今日は東京に戻らなければならない、と言っても、7時からの芸大の演奏会に間に合えばよいのだが。
京都駅からは新幹線には乗らずJR快速で近江八幡へ、そして乗り換え隣の安土で下りた。
初めての安土だが、信長に関心があったわけではない、信長が奪ったものを見たかったからだ。
旅行に出て解ったことだが、あの石部の長寿寺の三重塔はなんと信長によってこの安土に移築されていた(1576年)。
駅から安土山、捜見寺までは歩いてもそう遠くなさそうだが、タクシーに乗った。
町を抜けるとすぐに城址公園、安土城への大手道を右に見ると百々橋の袂、クルマを下りると小さな摠見寺の石碑、ここが摠見寺と安土城下を繋ぐ参道口。
見上げると今日もまた急な階段が深い山林を駆け上がっている。
段を登ると鉄線の柵に遮られた。
柵は右手の大手道からの山道に平行して設置されているようで、左手の急な石段にあわせ登っている。
目の前の錆びた鉄網部分には 汚れたベニア板の看板が吊るされていて、そこには「ここからではなく、大手道にお回り下さい」と書かれていた。
「いえ、安土城址ではなく摠見寺の塔を見たいのです。」
左手の石段に沿い見上げると鉄線柵の脇に小さな空き地が見える、どうやらそこは隣の神社に繋がっているようだ。
道路に戻り、左手の神社の境内へ、さらに人影もないので社殿脇の枝折り戸を開け入り込むと、10メートルほど先にさっき見た鉄線柵が続いていた。
しかし幸い、ここの鉄線柵の一部分は人が入れるように曲げられていて、どうやらここから三重塔への参道を登れそうだ。
急いで戻り、タクシー君には30分で戻ると言い置き、デジカメだけを手にし、再び神社の境内に駆け上がった。
10段も登ればもう深い山の中。
今日もまた一段と急な石段、その石段の所々は崩れていて人の気配は疎か、長い間、人が登ったという形跡さえ感じられない。
そして、町並みや田園ではどこも雲一つない晴天だったはずだが、この山道では轟々と風が鳴っている。
いささか心細いし、心苦しいが引き返す訳には行かない。
よしと奮起し、またまた大変な山登りに挑戦した。
風が泣こうが、鳥が鳴こうが、キツかろうが、長閑であろうが、壊されなかった塔を見たいなら、ただ黙々と登るしかないではないか。
先日の長命寺は800段あまり、とすると此処は500段ぐらいだっただろうか。
ようやっと仁王門が見えてきた、しかしまだ、門までは100段はある。
一休みし周りを見渡すが深い木々の中、相変わらず風だけが轟々と鳴っている。
仁王門もまた長寿寺のものらしい、三井寺にあった常楽寺の仁王門同様、ここも二層部分に高欄が廻る楼門の形式。
この山道には相応しくない 入母屋・本瓦葺の門の両脇にはなんと大きな金剛二力士が左右に安置されていた。(その像には応仁元年(1467年)の墨書があると説明されている。)
さて、仁王門を潜ってもまだ三重塔は遙か上の樹林の中のよう、姿も見えず、もう一頑張りの100段あまりを必死に駈け登るしかない。
樹林を抜けると嘘のように風音が消えた。
右手に塔をやり過ごし、一気に石段を登りきると、左手に琵琶湖の広がりも見える小さな広場に出た。
ここからの眺めは流石に快適だ。
手前は西の湖、そして家並みの向こうに広い湖が続いている。
そう、ここでもまた塔を振り返ることもなく、ただ強い風に体を預け、汗を拭きしばらく眺望を楽しんだ。
しかし、此処は頂上ではない。
湖と反対側、右手の山側に目を向けると、日に照らされた尾根道がさらに高みへと登っている。
そして尾根の先の頂上がどうやら安土城天守閣の跡地のようだ。
なるほど、すごいところにすごい城を造った。
いつか読んだ「火天の城」を思い出し、あの書では吹き抜けを持った円形に近い多角形の楼閣造りの困難さばかりが気になり読んでいたが、そもそもあんな城をこんな場所に造ろうとすることこそ狂っている、と思わずにはいられなかった。
そして、いま立っているところが摠見寺本堂跡。
安土城は焼かれたが、本堂もまた今は跡かたもない。
ここかしこに基礎石だけが残されている広場を見て、 「それはないよ信長君、こんな吹き晒しの狭い場所、落ち着いて経を読むところではないだろうが」。
ここもまた戦いの為の櫓か望楼こそ望ましい。
信長は高いところの建設が好みのようだ、現代のドバイの超高層好みの社長のように。
摠見寺本堂がどんな形であったかは案内書に書かれていないが、「摠見寺は嘉永7年(1854年)火災のため、本堂を含む大半の伽藍を焼失。その後、仮本堂が大手道横の 徳川家康邸跡に移され現在に至っている。」と説明されている。
どうやら、焼かれたのは天守閣とは同時期ではなかったようだが、この本堂もまた城が焼かれるように消えている。
しかし、この火災で三重塔と仁王門が残されたのは幸いだった。
焼けた本堂の下の樹林の中、三重塔も仁王門も木々に守られ類焼を免れたに違いない。
本堂跡地から観る三重塔は何とも小さい。
高さは19.7m、本瓦葺、1454年に長寿寺に建立され、1576年信長によってこの地に移築された。
仁王門の金剛二力士が1467年の隅書き、門も塔も室町中期、信長好みはどの辺りにあるのだろうか。
本堂のある場所からは見下ろすことになるこの塔は小さいがこの場所には相応しい。
軒の出も小振りで逓減も少ないが、初層の中備えに蛙股を設置するなど優雅な造りで、樹林の中にすっぽり納まる姿からなんとなく室生寺の五重塔を思い出させる。
しかし、大手道から天守に行く観光客は沢山いても、わざわざこの塔を見に来る客はいまはほとんどいない。
だからとは言いたくないがその優雅さは、すでにこの塔のここ彼処での傷みとともにあり、どうにも寂しげに感じられてならない。
まぁ、余分な感傷はここまでとして、タクシーは待たせたまま、急いで参道を駆け下りた。
追。
帰宅し「火天の城」のページを繰ってみた。
「天正10年(1582年)の元旦、安土城は人であふれかえっていた。ようやく城のすべてができあがったので、信長は一族連枝衆、大名、旗本ばかりでなく、侍以外の人間にも城内の見物を許したのである。正月の賀に浮かれた人々が諸国から押し寄せ、列をなして城内に吸い込まれた。人の波は、西南の百々橋から摠見寺へと急な石段を登った。仁王門をくぐり、三重塔を眺めれば、そこは城というより、寺院そのものだ」(火天の城・山本兼一、文春文庫p377)
この日の参道とは全く異なる印象だ。
当然ながら天正10年の人並みは平成25年ではほど遠いが、あの山道の急峻さは天正も今も変わらない。