人物の彫刻像、ヴォールト天井は角型のピラスター(半柱)で支えられ、高貴な輝きに充ち、ゆるぎない安定感を放っている。その全体は屋根のない古代建築。

透視画法で描かれたこの絵画はルネサンスの舞台構成とまったく同質のもの。絵画の中のシンボルは、この場合画面を彩る様々な人物だが、序列なく等質・等方に配置され、空間には入れ子あるいは代替可能の原則が貫かれている。

ルネサンスの舞台とは変幻自在性を持った仮構による虚構の場、その中の役者は一時的な役割を演じるシンボルにすぎない。「アテネの学堂」はまさに透視画法により構成された、ルネサンスの賢人たちが演じる壮大なオペラ空間となっている。

透視画法による序列なく等質・等方に配置されたシンボルの空間は、観客にとっては自由に想像的(イマージナル)に関われる虚構の世界。現在の私たちにとって、ルネサンスの世界が想像的自由な虚構の場であったことはとても重要ことだ。

やがて見るバロックの舞台空間、そこでの透視画法は観客の想像的自由を生み出す装置ではなく、特定の人間の操作による幻想的(イリュージュナル)な空間に変容する。

特定な人間とはバロックの君主こと。神と異なり君主には誰もが成れるのだから、ロマン主義以降の作家たちにとっては特定な「個人」と言って良いだろう。オペラはこの恣意的なイリュージュナルな空間が基盤となって生み出された作品的世界と言える。

しかし、「アテネの学堂」は幻想ではなく想像的世界。ルネサンスの透視画法は個人により恣意的に操作されるのではなく、集団としての人間に支えられる等質・等方、シンボルのみの空間であったことを忘れると、何も理解できない。

話をラファエロの絵画に戻そう。画面の中央はプラトンとアリストテレス。左側を歩くプラトンは「ティマイオス」を小脇に抱え、右手で天を差し、イディアの在り方を示す。「エティカ=倫理」を持つアリストテレスは天と地の間に右掌を広げ、イディアはそれ自身だけでは存在せず、個々の事物の姿となって存在することを示している。

そして演じるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがプラトン。ニコマコス倫理学書を持つアリストテレスはミケランジェロということだが、前方中央の階段下で書き物をするヘラクレイトスもまたミケランジェロ。ダヴィンチとミケランジェロ、仲の悪かったこの二人が同一の舞台上であるがため、諸説はさまざまだ。

上手(右)床の上の黒板にコンパスをあてるのはブラマンテが演じるユークリッド、その他ソクラテス、ピタゴラス、ディオゲネス、ゾロアスター、プトレマイオス、アルキメデス、エピクロス、パルメニデス、アルキピアデスと各々が様々なポーズを取っての総勢五十三人もの人物。右袖の柱の陰からわずかに顔を出すのがこの絵を描いたラファエロ自身。


(建築家の新たな役割)

絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。かって建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。それは絵画の自立を意味する。絵画のみで世界をあるいは空間を表現することが可能となったのだ。

透視画法による人間が眺める世界、風景の発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになった。空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な現実世界へ、つまり、近代建築の始まり。

建築は虚構的表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなっていく。しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者の道を歩めば良い、という訳ではない。

空間を生み出しそのコンセプトを表現するのは透視画法だが、建築はさらに新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。神に変わり人間自らが問題を発見し答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法が開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割だ。

透視画法が建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割もまた明確となった。透視画法は彫刻によらなくとも三次元の立体を作り出すことが可能だ。従って、彫刻家の仕事は現実の立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすことがその役割となる。

画家は人物像の周りに、建築を描き空間を生み出す。さらに、画家は空間を生み出すばかりか、部屋を取り囲む建築の壁体をも解体する。そしてついには、平な建築の天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなく、天上の世界の表現が可能となった。つまり、画家は実際の建築を超え、建築家が実際の建築を作る以前に、自由に建築空間を生み出すことが出来たのです。


(ルネサンスのアルカディア)

西のアルプスから東のアドリア海まで、北イタリアを滔々と横断するポー河、その流域は全て肥沃な平野。豊かな農産物に恵まれ、音楽と建築に満たされた都市が連なる。マントヴァはその中央に位置する、古代ローマの最大の詩人ウェルギリウスが生まれたところとしても有名。

ルネサンスの人々をアルカディアに誘った長閑で甘美な牧歌や農耕詩は間違いなく、このマントヴァの風景が生み出したものだ。しかし、もともとの、あるいは現実のギリシャのアルカディアは急峻なパルナッソス山域に囲まれた荒涼地、長閑な田園とはほど遠い所。

アルカディアは古代ローマあるいはルネサンスの人々が生み出した想像上の理想郷。ギリシャの人々にとっての、「人間の生きるための規範のための舞台」としてのアルカディアは、苦難の続くルネサンス・イタリアの人々にとっては長閑な田園地帯、理想郷に変容した。

アルカディアはローマ時代の詩人テオクリストやウェルギリウスによる農耕詩や牧歌の中の世界として描かれる。ホイジンガの「中世の秋」によれば、あまりにも厳しすぎた中世末期の現実が、より美しい生活にあこがれ、理想の愛を追い求めるルネサンスを開いたとある。

凶作がつづき、二度に渡る壊滅的なペストの流行、加えて教会勢力の分裂という多難を体験したイタリアでは、十四世紀に入り、ウェルギリウスが描いたアルカディアはペトラルカ等により良い世界の象徴、理想世界、黄金郷として登場した。

列強との狭間で苦難に揺れる十五世紀末イタリア、フェラーラからマントヴァに嫁いだイザベラ・デステの同時代。アルカディアはナポリの詩人ヤコーポ・サンナローザの田園詩「アルカディア」によって、あるいはフィレンツェの詩人アンジェロ・ポリッツィアーノの牧歌劇「オルフェオ」によって再登場する。

やがて「アルカディア」は誕生期のオペラにも引き継がれる。そして十八世紀、その世界は台頭した市民社会の器楽演奏、交響曲や室内楽に取り込まれ、ヨーロッパ音楽の主要テーマとして展開されていく。


(ユリウス二世のメッセージ)

ラファエロの絵画の読み取りは面白いが、「パルナッソス」と「アテネの学堂」を壁画とした「署名の間」全体の意味付けもまたとても興味深い。ユリウス二世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画・天井画を任せ、聖なる空間の創出を計った。

ミケランジェロの聖に対し、ラファエロには俗。「署名の間」は教皇の俗権の行使の場に見合うもの、つまり聖を象徴するシスティーナ礼拝堂に対し「署名の間」は世俗の人々のためのより調和ある世界の象徴として位置づけた。

教皇はミケランジェロとラファエロの力を借り、全世界に対する権力を与えられ、聖と俗、どちらの権威をも仲介する教会そのものの役割を強調しようとしているのだ。

「署名の間」は従って、当時の人文主義とキリスト教を統合した装飾計画により俗権の強調がテーマとなるが、具体的には啓示による真理としての神、そして理性による真理としての真・善・美、つまり、神学・哲学・詩学・法学という四つの徳と精神活動を壁画と天井画によって表現している。

そして「アテネの学堂」は哲学であり真、「パルナッソス」は詩学であり美がテーマ。すでに触れたように、ラファエロは寓意ではなく、実在の人物によって、それも舞台構成のような堂々とした建築や自然空間のなかに表現していく。その構成は大変解りやすく、完成されるや否やローマ中を熱狂させ、あらゆる人たちがその壮大さの前に立ち尽くし賛同したと言われている。