常楽寺の塔
京都から連絡よく草津で乗り換えれば40分足らずで石部。
駅前からタクシーで10分(コミュニティバスは1時間に1本)も走れば常楽寺に着く。
観光コースにない塔のある街は人も車もなく、桜と新緑だけ。
携帯電話で連絡すると、住職が降りてきて門を開けてくれた。
管理人でもある彼はたった一人で塔を守っている。おかげで余分な草木は伐採され、遊歩道も整備されているので山中だが存分に散策見学が楽しめた。
常楽寺も歴史は古い、東大寺を建立した良弁が菩薩として祀られていて、和銅年間(708年から715年)に創建されたようだ。
しかし、1360年に落雷で堂塔を失う。幸い、天台宗延暦寺にも関わるこの寺はすぐにも本堂は再建され(勧進状)、1400年(瓦銘)には本瓦葺の三重塔も再建された。
この塔は見逃せない、今回、最初に訪れようと決めていたのはこの寺だ。
その理由は枝割にある。
枝割とはルネサンス建築にある、比例によるデザイン手法と考えて良い。
日本建築でも同様で、建築の細部を設計する際、全体と関連を明確にし、バランスをとり部材の大きさや間隔を決めている。
いつの場合でも建築のプロポーションは柱間と呼ぶ柱と柱の間隔、その本数による全体の大きさ、そして建築の高さ、柱の太さ等で建築の美しさは決まる。
それは音楽と同様、建築はまさに数学の子どもだからだ。
木造の堂塔の建築となれば、美しく見せるためには、斗キョウの幅や垂木の成に本数や間隔という、細部まで入念にバランスをとるのは当然だ。
しかし、その手法化の読みとりとなると容易ではない。
枝割法は簡単に言えば、垂木間の距離と垂木幅と成の関係を同一比で連続させるものと言って良い。
上層に行けば柱間も本数も変わるが、枝割だけは完全に守られる。
1400年の常楽寺の三重塔はこの枝割が完全に整った最古の例と考えられている。
今回、事前に連絡もせず訪れたにも関わらず、携帯電話だけで開門していただき、さらに、高低の変化の激しい境内を十分に管理され、存分に塔の細部を見学できるよう図られた、和尚さんにはただただ感謝感謝だった。
なるほど、決して大きくはないが堂々とした美しい塔だ。
それを的確に写し撮るにはもう一つ能力が必要だが、新緑の中、下から上から、真正面から、近づき、遠のき振りかえる。
マークしていた帰りのバス時刻を大幅にやり過ごし、ひとり、歩き続けた。
長寿寺
石部の常楽寺の東、田園の間道1キロ余り歩くと長寿寺に着く。
間道から山側へ右へ入ると程なく山門。
山門の両側はモミジの新緑、木の間越しの右手は学校のグランドのようだ。
新緑の中の一直線の参道を進むと、決して大きくないが泰然とした本堂が見えてくる。
この寺にも三重塔はあったはずだが、いまはない。
残されているの本堂と入り口の山門だけ。
どうやら塔を奪ったのは戦争でも雷でもなく信長のようだ。
比叡山延暦寺を焼いた織田信長、近江には延暦寺に関わる寺が多いだけに、その堂塔は悉く彼に焼かれている。
しかし、どう言うわけか、この寺の三重塔だけは安土城の築城にあわせ、その城内に移築されたとある。
本堂の左側の1mほどの高台には小さな神社の社が建つが、その更に左奥が長寿寺の塔の跡地のようだ。
礎石は残されたと案内書には書かれているが、目に見えたのは、およそ10m四方の水たまりだけのうら寂しい情景。
鎌倉初期の建造と言われる本堂は寄棟檜皮葺の屋根を正面に向け、単純だが古色蒼然とした風格ある建築だった。
深い向拝の奥の左右の連子窓がとても端正にリズムを刻み、完成された和様式の美しさを放っている。
持参した案内書にはこんな解説が書かれている。
「方五間の穏やかな外観は中世の古刹の威風。外陣と内陣の天井がそれぞれ独立し、古代密教系仏堂が持つ礼堂と正堂の仏堂構成。それは二つの建築の併置だが、ここでは計画的に一つの空間を、単に区切ることではなく、天井や床の構成によって互いに異質な独立した世界を作り上げている。つまり、一つの建築の中を立体的な結界により二つの世界に分離し、その二つの世界を一つの建築として連結している。」
先の常楽寺同様この寺も事前に連絡して訪れた訳ではない。
当然、本堂の入り口の桟唐戸は固く閉じられている。
携帯電話で呼び出してみたが、どこからも、どなたさまも現れる気配はない。
四周をめぐり、5間四方の正方形平面の外周を巡り、その内部の二つの世界は想像の目のみの確認で立ち去ることとなった。
長命寺の塔
ヴォーリーズの建築見学で近江八幡は何回か訪れたが、琵琶湖際に建つこの寺を見学するのは初めてだ。
近江の塔を見て回る、というのが今回の目論見だが、この寺を何時にするか決めかねていた。
石部の常楽寺・長寿寺が思いの外、効率よく見学できたので同じ日の午後、草津から近江八幡まで足を延ばすことにした。
天気も良いし、バス待ちの時間での遅めの腹ごしらえも無事完了。
長命寺港行きのバスはたった一人の乗客を乗せ快調に出発した。
終点は小さなバスターミナル、目の前は雲一つない静かな湖辺。
さて参道は、と探し回ると売店のおじさんが教えてくれた。
「この階段の上だよ!」
えっ、この階段!
いや、見上げても、見上げても石段ばかり。
石段と言うより、自然石の山道だ、歩きにくいし、歩幅もきつそう。
左脇にある神社前の車道を横睨みしつつ、言われるまま、山道の石段を登り始めた。
いやぁ、きついの何の、5分も登れば汗びっしょり。
樹林の中、日差しはないが風もない、ひとしきり登れば息が切れ、膝ががくがく。
そして、思わず立ち止まり、上方に目を向ける。
荒れた自然石の石段はまだまだ彼方上方へ、見下ろせば、登ってきたはずの山道は、はるか下方へと続いている。
そう、5回いや10回ほど足が止まっただろうか、息切れも当然だが、足元のふらつきが恐ろしい。
こんなはずではない、そんなにひ弱なはずはない、と言い聞かせながら必死に登る。
30分か1時間か、時間間隔は定かではない。
半日がかりの地獄のような気がしたが、もうだめと思った頃、樹林の中、山門らしきものが見えてきた。
山門をくぐってもまだ堂宇は見えてこない、そしてまたまた延々と感じる自然石の山道が続く。
登り切ると正面は舞台の上の本堂らしき建築。
そして、右手に三重塔、やっとの思いの到着だ。
眺める力もなく、左手の最後の数段を上り、ただただ目の前の石のベンチに腰を下ろした。
呆然と前方を眺めると木の間から白い湖。
風らしきものも感じるがたどり着いた伽藍配置や本堂、塔には目もくれずペットボトルにかじりついた。
ふっと思い出した、駅前のほんのひとときのバス待ちの時。
あの時は、こんな突然の山登りの意識も気配もなく、何気なく自動販売機にコインを落とし、小さなボトルをバックに入れていた。
いまや、このボトルこそ命づな、長命寺なんて名ばかりで、この山のどこにそんな、命を長らえる仕掛けを持っているというのか。
命綱を一気に飲み干し、ようやっと、白い湖から目を離し、左脇の堂宇を眺める。
近江の寺は天台宗が多い。
みな、叡山の延暦寺に関わるそうだ。
しかし、いわれは様々で、この寺は武内宿禰がこの地のヤナギの巨木に寿命長遠の願いを彫ったことに始まる。
これを知った聖徳太子がその木をで仏像を彫り、それを安置し長命寺を創建したという。
なるほど、やはりここは長命を願うところ、確かに、山門を潜るまで何回も殺されたような気がする。
願うも願わざるも、ここにいて湖を眺めていられるのは長命だからこその結果ではないか。
冗談はさておき、ひとごこちして周辺の堂宇を見学する。
目的は塔だ、三重、三間、柿葺きの小さな塔が左手の目の前にある。
漆ではないだろうが、くすんだ赤に塗られたずんぐりむっくりした室町の塔、擬宝珠の銘からは1597年 、秀吉の時代の建設。
そうか、なるほど、信長に従い秀吉も近江の寺はたくさん焼いただろうが、天下一になり、今度は長命を願いこの塔を再建したということか。
そんなことはどこにも書いていない、まぁ、ゲスの勘ぐりだが、塔はその後のメンテナンスも行き届いていて、傷みはどこにもみあたらない。
石段の上に建つから初重には広縁がない古代の造りかと思ったが、そんなことはない、奈良・平安とはことなり後世の塔、基段に載る形式ではなく品のいい高欄付きの広縁に腹石が隠されていた。
見上げると垂木等の部材は小さめだが、枝割のバランスも過不足ない。
全体は厳めしさもなく柔らかで、しかも泰然としている。
長命を願う塔には相応しい、清々しい美しさが感じられた。
蛇足だが、書き足しておこう。
茶店のおやじに言われまま、必死の思いで部活の体力作りのような階段を登ってきたが、なんのことはない、観光バスやタクシーなら、山門脇まで登れるようだ。
そこには大きくはないが立派な駐車場がある。
登り口にあった神社脇の車道はやっぱり、観光客用の参道、大型バスのための道路だった。
そうだろう、秋の紅葉を愛でる人々、そして長寿を願う現代の老若男女、この迂回路が無ければそう簡単には御利益に到達できない。