西明寺の塔
長命寺で苦戦した昨日は結局、京都には戻らず宿にバッグだけ残してキャンセル、近江八幡から彦根に向かった。
そして、朝一番、河瀬に戻り、タクシーで西明寺に到着。
参道は山の下の平地からだが、迂回路ではそこからの石段は登り切りタクシーを降りればもう二天門の上、塔と本堂のある山中の境内だ。
なんとも贅沢な寺参り、早朝の鈴鹿の山裾というが西明寺は嘘のように近かかった。
しかし、境内に入り気になったのはコンプレッサーを使っての機械掃除、その騒がしさと激しい土埃、昨日とは打って変わってのすべての印象、深山の古刹を訪れたという趣はどこにもない。
新緑や秋の紅葉の人気が高い山の中の寺院はどこも同じだろう、かってのような庭箒を持って境内を掃き清めるという姿はなくなったのかもしれない。
枝折り戸のような板戸を開けると 木々で囲まれた小さな平地、 左手山側には大きな本堂、 目の前は三重塔、 右手は二天門でその外は急な石段が駆け下りているようだ。
西明寺もまた天台宗、延暦寺に関わる寺。
834年仁明天皇の勅願により創建されたが平安時代から天台密教の修験道場として栄えたとある。
その全盛期には300を数える僧坊を持ち、山上から平地まで17もの堂塔を持った一大寺院であったようだ。
しかし、1571年信長に抵抗したため、丹羽長秀によって悉くを焼かれた。
兵火を免れたのは今目の前にしている本堂と三重塔と二天門のみ。
幸い、家光から朱印状を与えられたことから復興が進められ、今日の秋春多くの参拝客を集める寺院として今日に残された。
二天門は墨書きにより1407年とされているが、本堂・三重塔はその建設年は明確ではない。
案内書には本堂は長寿寺と同じ鎌倉前期、三重塔は奈良の百済寺と同じ鎌倉後期とある。
確かに、かって訪れた百済寺の三重塔は本瓦葺、ここ西明寺の三重塔は檜皮葺、その違いはあるが大きさも同じぐらいとてもよく似ている。
室町と言われるが宝厳寺(八坂の塔)もまた同じ、相輪が高く、塔身が細く、逓減にリズムがありバランスもよい。
鎌倉時代の塔は室町に比べ軒の出が広いわりに塔身が狭いのだが、この塔は小さな平地に見合うよう二重、三重の高さも抑えられていて、檜皮の屋根が大きく羽を広げているように感じられる。
ひとしきり塔を眺めた後、本堂に目を移すと、塔とは不釣り合いなほど大きな建築であることに気がつく。
長寿寺と同時代ということだが、西明寺は梁間七間、桁行き七間。
小さな敷地に小振りな塔、しかし、本堂は大きい、なるほど平安以来修行の道場としては栄えに栄えたのだろう。
入母屋檜皮葺、向拝をもつこの本堂はむしろ、その印象は常楽寺に近いが、同時代の五間で寄せ棟の長寿寺と同様、この本堂は泰然とした和様式(古来からの神社に似ている)の建築であることには変わらない。
堂内に入るとご本尊の薬師如来ということだがそれは秘仏。
外陣そして内陣、長寿寺では叶わなかった天台密教特有の正方形平面の中の二つの世界を体験する。
しかし、驚いたのは空間体験よりあまりにもたくさんの仏像群。
薄暗い七間四方の堂内だが、そこはまるで博物館の趣、説明を読めば 国宝ばかりだ。
人もいない堂内に、踏み込むごとに明かりが自動的に着き、菩薩や神将如来の数々を次々に照らしていく。
そして、その数の多さに驚き、何故、という疑問が浮かぶと、幸い住職のような方が近寄ってきてくれた。
聞いてみると、理由は明解。
この沢山の国宝、それはみな、もともと信長に焼かれた西明寺の子院や寺域の堂の仏様たちだといことだ。
焼き討ちの際、300もの僧坊に住まう僧たちが仏や宝珠を隠し、自らが寺を焼き、もうすでに全域に火が回ったと偽り、この沢山の国宝と山上の本堂、三重塔を守ったのだ。
そんな、話のあと彼は、三重塔の初層の中も今日は見学可能、素晴らしい極彩色の世界を是非見ていくようにと誘ってくれた。
入って見るとなるほどびっくり。
観光客では塔の中に入れることは滅多にない。
今回、醍醐寺は叶わなかったし、一昨年の奈良高取の壷坂寺以来の体験だ。
もともと塔は仏舎利を祀るお墓。(卒塔婆あるいはストゥーパ)。
塔そのものが参拝の対象であって、塔の中に仏像を据え、そこを荘厳の場に変えたのは後世の姿と言われる。
扉があり連子窓も付き、高欄も設置され、塔は当然、塔内の階段を登り、遠くを眺めるものと思われるが、日本の塔は眺められる対象であって、眺めるための高楼ではない。
しかし、中国や韓国では塔内の各層にも、仏像や教典が収められていたし、望楼の役割も果たしていた。
どうやら、木造の塔に拘った日本だけが特殊であったようだ。
ちょっと調べてみると、日本の塔の起源はどこまでもストゥーパ(墓)。
心柱に支えられた相輪がその姿であって、層の重なりは墓の為の基壇にほかならない。
墓であるかぎり、石組みや甎で固められた基壇の上に相輪が立つ中国や韓国の塔が本来の姿だが、木造が得意の日本では、石の基壇は一段だけで、その上に木造が五段、三段とのるというユニークな建築となっている。
つまり、五重や三重は基壇であって空間ではないのだ。
だからこそ拝むものであって、登り入り込むものではない。
さらにまた塔は現在の超高層とは異なり、基壇である木造の層による構成。
木造塔では長い四本柱は不可能かつ不必要であって、運動会の組体操や積み木のように、初重の天井上に二層の土台を水平に載せ、その上にまた柱を立て二重、そして三重と段々に重ねていくとい方法がとられている。
塔の中央に立つ長い心柱は基段の中にあって地下の舎利と相輪を繋ぐもの、塔の重量を支えるものではない。
だからこそ、構造的には地震時の倒壊を防ぐ振り子として機能するものとみなされた。
心柱は相輪を支える心棒であり振り子、であるなら地上から立ち上がる必要もやがてなくなり、初重の天井に立てられたり、上層から吊り下げられのは当然で、平安時代にはすでに 始まっていた。
初重に心柱が無くなれば、塔内中央に仏像を祀り荘厳するのは当然だろう。
窓もない塔内だが入り口に踏み込みの為の広縁が回れば、そこはもう立派な礼拝堂。
一人静かにこの世とは異なる別世界を体験する格好な空間に変容する。
説明をお聞きすると塔内は法華経曼荼羅の世界ということだ。
中央には大日如来座像、四天柱には脇侍となる三十二尊像(1本の柱に八体の像)。
天蓋をなす折り上げ天井は極楽世界を象徴する極彩色の菊模様。
三間四方を組む十二本の構造柱には竜が絡まり、その間の壁は東西の扉を除き法華経の教典が絵として描かれている。
醍醐寺も同じだが塔の初重を荘厳する極彩色の世界は密教では特別な意味があるという。
曼荼羅のなかに放たれる色彩は目で見るだけでなく、芳香をかぎ音楽を聴くことで心身清浄となると考えられている。
寺を早朝に訪れるということはとても良いことかもしれない。
他に参拝者もいないことが幸いし、事前に申し込むこともなく、堂内を自由に明解な説明でゆっくり拝観させていただいた。
金剛輪寺の塔
一人旅ではいつも、タクシーを使うことを極力避けているので、西明寺からは歩きと決めていた。
見学後、二天門をくぐるとさすがに山寺、その石段は昨日ほどではないが結構きつい、とは言え今は下りのみ、気軽にタクシーで乗り付けてしまい何となく申し訳なかったという想いがよぎる。
一人歩くこの参道は平安以来の多くの僧たちが毎日毎日、上り下りした日常の路。
木々に囲まれ、鳥の声を聴き、風を感じると、大いなる歴史の中に佇んだ気分、とても気持ちが良い。
空には雲一つなく、鳥を真似て口笛ふき、のんびりと山をおりた。
やがて山門というところだが、まだ参道、しかし、なんと無粋なこと。
目の前はコンクリートの固まり、 異次元を感じさせる名神高速道の柱脚が塔のようにそそり立っている。
中世の歴史を壊したのは、決して信長ではない、現代の我々だ。
歴史には目もくれず、実際の景観を見ることも無く、白地図の上に直線を引くだけの都市計画家。
彼らの行為は造っているのだろうか、壊しているのだろうか、なんとも悔しいし、恥ずかしい。
国道に出ると右手に大きな駐車場を抱えた観光バスの休憩所、そば道場という看板。
駐車場には大型バスと数台の乗用車、店内はまだ午前中だが結構な人。
狂騒を避け、隅にある大きなテーブルの端に座を占め、天ぷらそばをすすった。
金剛輪寺まではそう遠くない、日本中どこでもある国道だが、そんなにクルマが多いわけではない。
春いっぱい、のどかな田園の風景だ。
高速道路と平行する国道を10分も歩くと浄心寺という看板。
国道と名神高速ともここで別れ、柱脚をくぐれば人さまが住まう小さな集落。
クルマだけの国道を歩き、ちょっと後悔もした。
ここは現代都市だ一人とはいえ歩くなんてとんでもない、そば道場でタクシーを呼ぶべきだったのだと。
しかし、人里にはいるとてきめんに気分が変わる、あぁ、良かったと。
うれしくもあり、旅気分も絶好調、人もなく車もない田園の山道を飽きることなく歩き続けた。
そば道場からは30,40分も歩いたのだろうか、一本道だから迷うことはないが、やがて、地図通り県道に下り金剛輪寺(松尾寺)惣門についた。
門をくぐり石段を登ると左手に愛荘町立歴史文化博物館。
寺をイメージした建物ということのようだが、よくわからないデザインだ。
急ぐことももないので休憩がてら博物館を見学した。
博物館を出て緩やかな参道を登ると左手に本坊明寿院の門、中にはいると例によって石の多い庭園だ。
桃山から江戸にかけての庭園だそうだが、明寿院を取り囲む形で細々と作られている。
庭園の東側、一段高くなったところに護摩堂と水雲閣が建つ、江戸時代の建築で檜皮で葺かれた宝形の屋根を持つ建築。
此処には平安時代の大黒様、それは今風の大黒とは異なり、打ち出の小槌ではなく宝棒、袋ではなく鎧を着た憤怒相の怖い大黒様が控えていた。
さらにだらだらと参道を行く。
左右はかって100を越す僧坊があったところ、その石垣が本来の寺の趣を感じさせ、またまた中世に入り込んだ気分。
すでに書いたことだが、西明寺の二天門下の寺域もまた同じ、やはり、寺参りはタクシーではなく、テクシーがピッタリ。
僧坊が建ち多くの僧たちが生活した賑わいを木々にまとう鳥たちの鳴き声に見立て楽しんでみた。
ここを抜ければ目的の金剛輪寺の塔も、もうわずか、山寺らしい急な石段をのぼり切ると二天門に立つ。
室町後期造営、左右に増長天と持国天が安置されている入母屋檜皮葺の立派な門だ。
さらに、金剛輪寺と書かれた堂々たる提灯と大きな草鞋、そして門の中には本堂らしきものが目の前に建つ。
その全体の風格と優美さは小癪な桃山ではとても足元にも及ばない。
視覚的には、木組みもまた一段としっかりし、室町独自の優雅さと重々しさが感じられる。
案内書には勅願は奈良時代の聖武天皇、湖東と呼ばれるこの地域全体に勢力を持っていた依智秦氏の創建とある。
つまり別名松尾寺、金剛輪寺はこの地の主のような寺域で、その後は近江源氏佐々木氏の厚い崇敬から沢山の僧坊を持ったようだ。
そういえば、よく見なかったがさっきの博物館、やたらに 依智秦氏の文字が踊っていた。
この周辺、平地は広く水も豊か、その主たちに多くの実りをもたらし続けたのだろう。
金剛輪寺もまた西明寺と同じく延暦寺に関わる天台密教の修業の地、近江の天台宗の寺はどこもだが、応仁の乱や信長の侵攻で大半の僧坊を失い、寺僧の計らいで二天門と塔と本堂を守っている。
おかげで、昭和や平成では決して生み出せない、あるいは守ることすら出来ない室町時代の風格と勢力を今に残してくれているのだ。
二天門をくぐるともう目の前は桁行き七間という大きな本堂、ここもまた小さな敷地に大きな本堂だ。
三重塔もまたかなり大きい。
本堂も室町前期の建立とあるが、金剛輪寺の塔はすでに立ち寄った常楽寺、長寿寺、長命寺、西明寺をも凌駕し、そそり立っている。
この塔は長らく荒廃し、無惨な姿であったとある、しかし、1978年に解体・復元が完了した。
その際、残されていたのは初重のみであったので、その他の部分の復元は近隣諸塔を参考にし、かつ本堂の規模に合わせ再建された。
西明寺でも感じたが、今回の近江の塔巡りは全く時期を得た旅と言って良い。
どこの寺々も周到に整備修復され、屋根を葺き替えも完了、古い建築物ではあるがみな健全に保守されている。
そして、その工事直後にボクは出向いたようだ。
そんな思いを持ちながら、出かける前に読んだ「五重の塔のはなし」という本を思い出した。
そこには驚くことに、平成は前代未聞の五重塔建設のブームであると書かれていた。
著者自身も、なぜ建設ブームかは解らないようだが、平成に入り全国に32基もの木造の五重塔が新設されたと書かれていた。
近江の塔のありがたい保全も、理由はともかく、その流れの一貫だろうか。
いづれにしろ、価値あるものが保存され、多くの人々の賞賛されつつ、時代を超えてゆこうとするのは素晴らしいことだ。
金剛輪寺の三重塔を再建するにあたって近隣の諸塔を調査し、それを参考とし建設したと案内書にあったので、東京に帰り、早速、建築学会に出かけた。
すぐに「 昭和58年刊金剛輪寺三重塔修理工事報告書」なるものが見つかった。
そこには近江の諸塔だけでなく、寺々の本堂もまた調査し、その採寸データも克明に記録されていた。
そして、もっとも貴重なコメント「 鎌倉時代は五間堂が標準、南北朝に入り七間堂へ移行する際、西明寺は旧堂を利用、金剛輪寺は新しく建て替えた。境内の広さからすると五間堂が好ましい」を読み、なるほどと思う同時にびっくりした。
西明寺で特に感じたことだが、金剛輪寺もまた、小さな敷地に小さな三重の塔と大きな本堂。
この不釣り合いの理由が、この書の濱田正士氏の報告で明確過ぎるほど明確だ。
近江の寺の大半はみな比叡山延暦寺に関わる天台密教の修行の場ということは何回も触れたが、その寺々はどこもみな大変な数の僧坊を持ち沢山の修行僧を抱えていた。
その僧坊の跡を歩いてみて気がつくことだが、その勢力の増長により五間堂の本堂はどこの寺も七間堂に増築せざるを得なかっことがよく解る。
だからこそ、信長はその一大勢力を削ぐべく、近江の寺を徹底的に焼き尽くさざるを得なかったのだろう。
しかし、さらに500年を経過した今、本堂と塔のみ残された近江の寺々を見学し、歴史は決して言葉でのみ残されるのではなく、建築の姿によっても語りうるということを改めて知った。
そして大事なことは、その規模、プロポーションのチグハグさは間違ってもデザインの不備にあったのではなく、歴史の言葉だったということだ。
今も昔も、秩序のない、不釣り合いな建築を最初からデザインすることなどあるはずは無い。
もっとも、デザイン力の無い人がデザインすれば、あるいは、敷地も見ずに白紙の画面に絵を書き始めるなら話は別だが。
そうなると、デザインは歴史の言葉どころか、喜劇いや悲劇だが。
どちらにしろ、建築は人に理解され無かろうが、気づか無かろうが、いつも何らかな言葉を語っている。
そして、ボクの塔を巡る旅いつも、その塔が語る言葉を聞き、鳥や風とともにある塔の音楽を聴く旅であると思っている。
三井寺の塔
前回の大津の園城寺はたしか建築仲間との光浄院・勧学院の客殿見学だった。
ともに園城寺の子院、17世紀はじめに再建された、典型的な桃山時代の書院造りの建築だ。
客殿の南に広がる伸びやかな庭園、敷き詰められた畳座敷の広がり、狩野派の障壁画、そして贅を尽くした床・棚・付書院の連続に目を奪われたのを覚えている。
しかし、今日は塔の見学。
三条京阪から浜大津で乗り換え石坂線で三井寺駅へ。
朝早く京の街を散歩してからだが、電車に乗ってからは30分ぐらいだろうか。
小さな駅を降り、琵琶湖疎水沿いを歩いた。
明治時代の京都の近代文明の証もいまはもう忘れられた小さな流れ。
趣もない家々に囲まれてはいるが、その一徹な護岸に導かれる澄んだ水の流れはどこか毅然としている。
橋を二つばかりやり過ごすと疎水の右手の山が園城寺の寺域、三井寺だ。
門を入ると案内人に呼び止められ、小さな紙の案内図に赤の色鉛筆で見学ルートを示された。
そう、逆コースからの入山者、広い境内をつつがなく回るにはこの色鉛筆説明は有効だった。
まずは見学者のいない参道を観音堂へ、大きな立木に覆われた緩い登りの道。
広い階段を登ると観音堂、振り返ると大きな立木越しに広い琵琶湖とその沿岸の大津の町が広がっている。
一頻り琵琶湖にへばりつく大津の町を眺めると参道に戻り、 お目当ての塔を目指した。
毘沙門堂から勧学院脇の階段を登り唐院の境内に立つと目の前は三重塔。
園城寺は天台寺門宗の総本山。
三井寺という別称は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があり「御井の寺」と呼ばれたことにあるようだ。
壬申の乱(672年)に破れた大友皇子の子が父の霊をともらい寺を創建、天武天皇から「園城」とい勅額を贈られたことがはじまる。
衰退していた大友氏の氏寺を再興したのは延暦寺の円珍、彼は859年、園城寺初代長吏となりこの寺を天台別院とした。
しかし、その後延暦寺は円任派と円珍派の対立が始まる。
やがて円珍派は993年叡山をおりて園城寺に入ることになる。
その後も二派の対立は終わることなく、延暦寺は山門派、園城寺は寺門派とよばれ抗争を継続する。
対立の中、園城寺は延暦寺山門派の焼き討ちに会う、さらに源平の争乱にも巻き込まれ衰退する。
しかし、園城寺は多くの高僧を輩出し、力は東大寺・興福寺・延暦寺に劣らず日本四箇大寺の一つと目され続けた。
建築的な意味では園城寺に大打撃を与えたのは秀吉だ。
理由不明だが秀吉は1595年けっしょ令なる意味不明の命令書でこの寺の堂宇は強制的に取り払った。
その時の園城寺金堂は、今に残り延暦寺西塔の釈迦堂となっている。
そして現在の金堂はなんと1599年北政所の建立、桃山時代の名建築として今日に残されている。
信長や秀吉が壊すと家康が再建、これは近江の寺のパターンかもしれないが、前回見学した二つの客殿ともども、現在の諸堂は秀吉のけっしょ令の後、北の政所、秀頼、家康によって再建または移築されたものといえるようだ。
そんなテーマパークのようなこの寺にとって特に面白いのは三重塔と仁王門だろう。
三重塔はもともと大和吉野の比蘇寺もので1392年の建立、その塔をなんと秀吉によって伏見城に移築された。
そして後、伏見城の塔は家康によってこの園城寺に1601年に移築されたのだ。
塔にとってはなんとも迷惑千万、秀吉君忘れ物だよとばかりに、家康はここ園城寺のもっとも重要な境内、円珍の霊廟である唐院の北に伏見城に運ばれた比蘇寺の三重塔を再建した。
家康君のおかげで、近江の塔を巡っているボクにとって、今回は吉野のまで足を延ばすことなく、もう一つの室町の塔を見学することができたということになる。
今ある園城寺のこの塔は広々とした唐院境内にある。
狭い山寺の境内に建つ塔ばかり見てきたのでなんとも大らかだ。
本瓦葺で高さ24.7mの塔は今回の一連の三重塔の中では最高の高さを持つ。
しかし、さすが広い境内に置かれた塔をみていると決して大きくは感じない。
印象としては常楽寺の塔と全く変わらない。
本瓦葺きであり、高さも同程度、時代的にもほとんど同じ、わずかに違うところはと考えると、ボクにはやはり常楽寺の塔の方が一枚上かなと思えてくる。
違いはどこにあるか、大きく異なるのは中備えとしての間斗束の扱いにある。
常楽寺は二層は三間すべてに、三層にもは中央には間斗束がある。
しかし、二層は同じだが園城寺の三層には間斗束がない。
多分、塔身幅の逓減がきつく、三層には中央とはいえ束を置く余裕はなかったのだろう。
本瓦葺きでも軒を深く見せ塔身を狭くするのは全体の姿として重要だが、細部デザインである斗供の大きさまでかっての比蘇寺では、その比率に従い小さくする事はできなかったのではなかろうか。
すでに触れたが、常楽寺は枝割の完成期、それは垂木の位置の問題だけではない、部材の大きさにも関わることであるはず。
あてずっぽうの推測だが、三層部分の斗供の部材寸法を常楽寺のように調整できなければ、比蘇寺においてはその塔身幅から間斗束を置くことは難しい。
歴史上の武将たちに楯突くつもりは毛頭ないのだが、もう一つ面白いのが、園城寺の表門である仁王門の移築。
この門は立派だ、今の園城寺いや三井寺にこそ相応しい。
しかし、この門はかって常楽寺にあった仁王門、1452年に建立された門だが、秀吉亡き後園城寺の再建を図る家康が1601年にここに移築している。
すでに書いたが常楽寺は甲良郡石部にあるいまや慎ましい、しかし、観光地ではないがすばらしい寺だ。
だからこそ、今回の近江の塔巡りでは最初に訪ねようとマークしていたのだが、この二層の二天門、その大らかさとバランスの良さ、あの塔を持つ常楽寺こそ相応しいと改めて感じた。
ボクの好む日本建築の大らかさは、斑鳩以降は鎌倉末期から室町初期がもっとも表現しえていると思っている。
古代とは異なり、自由に大材を使う事は出来なくなった反面、道具の進化で様々な工夫が可能になった。
その証拠となるものが枝割の工夫とバランスの完成。
それへの切磋琢磨が同時代の建築家たち、匠たちの生き様だ。
と、同時にボクにとってもう一つ、この園城寺の塔と門を見て気が付いたことがある。
それは信長、秀吉、家康がどんな関心を建築に対し持っていたかを考えてみること。
どうせ当てずっぽうだ、考えてみるだけでも面白い。
次回は思いつきだけでもまとめてみたい。